紅ばらと白ばら
デクターが落ち着くのに、数分かかった。
彼はようやく落ち着くと、「あーもー……こんな夜中に……疲れさせんなよ……」と毒づきながら、少し離れた場所にあったひじかけ椅子をごとごとと持ってきた。マリアラの目の前に設置して、腰をかけ、ふう、と息をつく。
「あー笑い過ぎた……くっそ……」
「何でここにいるの」
マリアラは訊ねた。拗ねていると自覚しながら、唇が尖るのを止められない。つまり行動を見透かされていたということだ。あんなに苦労してコインなど使わなくても、デクターは初めから部屋にいなかったのだ。
デクターは背もたれに身を預けたままこちらを見、ニヤリと笑う。
「それはこっちの台詞ー」
「わ、わたしはね、レイルナートが疲れているから、明かり消さないと可哀想だし、でもこの本続きが気になって……」
「あーそれね」デクターは笑いの余韻を逃すよう息をついた。「気に入るだろうと思ったよ。紅ばらと白ばらが気になるだろ」
「う、うん」
「でも別に今夜中に読まなくても、まだ新刊書店にも売ってる比較的最近の本だから、明日出掛けに本屋寄って買ってきてあげるよ。今夜はもう寝れば?」
「……続きが気になって眠れないのっ」
「だったらコインなんか使って木っ端みじんのリスクを冒さなくても、普通に俺の部屋通って出てくりゃよかったのに」
「だって起こしちゃ悪いし……」
「おやつ時にトイレ行った時にコインを仕込んでおくほど、まだ読んでない本が、読み始めたら眠れないほど続きが気になるんだってわかっていたと」
分が悪い、とマリアラは思う。
確かにコインを使ってまでこっそり本を読みにくるなんて、やましいことがありますと白状しているようなものだ。デクターは意地悪げな笑みを浮かべて返事に窮するマリアラを見ていたが、やがて、ふっと表情をゆるめた。
「結構我があるんだな」
「が?」
意味が分からない。デクターはため息をついて、懐から、小さな本を取り出した。マリアラは息を詰めた。ドロテオ=ディスタの手記だった。
「いいことだよ。なんでも流されて素直に言うなりになってるってほど、弱くも怠惰でもないってことだ。確かに俺がこの本を読ませたくないからってあんたにそれを強要するのはおかしいし、あんたにはそれに従う義務はない」
「……読んでもいいの」
「いーや?」デクターは薄く笑う。「俺の目の黒いうちは許すつもりはないですね」
「主張がめちゃくちゃなんですけど!」
「あのね、これは本当に、ただのよまい言垂れ流してるだけの本なんだよ。この格調高いホテルにまでこんな駄作があるなんて盲点だった。責務の成就には全く意味のない本だ」
「それを決めるのはわたしです!」
「確かに」デクターは重々しく認めた。「でも俺は今もなお、この本に名誉を毀損され続けてるんだ。俺が誰だか知っていて、なおかつ身近にいる存在には、絶対に読んでほしくないね。例えば根も葉も無い誹謗中傷を、同行者に吹き込まれることを考えてみてほしい。絶対に阻止したいと思って当然じゃないか」
「……そんなにひどいことが書いてあるの……?」
「例えばって言っただろ。彼女は歴史家じゃなかった。根っからの吟遊詩人だったんだ。つまらない事実を膨らませて尾鰭をつけ、順序を変え換骨奪胎し、荒唐無稽かつドラマティックに奏でる手腕に長けてたんだ。手記も同様だ。他の本のように小説仕立てにしたものならまだしも、これは日記の体裁を取っているからタチが悪い」
「……」
「ここに書かれていることの、九割五分は捏造だ」
「……」
「それを念頭に置いてもらった上でも、やっぱり読まれるのは嫌なんだ。読んだ人間は捏造だなんて思わないものだろ。昔の本に書いてあるというだけで学術的な価値を見いだすものだ。誰かがこれを読んでいると思うだけでその誰かを撲殺して回りたい気分に駆られる。しかしあんたを撲殺するわけにはいかない。だから読まないでくれと懇願してる」
「それが懇願する態度なんでしょうか……」
「でもまあ確かに俺に非があることは確かだ。だから、質問があれば、答えてあげるよ。ご質問をどうぞ? 三つまで」
「みっつ」
「それが最大限の譲歩」
デクターは穏やかな物腰で微笑みを浮かべてこちらを見ている。でもその目はやはり据わっているのだった。いったい何が書かれているのか、余計に気になってくるのだが、これ以上の好奇心は下世話に当たるのかもしれない。マリアラは仕方なく、ため息をついた。
「……ドロテオは、無名のころから、資金に困らなかった。実家が裕福というわけでもなかったのに。あなたは支援者だったの?」
「いーえ」デクターは投げやりな口調で言った。「あの子にはびた一文たりとも出したことはないね。こっちがいつも奢られる方だったよ。頼んだわけじゃないけど」
「じゃあどうして資金に困らなかったの? 女性で、独身で、働かないで、実家にもいないで、文章だけ書いて、売れる前から生活していけるなんて」
「その本」とデクターはマリアラのひざの上の、白ばらの本を指さした。「解説読んだ? まだならちょっと読んでご覧」
はぐらかされているのだろうか?
