喫茶室
喫茶室は一階下の、かなりのスペースを割いて作られていた。
いや、喫茶室ばかりではない。雨に祟られた不運な観光客もきっと満足するだろう、というほど、館内設備が整っていた。廊下に貼られた案内図によれば、プールも、ジムも、子供向けのアスレチックもあるらしい。カジノもある。でもマリアラにとって一番魅力的なのは、やはり喫茶室兼図書室だった。麗らかな陽光の差し込む窓辺と、ひんやりしっとりとした図書館特有の雰囲気とが、その広い空間に同居していた。どちらにもたくさんのひじ掛け椅子があり、くつろぐにも事欠かない。
マリアラはうきうきと本を選んだ。ここにも、歴史の本がたくさんあった。つい癖で数冊を選び出し、いそいそと窓辺に向かう。首尾よく日当たりのいい場所にある肘かけ椅子を見つけた。
座ってみるとソファーは申し分なくふかふかだ。腰の後ろにクッションを挟む。適度に体が沈み込み、マリアラは満足のため息をついた。幸せだ。デクターは本当に、なんて行き届いた人なのだろう。
「お嬢様、香茶と珈琲と、どちらになさいますか」
どこからともなく現れた執事風の紳士が丁寧にたずね、マリアラは思わず背筋を伸ばした。
「あ、あ、ええと、ええと、あの、香茶を……」
「温かなものでよろしいでしょうか?」
「あ、ええ、はい」
びっくりした。執事が一礼して消えた隙に、マリアラは呼吸を整えた。注文はカウンターへいってするのだろうと思っていたからだ。執事はすぐに香り高いお茶を用意して再び現れ、白地に赤い花びらをあしらった優美なカップに香茶を注いでくれた。マリアラは、そこでまたびっくりした。執事の背後から、ヴァイオレットのようなかわいらしいメイドが現れて、銀盆の上にずらりと並べられた一口大のケーキを示して見せたのだ。
「お好きなものを」
鈴を振るような声で言われ、マリアラは首を振った。
「いえ、あの、あの」
「ご心配なく。お連れ様からお出しするようにと言付かっておりますから」
メイドは微笑み、マリアラは呆気に取られた。
「そ――そうなんですか?」
「ええ、どうか遠慮なさらず、お幾つでも。コケモモのジャムのものが新作でございます」
言いつつメイドさんはカップとお揃いのお皿の上に次々とケーキを載せてしまった。小さな一口大のケーキが所狭しと並べられ、皿の上はまるで鮮やかな花が開いたようだ。最後に小さなトングが、柄をこちらに向けてそっと置かれた。ページを繰る指が汚れないように、このトングでケーキをつまむのだろう。
ひととおりケーキの紹介を受け、マリアラはやっと我に返った。デクターは一体どういうつもりなのだろう。少し甘やかし過ぎではないだろうか。もしかして太らせたいのだろうか。子供扱いしているのだろうか。それだ、と思う。甘いものを与えて機嫌を取られるなんて、全く、子供扱いされているとしか思いようがない。
「……」
コケモモジャムのケーキを一口食べて、マリアラは震えた。
美味しい。
悔しい。
「……堪能しちゃう、ん、だから」
贅沢、というものが、こんなにも心の澱を洗うのかと、罪深さを感じながらマリアラは思う。甘やかされる、という感覚。気を使われ、ちやほやしてもらうことの、甘えていいのだと許されることの、あまりに優しい感触。それに寄りかかってはいけないと思うのに――。
自分の身を養っていないのだから、必要以上の負担をデクターにかけてはいけないのに。指名手配されていなければこんなホテルに泊まらずに済むのに、安全のために通常より高い宿代を払わせているのに、この上贅沢をさせてもらうなんて、居たたまれなくてたまらない。マリアラはため息をつく。
つくづくと、自分の貯金が恋しかった。
マヌエルとして働いた期間は一年足らずだったけれど、マヌエルは高給だし、出動のたびに危険手当が出たし、医局のシフトに入った時の夜勤手当は一際高かった。おまけに家賃はタダ、食費も【魔女ビル】で取る場合はタダで、そのうえ多忙で娯楽に興じるどころではなかったから、マリアラの貯金はかなりの額になっていたはずだ。旅先で生活しながら、時折美味しい香茶とお菓子、好きな本を買うくらいの贅沢をしたって、何年かは働かずとも過ごせるくらいはあっただろう。
甘やかしてもらうのではなく、自分のお金で自分を甘やかしているのならば、心の底から楽しめたはずなのに。
あの貯金さえ引き出せれば、心置きなく自分で払える。それどころか欲しい本のリストを作って、レイルナートに頼んで買ってきてもらうこともできたはず。そこで初めてマリアラは、自分のための買い物を最近一切していないことが、かなりのストレスになっていたことを自覚した。
