五日目 非番 午後(2)
午後一時。
マリアラはドキドキしながらフェルドが来るのを待っている。
心臓が潰れそうだ。
リスナ=ヘイトス事務官補佐室長から連絡があったときは、当たり障りのない返事をして乗り切ることができた――と思う。声も震えなかったし、目も逸らさなかった。報告書作成のため、南大島に昨日出現した魔物について覚えていることを教えて欲しい、という室長の質問に、いくつか答えただけで通話は終わりになった。
胸騒ぎがしたのはその後だ。フィが飛んできたのだ。
とても急いでいるようだった。“待ち合わせ場所の変更。十八階東第三階段”とだけ伝えると、大急ぎで飛んで行ってしまった。一体何があったのだろう。ヘイトス室長の突然の連絡も考え合わせると、どうにも落ち着かない。
【魔女ビル】の地下までのルートを確かめ、隠れ場所や人通りの多い場所を調べる間にも、胸騒ぎが収まることはなかった。ラセミスタにはカップケーキがいいと言われたが、フェルドにも何かお礼、いや、お詫びをしなければと思う。何がいいだろう――確か甘いものは食べられないと言っていたから、別のものを探さなければ。それを考えて、不安な時間を何とかやり過ごした。
そして、午後一時。十八階東第三階段。
この階は十代のマヌエル(男性)の居住階だ。
【魔女ビル】は住居スペースが狭い代わり、共用スペースが充実している。十八階の東第三階段の上がり口にも、休憩所がある。ここはオープンになっていて、観葉樹の植木鉢で囲まれた居心地のいい空間に、ソファが三つ。自動販売機と〈アスタ〉のスクリーンと、食事注文用のパネルに受け取り口が備えられている。
マリアラは観葉樹の隙間に立っていた。跳ね回る心臓を宥めながら腕時計を見て、
「あ、いたいた。マリアラ=ラクエル・マヌエル?」
観葉樹の向こうから声をかけられて、飛び上がった。
「え、なに。どうしたの?」
マリアラの驚きぶりに、声をかけた方も驚いたらしい。振り返ったそこにいたのは、フェルドと同い年くらいの若者だった。ぱっと目を惹くのはその派手な頭髪だ。数々のスタイリング剤を駆使して作り上げられた爆発的な頭髪は七色に染め上げられている。衣類のあちこちが破れているが、たぶんこれはわざとだ。
全体的にマリアラが今まであまり関わってきたことのないタイプの若者だったが、声も話し方も穏やかで優しそうだ――意外に、と言っては失礼だろう。
「こ、こ、こんにちは。すみません、いきなりだったので」
マリアラは何とか声を絞り出し、頭を下げた。若者は笑う。
「こっちこそごめんね。俺ミシェル=イリエル・マヌエル。フェルドから頼まれて、これ届けに来た」
はい、とミシェルはマリアラにタオル地のハンカチにくるんだ何かを差し出した。手のひらに載るほどの大きさだが、意外に重い。
もしかして、魔物を入れた何か――だろうか。
「これ、何だって……言ってました?」
「さあ? ただ渡してくれって――ひっ」
「ミシェル=イリエル・マヌエル」
氷のような声がした。
そちらを見て、マリアラもゾッとした。そこにいたのは先程〈アスタ〉のスクリーン越しに話したばかりの、リスナ=ヘイトス事務官補佐室長だったのだ。
リスナ=ヘイトス室長はとても痩せている。スクリーン越しに見たときも思ったが、実物はもっと細かった。まるで針のようだ。つり上がった目が、これまたつり上がった眼鏡の向こうから光っている。化粧っ気がなく、柔らかさも優しさもなく、“美しさ”“華やかさ”と言ったものたちに至っては長年憎み続けてきました、と言う風情だった。意外に小柄だった――マリアラより頭ひとつ分ほどは低いだろうか。が、それを感じさせないほどの威圧感だ。
室長はまず、その氷の視線をミシェルに突き刺した。
「あなたという人は、またそのような出で立ちで」
「きょ、きょ、今日は休みですから――」
「休みだろうと何だろうと、ここは【魔女ビル】であなたは社会的地位のあるマヌエルです。良き納税者の皆様に与える影響というものをもう少し斟酌していただきたいと、何度申し上げたらご理解いただけるんです? 苦情を受け付ける窓口職員の鬱憤をまた聞きにいらしてくださいね。――マリアラ=ラクエル・マヌエル」
氷のような視線がマリアラに突き刺さった。
「この七色の鶏さんから今、何を受け取ったのです。見せていただけますか?」
ミシェルの出で立ちなど口実だったに違いないとマリアラは悟っていた。
