イーレンタール
マリアラ=ラクエル・マヌエルが、トールによってホテルに担ぎ込まれた。それを見届けて、ベルトランはたまりかねたように膝をついた。あの人が膝をつくことがあるとは知らなかったとイクスは思う。ベルトランが斃れる時は自滅だろうと思っていた。酒を飲み過ぎて真冬の路上で凍死するとか、ラリって喧嘩して三人くらい殴り殺してよろめいて倒れて頭を打って死ぬとか。
それがまさか魔物に捕食対象にされるなんて。
魔物が言った言葉がイクスの頭にわんわんと鳴り響いている。どうなる――? ベルトランを――儂が食えば――どうなる?
つまりあの魔物は、ベルトランを食おうとしているのか?
なんで? イクスは不思議でならなかった。普通狙われるのは、柔らかくて臭くなさそうな子供とか女性とかじゃないだろうか?
あの魔物は、イェルディアでふらっと姿が見えなくなるまでは、子猫そっくりに見えていた。イクスたちがアリエディアに移動してから少しして、どこからともなく再び現れた時には、かなり大きくなっていた。少し小ぶりな子鹿くらいだろうか。イクスにとってあの『魔物』は、それほど恐ろしい相手ではなかった。とてもおとなしいし、物静かだ。光を浴びても輝かない、吸い込まれるような漆黒の毛皮は、言われてみれば異様に思えたが。
だから不思議でならなかった。なぜここにきていきなり人間を襲うような真似をするのだろう。それもわざわざこんなデカくて硬くて不味そうな男を、なぜ狙うのだろう。
ともあれあの魔物は、イクスには、穏やかな声で語りかけた。
――ベルトランを儂が食えばどうなる。
ベルトランがいなくなったら。
ベルトランは鼻持ちならない相手だ。尊大だし我儘だし、イクスを下に見て使いっ走りをさせる。ジレッドはもはやうんざりしているようだった。問題を起こすのはいつもベルトランで、ジレッドは、いつもその尻拭いばかりさせられている。問題を起こすのはベルトランなのに、等しく減俸、同じく左遷。
「ストールン……」
ベルトランがあげた声はひどく弱々しく、イクスはそちらを見た。「何?」
「魔物が来たら……撃てよ……な……俺は……ホテルに……」
「……」
「〈毒〉にやられた……」ベルトランの声は未だかつて聞いたことのない、酷く弱々しいものだった。「俺を食うだと……冗談じゃねえ、くそっ。あの、魔物は、今……」
「近くにいるよ」
反射的にそう言ったのはなぜだろう。
実際には、魔物はもうどこにもいなかった。これも不思議でならなかった。なぜ魔物は、逃げたのだろう? 何か恐ろしいものでも見たかのように飛んで逃げた。今もまだ出てこない。今ならベルトランを殺して食べるのは簡単なのに。
――食べればいいのに。
今襲いに来れば。食えるのに。この災害のような男。周囲に悪意と暴力と迷惑しか振り撒かない。現代に生まれたのが間違いの。確かに、何かの餌になるくらいしか使い道のない男。
――もし保護局員でなかったら。あの人に重用されていなかったら、とっくに犯罪者として逮捕されて、人魚の贄にされていただろう男。
なんだ、と、イクスは思う。
それなら俺がここで見捨てたって、なんの問題もないじゃないか?