だからだ。
そう思うともう、ため息をつくしかない。デクターはそれもわかっていたのだ。だから、今日、こんな風にちやほやしてもらえるよう、取り計らってくれたのに違いない。
――この世で一番、憎んでた人、かな。
そう言ったデクターの声を思い出し、マリアラはふと首を傾げた。
こんなになんでもお見通しで、単なる同行者でしかないマリアラにさえ、こんな心くばりをしてくれる人が、だ。
心の底から愛していたはずのビアンカの嘘を――嘘だと信じたい――見抜けなくて、彼女の本心を信じられず、憎んでしまって、いるなんて。
――素直じゃないし、人をからかうのが好きで、変な笑い方をするし、たまに嘘もつくが、底抜けのお人よしだ。
以前、デクターの友人が、彼をそんな風に評したことを思い出す。まさにそのとおりだ、と、マリアラも思う。変な笑い方はまだ知らないが、人をからかうのは好きみたいだ。底抜けのお人よしに至っては、まさにそのとおりだ。
――素直じゃなくて、嘘をつく。
これもまた、そのとおりなのだと思う。
それなら、あの言葉も、嘘かもしれない……。
マリアラはむずむずした。子供じみていると分かっている、でも、マリアラは既にデクターに好意をもっていた。ビアンカのことも、大好きだ。レイルナートの描いた、ふたりの立ち姿を思い出す。あんなふうに、ふたりがまた幸せになれるなら、一肌でも二肌でも脱ぎたい気持ちになってしまう。それは多分、リーザの喪失のせいもあるだろう。あの喪失で受けたショックを、デクターとビアンカが幸せになることで和らげたいという自分勝手な願望も多々含まれていると自覚しながら、それでも、その衝動を抑えることは難しい。余計なお世話、身勝手な願望、下世話な行動――それでも、どうしても。ビアンカをあの閉塞の空間から外に出すことができ、デクターには彼の寿命にいつまででも付き合えるアルフィラの肉体を持つ存在に会わせてあげることができるなら、行動して何が悪い、という気にもなってくる。
両親の不仲を目の当たりにした子どもって、もしかしてこんな気持ちなのだろうか。
ビアンカともう一度話をしたい、そう思いながら、マリアラは本のページを開いた。
あの時ビアンカはデクターが生きていることを知らず、マリアラは、『誰にも言わないで』というビアンカの懇願の中に、デクターも含まれるのかどうなのかを知らない。軽はずみに口にするわけにはいかないけれど、デクターの生存を知ったはずのビアンカが今後どうするのかくらいは、聞いておいてもいいはずだ。でも、ビアンカは二度とマリアラと話せないと言っていた……あたしと話せるのは今だけ……この穴の中でだけよ……
――今はどうしてるの、ビアンカ。
考えながらマリアラは、少しずつ、活字の海に沈み込んでいった。
一時間ほど経って、我に返った。窓の外はまだ明るい。おやつ時、というところだろう。マリアラは伸びをし、ケーキをもうひとつつまみ、読み終えた本を返すために立ち上がった。少し疲労はあったけれど、明日はまた馬車に乗って、アリエディアの『上町』の方へ行くはずだ。この機会にできるだけ、活字を吸収しておきたかった。
棚に本を返し、周囲をざっと見回した。どこを見ても興味をそそられるタイトルの本ばかり。デクター=カーンの伝説についての本もあるのだろうか、ふとそれに思い至って、改めて本棚を見回した。
マリアラは、あまりデクター=カーンの伝説には詳しくない。ラセミスタの言ではないけれど、荒唐無稽なお伽話だと思っていたからだ。娯楽のためならまだしも、歴史の勉強のために読む気にはならなかった。興味があったのは、どちらかと言えば作者の方だ。四百年ほど前の文豪、ドロテオ=ディスタ。彼は大変多作な人で、戯曲や小説の体裁を確立したと言われている。数多の学者が彼について調べ、研究したけれど、あまり裕福でない商家の出だということと、それなのにまだ無名のころから文章ばかり書いていて、実になる仕事をしていなかったのに、資金繰りに困った形跡がない、ということくらいしかわかっていない――少なくともエスメラルダでは。
無名のころから、ドロテオ=ディスタには後援者がいたはずだ。四百年前、まだ生きていくのが今よりずっと大変だったころ、働かず、文章も売れていないのに生活に困らないということは考えにくい。
――ドロテオ=ディスタは、デクターに会ったことがあるんだ……
もしかして、その後援者って、デクターだったりして。