“当たり障りのない返事をして乗り切ることができた”なんて、思い上がりもいいところだった。ヘイトス室長はマリアラが隠したつもりの動揺なんて、お見通しだったのだ。フェルドはマリアラのせいで疑われたのだろう、逮捕されてしまったから待ち合わせ場所を変更した上ミシェルに代理を頼まなければならなかったのだろう、彼が託した何か――魔物? ――も今、ヘイトス室長に見つかってしまった。マリアラがそこまで考えた一瞬の間に、ヘイトス室長は、丁寧に、しかし断固とした手つきでマリアラの手のひらの上からハンカチで包まれた何かを取り上げた。
開いた。
ヘイトス室長の眉が上がった。
「――マリアラ=ラクエル・マヌエル!」
「はっ、はいっ!」
「これはどういうことです! ――何故フェルディナントがこんなものを!?」
言ってヘイトス室長は、手の中のものをマリアラに突きつけた。
マリアラは目を見張った。額に入った、小さな絵――ではない。
地図だ。
「……デクター=カーンの地図……!」
叫んで思わずヘイトス室長の手からそれを奪い取った。まだ小さく縮められたままだが、間違いない。元の大きさに戻すとそれは、間違いなく、デクター=カーンと言う名の冒険家の手による、地図だった。教科書で何度も見た、繊細で精緻で、同時にとても美しい地図だ。茶色く変色した紙は手漉きのものらしく厚みが均一ではない。端の方はぼろぼろだが、地図の大半は綺麗に残っている。
奇跡だ。
「うわあ、うわあ、はっ、初めて見た! すごい、すごいすごい!」
我を忘れて歓声を上げる。ヘイトス室長は眼鏡を持ち上げ、もう一度マリアラの手から――丁重に、しかし断固として――その地図を取り戻した。
「……何故こんなものをフェルディナントが」
「あー、あいつデクター=カーン好きなんですよ」とミシェルが言った。「部屋に飾ってんの何度か見たことある。【魔女ビル】来たときにはもう持ってましたよ。盗品とかじゃないっすよ」
「そんなことはわかっています。何故マリアラにこんなものをわざわざ――と思ったんですが」
ヘイトス室長は、自分の手から地図を取り戻したくてうずうずしているマリアラをちらりと見て、ふん、と言いたげにマリアラに渡した。
「そう言えばあなたは歴史学専攻でしたね」
「はい……! うわあ……すごい……これ、これ、暗黒期前に描かれたものなんですよね……! うわあ……うわあ……よく無事で……今日まで」
マリアラは涙ぐみ、ヘイトス室長は眼鏡を持ち上げ、ふん、とまた言った。
「失礼しました。ミシェル=イリエル・マヌエル、くれぐれもその髪型のまま居住階から出ないように」
言い捨てて、踵を返した。マリアラは殆ど、彼女の退場に気づかないほどだった。地図は少なくとも千年近くは前のもの――の、はずだ。それにしてはとても状態がいい。マリアラは額を開けて実物を見たい欲求としばし戦った。フェルドがいたら頼み込んで開けさせてもらったのに。裏側に何か手がかりがないか見て見たくてたまらないが、専門の訓練を受ける前に孵化してしまった自分が、易々と手を触れていいものではないような……いやいや。
マリアラは我に返った。今はそれどころじゃないのに、いったいなにをやっているのだ。
昔から、歴史学のことになると他のこと全てが吹っ飛んでしまう。セイラや他の友人たちからは呆れられたものだ。ぱたぱたと身繕いをして、こほん、と咳払いをひとつ。
「……よく考えたら、本物のわけない、ですね?」
言いながら、――そうだそのとおりだ、と思った。何を考えているのだ、レプリカに決まっている。本物だったら国宝級だ。フェルドが持っているはずがない、気がする。でも、こんな精巧なレプリカだなんて、それはそれで感動的だ。
ミシェルは、さあね、と言った。
顔を上げると目が合った。ミシェルはにっこり笑った。
「俺の名前、覚えた?」
「は? ……ミシェルさん」
「そうそう。ミシェルでいーよ、マリアラ。まだ相棒って決まったわけじゃないんだったよね」
「ええ」
名残を惜しみながらデクター=カーンの地図を縮め、元どおり丁寧にタオル地のハンカチにくるんだ。そして今さら、ホッとしていた。ヘイトス室長が直々に確かめに来たと言うことは、まだ魔物は見つかっていないと言うことだ。
地図をポケットに入れて顔を上げると、ミシェルはまだマリアラを見ていた。七色の爆発的な頭髪にはだいぶ見慣れてきて、ミシェルの顔立ちが結構整っているのがわかってきた。その整った顔立ちで、ミシェルは柔らかく微笑んだ。
「相棒がフェルドになったらさ、休みも合うよね。皆でスキーとか行こうよ。友達誘ってさ」
意外だ、と思った。マヌエルもスキーをするのか。空を飛べるのに。
ミシェルはそして、マリアラの手の上にぽとんと何かを載せた。
「で、こっちが二個目の頼まれもの。――渡した地図を誰かが確認しに来たら、その後に渡せって頼まれた。まだ相棒にもなってないのに、なんかずいぶんややこしいことになってるみたいじゃん?」