第一章 アリエディア
アリエディアは風光明媚な町だった。
マリアラはデクターが買ってくれたガイドブックを読みながら、窓から見えるあれこれを、レイルナートに解説するのに忙しかった。
ここはエスメラルダから雪山の頂を挟んで反対側の、山の斜面に古くから存在している町だ。大昔、未だアナカルシスの版図がここまで広がっていなかったころ。ここには小さな国があり、アリエノールという貴族がいて、斜面から見える景色の見事さにほれ込んで通い詰め、その内住み着いてしまったというのが町の始まりだ。その末裔がリンだというので、学校で習った時には感動したものだ――当のリンはあまり感銘を受けた様子もなかったけれど。
レイルナートはすっかりマリアラに打ち解けていた。島を出る時の嫌な予感などなかったかのように、居心地のいい時間が続いている。あの時の毒舌も居丈高な命令も嘘みたいになりを潜め、穏やかで人好きのする笑顔を見せるようになっていた。あの時は気が立っていたのだろうと、解釈することにしている。
その町はとても綺麗だった。美しい石畳はアナカルディアと同じくらい古く、轍の跡がくっきりと刻まれているため、車は入れない。車で来た人たちはみんな車を縮め、町の外に店を構える貸し馬車屋で乗り換えるか、辻馬車に移って町に入る。
マルゴットが町の入り口まで車で送ってくれたので、移動はとてもスムーズだった。
マルゴットの家で夕ご飯をご馳走になったあの日の、次の日の夜にはアリエディア外の集落に着き、今日は朝から馬車を借りてアリエディアに入ることが出来た。
マルゴットは今日から仕事だそうで、昨日の夜そのまま帰って行った。大丈夫だろうかとマリアラは思う。ほとんど徹夜で仕事に行ったことになる。休みボケだと上司に叱られたりしていないだろうか。いや、あの王太子殿下ならあまり咎めないような気もするけれど。
「マルゴットさんって、いい人だったねえ……」
つぶやくとレイルナートは、微笑んだ。
「そうね。あんな大人になりたいものだわ。いかにもバリバリ働いていそうだったわね。その上あんなに親切だなんて、本当に素敵」
「レイルナートは、どんな仕事をしたいの?」
たずねるとレイルナートは少し考えた。
それから微笑む。
「あたしは、絵を描く以外のことを今までしたことがないの。だから結局、それしかできないような気がする。絵描きさんって、自分で食べていけるのかしら」
「エスメラルダでは、結構人気の職業だよ。レイルナートの腕なら、どこかの雑誌社とか新聞社と契約したら売れっ子になると思う」
マリアラは別段お世辞でもなく、心からそう言った。レイルナートの絵には写真じみた精確さと、手描きの味わいとが同居していた。実物より五割増しくらい綺麗に描くということもできるようだし、レイルナートに似顔絵を描いてもらえれば、家に飾りたい人は大勢いるはずだ。
「ある程度売れっ子になったら、独立して、自分の描きたい絵だけを描けるようになるんだよ。そうやって個展を開いたりする人も多いし。絵本のような装丁にして出版したら、子供だけじゃなくて大人もほしがる人多いし、画集もよく出版されてるよ。ほら、小さく縮めてコレクションみたいにケースに並べたりするの。画集なら小さく縮めても見栄えがするでしょう。
アナカルシスの事情はよく分からないけど――もしアナカルシスに住みたければ、マルゴットさんに相談してみたらいいかもしれないね。ミランダに頼めば通訳してもらえるだろうし」
「夢みたい」レイルナートはぽっと頬を染める。「今まで、あたしの絵を喜んでくれる人っていなかったわ。神託のためだけに何枚も何枚も描かされて、父さん以外の人間には見られもしないことが大半だった。自分の好きな絵を描いてるところを見つかったら叱られたもの。――泉に浮かんでるあなたの絵、完成させられなかったのが惜しいわ」
「ご、ごめん」
思わず謝り、レイルナートは微笑んだ。
「やだ、なんで謝るの? あたしの方こそ、あの時は悪かったわ。絵を描いてると、見境がなくなっちゃって、描きたくて描きたくて、なんだか、恨みがましい気分になって。八つ当たりしてごめんなさい」
「ううん」
そうか、あの時意地悪な物腰だったのは、絵を完成させられなかった悔しさのせいだったのか。
