アイリス
ラルフのいれてくれた茶はとても薄かった。
ハイデンは一口飲んで、その味を謝罪するような一瞥をみんなに投げたけれど、ゴルゴンゾーラチーズのスパゲッティは結構こってりしていて、口の中にまだうっすらと後味が残っているような気がしたから、ほとんどお湯のようなその味がちょうどよかった。リンは手にしていたカップを戻し、頭を下げたままの【風の骨】に向き直る。
「事情がさっぱり分からないの。何をすればいいかも分からないのに、いいですよ協力しますよ、ってわけにはいかないでしょ」
我ながら、警戒がにじむ声音だった。【風の骨】は顔を上げ、頷いた。
「だろうね」
「協力ってどんなこと? 何をすればいいの? あのね、ガストンさんから――」
「ああ」【風の骨】は手を挙げてリンの言葉を遮った。「今回の要請は、ルクルスとガストン一派の同盟の話とは無関係だ――丸っきり無関係ってわけでもないけど。ガストンの協力があればもちろん助かるが、是が非でもというわけじゃない」
「あたし個人に、協力してほしい、って、こと?」
「そう。それからジェイド=ラクエル・マヌエル。あなたが今日ここに来てくれて助かるよ。あなたの協力もぜひほしい」
「何を――」
「フェルディナント=ラクエル・マヌエルと連絡をとりたい」
【風の骨】が単刀直入に言い、リンは思わずジェイドを見た。
ジェイドは【風の骨】をじっと見ている。
ややして、訊ねた。
「連絡をとって、どうするんですか」
「誘う」
「誘う?」
「そう。あなた方にはきっと腹立たしい話だろうね。マリアラがケガをした、という事実が」
【風の骨】はリンに視線を戻してそう言った。リンはさっきの自分の反感を見通されていたことに身じろぎをする。
「……」
「はっきり言っていいんだ。実際彼女はこのひと月とちょっとという短い期間に危険な目に遭い過ぎてる。覚悟はしてたけど、それにしても多すぎる。今回死ななかったのも運がよかったとしか言えない。正直言ってもう俺では彼女の護衛は勤まらない」
「そんな」
無責任な、と言いかけた言葉は飲み込んだ。だが【風の骨】にはわかったのだろう。少し悲しげな顔をした。
「見捨てるとか投げ出すとか、言ってるわけじゃない。ただ――彼女は今、魔力がうまく使えないんだ。意識しなければ使えてる――と、思う。でもこの間、自分のケガを治せなかった。治りたくなかったのかもしれない。もう限界だ。危険だけじゃなくて、精神的にも、本来の護衛が必要なんだ」
――フェルディナントはまるで別人のようだ。
ガストンの低い声が耳の奥で聞こえる。
――彼も『あっち』の事情を知り、それを受け入れたのかもしれない……
「フェルドと……連絡を取ればいいの?」
リンは訊ねた。【風の骨】は頷く。
「そうしてくれれば本当に助かる」
「あなたが」
と言ったのはジェイドだった。【風の骨】がジェイドに視線を移し、ジェイドは気弱げに訊ねた。
「フェルドに会うのは……【風の骨】なんですか」
「そう。彼女はここにこられる状況じゃない」
「ええと」ジェイドは眉根を寄せる。「リンと【風の骨】は、以前会ったことがあったんだよね。その時、全然違う外見だった、ん、だよね」
「……うん」
ジェイドの質問の意図が解らずリンは首をかしげる。ジェイドは【風の骨】に視線を戻した。
「フェルドもその時、【風の骨】に会っていたんですか?」
「会ったよ」
【風の骨】は頷く。ジェイドは困ったような顔をした。
「それなら――フェルドを誘うのは難しいと思う」
「ど、どうして?」
リンはジェイドに向き直った。リンよりもずっと、ジェイドは最近のフェルドをよく知っているはずだ。そのジェイドが『難しい』というには、それ相応の理由がある、の、だろう。でもリンのよく知るフェルドなら、マリアラの不調と現在の状況を知って、それでも誘いを拒否するなんて思えなかった。
「それでも構わないよ」
【風の骨】は淡々と言った。ジェイドを見つめて、頭を下げる。
「成功の是非はこの際関係ない。失敗してもあなた方には何の責任もない。段取りを整えてもらえればそれで充分恩に着る」
