ライラニーナ=ラクエル・マヌエル
時計台は予想よりとても大きかった。
町中にそびえるその塔は、歩いても歩いても一向に麓が見えなかった。ようやくたどり着いた時は、既に昼が近かった。マリアラは呼吸を整えて、その背の高い時計塔を見上げた。予想より随分大きかったので、距離も予想より随分遠かった。
十二キロとデクターは言った。まあ歩けるだろうとあの時自分は思った。人間が歩く速度は時速四キロ程度という知識から、まあ三時間もあれば着くだろうと。
冗談じゃない。自分を過信しすぎだ。朝、あのホテルでかなり時間を取られ、肉体的にも精神的にもかなりのダメージを負ったことを引いても、特別な訓練を受けてもいない自分が、ずっと上り坂を時速四キロの速度で三時間も歩き続けられるわけがない。
着いた時にはとっくに昼を周り午後に差し掛かっていた。へとへとだ。
時計台は坂の下から見上げていることを考え合わせても、かなり巨大だった。ジェムズは、【風の骨】が持っているアリエディアの拠点はとても重要なもので、左巻きのマヌエルと契約して秘密の治療院まで運営している(という噂がある)と言っていたけれど、確かにこれほどの大きさならば、不可能ではない。
でも、とマリアラは首を傾げる。これほど大きくて高いのならば、観光客が昇りたがるはずだ。秘密の治療院がこの中にあったら、とても目立つような気がするけれど――。
時計台の周囲は広々とした広場になっていた。その広場に体をさらさないよう注意して、ひとつ路地を戻り、用心してぐるりと広場を回ることにした。イクスがマリアラを探すのに、高い場所――たとえばまさにあの時計台――から周囲を見回しているかもしれない。ホテルのある方角から真っすぐ広場に入るのは危険だ。
方角を四十五度変えて、マリアラはもう一度広場に戻った。おやつ時というこの時間、かなり人が出ていた。屋台もたくさん出ているし、大道芸が見られるらしくそこここで歓声が上がっている。
とてものどかな光景だった。
少し先で、鳩がのこのこと歩いてはポップコーンのかけらを拾い、小さな男の子がよちよちとその後をついて歩いていた。鳩が振り返るたびに彼は大慌てで逃げるのだが、鳩が地面の詮索に戻ると追跡を再開する。その様子にマリアラは思わず頬をゆるめ、俯いて髪で顔を隠すようにしながら広場に入った。
うららかな陽光の中、光を避けるようにしなければならない現状が哀しかった。
十一月の終わりというこの季節、エスメラルダでは陽光はご馳走だ。こんないいお天気が拝めたなら、みんな大喜びで光を浴びに駆け出すだろうに。
「ぽっぽ、ぽっぽ」
男の子の後ろを通り過ぎる時、舌足らずな言い方で、彼が呟いているのが聞こえた。マリアラはまた微笑んで、足を速めた。周囲を見回して、物売りを捜した。花か、マッチか、新聞のどれか。しかしみんな屋台だったり、徒歩の物売りがいても、アイスクリームやジュースだったりしてなかなか見当たらない。
と、少し離れた背後で、鋭い羽ばたきがした。
「あー、ぽっぽー!」
男の子がわめいた。とても非難がましい言い方で。
マリアラは振り返り、鳩が飛び去るのを見た。
取り残された男の子は鳩の行方を目で追い、それから振り返った。そこに立っていた若い女性に向けて、叫ぶ。
「ぽっぽ! ちゃったー!」
鳩が逃げてしまったと言っているらしい。マリアラは立ちすくんでいた。それは鳩も逃げるだろうと、心のどこかで納得していた。あれほどの威圧的な魔力をまとった女性が広場に入って来たなら、鳩としては恐ろしくてその場にいられないだろう――。
「ゴメンね」
女性は男の子に微笑みかけた。男の子は鳩に逃げられた傷心を寮母に、いや違ったここはアナカルシスだった、母親に訴えるべくよちよちと走り去る。男の子が去るや否や彼女はこちらを見、マリアラは後ずさった。
ララだった。
ララなのに。
あれは間違いなくララなのに。
どうしてララがここにいるのだろう。どうして見つかったのだろう。そしてどうして、ララをこんなに恐れなければならないのだろう? 以前のマリアラが、あの小さな男の子のような目に遭ったなら、ねえねえ聞いてよって訴えに走る相手だった、はずなのに。
――何やってるの!