マリアラは納得した。レイルナートの変貌は嬉しい変化ではあったが、戸惑いもあったからだ。でも、よかった。本当は優しい子だったのだ。
マリアラも微笑み、うまくいくといい、と祈った。レイルナートの技術は相当なものだ。エスメラルダでもアナカルシスでも、言葉の問題がクリアされ、正直で親切な人に巡り会えさえすれば、彼女がその腕で自分を養っていくのは難しいことではないだろう。
ごろごろと、石畳に刻まれた筋の中を、馬車の轍が通って行く。
マリアラはまた窓から外を見た。アリエノール伯爵が気に入ったのは上からの景色だそうだけれど、下から見上げるアリエディアの町並みも素晴らしかった。エスメラルダに比べると気候もよく、十一月の下旬だというのにぽかぽかと日が当たって気持ちがいい(小春日和というのだとデクターが教えてくれた)。青空の中に悠然とそびえる雪山の頂が眼前一杯に広がり、そこをはい上がる人々の営みは、すべてが濃い茶色の煉瓦で統一されていた。緑の草に覆われた山肌に、優美な建物が絶妙に配置されている。まるで茶色の煉瓦で、雪山の山肌に大きな絵が描かれているようなのだ。じっと見ていると、そこここに何か意味のある模様が隠されているような気分になってくる。
「一番上の、ほら、あの大きなお城みたいな建物。あれが、この町を作ったアリエノール伯爵のお城だったんだって」
うっとりしながらマリアラは指をさした。崩れかけた廃墟のようなその建物は、今は重要保存文化財に指定されており、観光客の出入りは許されていない。ため息をつきたくなるが、仕方がない。人の往来で崩れかねないほど老朽化が進んでいるのだとガイドブックで説明されている。
「行きたいなぁ……でも、しょうがないかなぁ。媛の時代よりさらに古い建物なんて、崩れてないだけすごいよねえ」
そもそも、今は、のんきに遺跡観光なんて許される身でもないわけだし。
なんて能天気なと呆れられるかと、失言に首をすくめかけたが、レイルナートは何も言わなかった。息を詰めたような気がして振り返ると、彼女はマリアラの覗いている窓の、反対側の窓から外を見ていた。誰かを見つけたのだろうか、窓に顔を押し付けるようにしている。
「……どうしたの」
知り合いでも見つけたのだろうか? 声をかけるとレイルナートは、はっとしたようにこちらを振り返った。
「あ、ごめんなさい。なに?」
「え、や、ううん。……誰か、知り合い?」
「まさか」レイルナートは笑う。「ただ……絵がいっぱい飾ってあるガラス張りの家があったの。あれってお店かしら? 絵を売ってるお店? 行ってみたいなあ……」
マリアラもレイルナート側の窓からそちらを見たが、もう行き過ぎてしまったらしくわからなかった。
「絵を売るお店は、画廊とか、いうんだよ。わたしが一緒に行くわけにはいかないと思うんだ。この町にもチラシが貼ってあるから……でも、ホテルに落ち着いたら、デクターに一緒に行ってもらったら?」
「何言ってるの。〈いかづち〉があなたをひとりにするわけないじゃない。いいわ、あとでひとりで行ってみるわ。言葉だって覚えなきゃいけないんだし。がろう、ね」レイルナートは微笑んだ。「覚えたわ。絵を売るだけでお店として成り立つなんてすごい。そんな店が存続していける社会ってすごい。実力があって努力すれば絵かきとしてやっていける、そんな職業が成り立つ社会ってすごい。別世界だわ……」
レイルナートはこちらに身を寄せるようにし、マリアラ側の窓を覗いた。そこからしげしげと景色をみた。一番標高の高いところにある、アリエノール伯爵の城の遺跡を見つめ、感嘆の声を上げる。
「すごいわね。描きたいものがいっぱいよ」
「そっか」
「つれて来てくれてありがとう」レイルナートはマリアラの手にそっと触れた。「描きたいものを、描きたいだけ描ける――こんな境遇に、してくれてありがとう。幸せだわ」
「わたしは何も……でも、そう言ってもらえると嬉しい。よかったね、レイルナート」
「ええ」
レイルナートは恥ずかしそうに笑った。マリアラも微笑み、再び窓の外に目を向けた。うららかな陽光に照らされて、アリエディアは本当に綺麗だった。ふたりはそれからホテルに着くまでずっと、窓から見える景色に見とれた。この景色を一緒に見ておしゃべりできる存在が、ありがたい、とマリアラは思った。
