失意
「昼頃からずーっとそういう後ろ暗い場所に入り込んで、次の日の朝までずっとそこで遊んで、莫大な報酬をぜーんぶ使って帰ってくるの。お酒とか煙草とかの匂いをぷんぷんさせながらね。わかる? フェルドは、そういう遊び方を覚えたの」
マリアラは目を丸くしていた。
一体誰の話を聞いてるんだろう?
「ミーシャには隠してるみたいだけど、ミーシャも薄々気づいてるわ……」
「そんなの、信じない」
なんて薄っぺらい話だろう。マリアラはいぶかしんでいた。ララがよりによってそんな嘘を話すことが信じられなかった。もう少し説得力のある話はいくらでもあるだろうに、なぜよりによってそんな嘘を――?
「信じないのはあなたの勝手よ。でも、あたしだってうんざりしてるの。毎週フェルドが出掛けるところをこの目で見るんだもの。お金を使う方法なんて他にもいくらでもあるだろうに、なんでよりによって賭博なんか」
どうやら嘘じゃないらしい。ララの話し方でそれが分かる。
マリアラは呟いた。
「裏社会の研究してる、のかな……?」
「あんなにたくさんのお金を使って?」
「……そんなにたくさんなの? 本当に使ってるの?」
「使ってるわよ、口座はいつもほとんど空っぽだもの。ああ、もう、とにかく。いい、フェルドは、エスメラルダで充分楽しくやってるのよ。もうすぐ新しい相棒もつく。今さら昔の相棒に出てこられても迷惑なだけなのよ。エスメラルダに戻ったら、あたしもあなたを捕まえないわけにはいかない。今なら見逃してあげるから、とっとと消えなさい」
「わたしは……」
「人が変わったって、言ったでしょう」
ララの低い声は、まるでうめき声のようだった。
「あいつ、最近じゃ誰とも話さないの。あたしとも、ダニエルとも、グレゴリーとも――仲良かった友達みんなから距離を置いた。ジェイドのことも避けてる。言葉を交わすのはミーシャだけって有り様なの。人相まで変わった。信じたくないけど、情そのものが抜け落ちてしまった感じだわ。
さあ、わかった? しょうがないのよ。半年も放っておいたあんたにも責任があるの。フェルドのことはミーシャに任せて、あんたはガルシアかどこかに行って、別の誰かを見つけなさい」
「……ミーシャ……」
「そう。ミーシャはいい子よ」ララは微笑む。「とっても可愛い子なの。優しいし、気立てもいいし、働き者だし、治療も上手よ。頑固じゃないし、柔軟だし、人懐っこいし、本当に可愛い。相棒にするにはもってこいの子よね。ねえマリアラ、フェルドには、エスメラルダから追い出されてない可愛い相棒が必要だと思わない? そうっとしておいてあげなさいよ。あの子はもう、エスメラルダで相棒見つけて、働いて、遊んでいく道を選んだのよ」
ほかならぬフェルドの【親】であるララからそう聞かされると、自分の希望があまりにも子供じみていて、聞き分けのないもののような気がしてくる。フェルドのためを思って身をひけ、とララは言っているのだ。マリアラはうつむく。
「わ、たしは。フェルドが、あの時、言ってくれた言葉を信じているもの……」
「状況が変わったの。半年も放っておかれたら、心が変わるには充分よ」
「ララは……?」
直接聞くまで信じない。
レイルナートにそう言った自分の言葉を思い出した。
「ララは、もう……わたしが帰らない方が、いいんだ……ね」
ララは嗤った。「そう言ってるじゃないの」
「……わかった。……あの。ララ。今まで、ありがとう……」
これだけは言っておかねばと、マリアラは頭を下げた。ララはたじろいだようだ。
「なによ、それ」
「今直接聞いたから……信じないわけにはいかないもの……」
失意の楔が、ひとつ、心臓に突き刺さるのを感じる。
「でも、わたしは……ララの【娘】でいられて、とっても、とっても、楽しかったし、幸せだった、から。ありがとう、ララ。今まで……大事にしてくれて」
「何の話をしてるの」ララは苛立ったように言う。「エスメラルダにはもう行かないって、言ってるわけ?」
「ううん」
泣きそうだった。