ずる……とベルトランの体が動く。ホテルに戻ろうとしている。自分だけ。イクスが自分のために援護をし退路を確保すると信じて疑っていない。なあどうしてそこまで自分が大事にされてると思い込めるわけ、とイクスは思う。こいつはいつもそうなのだ。当然のようにジレッドを巻き添えにし、交渉ごとや尻拭いや書類仕事はジレッドに丸投げし、当然のようにイクスに用を命じ、イクスの援護で自分だけ逃げようとする。あんたの背後を守って生き延びさせてやるほどの恩を、あんたに感じてるわけないだろうがよ。
ずる……ずる……這いずっていくベルトランをイクスは簡単に追い越した。
「あのホテル裏口あったよな」
聞こえよがしに呟きながら。
「おい……」
ベルトランがうめく。
「お前……援護……」
「あの娘に逃げられちゃ元も子もないだろ」
「おまえ……」
弱々しい声を背後にしてイクスは足早に歩いた。今この瞬間にもあの魔物が戻ってきて、ベルトランを食えばいいのにと思いながら。
*
『マリアラさん……』
トールが追い縋ってくる。無理やりマリアラの前に割り込んで、両手を広げた。通せんぼの姿勢。
『いか、ない、で』
ふらりとトールの頭が揺れ、マリアラは、トールの瞳が泣き出しそうに歪むのを見た。トールだ。マリアラは微笑む。
「トール、一緒においで。一緒に来てくれるなら嬉しい。でもわたしは、ここに残ることはできない。その境遇から抜け出したいなら、自分の足で、ここから出なくちゃ」
『でも僕は……あなたを……ミランダを、騙して……』
「さっき無線機で、誰かが言ってたね、そういえば」
マリアラは、よいしょ、と、トールの手を退けた。
トールの手には全く力が入っていなくて、まるで本当の子供みたいに、易々と道を開けた。トールの小さな手が、すがるようにマリアラの服を掴む。マリアラが進むと、一緒についてくる。
『僕、僕……どうすれば、いい、ん、ですか……?』
「わたしにもわからない。だから、ミランダに聞いてみない?」
『えっ』
「あなたのことを一番よく知ってるのは、ミランダだよね? あなたが一番恐れているのも、『悪いこと』をしてしまった自分が、ミランダに受け入れてもらえるかどうか、ということなんだよね? そんなのわたしにはわからないし、あなたがここで考えていたってわかるわけない。でも考えてみて。手術を受けたら、もしかしたらミランダは悲しむかもしれないよ。ヴィレスタと同じ設定の、同じ外見の、同じ記憶を持っていたって、それはヴィレスタではないんだもの。あなたがいないヴィレスタは、もう違う存在なんだもの。トールはどこへ行ったんだろう、本物のヴィレスタを返して欲しいって、泣いちゃうかもしれないよ?」
『……』
トールが口を開けた。明らかに、その点については考えてみたことがないようだった。ミランダが必要としているのはヴィレスタだけなのだと、思い込んでいたのだろう。
トールはミランダと一緒にいるうちに、自分も、ミランダと一緒にいたい、と思うようになった。それが自分で許せなかったのかもしれない。だから裏切るなんて言葉が出るのだろう。自分にその権利がないと思っているから。
「だから、聞いてみようよ。手術を受けるのは、ミランダの話を聞いてからでもいいんじゃない?」
「いや、いや。それは困るよ」イーレンタールが追い縋ってきた。「ちょっと待て、待ってくれ。それじゃあヴィヴィはどうなるんだよ? なあトール、自分のことだけ考えてちゃダメだ」
「どうしてダメなの? あなたも自分のことしか考えてないのに」
マリアラはトールの手をしっかり握って引っ張った。トールはマリアラに引っ張られるようについてくる。もしトールが本気で抵抗したなら、マリアラの力で引っ張れるわけがない。
「イーレンタールさんは保身のために、あなたとヴィヴィをバラバラにして、ミランダに返そうとしてる。そんなことをする権利なんかないはずなのに」
「俺が作ったんだ、あるに決まってるだろ!?」
「裁判まで起こされてるのに、まだわからないの?」
「トールもヴィヴィもそれを望んで、俺に、俺に」
「じゃあどうしてこっそりやるの? ミランダに申し込めばよかったのに。和解の条件として、トールとヴィレスタを二人に分けることができるけれどどうしますか、トールもヴィヴィもそれを望んでいるって、ミランダに言えばよかったのに」
「……!」
裏口に着いた。扉のノブに手をかけようとした瞬間、危険を知らせるあの漣のような不快さがピリピリっと肌に走った。マリアラは手を引っ込め、後ずさった。トールにぶつかる。トールはびくともしない。
