廃ホテル
ロビーは暗い。
明け方だ。あたりはとても静かで、埃っぽかった。フランチェスカは二階の廊下に身を潜め、見るともなしに階下を見ていた。ここは良い。全体を見渡せるし、誰にも邪魔されない。
ベルトランはまだ帰ってこない。
真下には、イクス=ストールンがいる。フロントカウンターの正面に、一番壊れていないソファを引きずってきて、そこに陣取っていた。前屈みになってイライラと、踵を石造りの床に打ち付けている。
イクスは張り切っているのだ。なんとか手柄をあげて、ベルトランの後釜に座りたいのだ。なのにアリエディアの警察が、のらりくらりと協力を先延ばしにしているのが気に入らないのだ。イクスは性根がまっすぐとは言えないが、勤勉なことは間違いない。
フランチェスカがジレッドたちと離れた後――彼らは、イェルディア駅の爆破事件のあとすぐ、アリエディアに移動していたらしい。彼らは今イーレンタールの護衛? をするため、ここに滞在している。【壁】を通り抜けることさえできれば、アリエディアはエスメラルダとごく近い場所にある都市だ。有名人であるイーレンタールを秘密裏に国外に出すには最適の場所と言える。
当のイーレンタールはイクスから一番離れた場所にある奥まったソファーにいた。床に敷かれたシートの上に寝かされているのは幼女タイプの【魔法道具人形】である。それがなんなのか、なぜイーレンタールのような引きこもりの技術者がアリエディアくんだりまでやってきて、こんなところでアルフィラをいじっているのか。この辺りのことはフランチェスカの知ったことではない。
「……まだかよ」
イクスが毒づき、フランチェスカはイクスに視線を戻した。
イクスは腕時計を見ていた。時刻は五時半。明け方と言って良い時間である。
――この街にどうやら、マリアラがいるらしい。
フランチェスカはあの島で、マリアラと対峙し、屈服させられそうになり、あろうことかその足元に跪くことに歓喜さえ覚えそうになった自分を覚えている。屈辱的な経験だった。そして同時に懸念も覚えた。神の娘ひとりであれほどの威圧を感じるならば、片割れと会ってしまったらもはや手がつけられなくなってしまう。今のうちに、まだ対処できるうちにどうにかしなければ。
イクスは携帯型の端末を取り出してどこかに電話をかけている。電話の向こうで、呼び出し音が鳴り続いている。十数回は鳴った。が、誰も出ない。
「くそっ……! アリエディア警察、何やってんだよ」
イクスは吐き捨て、乱暴にボタンを押した。イライラと踵を打ちつける音が強くなる。
イクスたちエスメラルダの保護局員は、アリエディアに三人しかいない。アナカルディアでやったように、万一マリアラを取り逃した時に備えてアリエディア警察に検問の要請をしているのに、アリエディア警察は動きが鈍い。ジレッドの要請にものらりくらりとした返信しか寄越さなかった。イクスは軽んじられて、もはや通話に出さえしない。ベルトランの恫喝が最もまずかった。ただでさえ非協力的な態度だったのに、ベルトランによって完全に敵視されたきらいがある。
王太子から秘密裏に通達が出されたのではないかとジレッドは疑っているようだった。国際問題にならないよう慎重に、しかしジレッドたちの要請には従わぬようにと。ウルクディアで、マリアラは王太子に保護された。エルカテルミナの保護者になれるということは、やりようによっては現代においてもかなりのメリットがあるはずだ。
それは推測の域を出なかったのだが、アリエディア警察がこうも非協力的なところを見ると、あながち間違ってもいないらしい。イェルディアやアナカルディアにはあれほど貼られていたマリアラのチラシも、ここらではあまり見かけない。
フランチェスカはイクスの苛立ちを見ながら、ベルトランのことを考えた。
力を戻すのに、『美味な』人間が非常に効果があることがわかっている。
そしてベルトランは、とても……あの島の長ほどではないものの、かなりいい匂いがする。それを思い出して、あの島の人間を脅して船を出させ、アナカルシスに戻ってきたのだ。力がだいぶ戻ったおかげで、以前よりずっと容易かった。
しかし、レジナルドを完全に敵に回すのはまずい。だからフランチェスカはまだベルトランに手を出さず、様子を見ている。フランチェスカが戻ってきてまだ一日経っていないのに、この短い間でもわかるくらい、ベルトランはジレッドからもイクスからも疎まれている。
ベルトランは粗野で乱暴で、後先を考えず、ただ自分の欲望を満たすためだけに動く。ジレッドとベルトランの二人は、様々な場所で様々な問題を起こし、その度に始末書を書いてきたが、ジレッドは巻き添えになっているケースがほとんどだ。災害のような男だ。野獣の勘と自制心を持たないという点がレジナルドに重宝されて今日まで野放しにされてきたが、もしいなくなっても、レジナルドはそれほど困らないのではないか。ジレッドは見てみぬふりをしそうだし、イクスに至っては協力さえするかもしれない。
「トール!!」
