二度目のスペシャルランチ
近々謝らなければならない、と認識してはいたが、その『近々』がまさかこんなに早くくるなんて、と、お昼休みのチャイムとともに事務所を出たリンは考えた。
目の前にヴィンセントがそびえている。
リンはそれを認識した瞬間、反射的に扉を閉めようとしたが、寸前でヴィンセントが扉を押さえた。
「――ごめん」
ヴィンセントは必死の形相でそう言った。
昨日どうやら眠っていないらしい。目が血走っていた。リンの手形はもうさすがに見えなくなっていたが、頬はいまだに赤く腫れている。「ごめん」ヴィンセントは繰り返す。悄然と首を落とした様は雨に濡れそぼった大きな犬のようだ。
「ごめん……」
「こちらこそ。叩いて悪かったわ」
リンはできるだけ軽い口調で言った。ヴィンセントが顔を上げる。
「じゃあ、」
「あんなに腹が立ったのは、あなたの言葉が痛いところを突いていたからなんだ。冷静になって考えて、それがはっきり分かった。ヴィンセント、ごめんなさい。あたしはもう『お試し』はやめたの」
ヴィンセントが黙る。リンはできるだけ淡々と言った。
「あたしはジェイドが好きなんだ。顔じゃない。身長でも、マヌエルだからでもなくて。理由なんて挙げられない。……今まで、あたし、大勢の人と付き合ってきたけど、たぶん、そのうちの誰のことも、本気では好きじゃなかったんだなあって、今では思うよ。だからあたしがあなたと付き合うことはないの。ジェイドに振られても、はい次の人、って移れるような事態じゃないの」
「……」
「ひっぱたいたりしてごめんね」
「……」
「……それじゃあ、約束があるから、またね」
「……ひとつ、聞いていい?」
ヴィンセントはうめき声で言った。リンはうなずく。「うん。なに?」
「待っててもいい? 俺」
「ううん。ダメだよ」
「でも俺、七歳ん時からずっとだよ。十二年だよ?」
「ごめん。でもあたし、ジェイドに振られたらマーセラの巫女さんになるよ」
一生誰ともお付き合いしません、という意味だ。ヴィンセントはまた黙った。リンは事務所に鍵をかけ、足早にその場を後にした。十二年か、とリンは思った。それほどの長い間、リンはヴィンセントに誤解させ続けてきたのだ。誰とでも気軽に付き合う人間だから、当然自分にもチャンスはまた巡ってくると、期待を抱かせ続けてきたのだ。
それだけは忘れるまい、と思う。
忘れなかったからと言って、それが許されるわけではないけれど――。
ジェイドは噴水のそばで既に待っていた。
リンを認めてジェイドの見せた優しい笑顔に、リンはさらに悲しくなった。どうしてこんな顔をするのだろう。特に好きではなく、今後付き合う気もない相手に、どうしてこんな風に笑いかけるのだろう。
――あの子って、誰?
聞くべきだと思う。だってジェイドが既に誰かの恋人になっているなら、リンは諦めなければならないからだ。エスメラルダの風習に詳しくないジェイドはもしかして知らないのかもしれないが、彼女のいる人間は、別の女の子にこんなに優しくしちゃいけないし、ふたりだけで会ったり食事をしたりしてもいけないからだ。でもジェイドに誰か大切な相手がいるということが発覚してしまったら、これからルクルスのレストランに行って重大な話を聞くという任務に支障を来すことは明白だ。
今日の会合が終わってからにしよう。
そう決め、ほっとしている自分に絶望を覚えながら、リンはそれを押し隠して笑った。
「遅れてごめんね」
「いや、ぜんぜん」
ふたりは並んで歩きだした。ジェイドはマヌエルの制服姿の上に私物の防寒着を着ているので、こうして歩いていると本当に、普通の男の子と一緒にいるようにしか思えなかった。胸が痛かった。幸せだ、と思っていた。ジェイドと一緒にいる時、リンは心の底から幸せだった。それがかりそめのものだとわかっているのに、胸もズキズキ痛んでいるのに、こんなに幸せだなんて。
ジェイドと離れたら、どんなに楽になれるだろう。少なくとも胸はもう痛むまい。こんなにすぐ近くにいる相手が、永遠に手の届かない存在なのだと、思い知らされ続けることもなくなるだろう。
でも。
……まるでティティの店のメニューみたいだ。そう考えてリンは微笑む。この味を知らなければ心穏やかな人生だっただろう、と、あの老婦人は言った。本当にそうだ。この胸の痛みを知らなかった時、リンの心は本当に穏やかだった。でも。
この味を知らない人生なんてごめんだな、ってね。
そう言った常連の言葉も、本当にそうだと思う。本当に、この恋を知らない人生なんてごめんだった。
絶望的だ。この胸の痛みも、絶望も、すべてリンが望んでいるものなのだ。
「グレゴリーが安心してたよ」
ジェイドは屈託のない口調で話をする。