頑固で、融通が利かない。ララもよく分かっているはずのマリアラの欠点だ。ミーシャにはないと今ララの言った、とても大きな欠点だ。嘘をつけばいいのに、と自分で思う。嘘をついて、もう行かない、と誓えば、もしかしてララは――最後の餞別がわりに――見逃してくれるのかもしれない。
でも無理だった。ミーシャなら言えるのだろう可愛げのある言葉は、マリアラにはどうしても言えなかった。相手が大好きなララで、フェルドの【親】だからこそ、ここで嘘をつくことはできなかった。
「だって、ララ。わたしにはもう、他に何にもないの」
両手を広げて。
マリアラは笑った。
「家に帰りたい、フェルドに、ダニエルに、ララに、みんなに、会いたい会いたいっていう気持ちだけで、ここまでなんとか生きてきたんだよ。いきなりミーシャという子が、わたしの家に住むようになったって聞いて――それを聞いただけで諦めちゃえるなら、わたし、初めからこんな苦労なんかしてない。ガルシアに行って、事情を話して、匿ってもらって、危ない目になんか遭ったりしないで、ラスのそばでぬくぬく暮らしてたよ……」
「あんたの家なんか、もう、どこにもないのよ!」
「それはララの意見だよ! でもわたしのじゃない!」
「ダニエルだってミーシャを気に入ってるわ! フェルドもよ!」
「――それもララの意見だよ」マリアラはまた笑った。「だから聞きたいの。ダニエルと、フェルドに。今ララに直接聞いたみたいに、フェルドから直接聞かされるまで……諦めるなんて無理だよ」
「……あんたって……どうしてそう頑固なのよ」
ララは呻いた。
「聞いてどうするの。事実を確かめて、それでどうするつもりなの。エスメラルダの中で、当てつけに自殺でもするつもり? とんだ迷惑でしょう」
「確かめてから、考えるよ」
「世の中、そんな行き当たりばったりじゃ回らないの。十七にもなって、そんなこともわからないの」
「だって――」
「おおかた責務のことだって、そうやってタカをくくっているんでしょう。果たした後のことは、果たしてから考えるって。あんたって本当にバカね」
「……責務……」
マリアラは、眉をしかめた。
――責務なんて果たされてたまるもんか。あんたもそうだろう。
イクスがそう、確かに、イーレンタールに言っていた気がする。
「責務って……魔物を、救うこと。世界を、正しい形に、戻すこと。そう……じゃ……」
「まあ概ねはそうよ。そう。あんた、まだ知らないのね。そっか。説明するのが狩人だもの、仕方がないわよね」
ララは悲しげに微笑んだ。
「ねえマリアラ。この世界がマヌエルにどれほど依存しているのか、考えたことある?」
「……マヌエル、に?」
「マヌエルというか、魔力に、か。責務を果たした瞬間に、この世から魔力というものが消え去るとしたら、あなたはどうする?」
すうっと、血の気がひいた。足の裏から体中の血が一気に流れ落ちたような気がした。
ララが少し歩いて、マリアラの目の前に立った。マリアラは後ずさり、橋の欄干にぶつかって止まった。欄干はマリアラの腰くらいの高さしかない。ララの冷たい指先が、マリアラの頬に触れた。
「確かに魔物は救われるのかもしれないわ。でもその代償に、あたしたち皆が、物を小さくすることも、誰かのケガや病気を治すことも、雪を溶かすことも、大量の水を固めて暑い地方の国に送ることも――魔法道具すべてを使うことも、できなくなるとしたら、あんたはどうする?」
「……そんな」
「ねえマリアラ、狩人が喜びそうなことだと思わない? 魔女を殺して大勢の人間を苦しめてきた狩人なのよ、あの人は。反社会的組織の幹部だったのよ? 信じていい相手じゃないって、本当にわからなかったの? その影響については果たしてから考えるなんて、悠長なこと言ってられる状況じゃないでしょう。あんたは、マヌエルの治療で生き長らえている人間に死ねって言うの? エスメラルダの雪解け水で何とか乾かずに済んでる国に、滅びろっていうの? 魔法道具がなきゃ何にもできないエスメラルダの国民は、いったいどうなるの」
マリアラの顔を見て、ララは悲しそうに笑った。
「わかったでしょう。フェルドもそれを知って――諦めたのよ。わかったでしょう」
――責務のせいなのか!