「報酬を」
とディーンが口を出し、リンはぱっと顔を上げた。
「報酬なんかいりません! ばかにしないでっ」
「リン」
ジェイドにたしなめられ、リンは我に返った。
「ああっ、いやあのっ、あのっ、でもっ、マリアラはあたしの友達だし、その、……こんなことで報酬出されても受け取れないです……」
「俺も」
とジェイドが言い添え、【風の骨】は笑う。
「もしかしたらふたりの立場を危うくするかもしれないのに、無報酬じゃこちらの気が引けるよ」
「それに金を出すとは言っていませんよ?」ディーンも悪戯っぽく笑った。「内容を聞かずにそう無碍にするものじゃありません。この店のスペシャルランチをいつでもこの事務所でお出しするということを、提案しようと思ったんですがね。もちろんお代はいただきますし。まあ、いらないなら――」
「あああっ!? いやちょっ、ちょっと待ってえっ」
リンは思わずわめいた。友人が好きな相手に再会する橋渡し、ということに、なんらかの報酬を受け取るわけにはいかない。しかし、報酬がティティの店のスペシャルランチを食べさせてもらう権利となると話は別だ。金銭を受け取るわけではないし――お代は取ると言ってるし――いやしかしやはり倫理的には――と悶々とするリンは、その時、ラルフがもう向かいに座っていないことに気づいた。
ラルフがいつ移動したのか、全く気が付かなかった。ハイデンはついたての向こうを見ている。そこにラルフがいるらしい。リンが身を乗り出してついたての向こうを覗こうとした時、
がちゃっ、と扉が出し抜けに開いた音がして、
「わ――」
「捕まえたー!」
ラルフの勝鬨が高らかに響いた。どすん、ばたん、……どすん、
「ハイデン! つっかまえた、よー!」
「よし」
ハイデンの賛辞は本当に端的だった。立ち上がってついたての向こうに回りながら、
「あまり乱暴にするな。言っただろう、お前はもう自分が思う以上に大きくなったんだ」
「へーい」
ハイデンの小言にラルフの返事。どうやら扉の外で様子を伺っていた誰かの存在にラルフが気づいて、今その誰かを捕まえた、と、いうことらしい。リンは立ち上がり、ついたての向こうを覗く。
そして思わず、悲鳴を上げた。
「……アイリス……!」
ラルフに床に組み敷かれ、腕をねじり上げられて痛そうに顔をしかめているのは、あの優しく可愛らしい、アイリスその人だった。
扉の向こうで、青い制服を着た清掃隊のおじさんが目を丸くしているのが見える。ハイデンが扉を閉めて――沈黙が落ちた。
*
数分後、一同はまたダイニングテーブルに戻っていた。アイリスはラルフとハイデンに両脇を挟まれ、悲しそうな顔をして椅子に座っている。ねじり上げられた腕が痛むのか、肩の辺りをさすっている。リンは混乱していた。なぜアイリスがここにいるのだろう。まさかつけられていたのだろうか――いや、まさかではなく実際そうに違いないのだが、でも、なぜ。
――アイリスはどうして保護局に入ったんだろう。
さっきしたばかりのジェイドとの会話が思い出され、リンは身震いをする。
――『あの男』が姿を変えていたのは、やはりアイリスだったのだろうか。
「……盗み聞きとは感心しませんね」
ディーンがようやく口火を切り、アイリスは恥じ入った様子で深々と頭を下げる。
「ごめんなさい……いえ、あの、でも。何も聞こえませんでしたし、盗み聞きしようとしたんじゃないんです。ただ、……気になって、て……」
アイリスの声は消え入りそうだった。リンは訊ねずにはいられなかった。
「あたしの後をつけていたんでしょう?」
アイリスはびくりとした。
悲しそうな顔でリンを見る。その表情に、リンも、唐突に悲しくなった。
「あたしの行き先を調べて、それで、どうするつもりだったの? 『あの人』に、報告するつもりだったの……?」
アイリスは目を見開いた。ハイデンが彼女の横で囁いた。
「お前に指示したのは誰だ?」
「……違」
アイリスは言い、座り直した。リンを見、ハイデンを見、ダイニングテーブルについている人間全員を見、彼女はリンに視線を戻した。
「違う!」