「リンに、ほら、ヴェルディスさん。同期の友人ができたみたいだよって伝えたら、嬉しそうだった」
「あのね、アイリスは、ジェイドが自分を知ってたことに驚いてたよ。話したことはないから、知り合いってほどでもないって。どうして知ってるの?」
そう言うとジェイドは気弱げに笑う。
「うん、あの人がいきなり辞めるまでは、ただ医局で何度か見かけたくらいで、名前も知らなかった。あのとき、みんなすごく驚いてて、それで名前を知ったっていうか。ええと、リンは、アーミナさんという女医さんを知ってる? ずっと昔にガルシアに赴任したそうなんだけど……」
リンは首を振る。「知らないわ」
「そっか。だよね。ええと、ヴェルディスさんは、いつかアーミナさんのように、外国に出て行くんじゃないかってみんな思ってたんだって。エスメラルダの医師は、自分で人の治療はできないでしょ。ヴェルディスさんは、とても腕がいいんだって。だからアーミナさんみたいに、自分の腕で誰かを治療できるように、外国に出て行くんじゃないかって」
「へえ……」
「でもまさか保護局員だなんてって、医局の人はみんなすごく驚いてた。でも筆記試験を一発クリアだなんてさすがだねって笑ってたけど」
「ふうん」
リンはアイリスのことを考えた。リンをキラキラしてると言った彼女は、何を思って突然医局を辞め、保護局員を目指したのだろう。
ジェイドがなぜ今この話を持ち出したのか、リンは薄々気づいた。
グレゴリーとジェイドは、リンに再々言ったのだ。新人局員、リンの同期の中に、『あの男』が紛れ込んでいる可能性について――。
「アイリスは、すてきな人だったわ。優しくて、可愛らしかった」
「うん。ジェイディスさんもそう言ってたよ。外見は冷たそうだけど、結構話し好きで、可愛い人だって」
「そうね……」
わかってるよ、とリンはジェイドに言った。目だけで。
ジェイドは少し悲しそうに笑う。
「女性に化けるのは難しいだろうから、避けると思うけどね」
「そうね」
だといいなあ、と、リンは思う。リンはもうアイリスが好きになってしまっている。アイリスのあの好意が見せかけだけのものだったと思い知るのはつらいだろう。
だといいなあ、と、ジェイドも思ったのが分かる。
リンが仲良くなった同期の女性が、偽者でなければいいなあ、と。
だから大丈夫だとリンは考えた。アイリスがたとえ偽者でも、リンにはジェイドがいる。リンを案じて、心を痛めてくれる人が。それが単なる友人への気遣いでも、恋愛感情とは無縁な心情でも、リンを気遣うジェイドの真心に変わりはない。ありがたいとリンは思う。好きでもなんでもない自分に、こんなに気をつけてくれる。なんて貴重な存在だろう。
ふたりはその後、黙ってティティのあの店へ向かった。
ちらちらと雪が降り出している。
ティティの店に着くころには雪も本降りになっていたが、行列は健在で、列を離れて家に帰ろうとする人間は誰もいなかった。
リンは戦慄した。
ゴルゴンゾーラチーズの匂いだった。
癖のある独特の香りが胃袋を締め上げる。ゴルゴンゾーラチーズはリンの大好物だった。以前彼氏の一人に連れて行ってもらった店で食べた味が初体験で、美味しすぎて忘れられなかった。ただその彼氏は癖のあるチーズが嫌いで、嫌いなそれを目の色を変えて食べたリンに幻滅してそれが原因で破局したという曰く付きの一品だった。その店が閉店して以来、何度もさまざまな店でゴルゴンゾーラチーズのスパゲッティを試してきたが、一番初めの店ほどの濃厚さがなく、いまだにリンは理想の味に再会できていない。多分思い出の中で美化してしまったのだろう、今あの時と同じ皿を出されても、前はもっと美味しかったのにと思ってしまうのだろうと、リンは半ば諦めていた。
それなのに。
どうしよう、とリンは考える。
ジェイドがあの時の彼氏のように、癖のあるチーズを嫌悪し、それを堪能する相手にまで嫌悪を覚えたらどうしよう――。
それでも行列がしずしずと進む間に、それならそれで構うものか、という気になった。好きな食べ物を好きに食べたというだけでジェイドがリンから離れていくなら、むしろ諦めがつくというものだろう。
ティティの姿が見えて来た。
彼女は相変わらず可愛らしく、黒いドレスの下から覗く白いレースをひるがえして接客に勤しんでいた。
「いらっしゃいませ!」明るい可愛らしい声が弾ける。「今日のメニューは生ハムとゴルゴンゾーラのクリームパスタです! 癖のある匂いですが一口だけでもお試しくださいね! 食べられなかったらお代をお返しします!」
結構な自信だ。リンは早くもうっとりしていた。この店で出されるパスタなら、もう、リンの理想以上の味に決まっている。
「お次のお客様――あっ!」