『マリアラさん……?』
こっちはダメだ、そう感じた。裏口の覗き穴からそっと覗くと、ちょうど扉の前に誰かが立ったところだった。さっと視界が暗くなり、歪んだ視界の中にイクスの顔が映った。マリアラは咄嗟に鍵を閉めた。間一髪、ドアノブがガチャっと鳴って、イクスが喚く。
「おい! ……開けろ!!」
どん、と扉が鳴った。マリアラは身を翻して正面玄関に駆け戻った。
「トール、開けろよ!! 命令だぞ!!」
イクスの声が響いている。マリアラはトールの手をしっかり握って放さなかった。トールに必要なのは保護者なのだとマリアラは思った。マリアラも今切望しているもの――絶対的に正しくて、全てのことを整えてくれて、危険を排除してくれて、責任を取ってくれる存在。
そうでなければ恐ろしすぎる。一人でこんな事態に立ち向かわなければならないなんて。
正面玄関を開くとそこに、ベルトランが立っていた。
顔色が真っ白で、血の気が全くなかった。しかしその体はあまりに大きかった。身長はダニエルくらいはあるはずだ。腕なんて丸太みたいな太さだった。その大きな腕が伸ばされて、マリアラは歯を食いしばって扉を閉めようとした、が、扉の隙間からベルトランの体が割り込んできて――ずしん。地響きを立てて床に倒れた。
「!」
「くそ……」
倒れたまま毒付いている。しかし〈毒〉の効果はベルトランの四肢を縛り自由に動かせないようだ。というか魔物に引っ掻かれたのに、立って動きまわるなんて信じられない。扉を開いて隙間を開け、その隙間から出ようとしたとき、全身に悪寒が走りマリアラは振り返った。裏口が開いていた。びっくりするほど近くにイクスがいて――次の瞬間、全身が床に叩きつけられた。
「!」
悲鳴すら出なかった。イクスの力は情け容赦がなく、思いやりもためらいもなかった。マリアラの背の上に重たい膝をのせ、イクスは笑った。
「ああ……あはは、ああ、ああよかった! 間に合った! マジで――マジで逃げられてたまるかよ、ここまできて!!」
イクスの膝が一瞬軽くなり、次いで、――ずん。重い膝が叩きつけられてマリアラの肺から空気が押し出された。『やめてください!』トールが言い、イクスは笑う。
「逃亡しようとした凶悪犯を取り押さえてんだぜ、手加減なんかしてられるかよ」
『手荒なことはっ』
「うるせえよポンコツ」イクスの声はひどく凄惨だった。「二階に行って、次の命令を待て。呼ぶまで降りてくるんじゃねえぞ!!」
『……』
トールの返答は聞こえなかった。でも小さな気配が遠ざかっていくのを感じた。マリアラはあまりの苦しさに身動きをし、その瞬間、イクスの手がマリアラの頭を掴んだ。
「ああ……っ」
マリアラの喉から呻き声が漏れた。イクスはマリアラの髪を掴んで頭を無理やり持ち上げ、同時に床に打ちつけたのだ。がつんと目の前に火花が散って、目も眩むような激痛が走る。
「おい、……おい! そこまでしないでも」
イーレンタールがたまりかねたようにいい、イクスはまた笑った。
「あのね、今、ベルトランが動けなくて、取り押さえられんの俺だけなんですよ。相手はマヌエルですよ? いくら左巻きっつったって……」
もう一度頭を持ち上げられ、そのまま叩きつけられた。一瞬意識が遠のいた――気がつくと仰向けにされていて、イクスが覗き込んできていた。歪んだ顔。笑顔に見える。この人は一体どうしたのだろうとマリアラは思う。こんな人だったっけ。こんなに、酷い人、だったっけ。
「髪切ったんだ。変装ってやつ? そうだよなあ、指名手配されてんだもんな」
首元のあたりにイクスの手が伸びた。マリアラは必死で身を捩り、その不快な感触から逃れようとした。しかし振り回した手は空振りし、イクスは易々とマリアラの手首を掴んで床に押し当てた。首元の手が這い回り、外套の襟首を掴んでグッと引いた。ボタンが弾け飛んで、冷たい外気が入り込む。
「何する気だよ。やめろ!」
イーレンタールが声を上げ、イクスはせせら笑った。
「何言ってんすか? 今さら? 裏口開けてくれたのアンタでしょ? そりゃそーっすよね、アンタだってこいつに逃げられちゃ困るんだもんなあ」
「だ――だからって、酷いことする必要はないだろ!」
「いやあるよ? 写真撮ってさ、あいつに送ってやんないと」
「あいつ、」