マリアラは訝しんだ。それに歴史書ならともかく、物語の本で、解説を先に読むなんてあまりしたくない。万一にも筋をばらされたくないからだ。今回もそうだったらどうしよう、そう思いながら、マリアラは解説を探し当てて開いた。
数行読んで、目を見張った。
「わかったろ。それ、もともとはあの子が書いた伝記を、現代の作家が小説仕立てに直したものなんだ。……その小説の登場人物はみんな歴史上の人物だ。白ばらはシルヴィア=ラインスターク、紅ばらはアイオリーナ=ラインスターク」
「アイオリーナ?」
マリアラは思わず声をあげ、デクターはうなずく。
「そして主人公、貴族の因習にがんじがらめに縛られて、魔物に取り込まれ手引きをするどうしようもなく愚かな少女は、ヒリエッタ=ディスタと言う」
「……ディスタ……!」
「ドロテオ=ディスタの本名は、ドロテア=デスティア、と言うんだ。デスティア家はさっきあんたも言ったとおり、裕福とは言えない商家だったが、いや、よく踏ん張って家を存続させたと思うよ。ヒリエッタはアナカルシスでは有名な悪女なんだ。世界七大悪女とかの本には必ず取り上げられる。アイオリーナ=ラインスターク、それから他ならぬエスティエルティナ=ラ・マイ・ルファ・ルダと敵対し、彼女らを危機に陥れた張本人なんだよ。末路も派手だった。彼女を利用した魔物――」
「言っちゃダメ! まだ読んでない!」
マリアラは思わず声をあげ、デクターは笑った。
「おっと、これは失敬。まあとにかく……ディスタ家はヒリエッタのせいで没落した。お取りつぶし、というやつだね。エルギン王は慈悲深い王様だった、一族郎党縛り首なんてことはもちろんしなかったが、さすがに実家をそのままにしておくわけにはいかなかったんだ。領地は没収され、ディスタ家の人達は平民に落とされ、デスティアという名に替えて大変な苦労をした」
「……ああ……」
「だがヒリエッタの年の離れた妹に当たる姫君が、結構やり手だったんだ。極貧の子供時代を何とか乗り切った彼女は、悪女の汚名を逆手にとって商売を興し、それが意外に当たって、一族の危機を救ったってわけ。で――彼らが本当に凄いなと思うのは、ディスタ家の隠し財産の存在を知りながら、それに手をつけなかったってことだ。どんなに零落して苦汁をなめても、必死で耐え忍んで、貴族だったころの資産を守った。金貨とか宝石とか、そういうものだね。重要なアイデンティティだったんじゃないかなって思うけど。
彼らにとっても、ヒリエッタは謎だったんだ、と、あの子は言ってた。先祖は華やかな貴族だった、でもそれをヒリエッタという娘がめちゃくちゃにした。今の苦しみはヒリエッタのせいである。だがなぜ? 華やかな日々、何不自由ない生活を送っていながら、なぜ魔物なんかに心を奪われてしまったのか。ヒリエッタはそれを釈明しないままだったから、ディスティア家の人々は、ずっと、なぜ自分たちがこんな零落した日々を送るはめになったのか、知りたがってたんだ」
「……」
「ドロテアは書くことに取り付かれた子だった。というよりむしろ、ヒリエッタに取り付かれたんだろうね。当時の女性にしては知識も文才もあった――というよりむしろ、それしかなかった。日常的な生活を送る才能は皆無だった。あの子は自分の空想の中で生き、現実世界で得た材料を糧に妄想し、それをただ垂れ流すことしかできない人格破綻者だった」
「あんまりだ」
「いや本当。だいぶ穏やかな表現ってくらいだ」デクターは荒んだ笑みを見せる。「まあいいや。とにかく彼女はヒリエッタに取り付かれた。実家の人達も、やってみろと言った。彼らのアイデンティティである先祖の財産を消費して生活する代わり、必ずヒリエッタの伝記を書いて世に出す、それが実家との約束だった」
「……」
「その伝記は処女作でね、ドロテオ=ディスタの名ではなく、別人の名を使って書いた。ディスタの末裔だということが受け入れられるか心配だったんだろう。俺はその伝記だけは認めてるんだ。事実を探り、現実をつなぎあわせ、推理を加えて練り上げた、まさにちゃんとした伝記だと思う。魔物に心を売ったヒリエッタの心情も、全くふに落ちるものだったよ。――だけどその伝記が売れて、晴れてドロテオ=ディスタの名を使うようになってからはいただけないね。俺が話す『事実』が気に入らなくて全部作り替えて思うがままに書き散らし、俺が文句を言うと、しれっとして言ったもんだよ。『だってこっちの方が面白い』『だってこっちの方がかわいー』『だってこっちの方がロマンティック』じゃあ初めから人に聞くなっつーの……! 伝記の体裁取るなっつーの……! 小説書いてろっつーの……! それがまた売れるもんだから余計に図に乗りやがって……!」
今から四百年も前の人に、デクターは今も真剣に憤っているらしい。マリアラは何だか感心した。それはそうだろう、と想像はできた。ドロテアの作品は今も大量に残っていて、『歴史物』と認識され、彼女の創作が『史実』だと大勢の人間が了解している。デクター=カーンの名が今も知られ、冒険家としての名声を得ているのも、ドロテオ=ディスタの作品群の故だ。全部嘘っぱちなのにと反論したくても、世に出ている作品はあまりに多く、彼女は言いっ放しでもうデクターの文句も聞こえない場所にいる。
「三つ目」
マリアラは微笑んで訊ねた。
「白ばらは、本当に、綺麗な人だった?」
「……ああ」
デクターはかすかに悲しそうな顔をした。微笑んで、うなずいた。
「今までの人生の中で、あの人ほど綺麗な人を未だに見たことがないよ。天使かってほど綺麗で、中身はもっと美しかった。ほんとに……奇跡みたいな人だったよ」
その晩は結局、その続きを読むことができなかった。
デクターの表情の意味が分かるのは、だいぶ先のことになる。