*
アリエディアは縦に長い町だ。険しい山肌の隙間をなぞるように町を作る必要があったからなのだろう。
下町と呼ばれる、比較的山裾の方にある部分の終わりまできたところで、その日は移動をやめなければならなかった。町に入ってからずっと上り坂なので、休ませないと馬の疲労がひどくなる。乗客の人数や、何頭建てなのか、馬車の重量はどれくらいかなどで、貸し馬車屋が、移動していい距離と時間を厳格に定めているそうだ。
目的地は町の一番高い部分なのだという(アリエノール伯爵の居城のある地区だ)。人口も面積もそれほど大きな町ではないのに、馬車での移動には平均して三日かかるとデクターは説明した。ロープウェーと呼ばれる、空島行きのトロッコのような乗り物が設置されており、それを使用すれば一日で一番高いところまで行けるらしいが、当然それを使うわけにもいかない。
そこで三人は、昼過ぎという早い時間に、宿を取ることになった。デクターが選んだとても高級そうなホテルだ。
早い時間にも関わらず、従業員の人達は快く迎え入れてくれた。既にすっかり準備の整った二間続きの部屋につつがなく通された。こういった例に慣れていることは明らかだ。どんな絢爛豪華な部屋かと、マリアラは若干びくびくしていたが、内装は意外に落ち着いていた。一間はリビングのようになっていて、ダイニングテーブルと、くつろげるローテーブルにソファ、隅の目立たない場所に寝台がひとつ、という間取りだった。もうひと間は寝台がふたつあって、真ん中をカーテンで仕切れるようになっていて、エスメラルダでラセミスタと一緒に住んでいたあの部屋とよく似ている。マリアラは何だかほっとした。
「それで、〈いかづち〉というのはね」
部屋に入って案内の人が出て行くやいなや、レイルナートは説明を再開した。レイルナートたちがなぜデクターを〈いかづち〉と呼ぶのかと訊ねたところ、彼女の島に伝わる伝説を話してくれるというのだった。
「昔々、この世界ができる前。神々はこことは違う、永遠の地に住んでいたの。歪みの被害のない、世界の分断もない、果てのない大地。そこに、〈麗しの姫〉と呼ばれる、あるひとりの女性が住んでいた」
デクターも今は一緒にいて、椅子の背もたれを跨いで座り、背もたれの上に腕と顎をのせるといういつもの姿勢でその話を聞いていた。彼がこの伝説を知っているのか、それとも初耳なのかは、その表情からは読み取れなかった。
「〈麗しの姫〉は、レイエルだったんだと思うわ。治療の腕を持っていたのね。永遠の地にはマヌエルはいない。だから、〈麗しの姫〉の力は、永遠の地の神々にとっては本当に稀で、貴重で、奇跡だったの。
ある時、その永遠の地で、大きな戦役が起こったの。〈麗しの姫〉は、戦役で傷ついた兵士の治療をすることになって、その存在が広く知られるようになった。その力に神々は驚いて、彼女を捕らえることにした。彼女を捕らえて、その力を研究して、もっと増やそうとしたんですって」
「……」
マリアラは顔をしかめてその話を聞いた。
二度目の孵化の後の、フェルドの受けた扱いを思い出し、眉間に皺がよってしまう。
「彼女は、研究をする施設に捕らえられた。でも、そんな風に扱われることに耐えられなかった。逃げ出そうとして、捕まって、絶望して――そこで、一頭の狼に逢ったのよ。神の言葉を解し、神々同様に高度な知性を持った巨きな獣。天使もいた。背中に翼を持っていて、空を飛ぶことができた。雷を使う存在もいたの。鱗に覆われた長い長い蛇のような体を持ち、大きな顎と立派な牙」
「竜のこと?」
マリアラは思わず訊ねた。竜だなんて。天使以上に、その存在は伝説で――いや伝説の話を聞いていたんだった、と思い直す。レイルナートは笑って頷いた。
「そう、竜のことよ。その施設に捕らわれていたのは、そういう、神々とは少し違った体や力を持っていた存在ばかりだったの。それで、〈麗しの姫〉と狼は、その施設にいた存在すべてを解放して……新天地を探すことにしたのね、彼らが捕らえられたり研究されたりしない、のびのびと暮らせる新しい土地を。
そうして見つけたのがこの土地だった」
「へええ……」
