第三章 追手
渋々部屋に戻る道すがら、見つけた時計を確認すると、なるほど時刻はもう真夜中を回っていた。確かに、まだ三分の二以上残っている分厚い本をまた読み出すには、差し障りのある時間と言えるだろう。
全く子供扱いされていると内心ブツブツ言いながら、デクターの言葉に全く反論できなかったので、こうして部屋に戻ってきた。通報や逮捕の恐れはなくても、誰がくるか分からない公共の場に一晩中いるのはやはり不用心だろう、と言われては、そういうものかもしれないと思うしかない。ここはエスメラルダじゃない、アナカルシスなのだ。郷に入っては郷に従えという諺もあることだ。明日の移動中にマリアラは眠れても、デクターはそうもいかないわけだから、デクターが心配でひとりにできないと思うのなら、意見を聞き入れるのが筋というものだろう。
全く、と、自分で思う。子供扱いされてもしょうがない聞き分けのなさだ。今は本を読むか読まないかで駄々をこねている場合じゃないのに。
部屋は一番南側の扉だ。廊下の南端に大きく切られた窓があり、銀月の光がさんさんと降り注いでいた。思わず目を奪われそうなまぶしさだった。月の光に照らされて、向かいのビルの窓ガラスが濡れたように光っている。
デクターが部屋の鍵を開ける。がちゃ、と鍵の外れる音がした瞬間に、ぴりっ、と肌に不快な感触が走った。
マリアラはぞっとした。ぴりぴりぴりぴり、全身を、覚えのある感触が這い回る。悪寒、ってこういうのだろうか。嫌な予感、というより、確信だ。この先に何か嫌な、恐ろしいものがあると既に分かっている――マリアラは思わずデクターの腕をつかんだ。扉を開いて中に入ろうとしていたデクターが、ギョッとしたように振り返る。
「どうした?」
「わからない。でも……なんか、嫌な感じがする」
正直に答え、マリアラは、二の腕をそっとこすった。手の甲に鳥肌が立っているのが、窓から差し込む月光だけでよく見えた。デクターもそれを見て顔をしかめ、既に開いている扉の中をそっと覗いた。
静まり返っている。
「ここにいて」
言い置いて、デクターは扉の中に手をさし入れ、明かりのスイッチをいれた。ぱっと明かりのついた部屋の中には、やはり誰もいなかった。先ほどと何の変化もない。デクターの寝台は使われた形跡さえなかった。荷物もいつも持ち歩く習慣なのだろう、細々した身の回りのものさえなく、知らなかったらこの部屋に誰かが泊まっていることさえ分からない。
彼は疲れているのに、と、思った。明日も早い。朝から馬車を御して移動しなければならない。何の根拠もないのにこれ以上時間を取らせるのは気が引ける。やっぱり何でもない、と言いかけたが、デクターの表情は厳しいままだった。
「今はもう体質がほぼルクルスと同じ。だから」とデクターは言った。「その感覚は信じた方がいい。ラルフが嫌な感じがすると言った部屋に俺は泊まれない。荷物は?」
「……ぜんぶ部屋に」
「コインはある。ラッキーだった」
確かに、と思う。でも。
「レイルナートは――」
「ガスなら」
聞き取れなかった。「が?」
「――なんでもないよ」デクターは一瞬顔をしかめた。「俺は護衛は本職じゃないけど、心得だけは知ってるよ。こっちに」
「レイルナートは?」
「悪いけど今は、気にしないで。頼むよ」
その時、さっと影が差した。
突き当たりの窓から差し込んでいた銀月が陰る。デクターはマリアラの腕をつかみ、今きた廊下を走りだした。突然の動きについていけずによろけたマリアラの背後で窓が蹴り開けられ、飛び込んで来たのは大柄な男だ。
「くそっ――」
悪態が背後に流れていく。デクターもマリアラも振り返らなかった。ごんごん、と男が壁を二度殴るのが聞こえた。部屋の中で待っていた誰かへの合図なのだろうと悟る。
レイルナートの眠っていた、寝室に、あの男の仲間が潜んでいたのだ。今更、そのことがふに落ちる。
――じゃあレイルナートは!