確かにわかった。今、腑に落ちた。
責務のせいだったのだ。
今までマリアラは、ミーシャのことをそれほど深く考えないようにしてきた。フェルドのそばにいる、自分そっくりの少女は、羨ましくて羨ましくて悲しかったけれど、実際のところその脅威を身に染みて感じないで済んでいた。それは、フェルドに、ミーシャに『乗り換える』理由があることを、実感していなかったからだ。
例えばミーシャが白ばらのような美少女で、誰が見ても心根が美しくて、デクターに『奇跡のような人だった』と言わしめるような少女だったなら、現実の脅威として感じただろう。白ばらがフェルドの相棒になったと聞いただけで、打ちのめされてすべてを諦めてしまったかもしれない。でもミーシャの外見はマリアラそっくり、つまり、平凡な外見だということだ。おまけにミーシャがマリアラの模倣をしていることは明らかだ――王太子もレイルナートも言っていたけれど、そうでなければ、髪形ばかりでなく、服装、それもブランドまでが被ることはそうないはずだ――もしマリアラがフェルドの立場だったなら、フェルドそっくりの男性に心を揺さぶられることがあったとしても、その人が髪形や服装までフェルドの真似をするようなふるまいをしたら、きっと嫌悪を覚えるだろう。外見が似ている分、フェルドを冒涜されるような気がして、まともに見ることさえ嫌になる気がする。
だから今まで、ミーシャの存在はマリアラの心を重くしただけで、打ちのめすほどの脅威ではなかった。フェルドがミーシャを気に入るということが、あまり想像できなかった。
でも今は違う。
「しょうがないわ。知らなかったんだから」
ララの優しい言葉は、ひび割れたマリアラの心臓に、甘い毒を含んだ雨粒のようにしみこんでくる。
「でももう知った。だからもう納得して、諦めなさい。エスメラルダに来たらダメよ。フェルドを誘いに来たらダメ。ねえ、わかったでしょう?」
「……」
「エスメラルダに来たら殺す。わかった?」
なんて冷たい指だろう。頬を撫でるララの指の感触は、凍りつきそうに冷たくて、そしてひどく優しい。
フェルドが変わったというララの言葉を、信じることはどうしてもできなかった。あれほどいつも安定していたフェルドが、人を遠ざけて、賭場で莫大なお金を浪費していると言われても――本当に薄っぺらすぎて、真実の匂いが全然しない。雨が地面から空に向かって降ったと言われる方が、まだ信じられる。
でも、フェルドが変わっていなくて。
その上で責務に嫌気が差したのなら――
大勢の人間を苦しめるようなことをするくらいなら、今のままエスメラルダで、相棒を見つけて、大勢の人間を助ける方を選ぶのなら。
それは。
足音が響いた。
イクスが走って来る。彼の顔は赤く染まっている。走っているからか、それともマリアラへの憎しみのゆえか。彼の憎しみは理由のないことではなかったのだとマリアラは思う。『自分は選ばれた。だから何をしてもいい』と、断言するだけの理由があったのだ。確かに責務を阻止するという任務を担っているのなら、多少の暴力的な行為もやむを得ないと、思い込む理由になるのかもしれない。
ララがかすかに舌打ちをした。いつしか橋の欄干に座り込んでいたマリアラの前に、ララが左手を突き出した。イクスからかばうように。
「何やってるの。逃げなさい、バカ」
かすかに囁いて、
「どうしてこっちに来るのよ。トールは捕まえたの!?」
鋭く叫んだ。イクスは息を切らしながら橋の入り口までたどり着き、体を起こして、嗤った。
「あんなの捕まえたって俺の手柄にはならない。でもこっちは――」
「あたしに任せなさいって言ったでしょう!」
「任せたら逃がすだろ」
イクスがポケットを探り、無線機を取り出した。ララがもう一度舌打ちをする。ジレッドを呼ぶのだとマリアラは思った。もうおしまいだ。イクスとジレッドがマリアラを捕まえるのだろう。それも理不尽な理由ではなく、保護局員の正当な仕事として。