「何が違うの? だって……」
「ちょっと待って。整理させて。ごめん……ややこしい事態なんだろうと思ってはいたけど、スパイを警戒するほどの事態だったなんて思わなかったんだ」
アイリスはリンを見つめた。
「ごめんなさい。こんな重大な事態だなんて思ってなかったんだよ。どうか信じて。私は確かにリンを見つけた。でも後をつけたりしてないよ。私の職場はこの近くなんだ。知ってるでしょう。お昼ごはんを食べに外に出たら、リンとジェイドがあの行列に並んでいるのが見えたんだ。あそこの整理券はめったに手に入らないのに、羨ましいなって思って。お昼ごはんを食べて戻って来たら、今度はリンとジェイドがここの事務所に入るのが見えて――見かけたのは、偶然なんだよ。本当に」
確かに、と、リンは思った。アイリスの職場は旧市街のそばだと聞いた。
アイリスの言葉に嘘はない気がした。そう信じたいだけかもしれないけれど。
と、【風の骨】が言った。
「もう昼休みはとっくに終わってるのに、職場に戻らずにこの辺をうろうろしてた理由は?」
とたんにアイリスは黙り込む。リンはアイリスをのぞき込んだ。
「アイリス……」
「……リンが」アイリスはしょんぼりした口調で言った。「なんらかの……保護局員の職務以外のことに関わっている、みたいだ、から。それが何なのか、手伝えることはないか、知りたかったんだ……」
「なんだそれー」とラルフが口を出し、
「ラルフ」とハイデンがたしなめる。
アイリスは居心地悪そうに身じろぎをする。ディーンが言った。
「随分上っ面な説明だという気がしますが。君達は同期ではあるがまだ出会ってひと月といったところでしょう。同期が謎の事務所に入って行ったからといって、それをこそこそ嗅ぎ回るほどの理由が君にあったというのですか?」
アイリスはますます悲しそうな顔をする。しばらく一生懸命何か考えていたようだけれど、ややして、彼女は重い口を開いた。
「リンが関わっている何かは――マリアラ=ラクエル・マヌエルが失踪した出来事と、関連しているんでしょう……」
マリアラという名を聞いて、みんなに緊張が走る。
アイリスはそれを感じたのだろう、座り直した。
「そうなんでしょう。昨日リンは、フェルド、という名前に異常に反応していたし……だからそれを、知りたかった。マリアラが今どうしているのか、知りたかったんです。リンはマリアラの友人だから、リンが何か困っているのなら、その……でも……スパイを警戒するような事態にまでなってるなんて、思いもしなくて……」
「マリアラを知ってるのか」
【風の骨】が訊ね、アイリスは少し迷った。
それからため息と共に頷いた。
「ええ」
「年齢は離れているようだけど、友人?」
「違うよ」と言ったのは、ジェイドだった。「そうじゃない。ただ……アイリスは保護局に入る前、【魔女ビル】の医師だったんだ。だから知ってたんだ。そうでしょう」
「……そうです。あの子とフェルディナント=ラクエル・マヌエルが、新人マヌエルの研修を受けていた時、私はその、研修受け入れ先の、医師……だったので……」
アイリスは恥じ入るように俯く。どうしてマリアラを知っていたということが、こんなに辛そうなのだろう。
アイリスはそのまましばらく黙っていた。ディーンが促す。
「それで? ただ研修でちょっと一緒になっただけの間柄で、ここまでの行動を起こすとは思えませんが」
「……私は、彼女に負い目があるんです」
消え入りそうな声だった。恥ずかしそうで――身の置き所がないというようで。リンは居たたまれなさを感じた。アイリスは今、スパイかとリンに訊ねられた時などよりずっと、恥じ入っているように見えた。
「私は……彼女とフェルディナントが雪山で遭難者の救助にあたった時の……担当医だったんです……」
「雪山の、遭難者救助って」
リンは記憶を探る。リンが、ゲンとイクスと一緒に、子供たちを連れて雪山登山をして、吹雪に閉ざされて帰れなくなった、あの時ではないだろうか。
――フェルドが二度目の孵化を迎えた時。
アイリスは小さな声で言った。
