安らぎ
トールは不満だった。
ジェイムズ=ベインという人はミランダの協力者だと知ってはいたが、そもそもはマリアラへの好意から、ミランダに力を貸すことになったと聞いていた。なのになぜこんな状況で、マリアラをひとりで行かせることができるのだろうか。
自分だけでもやっぱり、あの人を安全な場所まで――と足を踏み出そうとしたが、ベインが自分の左手を握ったままだということに気づいて睨み上げる。ベインはトールを見下ろしていた。その青黒く腫れ上がった頬が綻んだ。
「今はもう安定してるんだね」
『どうして放っておけるんです』
「その方が彼女が安全だからだ」
ベインは言い、先程のマリアラのように、トールの前にかがみこんだ。ベルトランとジレッドに人相が変わるほど殴られたその頬の治療を固辞したのはなぜだろう。目立ちますよ、とマリアラは言っていた。確かにかなり目立つ。左腕を吊っているし、シャツは血と埃で汚れていて、なんらかのトラブルを抱えていることは一目瞭然だ。
「昨日のうちに君が俺の誘いに従って逃げていればこんなことにはならなかった。あの人を危険にさらしたのは君の責任でもある。そのことはわかるでしょう」
『わかってます!』
トールは腕を振りほどいた。だからこそ、だからこそ、安全な場所まで送って行きたいと思っているのに!
『マリアラに何かあったら、僕はミランダに会わせる顔がありません』
「俺も。……だから離れたんだ。わかる?」
ベインは伸び上がってマリアラの背を確認した。彼女はもうだいぶ離れた場所にいた。男物の外套を着ていても、その体格が華奢な少女のものだということは一目瞭然だ。なんという無防備さだろうとトールはじりじりした。
彼女の背を追うものは今のところ見えない。
「彼らの目的は」とベインは言った。「トールの人格を取り出して別の体に移植することだった。イーレンタールの背任行為をもみ消す任務のために、ここに来たんだ。マリアラさんを見つけたのは偶然だ。もちろん捕まえれば大手柄だろうが――優先順位で言えば、君が最優先のはずだ」
『……ああ……』
「君を取り逃がしたら大変なことだ。裁判で係争中の財産を盗み出したという犯罪までがあちらに加わるんだからね。アリエディア警察には通告を出したから、エスメラルダの保護局員の要請に応じることはないはずだが、どこにでも腐った人間というのはいるものだから。……その権力を行使してでも捕まえたい相手は、マリアラさんじゃない。君のはずだ。
俺はもちろん君をミランダのところに連れて行くことに全力を傾けるつもりだけど、でもアリエディアにいる間は、君にできるだけ目立つように逃げてもらうつもりだ。ミランダにひっぱたかれそうな気がするけど―― 一応確認するけど、それで構わない?」
『構いません!』
それでか、と、思った。それでベインは、目立つ顔の傷も左腕も、マリアラに治療させなかったのだ。
トールは微笑んで、彼を見上げた。
『ベインさん』
「ジェムズでいいよ」
言われて、トールは嬉しくなった。
『ジェムズさん。ひとつだけ訂正です。ミランダはきっと、ひっぱたかないと思います』
「じゃあどうするかな。噛み付くかな?」
『まさか!』トールは思わず笑った。『無事に戻りさえすれば、マリアラを安全にしてくれてありがとうって、言ってくれるはずです。さ、行きましょう。目立つように逃げるって、どうするんです? 大声でわめきましょうか』
「歌うってのもありかな」
ないだろう、と内心でつっこんだトールは、歩きだしたジェムズの後ろについて行った。
何だかすごく、体が軽かった。罪悪感も後ろめたさも今は遠かった。イーレンタールのことを考えると今もまだ胸が苦しいけれど、マリアラが、一度ミランダに相談してからにしろと言ってくれた。確かにそうだ――本当に、確かにそうだった。手術を受けることになるとしても、ミランダに相談してからにするのが筋というものだ。まずはミランダに会いに行って、今後のことを相談して。それでミランダが、ヴィレスタだけ戻ってくればいい、トールのことはいらないと、言ったなら、諦めもつくというものだ。
イーレンタールよりも、ミランダの方を信じて、好きだと思ってもいい。
胸の奥に落ちたその言葉が、身体中に根を張って、トールの足を地面につけてくれる。自分がどこに立っているのかを教えてくれる。ここにいていいのだと。何も間違っていないと。
以前の自分は、この気持ちを既に知っていただろうか。