正気を失わせるような無残な暴力を与えてでも、責務を放棄させたいと、思われているのだ。
無意識のうちに後ずさりをした。あんな怪我をしていたジェムズがようやくのことで開いてくれた突破口だったのに――。
お前なんか助ける人間がいるものか、とイクスは言った。【風の骨】は反社会的活動をしていた狩人の幹部、とララは言った。フェルドも諦めた。大勢の人間を苦しめ死なせてしまう道を選ぶくらいなら、エスメラルダの中で、ミーシャと一緒に、人を助け生かし役に立つ道を選んだ。
みしり、と、欄干が音を立てた。
「――あっ!」
ララが悲鳴をあげる。マリアラはその時もう、空中にいた。弱っていた欄干は、マリアラの体重には耐えられても、その後ずさりには耐えられなかったのだ。
ララの伸ばした手が空を切った。
視界がぐるりと回る。
突然横なぐりの暴風が吹き、落下の勢いを弱め、落ちる場所を少しだけ横にずらした。コンクリートの上に叩きつけられるのだけは免れた。マリアラは体を丸めることさえできなかった。下に並んだ掘っ建て小屋の上に、まともに落ちる――
破壊音が吹き上がる。衝撃が全身を打ち、マリアラは屋根を突き破り小屋の床に叩きつけられた。ぽかりと空いた天井の穴から青空とララが見えた、と、屋根の破片が降り注いで視界を埋めた。屋根に次いで四方の壁もくずれ、がらがらがら、と耳をつんざく崩壊の音を最後に、何も見えなくなった。
痛みはあまりなかった。
でももう、二度と動けない気がした。
いや、動く必要ももうないのだ。このままここで、イクスとジレッドがマリアラを掘り出し、そして、『正気を二度と取り戻さないように』した上で、エスメラルダに連れて行くのだろう。責務にこだわる稀代の悪女を捕らえて、平穏な生活を守るために。崇高な任務のために。
正義はイクスとジレッドにあり、マリアラは、捕らえられ殺されても仕方のない立場だったのだ。
何もかも無駄だった。これでもう終わりなのだ。フェルドにもう一度会うことなんて、初めから無理なことだったのだ……。
「消えなさい」
ララが鋭い声で言うのがかすかに聞こえる。消えたい、と、マリアラは思った。イクスがわめいている――
「死体でもなんでも掘り出してエスメラルダに連行するのが俺の仕事だ!」
「あんたの仕事はトールを捕まえることよ! とっとと行きなさい!」
「あんた何考えてんだ!? いくら【娘】でも犯罪者だぞ、校長の命令に――ぐうっ」
くぐもった悲鳴で声が断ち切られ、ララがひどく静かな、冷たい声で言うのが聞こえた。
「あたしの受けてる命令は」聞くだけで凍りつきそうな声だった。「フェルドを見張ることと、今は、イーレンの護衛とトールへの魔力供給のためにアリエディアに行くってことだけよ。あたしは『あの男』の仲間でも家来でも手下でもないの。命令以外のことをしてあいつを喜ばせる気はないわ……!」
イクスの咳き込む声。ララの辛辣な声。
「消えなさい。あの子に手を出したら殺す」
「ほ、報告するぞ、あの人に……」
「あ、そう? それはまずいわね。じゃあいいわ。報告できないように今ここであんたを――」
イクスの悲鳴。会話はそれで途絶えた。
マリアラはぼんやりしていた。痛みは全然ないのに、頭と、肩と、右足から、じわじわと温かな何かが流れ出て行くのを感じていた。血が出ている、のだろう。少しずつ、少しずつ、体が冷たくなっていく。それでいい、と思った。血なんかいくらあっても、もう動けない。今までマリアラが動くためにより所にしてきたものは、すべて失意の楔で砕かれてしまった。
もういい、と、最後に思った。
もう何もかも、どうでもいい……。
ララとイクスが立ち去った、直後。
橋の真下にひとりの男が現れた。彼は現れるやいなや脇目も振らずに崩れた小屋に駆け寄った。壁や屋根の破片を小さくし、あるいは放り投げ、中に埋もれていた少女を掘り出す。
血だまりができていた。その中に沈んでいた少女はぐったりとしている。彼は彼女の息を確かめ――安堵の息をついた。