ティティがリンに気づいた。リンは謝罪の意味を込めて頭を下げる。ティティはリンに走りより、まじまじとリンを見上げ、顔をクシャクシャにして笑った。
「よう来たの」
声を潜めてリンに囁く。
「あの子から聞いてはいたが――しかしほんによう来た。待っておったぞ」
「ありがとうございます。すみません」
「なんの。――すこし待ちやれ」
言い置いてティティはリンとジェイドの前の人を案内するために店に入って行く。入れ替わりに何人かの客が出て行き、ティティはいそいそと戻って来た。
「いらっしゃいませ――! 店長! 本日のスペシャルランチのお客様、二名様でーす!」
ざわっ、と周囲が色めき立つ。あの老婦人がいればリンが二度目だと気づくだろう。リンは若干ドキドキしながら店に入ったが、ティティに抜かりはなかった。あの時リンがスペシャルランチを食べているのを目撃した人間はどうもいないらしい。リンとジェイドに向けられるのは羨望と嫉妬の視線だが、二度目じゃないかと文句を言う客はいなかった。
「スペシャルランチってすごいの?」
席に着きながらジェイドがたずね、リンも声を低めてうなずいた。
「こないだ会ったおばあさんは、四十年前に一度食べたきりだって」
「……四十年……!」
「スペシャルランチお待ちー!」
どん、とカウンターに皿がふたつ載せられる。周りの人たちがのぞき込んでいる。リンとジェイドは急いで盆を取りに行った。盆の上に乗っていたのは芳香を放つゴルゴンゾーラのスパゲティの皿、彩り豊かな生野菜のサラダ、ほかほか湯気を立てるコンソメスープ、真っ赤なジュレのかかった四角いムース、雪玉のような小さなクッキー。いただきます、と手を合わせてから、リンは恐る恐るスパゲティにたっぷりかかったゴルゴンゾーラのクリームソースを一口なめた。
「うあああ……」
思い出の中で美化されていたはずのあの美味しさの、更に上をいく衝撃だった。溶けかけたチーズの固まりがごろごろ入っている。濃厚でコクがあり絶妙な塩味。生野菜のサラダには擦り下ろしたタマネギがどっさり入っていて、しゃきしゃきの野菜がチーズと生クリームの濃厚さを中和する。コンソメスープを飲んでリンは呻いた。この味は呪いだわね、と言った、老婦人の言葉を思い出す。こんな深みのあるスープを飲んでしまったら、今後コンソメスープを飲むたびに、この深みを懐かしむ羽目になるだろう。真っ赤なジュレのかかった四角いムースはスモークしたサーモンを刻んだものが練り込んであり、酸っぱいジュレと柔らかなムースが絶妙だった。マッシュポテトを一口食べて、こないだ打ちのめされたあの滑らかさに再会したことに深い喜びを覚える。
新しい味に出会う衝撃と、再会の喜びと安心感。リンはできるだけゆっくり食べた。スパゲッティの上にのっている生ハムにスパゲッティとソースを包むようにして食べ、サラダを食べ、マッシュポテトを食べ、ムースを食べ、そうしながらクッキーに思いをはせる。雪玉クッキーはリンの好物だった。さくさくほろほろとしたクッキーに粉砂糖をまぶしてあるエスメラルダで定番のものだ。大丈夫だろうか、と恐怖を覚えた。この上、あの定番のクッキーにまでこの呪いを拡大してしまって大丈夫だろうか。
「……美味しいねえ……」
呻くとジェイドが苦しそうに笑った。
「泣きそう」
「さっき言ったおばあさんはね、ここの食べ物は呪いだって言ってた。この味を知らなければ心穏やかな人生だっただろうなって。でももうひとりの人がね、この味を知らない人生なんてごめんだって」
「残酷な真実だね」
「うん……」
ゆっくりゆっくり、大事に大事に食べていても、限りある物はいつか終わりを迎える。皿に残ったソースをふき取るパンがないことが恨めしかった。どんなに頑張ってもフォークとスプーンでソースを完全にすくうことは不可能だ。ついに諦め、リンはクッキーに取り掛かることにした。このクッキーの味を知らない自分と決別する覚悟を決めて、クッキーに齧り付く。
予想以上に軽い歯ごたえだった。口にいれた瞬間に砕けて口の中に散らばったその甘みのかけらを、全部拾い集めて一からやり直したい、という切望が襲ってくる。クッキーはふたつしかない。どんなに頑張ってもあと数口しか食べられない――
「大皿いっぱい食べたい……」
呻くとジェイドが真剣にうなずいた。
「俺バケツいっぱいでも食べられる」
「でも危ないね……もしこれをいくらでも食べていいって言われたら……おなかが弾けてもやめられない気がする……」
以前ラセミスタに、どうせ死ぬならコオミ屋のアーモンドスライスのクッキーを食べ過ぎてアーモンドアレルギーで死にたい、と言ったことがあるけれど、今はこっちに移ってしまった。ティティの店の雪玉クッキーを食べ過ぎてお腹が弾けて死ぬ、というのが一番幸せな死に方だろう。