イクスは尖った声で叫び、声に応じて二階の踊り場にいた小さな子供が動いた。
今までずっとそこにいたのに、ほとんど気配を感じなかった。人間ではないから呼吸をしていないし、血液を循環させる必要がないから心臓の鼓動もないので、トールは動かなければすぐにどこに行ったかわからなくなる。
『は――』
「返事くらいしろよ!!」
イクスは遠慮なくトールに苛立ちをぶつけ、トールは従順に、『すみません』と謝った。
『何か、ご用ですか』
「用があるから呼んでんだろ!!」
トールは急いで下へ降りて行った。イクスは腕組みをし、イライラしながらトールを待つ。
『どんなご用ですか』
降り立ったトールがそう訊ね、イクスはちっと舌打ちをした。
「遅いんだよグズ。朝飯買ってこい。俺のとあの人の二人分。熱いコーヒーも二つな」
言いつつイーレンタールを顎で指し、トールはおずおずと訊ねた。
『……あの人を見張っていなくていいんですか』
視線で示した先には、さっきまでずっとトールが陣取っていた、二階の扉があった。
あの部屋には昨夜から、誰かが閉じ込められているらしい。フランチェスカがベルトランを見つけ出した時にはもう捕物が終わっていたので、フランチェスカは見ていないのだが、アナカルシスの王太子の関係者らしかった。アリエディアの警察に王太子からの通達を伝えた人間ではないだろうか。
「別にへーきだろ。あんだけ殴られて、動けるわけねーもん」
言いながらイクスはジレッドが置いて行った財布を探り、紙幣を一枚取り出してトールに渡した。
「急げよ。人間は腹減るんだから。お前みたいな出来損ないと違ってさ」
『……わかりました』
トールは従順に答えて出て行こうとし、イクスがその後ろ姿に声をかける。
「その辺の上着羽織っていけよ。お前には不要なんだろうけど、そんなカッコで外歩いて『保護』でもされたら面倒だから」
『……』
トールは言われたとおり、入り口付近のソファに投げかけられていた上着を一枚羽織って出て行った。その小さな背に羽織るには、あまりにぶかぶかにすぎる上着だったが、ないよりはマシだと思ったのだろう。イクスは何も言わなかった。
*
ジレッドはデクターを追いかけて行ったらしい。
周囲は静まり返っていた。ホテルの騒動も遠のき、マリアラはともすれば足を速めそうになる自分をなだめながら、今は歩いていた。特別な訓練を受けているわけじゃないマリアラには、十二キロも走り続けるなんて無理だ。ペースを抑えないと、あっと言う間に限界がくることは、ウルクディアの時で経験済みだ。
十二キロと言えば、動道に乗ればすぐだけれど、自分の足で歩くのは結構かかる。マリアラは一歩一歩、足を踏み締めるようにして歩いた。大丈夫だと自分に言い聞かせた。デクターの貸してくれた外套と帽子がマリアラをすっぽり隠しているし、グールドのくれた発信機は身につけているし、フェルドのコインももっている。悪いことばかりじゃない。だってもしあのまま眠っていたら、と、考えた。もしマリアラが本に夢中にならずにあのまま眠っていたら、あの部屋にジレッドとベルトランが入り込んで来たはずなのだ。危ないところだった。
――レイルナートは、その憂き目に遭ったのだ。
両手で耳に蓋をして、頭を振った。とにかく歩こう、と思う。現実問題として、レイルナートを助けることは無理だった。いくら悔やんでも泣いても、時間を溯ることはできない。今マリアラにできることは、歩いて時計塔を目指すことだけ。自分のこともまともにできないくせに、誰かを助けようと思うなんて傲慢なことだ。
――それもまた詭弁めいて聞こえる。
でも、愚かな自分の言い立てる、『引き返してレイルナートを助けに行く』行動については、どう考えても建設的じゃないことがわかりきっていて、その言葉に従って駆け戻ることはできなかった。そんなことをしたらデクターの行為が全部無駄になる。でも、今引き返したらもしかして助けられるかもしれない――死にかけているレイルナートを前にしたら、治療の方法を思い出すかもしれない――見捨てられたレイルナートは、どんなに悲しい気持ちだろう? 思考は堂々巡りを続けるばかりだ。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。
夜明けごろまで歩いた。
うっすらと明け初める町の中に、にょきっと突き立つ時計塔がくっきりと見え始めている。周囲の冷たい空気の中に淡く柔らかな光が交じり始め、時計塔は却って黒々とした影に見える。その影を仰いで少し休んだ。眠気は全く感じないが、疲労は既に深刻だ。
ジェムズはどこへ泊まったのだろうと、ぼんやり考えた。かすかな不安がひたひたと忍びよってきている。マリアラたちのいたあのホテルのそばにジェムズが泊まっていたなら、今頃はあの騒ぎに気づいているのではないだろうか。心配しているだろうか……様子を見にくるなどして、ジレッドやベルトランと鉢合わせなんてことに、なっていなければいいのだが。
