ジェムズ
ふわりと広がって落ちてきたその布は、スローモーションのようにゆっくり、そしてふんわりと、目の前にいたイクスの上に被さった。
一瞬の空白があった。あんまり出しぬけで、あんまり非現実的で、イクスもマリアラもイーレンタールも、みんなその場に立ちすくんだ。
ついで、白い布を被ったイクスがもがき出す。「な――んだこれっ!?」悲鳴をあげてその布をかなぐり捨てようとして余計に絡まる。その後ろに、重い音を立てて、誰かが降ってきた。
ジェムズだった。
「マリアラさん!」
その声で、ようやく体が動いた。ジェムズがいったいなぜここで突然現れたのかはわからなかったが、彼が酷い目に遭わされたことはすぐにわかった。顔が腫れ、鼻血のあとが見えた。唇も切れて、あちこちが腫れ上がっている。しかしジェムズは俊敏に動いてイクスに体当たりをし、マリアラに手を伸ばした。
「外へ!」
しかし、すぐ近くの扉にはベルトランの巨体が倒れていて、横をすり抜けることは難しそうだ。ベルトランの上を乗り越えるしかないが、万一意識が戻って動き出したら。
「ざけんな――!」
イクスがシーツをかなぐり捨てる。その時マリアラは、二階の手すりにトールがしがみついているのを見た。トールの背後の扉が開いていて、窓から明るい光が差し込んでいた。あそこにジェムズが捕らえられていたのだとマリアラは直感した。そしてその戸を、トールが開けたのだと。
こちらに来たいのを手すりにしがみついてなんとか抑えている、トールの葛藤が手に取るようにわかる。
「トール、ありがとう!!」
マリアラは叫び、トールがびくりとした。ぐしゃぐしゃに歪んだ、泣き出しそうな顔。
「お願い、一緒に来て――わたし、殺されてしまう。わたしを助けて、今だけでいいから、一緒に来て!!」
叫びながら覚悟を決める。絶対にトールを連れていく。
それがたとえ、どんな結果を産むことになっても。
「逃すかよ!!」
イクスがジェムズに襲いかかり、ジェムズは身を引きざま、行き過ぎたイクスの背の上に肘を叩き込んだ。「ぐっ」イクスが床に倒れた。トールが階段を駆け降りてくる。イーレンタールが喚く。
「と、トール!? 行くなよ、なあ!?」
「トール、あなたは覚えていないだろうけど、ヴィレスタは、わたしに借りがあるの」
なりふりなんか構っていられなかった。嘘でもなんでもいい。トールを騙してでも、イーレンタールから引き離さなければ。
やっとわかった。今なおトールを縛っているのはイーレンタールだ。イーレンタールはトールにとっては生みの親だ。生まれたての小さな子供、愛された記憶を全て失ってしまった、全ての経験の足りないトールが、イーレンタールを見捨てられないのは当然のことだった。親が全てを失うのだけでも耐え難いのに、それが全部自分のせいだなんて言われたら――。
「だからその借りを、今、返して。わたしを助けて、ここから出して」
「お前が逃げたら、俺はどうなるんだよ、トール!」
「そんなの知らない!」
まるで駄々っ子のような声が出た。マリアラは顔を歪め、トールに向けて叫んだ。
「嘘ばっかり! イーレンタールさんが地位を失うのはトールのせいじゃないっ、ミランダに黙ってヴィヴィとトールに酷いことをしたからだ!」
「だってそれは――」
「トール、いっしょにきて」
マリアラは両手を広げた。
「わたしをここから出して。そうしてくれなきゃ、殺されてしまう」
『マリアラさん……!』
出しぬけにトールが走った。
ぞわっと全身の肌にさざなみが走った。振り返ると、扉の前に倒れていたベルトランが、喘ぎながらも扉に縋り付くようにして体を起こしていた。「治療を」ベルトランの濁った目がマリアラを見ていた。「左巻きの……治療……俺を……」
その腕が横薙ぎに動いてマリアラを掴もうとし、その寸前でトールがマリアラを引き戻した。ベルトランの血の気のない顔が斜めに流れ、ひょい、と体が浮いた。トールがマリアラを担いでいた。裏口へ走っていく。
「トール……!」
イーレンタールの悲鳴が、後ろに流れていく。
ジェムズがついてくる。開け放された裏口の形に、明るい光が差し込んでいる。
しばらくは闇雲に逃げた。
ホテルからかなり離れた小さな公園に来たところで、ジェムズが膝をついた。額に、脂汗が浮いていた。マリアラはゾッとした。ジェムズの顔色がひどく悪い。
「ジェムズさん……!」
なんということだ。ジェムズの足に添え木が当てられて、裂いたシーツらしきものでぐるぐる巻きに縛られているのに、今初めて気がついたのだ。マリアラはくず折れたジェムズの前に膝をつき、有無をいわせずにそのシーツに手をかけた。