「私はあの時、マヌエルの――特に左巻きの、管理を担当していました。管理と言っても形式上のもので……〈アスタ〉が割り振った仕事が、そのマヌエルたちにちゃんと適しているか、チェックするというものだったんです。
あの日の吹雪は本当に突然過ぎて――魔女たちはみんな大忙しでした」
アイリスは少し考えて、ひとつ咳払いをした。
「医局内だけの符牒ですが、シフトに入るマヌエルにはランクがつけられます。SからEまでの六段階。さまざまな要素を考慮して割り振られますが、マリアラとフェルディナントのランクはあの時、Dだったんです。下から二段目。フェルディナントの魔力は底無しだったけど、そうでなかったらきっとEだったでしょう。マリアラの魔力はそれほどに弱かったんです。ラクエルですからイリエルに比べればランクは低くなりますし、初仕事だったし――左巻きの魔女が何人の人間を治療できるかは、その魔女の魔力に左右されますから」
「そんなに弱かったんだー。自分でも弱いって言ってたけど」
ラルフが口を出し、アイリスは頷いた。
「少なくともデータ上ではね、そうだった。だから――本来なら、雪山で、二十三名もの遭難者が出たというあのケースで、マリアラが出ることはなかったはずなんです。重傷者が少なくともふたり、凍死寸前の子供が二十人、随行者のひとりは女性の未成年の研修生。プロの山男は一人だけで、当のその本人が負傷という事態です。本来ならB以上のランクのマヌエルに任されるはずだった。〈アスタ〉がマリアラとフェルディナントを出動者に登録した時、私は止めるべきだったんです……万一〈アスタ〉が間違った人材を登録した時にそれを訂正するセーフティネットの役割が、私の職務だったのだから。
でも私はそれをしなかった」
「なぜ?」
ディーンが淡々とたずね、アイリスはうつむいた。
「第一に、〈アスタ〉の登録は間違いとまでは言えなかったから。他の人材がいなかったから、仕方ない事態ではあったんです。。出動できるマヌエルはあの時、他に三組いただけで、ランクとしてはマリアラたちとあまり変わらなかった。第二に――私は……魔力の弱い左巻きのマヌエルが、任務に失敗して……救いを求めるというケースを……望んでいたから、です……」
アイリスがあまりに率直に言ったので、リンは一瞬、その言葉の意味を理解できなかった。
ジェイドが息を飲み、リンも遅れて気づいた。
アイリスは、マリアラが失敗することを望んでいたのだ。
――どうして。
「彼女に何か個人的な恨みでも?」
【風の骨】がたずね、アイリスは首を振る。
「いいえ。ただ……私は医師で……エスメラルダの医師の現状に、あの時、既に絶望していたんです。どんなに勉強しても、エスメラルダの医師は人を治療できない。マヌエルがどんなに人手不足で、私よりずっと年下の子が寝ずに働いているような状況でも、医師はシフトには入れない。歯痒かった。マヌエルはずるい。知識もないのに、本能だけで治療ができる。それが悔しかった。
だから……魔力の弱いマヌエルが、〈アスタ〉の指示した仕事をこなすことができなかったというケースが積み重なれば、その内、魔力の弱いマヌエルには医師が同行してサポートするとか、そういう風に、法律の改正が進むんじゃないかと思った」
「彼女が失敗しなくて、当てが外れたわけだ」
【風の骨】が冷たい口調で言って、アイリスは、ため息をついた。
「……いいえ。……いいえ……」うめくように言って、両手で顔を覆った。「あの子は……あの子たちは、みなさんご存知だと思うけど、本当に、眩しいくらい、本当にいい子たちで……。あの吹雪の夜ほど恐ろしい一夜を過ごしたことはなかった。吹雪がひど過ぎて連絡が途絶え、マリアラはたったひとりだけで、二十三人もの治療対象者を抱え、〈アスタ〉に救いを求めることもできなくなったんです。――私のせいで! 彼女は、研修の時、私が患者の診断をすることを、嫌がらないでくれました。私を、共に患者の治療に当たる仲間なのだと認めてくれた……それなのに私は、自分の願いを叶えるために、彼女を利用したんです。それも二度も……」
二度?