「それが一番手っ取り早いでしょ。――まあ俺は、あのずる賢いあいつなら、とっくにこんな相棒見限ってるって思ってるけど。だってそうでしょ、指名手配の犯罪者ですよ? エスメラルダから追い出された魔女になんか何の価値もない。犯罪者でも逃亡者でもない、可愛い左巻きのラクエルと相棒になって、莫大な報酬得られるんだから。そりゃあいつなら絶対そっちを選ぶって」
「おまえは……」
「でもさあ」
マリアラの胸元に、イクスの骨ばった、大きな手が触れた。外套の中は薄手のシャツ一枚で、イクスの手がひどく熱い。
「あの人は、まだ警戒してるわけだろ。全部嘘で、演技で、まだこんな犯罪者を諦めてなくて、いつ逃げ出すかわからねえって、みんなで警戒してるわけだろ。だからさ、もう逃げ出しても何の意味もないんだって見せつけてやるのが一番――」
「いい加減にしろ」
イーレンタールが鋭い声を出した。イクスがイーレンタールを睨む。
「俺に指図すんな」
「そうはいかない。ストールン、俺の依頼が聞けないならクビだ」
「ああ!? んでアンタにんなこと言われなきゃなんねーんだよ!!」
「……この子は、俺の親友の愛娘なんだ。あの人だって必要以上に酷いことをするなと言ったはずだろ。これ以上は」
「だからあんたはヘタレなんだよ」
イクスは低い声で罵った。
「だってわかってんだろ? こいつが捕まってエスメラルダに連れて行かれる間に、無傷で済むわけないってさあ? その先だってさ、エスメラルダに連れ戻されたら、到底幸せになんかなれっこない。親友の愛娘とかっていうなら、……裏口を開けるべきじゃなかったんだ!」
その声はあまりに大きく、イーレンタールがたじろぐのが目の隅に見えた。
「アンタはいっつもそうだ、自分、自分、自分の保身ばっかりだ! アンタはあれだろ、自分の目の前でこいつが傷つけられたら親友とやらがアンタを二度と許さないだろうって! それが嫌なだけだろ! 自分のことしか考えてねーじゃねーか!!」
「……!」
「俺は何をしてもいいんだ」
そう言ってイクスは嗤った。
「俺はあの人に選ばれたんだ。あの人だって必要なことだってわかってくれる。責務なんて果たされちゃたまったもんじゃない。そのためにやることなんだから。責務にこだわる左巻きなんて――だから何したっていいんだ。お優しいアンタはそっち向いてろよ。その隅っこでさ、壁の方向いて、膝抱えて耳塞いでじっとしてろよ!」
熱い手がマリアラの手首を掴んだ。
今の会話の間に、少しだけ視界が晴れ、イクスの声がよく聞こえ始めた。軽蔑と嫌悪を装った言葉の裏に、紛れもない昏い欲望が潜んでいる。マリアラはあの警戒が体中に響き渡っているのに唐突に気づいた。びりびり震える感覚が、痛いほどだ。
「あの人も甘いんだよな。あいつを捕まえたときにさ、薬でも何でも使って、植物状態にしとけばよかったんだよ。命さえありゃ良かったわけだろ。そこまでしなかったから、動ける状態のまま飼ってたから、あんな事件で外に出さざるを得なくなって、今も警戒し続けなきゃならなくなってるんだ。そうだろ? だからこっちはそうすりゃいいんだよ。殺さないようにだけ気をつけて、正気なんかなくさせてやりゃいいんだ。一生正気になんか戻れないまで、壊してやればいいんだよ」
金属音が鳴った。
一体どこから現れたものか、気がつくと、イクスの手が金属の輪っかを持っていた。マリアラの右手を捻り上げて、手首に、その輪を当てがう。
――手錠だ。
保護局員が使うものだ。取り押さえた犯罪者に対して使う拘束具だ。嫌悪感と恐怖が湧き起こり、マリアラは跳ね起きた。
「!」
体は存外よく動き、不意をつかれたイクスがバランスを崩す。その隙にマリアラはイクスの下から抜け出し、なんとか立ち上がった。しかし、逃げ場はどこにもなかった。イクスは扉側にいて、万一彼の隙をついてその隣をすり抜けることができたとしても、扉の隙間にはベルトランが倒れている。あの巨躯を踏み越える間にイクスに捕まってしまうだろう。
イクスは笑っていた。手錠を弄びながら、殊更にゆっくりと立ち上がった。ニヤニヤ笑いをその頬にはりつかせている。この人は本当にイクスだろうかとマリアラは思う。
あの雪山の時とはまるで別人だ。
今のイクスは、憎悪の固まりみたいだ。
「大人しくしろよ、抵抗すればするだけ痛い目にあうってわかんないの?」
イクスはせせら笑い、これみよがしに手錠をちらつかせた。
「アリエノールにも送ってやんないとな……」
そのとき、出しぬけに――空から白い大きな布が降ってきた。