マリアラは自分を叱咤した。逃げなければならない。ララは間違えようもなくマリアラを威嚇していた。周囲で踊る若草色の粒子はあまりに激しくて、その奥のララがほとんど見えないくらいだ。なんとか呪縛を振りほどき、走りだした。時計台に沿って、人を擦り抜けて走った。ララは当然追って来た。でもその向こうに、もうひとり走りだした人間がいることを、マリアラの感覚は敏感に捕らえた。
イクスだ、ということまでわかった。ぴりぴりと背筋が粟立つ。
途中で治したはずの痛みが甦った。熱い腕の乱暴さ、理不尽な暴力。地面にたたきつけられた頭も、掴みあげられた手首も、手錠の音を聞いた耳も、無理にねじり上げられた腕も、あのときの感触を思い出して悲鳴を上げている。
イクスの追跡は派手だった。押しのけられ突き飛ばされた通行人の悲鳴や怒鳴り声が背後で上がる。その声や物音が波のようにマリアラを追いかける。「待て! ――退けよ馬鹿野郎っ」イクスの怒鳴り声も、がん、がしゃん、という破滅的な音も。
――何があの人をあそこまで変えたのだろう!
「指名手配犯だぞ! 捕まえろ!」
煽るようなイクスの声を背にマリアラは時計台の角を曲がった。イクスの憎悪がなぜ自分に向けられるのか理解が出来なかった。事情がわからず、豹変が恐ろしく、何より気味が悪かった。なぜあんな扱いを受けなければならなかったのだろう? 指名手配犯だから? 疑問がぐるぐると脳を回る。
徒歩の物売りはどこにも見えない。それに、誰かに追われて駆け込む人間を、番人が秘密の場所に案内するとは思えない。拠点までが危険にさらされてしまう。
時計塔の周囲は人が多すぎて、突き飛ばさずに走るのは無理そうだ。マリアラは自然と時計台から離れる方へ動いた。広場を突っ切り――閑静な住宅街に入った。ひとつの路地を曲がり、すぐにもうひとつ曲がり、走りながら外套を脱いで小さくしてしまった。焼け焦げたビロードの小袋を取り出し、コインをひとつ、つかみ出した。ララとイクスを撒いたら、時計台に戻らなければならない。
忙しく目を走らせ、もうひとつ路地を曲がった。
そこは時計台の北側に当たり、既に、アリエディアの上町と呼ばれる地区に入っていた。アリエディアという町の、上半分に当たる。ここから先は高級住宅街が続く。何百年も大切に維持されてきた石造りの建物。塀はマリアラの身長より高い。マリアラは足を止め、耳を澄ませた。ララの場所はよく分からないが、イクスの立てている怒号と悲鳴はまだ続いていた。だいぶ離れている。
でも、念のため。マリアラは塀に取り付き、石のでこぼこを足掛かりにして思いっきり背伸びをし、塀の上部に手を伸ばした。何とか届いた。コインをひとつ、そこに置く。
地面に降り立ち、コインを使う必要がなかった時のために、近くの塀に刻まれた番地を覚えた。そしてまた走りだした。時計台から少し離れようと、北に向かうことにする。走りながら、首元にかけた発信機がちゃんと作動していることを確かめる。
呼吸が乱れていて、心臓の音と荒い息がうるさかった。ケガをさせられ、それを治し、何時間も歩いて、徹夜である。その上この逃走、しかもほとんどが上り坂だ。そろそろ限界が近い。マリアラは走る速度を落とした。あたりを見回して、隠れられる場所を探した。
東に木立が見える。吸い寄せられるようにそこへ向かった。
広々とした公園の入り口だった。中に散歩している親子連れやジョギングする人、遊具で遊ぶ子供たちが大勢見えた。ここに入るわけにはいかない。でも疲労はかなり激しく、休まなければ動けなくなることは明白だ。マリアラは足を叱咤して公園を素通りし、その奥の住宅街に紛れ込んだ。
突然の寂れ具合だった。ひとけがなく、生け垣の透き間から見える家は荒れているものが多かった。ゴーストタウンのような静けさだ。雑草がはびこった庭は荒れ果てて、窓ガラスが割れ、ツタが這い上って、死にかけた家をさらに絞め殺そうとしているように見える。隣の家も、その隣も。たまに住んでいる家もあるようだが――高級住宅街の中に、ぽつんと取り残されたような、寂れた雰囲気の町並みだった。
ここなら、隠れられるかもしれない。
楽しげな雰囲気でにぎわう時計台の周りより、きちんと手入れのされた高級住宅街の中より、ゴーストタウンの方が安心できるなんて、皮肉なものだ。
少し歩くと橋に出た。かなり下を川が流れている。高さは四メートルはあるだろう。コンクリートで護岸されていて、ここから落ちたら運がよくても大ケガだろう。川沿いに粗末な木造の建物が並んでいる。物置のように見えるが、もしかしてあれは家なのだろうか……。
この橋の下に降りて、あの建物の隙間に隠れれば、少し休めるかもしれない。
そう思って、降りられる場所を探した時だ。
橋の向こうの建物の陰から、ララが出てきた。
愕然とした。
ララはマリアラが来た方からではなく、進行方向から出て来たのだ。
マリアラがここに来ると予測して、待ち伏せしていたのだろうか? まさか!