「それでね、〈麗しの姫〉の恋人だった狼は、彼らの中で一番強かったのよ。竜よりずっと小さいのにね。研究施設に捕らえられたのだって、まだ生まれたての子供だったから。成長した後も捕らえられたままでいたのだって、ただ外の世界を知らなかっただけよ。それで、研究所を破壊して逃げ出したのだもの、当然追われるわよね。狼は、その追手を撃退し、みんなを守るために、戦うことが多かったの。その間、一行を、特に〈麗しの姫〉を守るのは、竜の役目だった。――それがあまりにもあなたたちと同じだから」レイルナートはくすっと笑った。「相棒が不在の間に〈麗しの姫〉を守る〈いかづち〉。それで神官がそう呼んだの、もちろん、敬意を示すためよ」
マリアラは何だかむずむずした。姫だなんて言われるのはどうにも決まりが悪い。
だから話を変える。
「あの……その施設には、巨人はいなかったの?」
レイルナートは軽く頷いた。
「巨人は先住民よ」
「ここに……初めから住んでいたの?」
「そう。体ばかりでなく心も大らかな人達で、一行を快く迎え入れてくれた。巨人の島に行ったのなら、その亡きがらの大きさも見たでしょう? 一番大きな竜でさえ、巨人の指先から手首までくらいしかなかったんじゃないかしら? そんなちっぽけな者たちが百人くらい来たからって、巨人にとってはどうでもいいことだったんじゃないかしら」
マリアラは少し違うことを考えていた。
それならば、〈麗しの姫〉の一行がこの場所に来た時、既に、この大地が存在していたことになる――
媛は日記の中で、『この世界は〈地球〉のコピーなのではないか』と不安を吐露していた。
それでは、〈地球のコピー〉を作った存在は誰なのだろう。
レイルナートは歌うように先を続けた。
「でもね、この土地には問題があったのよ」
「えっと……歪み?」
マリアラの問いに、レイルナートは首を振る。
「違うわ。〈毒〉よ」
「……ああ……」
「巨人は頑健な体を持ち、大地の力を持っていて、〈毒〉に蝕まれた場所でも作物を育てて生活することができていたの。でも、〈麗しの姫〉たちはそうはいかなかった。巨人達は新たな友人の苦境に同情し、箱庭を作ってくれた。〈毒〉を締め出し、健やかに生活できるこの場所をね」
「巨人が……」
「でも、また新たな問題があった。箱庭の中で、〈姫〉たちはまた苦しんだ。原因不明の病。たぶん、箱庭を形成する何かが、彼女たちの肉体に影響を及ぼしたらしいのね。〈姫〉には〈毒〉を中和することは出来たけれど、今回の病にはお手上げだった。――それで、一行は〈孵化〉という手段を得たのよ。自らの体内から負を追い出し、正の存在となって箱庭の中で暮らす。こうして、やっと、一行は平和にのびのびと暮らせるようになった。種を存続させ、互いに愛し合い、睦み合い、子供を育てて――この箱庭の中で、平和を享受することが、できるようになったの。でも」
レイルナートは唇をなめる。マリアラは立ち上がって、室内に常備されている給湯セットでお茶をいれ、レイルナートとデクターに配った。レイルナートは礼を言い、美味しそうにお茶を飲んだ。マリアラが椅子に戻って自分のお茶を一口飲んだころ、再びレイルナートの声が続きを紡いだ。
「でもそれは、かりそめのものなのよ、〈最初の娘〉」
「……」
「この世界の平和は、箱庭の外に追い出された負の犠牲の上に成り立っているの。辛うじてね。この箱庭が続けば続くだけ犠牲者は増える。〈麗しの姫〉はそれを憂えて、〈孵化〉を拒否し、箱庭に住むのをやめたそうよ。彼女と狼だけは負を追い出さないまま、【毒の世界】のどこかに眠っている、と聞いてる」
「……」
「巨人たちも〈姫〉も〈狼〉も、完全体なんだよ」
今までずっと黙っていたデクターが、ぽつりと言った。
マリアラはそちらを見た。デクターは、椅子の背もたれに顎を乗せ、お茶をちびちび啜りながら、独り言のように言った。
「だからあんたらが正解なんだ。責務の成就には、無限に使える魔力と、〈毒〉に負けない体が不可欠だ。あいつは無尽蔵の魔力に、〈毒〉を使える体質。あんたには癒しの力が必要だから、〈毒〉として孵化するわけにはいかない、だからその代わり、一番〈毒〉の影響を受けにくい体質――ルクルスが一番完全体に近い。あんたもそうだ。その上で、無尽蔵に使える魔力」