アリエディアの道路は、エスメラルダのものより幅が広い。馬車がすれ違える幅が必要だったのだろうから、当然なのだろう。マリアラは今、その幅の広い道路が交差するところに立っていた。正面にそびえた時計台が、マリアラの背後から射し初めた朝日の光を受けてキラキラときらめいた。宝石のような輝きだ、と思った瞬間、重々しい鐘の音が響き渡った。
ゴ――――――ン……
一度だけの、低く荘厳な音が街を震わせる。時刻は半端だったから、きっと朝日が昇ったことを知らせる音だったのだろう。響き渡る鐘の音の余韻が街のすみずみまで染み渡るや、そこここで、かすかな音がし始めた。扉を開けたり、何かのスイッチをいれたり、水道の蛇口をひねったり、歩き回ったり、家族を起こしたりする音や声がさざ波のように街の中に染みていく。
朝だ。
マリアラは身震いをした。
朝がきた。
立ち止まっていた足を叱咤して、マリアラはまた歩き始めた。時計台はいよいよ明るく、燃え立つように輝いている。とても美しく荘厳な眺めだ。その輝きに見とれることもできず、うつむいて身を縮めるように歩く自分が悲しい。
二十四時間営業の店が目の前に見える。ウルクディアにもあったチェーン店だ。とても明るい。店員がマリアラを見たとしたら、誰だか気づくだろうか。
俯いてその光の中を突っ切ろうとした時、自動ドアが開いて、そこから出てきた子供とぶつかりそうになった。
マリアラはギョッとした。トールだ。
トールの方も、マリアラと鉢合わせしたのは全く偶然だったらしく、目がまんまるに見開かれている。
ぶかぶかの大きな上着を着たトールは、あまりにも幼く頼りなく見えた。彼はたったひとりで、朝ごはんを買いに来たところのようだった。膨らんだビニール袋をぶら下げて、両手に、蓋のついた紙コップを一つずつ持っていた。蓋の隙間から湯気が立っていた。サイズの合っていない衣類と、こんな明け方に一人で買い物をさせられている様子は、トールの置かれている境遇を雄弁に語りかけてくる。エスメラルダだったら通報されているはずだ。
「と、……トール」
トールは何も言わなかった。少し不安そうにもじもじした。
――トールは私から逃げたのよ。
ミランダの悲しそうな声が、耳によみがえる。
トールの着ている上着は、絶対にミランダが用意したものではない。ミランダがこんなサイズの合っていない衣類をトールに用意するわけがない。ではこの上着は誰のものなのだろう。
トールと一緒にいるのは、一体誰なのだろう。
「トール……」
『……無事だったんですね』
トールはマリアラの言葉を遮るように言った。
『ジレッドとベルトランが、あなたを捕まえに行ったと聞いていたので……もう捕まってしまったのではないかと、思っていたんです』
その言い方で、トールはジレッドとベルトランと一緒にいたのだろうとマリアラは悟った。
ミランダはあの日、『明後日、トールと一緒にガルシアに行くはずだった』と言っていた。それが嫌で逃げ出したのだろうと。でも本当にそうだろうかとマリアラは思う。マリアラは、まだエスメラルダにいた頃に、トールと話をしている。
僕の倫理規範に反する行為ですとあの時トールは、言った。とても嫌な気持ちだと。僕の中には、あなたへの好意が眠っているようだと。
ヴィレスタとトールは、感情を共有しているのではないだろうか。それなら、ヴィレスタは絶対に、ミランダのことが大好きなはずだ。マリアラのことよりもずっと強く。
だとしたら、トールがミランダから逃げるのはおかしい。ヴィレスタの記憶をインストールされるのが嫌だったのではないかと、ミランダは言っていたけれど……。
ダスティンとの相棒生活は、決して幸せではなかった。ミランダは、『ダスティンから酷い扱いを受けていた』と言っていた。それはそうだろう、魔力の弱い左巻きをあれだけ無自覚に見下す人なのだから。またトールはずっと、校長によって、汚れ仕事をさせられていたのではないだろうか。王太子から、イェイラが亡くなったことを聞いた。トールが殺したのだと。
ヴィレスタだったなら、そんな仕事を喜んでするわけがない。ミランダと過ごした記憶がなくなっても、感情が残っているのなら、トールはずっと、記憶を消して欲しいと願いながら、辛い仕事に耐えてきたはずだ。だからマリアラはどうしても、トールが自分の意思で逃げたのだとは思えなかった。
――もう捕まってしまったのではないかと思った、とトールは言った。
――ジレッドたちの仲間なら、そんな言い方はしないはずだ。
「トール、……わたしと一緒に行かない?」
気がつくとそう言っていた。言ってから狼狽えた。またわたしは、一体何を言い出したのだろうと。
デクターに保護され養われている身でありながら、トールまで背負わせるなんて申し訳なさすぎる。
けれど言った瞬間にトールの顔に浮かんだ表情を見て、懸念も後ろめたさも吹っ飛んだ。トールの顔は確かに輝いた。切望していた言葉そのものを聞いて、その幸運が信じられないというように、トールは呻き声を上げた。
『……え……』