ジェムズはさっきのホテルへの道を戻り始めている。イクスはどうしたのだろうとトールは考えた。イクスはトールの能力を重々知っているから、まずはジレッドと合流することを優先したのかもしれない。逃げている間中感覚を張り巡らせていたが、イクスが三人を追いかけて来る気配は感じなかった。
さっきまでの自分は不安定で、どう動くのが正解なのか分からなかった。イクスがマリアラにしたことと、しようとしていたこと、その一部始終を見ていながら、何もできずにいた。助けたかった、それは本当だ。でも助けていいのかどうかが分からなかった。倫理規範では、傷つけられようとしている人間を助けることは推奨されている。が、命令に背くことは禁止されている。そうなると、人間で言えば『人情』とか『経験』とか『過去の対象との交友履歴』とかを考慮して判断することになるわけだが、そこがうまく機能していなかった。
「ひとつ聞いても?」
ジェムズがぽつりと訊ね、トールは彼を見上げた。
『もちろんです。なんですか?』
「フェルディナント=ラクエル・マヌエルというのは……どういう人物なのかな、と思って」
トールは一瞬考えた。トールの記憶には、顔写真と、生年月日や血液型、一般学生だったころの成績とか趣味とか友人関係、マヌエルになってからの勤務態度などと言った、プロフィールが入力されている。でもジェムズが聞きたいのは、そういうことではないだろう、という気がする。
『……僕が昔、可愛がってもらっていた人のひとりです』
答えるとジェムズは頷いた。
「そう聞くと、気立ての良さそうな人物だな。少なくともダスティンよりはね」
『僕にはその記憶がないのでなんとも言えません。でも……あの、僕が昔から知っていた人を今、思い浮かべると、その人に関連づけて覚えたとおぼしき言葉が一緒に浮かんでくるんです。マリアラさんの場合、“水飴”“とろんとしてすべすべ”“大袈裟だなあ”“キャラメル”といった具合に』
「へえ」
『ミランダは多すぎて上げられませんが、シグルドに初めて会ったときは変な感じでした。どう考えても初対面なのに、頭の中で、“仕返しはほどほどに”って言葉がぐるぐるぐるぐる回るんです。混乱しました』
「そりゃ混乱するな……」
ジェムズは笑い、トールも笑った。
『それで、フェルドですが。フェルドの写真を見ると、とても嬉しい気持ちになります。以前の僕は、フェルドと一緒にいるのをとても喜んでいました。毎日に近い頻度で会っていたようです。毎朝フェルドに会いに行って、そこで、一緒に過ごしたような印象です。……でも、浮かんでくる言葉は変です。“同じ釜の飯”とか、“悪影響を憂慮”とか、“ろくでもない”とか』
ジェムズが吹き出し、左腕が痛んだのだろう、顔をしかめた。ジェムズはなぜこんなことを聞いたのだろう、とトールは考えた。
ミランダは、疑問は口に出していい、と、トールに言った。何度も何度も、不思議に思ったことはなんでも聞いていいのだと。
ダスティンにも『あの人』にも何も聞けなかったが、でもジェムズはどうだろう?
トールは試しに、疑問を口にした。
『なぜフェルドのことを?』
「……」
ジェムズはしばらく黙っていた。
やはり疑問を口にすることは相手の怒りを誘うことなのかもしれない。トールがそう思い始めたころ、ジェムズが言った。別段怒っている様子もなく、ただ、どうしてなのか自分でも考えていた、というような調子で。
「泣かないでほしいな、と思って」
『フェルドに?』
何がおかしかったのか、ジェムズはひとしきり笑った。
「……そうじゃなくて、マリアラさんに」
『ああ』
「彼は気のいい人物だとミランダも言ってた。シグルドも。何より彼女があれほど好意を抱いている人物。なのにどうしてなのかと……」
『どうして……?』
「どうしてなのかと」
ジェムズは繰り返した。
沈黙が落ちた。
どっちに転んでも、と、先程ジェムズはマリアラに繰り返した。どっちに転んでも、連絡をください。奥歯に何かが挟まったような言い方だった。
トールは少し考える。
ジェムズはもしかして、フェルドがマリアラを拒絶した時のために、あのカードを渡したのだろうか。
ジェムズは、フェルドを怒っているのだろうか。
ヴィレスタの存在は、ミランダに会うまでは、体の奥底で弾ける小さな泡のようなものだった。誰かに優しい言葉をかけられるたびに胸の奥でその泡はぷつぷつと弾けた。リンに会った時は特に顕著だった。水飴の甘さが味覚を刺激した瞬間には、沸騰したほどの激しさだった。
ミランダのことを考えるたびにその泡は激しさを増し、泡が弾けるたびに、自分の中に、ヴィレスタだったころの感覚が満ちてくる。それは恐ろしいことだった。『自分』を取り戻すにつれて、『自分』が感じているトールへの怒りが、じりじりと炙るようにトールを苛むようになった。『お前』は相応しくないとヴィレスタはいつも囁き続けた。