「……」
ジェムズは呻き声を堪えるように歯を食いしばった。「嘘でしょ」こちらの顔から血の気が引いてしまう。足が折れている。この足でいったいどうやって、ここまで走ってきたのだろう。二階から飛び降りて、イクスの憎悪の前から逃がしてくれた。どれほどの苦痛だっただろう。
「ごめんなさい、気が、つかなくて……!」
改めて見ると、本当にひどいケガだった。足だけじゃない、肋骨にひびが入っている。左腕は完全に折れている。よくこの体で、イクスの動きを封じられたものだ。
「すみません、お手数を、おかけして……」
「何言ってるんですか!!」
自分が魔力を使えなくなっていたことなどすっかり忘れていた。ほとんど意識もしない間に、ジェムズの肋骨のひびと、かすかに入っていた背骨の亀裂が修復された。ジェムズは大きく息をつき、次いで足のケガの治療に移ったマリアラに、苦笑紛れに言った。
「お恥ずかしい話です。昨日あのホテルを見にきて、まんまとベルトランに捕まってしまって」
声はまだ苦しげだったが、それはただ、呼吸が乱れているからのようだ。肺や他の臓器の損傷の気配はどこにもない。ジェムズの苦痛がだいぶ和らいだことにほっとして、マリアラは微笑んだ。
「生きててくださって、本当によかった。助けてくれて、ありがとう」
「……助けられたとは言えませんよ」
ジェムズはマリアラの顔を見て、痛ましそうに顔を歪める。
「ご自分のことも治してください。頭と顔と……他には?」
「いえ、わたしの方はもう、かすり傷ですから」
「冗談じゃない。イクスとか言うあいつ――」
「大丈夫です。もう二度と会わないように気をつけます」
マリアラはそう言って思わず身を震わせた。本当に――本当に、イクスの変貌ぶりが、今更ながらに恐ろしかった。ジェムズがあそこで飛び降りてきてくれなかったら、一体どうなっていたか。
「そうしてください。――もう結構です。【風の骨】は?」
まだ左腕も、体中の打ち身や傷も治していないのに、移動に支障のない状態になるや否やジェムズは立ち上がってしまった。足を支えていた添え木とシーツの残骸で、器用に腕を吊ってしまう。
マリアラはまだ治されていないケガの存在にむずむずしながら、仕方なく立ち上がった。
「左腕、歩くだけでも痛いでしょう。治療をさせて」
「あまり時間はさけません。これ以上はあなたが先です。大丈夫。ミランダに治してもらいます」
「顔が腫れています。目立ちますよ」
「いいんです。【風の骨】は?」
「わかりません」マリアラは首を振る。「でも、安全な場所で待っていてくれって言われています。安全な場所への、行き方も聞いていますから。あのと――」
「言う必要はありません」ジェムズは急いで遮った。「ここから近いということだけわかれば充分です。ひとつだけ、王太子から伝言です。事態がどう転んでも、アナカルシスはエルカテルミナの後ろ盾になる用意がある、と。エスメラルダでの用が済んだら、ここに連絡してください」
ジェムズはマリアラに、一枚のカードを差し出した。
彼の目は真剣だった。マリアラをのぞき込んで、噛んで含めるように言った。
「王太子はエルカテルミナの今後がどちらに転んでも」また言った、と、頭のどこかでマリアラは考えた。「一枚噛んでおきたいんですよ。どうか遠慮しないで、ここに連絡を。よろしいですか?」
「……フェルドと相談の上で」
答えるとジェムズは真剣そのものの顔でうなずいた。
「それはもちろんです!」
それならば、と、マリアラは頷いた。お約束します、と。
ジェムズの言によれば、あのホテルを拠点にしていたのはイーレンタールとイクス、ジレッドとベルトランの四人だけだという。
ジレッドは出かけている。イクスが連絡したからもうすぐあのホテルに戻ってくるはずだ。ベルトランは左巻きの魔女に治療をされない限り動き出すことはできないだろう。だからとりあえず、今警戒するべきはイクスとジレッドの二人だけだ。
「安全な場所を指示されているとおっしゃいましたね」ジェムズが念を押す。「ここの近くですね?」
「ええ、すぐ近くです。見えて――」
「だから、言わなくて結構です」ジェムズは笑う。「それならば二手に分かれるのが最善でしょう。このまま一緒にいては双方にとって危険ですし、エスメラルダの中と連絡をとるための重要な拠点を、王太子一味に知られることは【風の骨】の本意ではないはず」
「一味って」