「……どうして……!」
「鬼ごっこはもう終わりよ」ララは冷たい声で言った。「久し振りね、マリアラ。元気だった? って、聞きたいけど、そんなわけないわね。痩せ過ぎよ」
「……ララ」
「警告をしに来たの」
ララが言った時、マリアラはコインを思い出した。もうひとつのコインを取り出して握り締める。ララの顔に動揺が走る。「やめなさい!」叫んだ瞬間、マリアラはコインに魔力を通わせて。
ぞっとした。
コインが反応しないのだ。
マリアラが消えないのを見て、ララはふうっと息をついた。
「危ないじゃないの。あんたの置いたコイン、今あたしが持ってるのよ」
そう言って、手のひらを開いて見せた。マリアラはまたぞっとした。さっき塀の上に置いてきたはずのコインが――
あの場にララはいなかった。どうして場所がわかったのだろう。隠れて見ていたのだろうか?
「あんたと衝突して木っ端みじんなんて真っ平ごめんよ。ほら」
ララはぴん、とコインを弾いた。マリアラの少し手前にちゃりんと音を立てて落ちた。転がって来たそれを拾い上げる。銘を見て、それが間違いなく、マリアラのものだということを確認する。
「どうしてわかったのか、って顔ね」
ララは薄く笑う。
「どこに逃げても無駄よ。あたしの箒が小さくなって、あんたの後を追ってるの。ほら」
ひゅうん、と、マリアラのわきを擦り抜けて行く、小さな虫のようなもの。それはララの隣で、ぽん、という音を立てて元の大きさに戻った。かつてはあれほど元気で楽しげだったララの箒、ルゥは、今は何も言わなかった。
マリアラは絶望を感じた。箒からなんて、徒歩で逃げられるわけがない。
「ねえ、話があるのよ。どうせあんた、フェルドを迎えに、エスメラルダに行くつもりなんでしょう」
ララは言いながら、ゆっくりと歩いてくる。痩せ過ぎよ、とさっきマリアラに言ったけれど、ララも痩せていた。痛々しいほどの痩せ方だった。
それでも、ララは本当に綺麗だとマリアラは考えた。目が大きくて、キラキラしている。
本当に綺麗で――冷たくて。
まるで死神みたいだ。
ララは冷たいまなざしでマリアラを見据え、残酷な言葉の刃を、マリアラの上に振り下ろす。
「無駄なことはやめなさい。半年以上も放っておいて、今さら何のつもりなの」
「わ……わたし、」
「フェルドはね」ララはゆっくりと言う。「もうあんたの知ってるフェルドじゃないの。あの子は変わったのよ。悪い方に」
その言葉に含まれる刺に、マリアラは思わず顔を上げた。
「……変わっ、た……?」
「フェルドはね、ずっと監禁状態にあったんだけど、こないだ、ある大事件が起こって――それをきっかけに外に出たの。出てきて、驚いたわ。監禁の間に人が変わってた。まるで別人よ。
大事件をもみ消すために、校長は関係者に莫大な口止め料を支払ったわ。……フェルドにもね」
「……」
「そこで、その口止め料を受け取るどころか。校長の提示した額の倍を要求したのよ、あいつ」
「……」
「それからマヌエルのお給料を倍額にするようにって。ねえ、どう思う? フェルドがやることだと思う? まるで強請じゃないの。それでそのお金で、一体何をしてると思う? 毎週休みがくると、昼頃に出掛けて――あんたは知らないと思うけど、エスメラルダにも裏社会というものがあるの。いろんな悪い遊びがあるんだけど、フェルドが手を出したのは賭博だった」
「……とばく?」
って、なんだっけ。
一瞬混乱するほど、その単語は思いがけなかった。