――自分自身より大切なあの人のそばに、『お前』は相応しくない。
トールはヴィレスタの怒りが恐ろしかった。じりじりと自分を焼き続ける激しい自責の念は、ヴィレスタの怒りは、当然のものだったから。
罪を犯した自分は切り捨てられて、優しい人のいない場所へ捨てられるのが当然なのだと、思っていたから。
『ジェムズさんは……マリアラさんの相棒になりたいのですか』
あの時のヴィレスタのように、ジェムズは――フェルドを、怒っているのだろうか。
『フェルドは、マリアラさんの相棒に相応しくないと、思っているのですか』
訊ねるとジェムズは少し考えた。
「わからない」
ジェムズは正直だとトールは考える。
「ただそれは俺が決めることじゃない。彼女自身が決めることだ。……だから歯がゆい」
『昔の僕が知っていた頃のフェルドなら、マリアラを傷つけることはないと思います』
「そうか」
ジェムズは少し悲しそうに笑った。
無事で、笑っていてほしい。ジェムズがマリアラに抱いている感情は、トールがミランダに対して抱いている感情に似ているのかもしれない。大切だ、と思える相手が増えていくことは、きっと幸せなことなのだろうに、なぜジェムズは悲しそうに笑うのだろう。
思い浮かべたその疑問を、でも、トールはジェムズに訊ねなかった。ミランダはなんでも聞いていいと言ったけれど、なぜだろう、この疑問はジェムズ自身にぶつけていいものではない、気がするのだ。
無事で、笑っていてほしい――
マリアラに対しても、トールはそう思った。前からきっと大好きだった。それに今回のことが加わって、さらにそう思う。
罪を犯した自分は、ヴィレスタを自由にすべきだと思っていた。全ての幸せをヴィレスタに譲って、自分だけ捨てられるべきなのだと。
でもマリアラは、それはできないと言った。ヴィレスタはトールで、トールはヴィレスタ。ヴィレスタの恨みも、トールの苦しみも、全て一つのもの。自責、という苦しみなのだと。
二人に別れなくてもいい。無理やり引き裂かなくてもいい。イーレンタールのために自らを犠牲にしなくていい。この世に生み出された恩は、自分を犠牲にしてまで、返さなくてもいい。
トールは顔を歪めた。
世界の色さえ違ってみえる。
トールの心は今は穏やかだった。心の奥底でぷつぷつと泡がはじけ、体に残っていた様々な温かい記憶を、トールの中に満たし続けている。ずっと拒絶していた。自分のためのものじゃないと思っていたから。ヴィレスタだけが受け取るべき温もりだと思っていたから。でも違う、それは、初めからトールのものだった。ヴィレスタだったときに感じていた幸せは、トールのものでもあったのだ。
『そうだ。ひとつ、言っておかなければならないことがあるんです』
ホテルが見えてくる頃、トールはぽつりと言った。ホテルは静まり返っていた。玄関の扉は開いたままだったが、そこに倒れていたベルトランの巨体は見えなかった。〈毒〉に冒されては、さすがのベルトランも治療を受けずには動けないはずだが――病院に運ばれたのだろうか。
ジレッドもイクスも、誰もいない。
『僕はダスティンが去ったウルクディアで、甘いものを大量に食べながらだらだらすることしかできませんでした。逃げ出したときも、鍵を開けてそこから出るので精一杯で、あとはベルトランが僕を担いで運んだんです。ダスティンはあまり魔力が強くないので、遠ざかると魔力の供給が充分でなくなったんです』
「……じゃあ今は?」
ジェムズが訊ね、トールはジェムズを見上げた。
『ここに来た初めの夜に、イーレンタールが魔力供給者の変更をしてくれました。今アリエディアにいるので自由に動き回れますが――アリエディアを出たら、すみませんが、車に乗せていただいた方が安全だと思います。彼女の魔力は底なしだそうですが、ウルクディアまで届くかどうか』
「彼女? 女性なのか」
ジェムズがトールに向き直り、トールは頷いた。
『僕が昔から知っている人のひとりで。とても優しい人だという印象があります。イーレンタールの護衛として来たと聞きましたが、あのホテルには泊まっていませんし、ジレッドとベルトランのことが大嫌いだそうで、単独行動をしています。護衛は建前で、僕に魔力を供給するためだけに来てくれたんじゃないかと思いますが。
ご存じでしょうか。マリアラとフェルドの【親】に当たります。ライラニーナ=ラクエル・マヌエルです』