マリアラは何だかおかしくなった。本当にジェムズという人は、緊張をほぐす話し方に長けている。
「いや、本当なんです」ジェムズも軽く笑った。「アリエディアに拠点があるだろうということは、狩人も薄々知っていたようですね――マルゴットの情報ですが。しかし【風の骨】は今まで一度も、誰にも、シェロムというリファスの拠点の長にさえ、アリエディアの拠点の正確な場所を知らせなかった。ここの拠点は【風の骨】にとっては特別なものなんですよ。左巻きの魔女と契約していて、秘密の治療院が運営されているという噂まであるほどです」
「……そうなんです、か……」
「そこに無事に入れれば、確かに危険はないでしょう。ひとりで行けますか?」
「はい」
マリアラは頷いた。それを頼もうと思っていたからだ。
トールを一刻も早く、ミランダのところへ連れて行って欲しかった。
トールが口を挟もうとしたが、ジェムズはそれを許さなかった。彼は微笑んで、マリアラの首元を指した。
「それがあればすぐに合流もできるでしょうしね。作動させればの話ですよ?」
「あっ」
忘れていた。マリアラは首元をつかんで、息をついた。
どうして思い至らなかったのだろう? こんな事態のために、グールドはジェムズにこれを託してくれたのだろうに。
「思い至りませんでした。ありがとう」
「気をつけてください」
ジェムズが右手でトールの腕をつかみながら言う。マリアラは頷いて、トールの前で身をかがめた。
「トール。……助けてくれて、ありがとう。ひとつ、約束して欲しいの」
『マリアラさん、どうして二手に分かれるのですか?』トールはまっすぐにマリアラを見た。『僕は。あなたと離れたくありません』
「わたしも」マリアラはそう言って、両手でそっとトールの体を包んだ。「あなたと一緒にいたい。……でもごめん。わたしは、あなたを連れてはいけないの」
『どうして?』
「わたしは、ウルクディアに戻るわけにはいかないから。あなたは一刻も早く、ミランダに会わなくちゃいけないでしょう?」
『……でも……』
「さっき、あそこから出してくれてほんとにありがと。嬉しかった」
マリアラはトールをぎゅうっと抱きしめた。ああよかったとマリアラは思う。トールをあそこから出すことができて、本当に良かった。
それでイーレンタールが裁判に負けて全てを失ったとしても、絶対に後悔しない。そう決めた。
「ね、トール。約束して。ミランダに会って、ちゃんと聞いて。心配なことや不安なことは、一人で抱えないで、全部ミランダに話して。そして、一緒に考えるんだよ。手術を受けた方がいいのか、それとも、受ける必要がないのか。一人で考えちゃダメだよ。約束して、ね?」
トールはマリアラの腕の中で、とても小さな声で言った。
『ヴィレスタは、……僕を恨んでないでしょうか?』
「ヴィヴィのことを一番よく知ってるのはミランダだよ。ミランダに聞いた方がいい。……でも。わたしの勝手な意見だけど、トール、もしヴィヴィがあなたを恨んでいるとしたら、すごく苦しいと思う。自分を恨むのは苦しいもの。トール、あなたも苦しかったよね。その苦しみは、だから、きっと同じものなんだよ。それを自責の念って、言うんだと、思う」
『……』
「だから別々の体になったって、なくすことはできないんじゃないかな。でも大丈夫だよ。ミランダがきっと助けてくれる。イーレンタールさんよりミランダの方を信じていいし、好きだって、一緒にいたいって、思っていいんだよ」
トールは驚いたようだった。
『……いいんですか……?』
「もちろんいいに決まってるよ。わたしだって、イーレンタールさんより、ミランダと一緒にいたいよ。そんなの当たり前でしょう? 百人いたら、そうだな、八十人くらいはそうだと思うよ」
『作られた恩を忘れたい僕は、恩知らずではないですか』
「作ってくれなんて頼んでないのに?」
トールが目を丸くし、マリアラは微笑んだ。
「トールはそこにいるだけでいいんだよ。自分のために犠牲になれなんていう人を、大事に思えないのは当たり前のことだよ。ミランダのところに行って、楽しいことや嬉しいことをいっぱいやって。約束してね、トール!」
マリアラは立ち上がり、ジェムズに頭を下げた。この人は本当に凄い人なのだと、心底思っていた。ミランダがジェムズを協力者に選んだ、その慧眼に感謝する。
「トールをよろしくお願いします」
「はい。くれぐれもお気をつけて」
ジェムズが頷き、マリアラはもう一度頭を下げて踵を返した。
トールはきっと大丈夫だ。ジェムズがちゃんと、ミランダのところまで連れて行ってくれる。