疑問に思ったけれど、アイリスはそれについては言及しなかった。
低い、絞り出すような懺悔が続いた。
「あの夜、つくづくわかりました。私は、自らの主張は『正しい』のだから、そのために誰かを利用することはしょうがない、必要なことなのだと思っていたけれど……それがどんなに思い上がった考えだったのかを、痛感しました。一睡もできなかった。言い訳もできない。私は医師の権限が広げられることを切望していたくせに、大勢の遭難者の命を、あんな若い子の肩に背負わせた……。彼女がやり遂げてくれたときは、本当に嬉しかったし、救われたと思いました……でも……もう、私は、医師を続けることはできないと思ったんです。もう、」
「……それでやめたんですか?」
ジェイドが訊ね、アイリスは、俯いたまま唇を噛んだ。
それから、そっと首を振った。
「それだけが理由では、ないけれど……。こうなった以上、私はもう、是が非でも、法律の改正を成し遂げなければならないと思った。成し遂げることはもしかして無理でも、チャレンジはしなければならないと。そうじゃないとあの夜の自分を、永遠に許せないと思ったんです。……それで、医師を辞めて……保護局員を目指すことにしたんです」
「なぜ、保護局を?」
ディーンが訊ねる。アイリスはようやく少し顔を上げた。
「保護局警備隊は、元老院議員になるための門のひとつです。ここで上に上り詰めれば、元老院を目指すのも不可能じゃない」
「医師からだって目指せるんじゃないのか」
【風の骨】の問いにアイリスはため息をつく。
「学者の世界は難しい。研究で顕著な成果を上げればそれでいいというわけじゃないので。運とか、その、コネとか、……袖の下とか……そういう……」
「ああ……」
「でも警備隊ならシンプルです。手柄を立てれば上にあがれる。だから、そうしようって、決めて、保護局を受験することにしたんです。
と言っても、すぐに完全に辞められたわけじゃなくて。引き継ぎが終わっても、症例や治療方針のレポート作成の方は、そう簡単には終われないので……結構頻繁に、医局には顔を出していて。そんな折に、マリアラがガルシアに行ったことを知りました。それで、彼女が行方不明になったと知って……〈アスタ〉が……マリアラはガルシアにいるんだって【魔女ビル】のみんなに広めているのを知った時、彼女はきっとなんらかのトラブルに巻き込まれたんだろうって、思って……それがずっと……気になっていて……それで」
「アイリスはどうしてマリアラがガルシアからいなくなったって知ったんですか?」とジェイドが言った。「〈アスタ〉は今でも、マリアラはガルシアにいて治療で国中飛び回ってるって、言ってるよね」
「……アーミナ先生が、手紙をくれたんです。面識はないけど、私の憧れの医師です。自分の力で治療できない現状を憂えてガルシアへ行った医師ですから。彼女が私を知っていたことには驚きましたが――どうやらジェイディスから聞いていたみたいですね、お前の同類だよ、とかなんとか、かな。
彼女はマリアラがラセミスタの治療をしたこと、その際、私のレポートを既に読んでいたこと、疲労困憊だった彼女に私のレポートがいい影響を与えたに違いないことを、知らせてくれたんです。その手紙に――マリアラはもうガルシアにいないと書いてあって、それで知りました」
「もういいでしょう」
ジェイドは少し、咎めるような口調で言った。【風の骨】をみて、
「それだけ試せばもう十分でしょう。やめてください」
「試す?」
アイリスがきょとんとする。
「あれだけ威圧されながらあんな理路整然と話し続けるのはマヌエルには無理です! この人は誰も化けてなんかない、正真正銘のアイリス本人です! やめてください!」
「……念には念を入れただけだよ。もう誰かに騙されるのは真っ平なんだ」
【風の骨】は両手を挙げ、ふうう、と息をついた。ジェイドは【風の骨】を毛を逆立てる猫のように睨んでいる。【風の骨】は苦笑した。
「ごめん。確かに君の前で威嚇し続けてちゃ居心地が悪かっただろうね」
「……いえ」
ジェイドはようやく座った。リンはアイリスと顔を見合わせた。威嚇とか、威圧とか、一体何の話なのだろう。
「どうしたの……?」
リンが訊ねるとジェイドはまだ少しいらだちの余韻の残る声で言った。
「あの人、さっきアイリスが話し始めてからずっと、アイリスを魔力で威圧してたんだよ。魔力の粒子で覆うようにして。絞め殺すんじゃないかって本当にハラハラした」
リンはもう一度アイリスと顔を見合わせた。アイリスは全く気づかなかったらしい。リンもだが、マヌエルであるジェイドにはよく分かっていたのだろう。
と。
【風の骨】がにっこりして、ジェイドに言った。
「ひとつ聞いてもいい?」
「え――俺に?」
ジェイドが驚く。【風の骨】は穏やかな笑みを浮かべながら、優しい声で言った。
「君はどうして『あの男』がマヌエルだって知ってるんだ?」