「わたし……使えな……」
後込みしながら言うと、デクターは微笑んだ。
なぜだろう、少し苦い微笑みだった。
「……意識してなきゃ、既に使えてるよ。崖の上で風と海を抑え、小さなものを大きくし……そもそもコインだって、魔力が必要だろ」
「あ」
そうだ。そうだった。
あのコインを使うには、かなりの魔力を必要とするのだ。今まですっかり忘れていた。
「〈麗しの姫〉は、能力も、体質も、一番似てるんだ。あんたにね」
言われた言葉を呆然と何度も反芻しているうちに、レイルナートは寝室の方へ引っ込み、マルゴットが選んでくれた動きやすい服装に着替えて出て来た。そわそわしている様子に我に返り、マリアラは、先程のことを思い出した。
「ああ、あの……レイルナートは、来る途中でみつけた画廊に行ってみたいんだよね。出掛けて、大丈夫だよね?」
たずねるとデクターは、どうでも良さそうにうなずいた。
「別に構わないだろ。日暮れまでには帰れよ。捜しに行くのもめんどうだから」
「ええ、約束するわ。……行って来ます」
レイルナートは嬉しそうに言う。たくさんの絵を見られるのが待ち切れないのだろうとマリアラは考えた。そして、ガイドブックを手にレイルナートの後を追った。
「ね、これ、持って行ったら? 読めなくても、地図があると便利だよ。あのね、画廊は絵を売るところだけど、ここの近くに美術館、ほらこれ。ここがホテルでしょう、すぐ近くだし、そっちの方はお金が無くても……」
「入館料がいるよ。銅貨五枚だったか」
ソファに引っ繰り返っていたデクターがそう言い、マリアラは思わずレイルナートと顔を見合わせた。そうか、と考えた。ここはエスメラルダじゃないのだ。エスメラルダでは、国立の美術館や博物館は、一般学生まではみんな無料だった。就労学生になってからは有料になると聞いたが、マヌエルとして孵化したマリアラはやはり無料だったから、思い至らなかった。
「いいのよ、やっぱり画廊へ行ってみるわ。ガラスの外から見るだけでも楽しいでしょうから……」
レイルナートが切なそうに微笑み、デクターが、うがあ、と言いつつ身を起こした。
「あーもーほらほら! 行ってくれば! お釣りで、美術館前の屋台の滑らかアイスカップいり、苺とバニラとチョコレート!」
放ったのは銀貨一枚だ。アナカルシスの相場は分からないが、国立の美術館の入館料とアイス三つには十分な額なのだろう。レイルナートは大喜びで出かけて行き、マリアラは微笑んだ。
「ありがと」
「……随分打ち解けたんだな」
元どおりソファに引っ繰り返ったデクターが、片目を開けてマリアラを見た。マリアラは、うん、と頷いた。自然と笑顔になる。
「話してみたら、いい子だったよ。おしゃべりできて楽しい」
「そりゃー何より」
ふわあ、とあくびをして、デクターは目を閉じた。マリアラは周囲を見回した。昼寝をしたいほど疲れているわけじゃないし、荷物の整理などもまだ必要ない。昼間からお風呂というわけにもいかないだろうし――
「一階下に喫茶室があるよ」
目を閉じたままデクターが言った。
「ここのホテルはセキュリティが売りなんだ。宿泊客の安全は絶対に保証すると謳われてる。通報もされないし、もし警官が指名手配犯の捜査だと礼状を出したとしても突っぱねる。もしくは、事前に客を逃がす」
「……そうなの?」
「そ。宿泊客同士も互いに関わらないのが約束事だ。もし指名手配犯を見つけても通報しちゃいけないよ」
冗談めかしてデクターは言い、目を開けて微笑んだ。
「ホテル内ならどこ行っても大丈夫だよ。喫茶室の支払いも宿代に入るから心配ない。そこは、喫茶室、兼、図書室なんだよ。どの本でも借りて、お茶飲みながらそこで読める。夕飯まで、のんびりくつろいでくれば? 俺は、悪い、ちょっと寝かせて」
「あ、あ、あ。うん、もちろん。どうもありがとう、行って来るね……!」
「行ってらっしゃーい」
デクターの声に見送られ、マリアラはうきうきして部屋を出た。この建物の中だけとは言え、人目を気にせずに動き回れるなんて。突然の解放感に体が浮き上がりそうだ。喫茶室で、本を読みながら美味しいお茶を飲める。そんな午後をまた過ごせるなんて、夢みたいだ。