「あの子が目的じゃないはずだ」
角を曲がり、現れた階段の手前でそれだけ言い、デクターはマリアラの腕をつかんだまま階段を駆け降りる。今返事をするのは無理だ。デクターの言葉もそれで途切れた。マリアラは頷いた。そう、レイルナートが目的じゃないはずだ。でも、懸念がひとつ。
あの声に、聞き覚えがあったのだ。
――だがあの、ベルなんとか、って奴はだめだ。
だめだだめだ、と繰り返した浮浪者の沈鬱な声まで思い出した。ウルクディアでひとりで逃げた時、マリアラを匿ってくれた浮浪者は、本当に親切だった。あの時もあの舌打ちを聞いた。扉ひとつ隔てた場所に、さっきの男がいた。
だめだだめだ、とあの浮浪者に繰り返されるような男が、レイルナートの眠る部屋にいたのだ。
階段が尽きた。
「エスメラルダの」
走りながらマリアラは言った。
「保護局員、って」
「……さっきのが?」
デクターが急停止した。つんのめったマリアラを抱きとめて、デクターは一瞬だけ考えた。
そしてまた走りだす。そこは静まり返った薄暗いホールだった。カウンターの向こうで、お客様、と驚きの声を上げるホテルマンの前を、
「追っ手が入り込んだ。看板を下ろせ」
辛辣な苦言だけを投げ付けて駆け抜けた。狼狽の声を上げたホテルマンは、すぐにふたりを追いかける大柄な男の存在に気づいた。ホテルマンの行動は迅速だった。すぐに非常ベルが鳴り響く。制止の声と怒号を背に、ふたりは真っ暗な廊下に飛び出、右に折れて走る。突き当たりに非常口。デクターが解錠すると、正規の手続きを踏まないためか、さらにけたたましい非常ベルの音がかぶさる。
そして、町中に飛び出した。
がしゃん――がん、と、身の毛のよだつような破壊音が背後で響いた。
誰かが窓から、下に駐車していた馬車の屋根に飛び降りたらしい。それが誰かなんてわかりきっていた。レイルナートのいた部屋に潜んでいたジレッドに違いない。
マリアラはついて行くだけで必死だった。耳鳴りがしていて、心臓が胸の中で跳ね回っていた。ただこの時間が過ぎ去ることだけを祈っていた。いくつかの路地を駆け抜けた瞬間、デクターが足を止めた。視界がぶれ、世界が『ズレ』たのを感じる。
倒れ込んだマリアラの横に膝をつき、デクターが性急な口調で言った。
「エスメラルダの保護局員なら『ズレ』の存在を知ってる可能性がある。あんまりここにいるわけにもいかない。よく聞いてくれ。目的地は町の真ん中。ここから十二キロほど上がった所にある、時計塔なんだ」
「っ」
なんとか呼吸を整えながらも、驚いた。それじゃあ、昨日聞いていた説明とは全然違う。ガイドブックで読んだ、時計塔も結構な遺跡のはずだ。
「時計塔の下に物売りがいる。時間によって違う。花売りか、新聞か、マッチのうちどれかだ。屋台も出てる時間があるがそれは違う。必ずひとりの、徒歩の、物売りだよ。見つけたら、そばへ行って、『グロウリアをください』と言えばいい」
「グロ――ウリア――」
「そしたら案内してくれる。グロウリアさんの許しがなきゃ入れない。あそこまで逃げれば安全だ。レイルナートのことは心配するな。まがりなりにも人魚の祝福を受けた子だ。そう簡単には死なないだろう」
「……」
マリアラは体を起こした。デクターに向き直る。
デクターは普段どおりだった。焦っても困っても、恐れてもいない。
「大丈夫。たいしたことじゃない。これくらい予想の範囲内だ」
デクターはポケットから取り出した上着を羽織り、ウィナロフだったころに着ていた古ぼけた外套をマリアラに着せた。一緒に出てきた毛糸の帽子もかぶせた。帽子に手を当てたまま、真摯な口調で言い聞かせた。
「髪隠して。ホテルに保護させようと思ってたけど、エスメラルダの保護局員じゃ、時間与えて周囲固められたら終わりだからね。コインが使えることは分かってる。逃げるにも有効だろう。相手に奪われないよう気をつけて」
「う……うん」
「『ズレ』はそのからくりを知ってる人間には無力なんだよ、袋の鼠になる。時計塔の下、物売り、グロウリアだよ。覚えた?」
「う、ん」マリアラは思わずデクターの腕をつかんだ。「デクターは? そんな、これから、」
「俺一人ならなんとかなるよ。顔変えられるんだからすぐ逃げられる。グロウリアさんのところで、少なくとも三日待って」
「――」
「ほら、行って。大丈夫、すぐ追いつくよ」
彼は微笑む。強くて、優しい微笑みだった。
――わたしもいつか、こんな風に笑えるだろうか。
でも確かに、このままふたりで逃げるよりは、デクターひとりの方が却って安全、なのだろう。マリアラは泣き出しそうになりながら、頷いた。
『ズレ』から出ると、ホテルの方が賑やかだった。この周辺の人々も、騒動に気づいて起き出しているらしい。ファンファンファン、とサイレンの音が遠くから近づいてきている。足音も聞こえる。こっちに向かって走る、多分ジレッドの足音だ。同時に『ズレ』から駆け出したデクターがそちらに走って行く。マリアラも顔を上げ、上り坂を探し、走りだした。デクターを囮にして、レイルナートを見捨てて、自分だけ逃げる。それはなぜだろうと思う。弱いから? 非力だから? 何もできないから? それとも、責務のためだろうか?
フェルドに、会いたいからだろうか?