あの金遣いの荒さを思い起こせば、そう考えずにはいられない。マリアラは、ごくりと唾を飲んだ。酒場に先回りして話を強要するストーカー、と語ったデクターの言葉。女性なのか、と聞いたマリアラに、デクターは自棄っぱちな笑顔を見せた。
――俺はしばらくわからなくて。
「もしかして……女の人、だった、とか……ね」
当時、女性の地位は低かった。作品の質を不当に引き下げられないように、男性のペンネームを使うことはあり得るような気がする。
恋人であっては欲しくない。これまた身勝手な願望だと自覚しながら、そう思ってしまう。
でも恋人がいたってちっともおかしくないのだ。だってデクターは、ビアンカが〈アスタ〉の中に残っていることを知らないのだ。そうでなくとも、別れて千年だ。数年で、いや早い時には数週間で、新しい恋人を見つけることが当然な現代、デクターが今までに誰かに心を移していたって、冷静に考えればちっともおかしくない。
でも、少なくともドロテオと恋仲になってはないはずだ。『ストーカー』と評した相手に、デクターがあまりいい感情をもっていないことは疑いない。
アルファベット順に整然と並べられた本の中に、その本があった。
ウルクディアの離宮で泣く泣く手放した、ドロテオ=ディスタの手記。アナカルシスではもしかして、広く流通している本なのだろうか。
覗きのようで後ろめたい。でも、知りたかったのだ。
ドロテオ=ディスタも、デクターを『嘘つき』だと思ったのかどうか。魔力を暴走させ、平静を取り戻した後で、自分の感情をそのまま吐露できるような素直な人かどうか。
文豪と呼ばれた人がデクターの人となりについて書いた箇所だけでも、読みたかったのだ。
意を決して、えいっと棚から引き抜く。風変わりな装丁の本だ。手帳のような装丁になっている、多分、ドロテオが使っていた手帳を模しているのではないだろうか。マリアラは手記を胸に大事に抱えて小走りに席に戻り――
ぎくりと立ちすくんだ。
ちょうどデクターがやってきたところだったのだ。
「楽しんでるとこ邪魔して悪いね」
デクターは若干眠そうな様子でそう言った。
「ただ、ちょっと会わせたい人がいて。思ったより早く連絡がついて、さっき着いたんだ。あの子が戻る前に話しておいた方が良さそうだったからさ。読む気?」
全く口調も顔色も変えずにそう聞いた、デクターの視線の前に、マリアラは立ちすくむ。あの意固地な、頑なな、拒絶の色がデクターの目にありありと浮かんでいた。それを読むのは自由だが、だが自分はそれを許す気はない、と、相反する主張をはっきりとその目に浮かべてデクターは射るようにマリアラの腕の中の手記を見ている。ばかばかばか、とマリアラは自分を罵倒していた。ばかばかばか、どうして、さっきのんびり本を読めた時間に思い至っていなかったんだ……!
「悪いんだけど、客を呼んでもいい? あんたに話したいことがあるって」
もちろん、と、マリアラはうなずいた。
「お客って、誰?」
「あんたも知ってる人。じゃあ呼ぶけど、その前に、それ棚に戻して来てあげるよ」デクターがどうでも良さそうな声音で(そしてそれとは裏腹な顔付きで)言った。「邪魔して本当に悪いんだけど、ちょっと込み入った話になりそうだからさ」
差し出された手を、思わず恨みがましく見てしまう。
「……読んじゃダメなの?」
「前も言ったけど」デクターは薄く笑う。「ダメなんて一言も言ってないよ……?」
怖い。底冷えのする気配に、マリアラは慌てて手記をデクターの手に渡した。デクターは手記を受け取って、さっさと棚に返しに行く。その後ろ姿を恨めしく見ながら、もうこうなったらいつか絶対に読んでやらねばならない、悔し紛れにそう心に誓った。罪悪感なんか持つものか、だって読んじゃダメって言われてないし、言われる筋合いだってない。
……でも今じゃない。怖すぎる。
マリアラはむうっと唇を尖らせてひじ掛け椅子に腰をかけ、ケーキをひとつつまんだ。ポットからカバーを外し、まだ温かな香茶をカップに注いで飲んでいると、デクターが誰かを伴って戻って来たのが見える。
「あっ」
マリアラは思わず腰を浮かせ、デクターが客を先に通すよう身を引く。その向こうから現れたのは、にこやかな笑みをごつごつした頬に染みとおらせた、ジェイムズ=ベインだった。
「ご無事で何よりです」ジェムズは穏やかに笑った。「よくお似合いですね。マルゴットは美容師としてもやって行けるって、初めて知りました」
マリアラは嬉しくなって立ち上がり、ジェムズに微笑みを返した。
「こんにちは、ジェムズさん。またお会いできて嬉しいです」




