間話 雪の降る街(1)
また雪が降り出した。
事務所のあるビルの出入り口で、リンは足を止めた。まだ路面に積もるほどではないものの、結構本格的な降り方だ。
「おら、行くぞー」
フェリクスはあっさり言って、雪の中にずかずかと足を踏み出して行く。リンはコートのフードをかぶり、フェリクスの後に続いた。降りしきる雪の中、歩きながら会話をするのは結構難しい。リンには、それがありがたかった。
ルクルスとの会合は、グールドの事件以来頓挫したままだ。リンはあれ以来、ティティの店に行けてさえいない。どうしてなのか、自分でも分からないのだ。ティティに会いたいし、もしかしてラルフもいるかもしれないし、そしてあの味に再会できるというのに……なのにリンは、あれ以来なんやかんやと理由をつけて、あの店に行くのを先延ばしにしている。
今日わざわざフェリクスがリンを迎えに来たのは、あの件の進捗状況を聞くために違いないと、リンは先程まで身構えていた。
でも意外に、フェリクスは何も言わない。今も、何も言わずにただただ雪の中を歩いて行くだけだ。リンはほっとし、情けなくなった。フェリクスもガストンも、リンをせかしたりしない。でも、内心じりじりしているはずなのだ。ルクルスとの連携はガストンの悲願だ。敵――『あの男』が一体何者なのか、何を恐れてマリアラを捕らえようとしているのか、フェルドを閉じ込めてどこへも行けないようにしているのか。それらのすべてを知ることは、『あの男』と対決していく上で、不可欠のことなのだから。
降りしきる雪の中、動道を目指して歩くフェリクスの背中ごしに、あのお爺さんの姿が見えてきた。
いつものカフェの窓辺に、いつものように座っていた。リンが初めてそのお爺さんに気づいたのは、グールドの事件の後、リンが退院して事務所に復帰した頃だろうか。目を引いたのは、その人が車椅子に乗っているからだ。
そのカフェがお気に入りらしい。どんな天候の日でも、リンが出勤するころには必ずと言っていいほどいる。窓辺の小さなテーブルの、椅子をどけたスペースに車椅子ごと入って、のんびりと朝食を食べている。メニューはいつも同じだ。ゆで卵と、厚切りのトースト。ベーコン、トマト、レタスのサラダ。ビン入りのバターはどうやらあの人の専用で、店に保管してあるらしい。牛の鼻面が大きく印刷されたラベルはリンの憧れの高級品だ。
フェリクスと一緒に歩くリンを見て、お爺さんは驚いた顔をした。毎朝窓ガラス越しに通りすがるだけのリンを、覚えていたらしい。リンは会釈をし、お爺さんは微笑んで手を振った。茶目っ気のある人だ。
「知り合いか?」
フェリクスがたずね、リンは首を振る。
「いーえ、顔だけ知ってるんです。ここのカフェの窓際で、毎日朝ごはん食べてる人」
「顔の広い奴だなー。人懐っこいからな、おまえは。あーゆーお爺さんに可愛がられそうなタイプ」
リンはいぶかしんだ。フェリクスが素直にリンを褒めるとは思えない。
「あーゆーお爺さんはどんな子でも可愛がるタイプだと思いますけど」
「まーな。でもその可愛がりたい欲求を、受け取ってやる奴とやらない奴っているだろ。おまえは受け取ってやる奴だ。しかも自分から進んで突撃して受け取りに行くタイプ」
今度は反論できず、リンは黙った。言外に『図々しい奴』と言われたような気がするが、確かに、リンは知らないお爺さんやお婆さんから飴だの駄菓子だのをよく与えられる子供だった。少女寮にいた頃の寮母の苦労が今更忍ばれる。散歩の途中で駄菓子屋さんの近くで巡り合ったお爺さんのことは、いまだによく覚えている。お爺さんはリンに棒付きキャンディーを買ってくれようとし、リンは、少女寮のみんなが羨ましがるから、自分だけ買ってもらうわけにはいきません、と、丁重に辞退した。するとお爺さんは、二十人の寮生みんなの分を買ってくれたのだ。
その時周囲にいたみんなで、お爺さんと並んでベンチに座ってお喋りしながら、味わったキャンディーはとても美味しかった。それを発見した年かさの少女たちと寮母さんは、初め怒った。リンが年かさの少女たちの分を差し出すと、『姉』たちはみんな納得したのだが、寮母さんの怒りと狼狽はさらに強まった。お爺さんと駄菓子屋の店主が、リンがせがんだわけではないと証言してくれなかったら――今のリンには、ことの重大さがよく分かる。自分の容姿を利用して、知らない人に飴をせがみ、年上の怒りを回避するために寮生全員分を買わせる少女。今のうちにその性根をたたき直しておかないと寮母の責任問題になる――と、寮母が思い込む可能性は充分にある。少なくともリンには要注意のレッテルが貼られただろう。
「車椅子なんて珍しいな……」
フェリクスがうなずき、リンもうなずいた。
「あたし、実物見たの、あの人が初めてです」
「俺はもう何遍かあるけど、でもそんなに多くはねえよな。義肢作れねえ理由ってなんなんだろ」
と、フェリクスが言うくらいには、エスメラルダで車椅子を目撃することは稀だった。エスメラルダの、特に都市部では徒歩が基本だ。大昔、エスメラルダにはマーセラのご神体があり、国全体が聖地のように扱われていた。神の前で乗り物に乗るのは不敬とされ、都市部では馬や馬車からは降りて歩く伝統があった。それが今に受け継がれている、ということらしい。重い荷を運ぶ必要がないせいもあるだろう。
だからエスメラルダという国は、そもそも徒歩で移動するように作られている。動道も張り巡らされているし、雪が降れば排水のため路面は傾斜する。歩けない人は国からその人にあった義肢が支給される。リズエルがその調整をし、メンテナンス代もすべてタダだから、車椅子に乗る人は本当にごく一握りなのだ。
動道まで来た。ホームで雪を払い落とし、ゆるやかなレーンに乗ったフェリクスは、目的地が近いのか、中速レーンに移るとそこで止まった。リンが追いつくと、フェリクスは独り言のように言った。
「おまえひとり出遅れたからなぁ」
リンは顔を上げた。「え」
「警備隊で横のつながりを強固にするってのはかなり大事なんだよ。おまえひとり出遅れたからなあ、後から入ってくってのは勇気要るよな」
「どしたんすか先輩」リンは目を丸くした。「何か悪いものでも食べたんすか」
「何だその言い草……」
「あたしの心配してくれるなんて珍しいじゃないですか」
「俺を何だと思ってんだよ……。今日は合同訓練で、その後は食事会だな。例年は飲み会なんだが、今年は十八歳未満がふたりもいるからなぁ」
リンは首をかしげる。
「……ふたり、しか?」
「おまえともうひとりだけな。言っとくけど勧められても飲むんじゃねえぞ。就労学生なら十八歳以上は飲んでもいいが、十七歳は駄目だ。見つかったら」
「見つかったら?」
「保護局警備隊隊員が率先して法律違反してどうすんだよ。退役だ。決まってんだろ」
「ひぃ……」
リンは呻いた。せっかく入ったばかりだというのに、飲酒でクビだなんて真っ平ごめんだ。
それにしても、十七歳がリンともうひとりだけとは知らなかった。リンを見て、フェリクスはニヤリと笑う。
「もうひとりはな、オリヴィエ=リエロノール。名字も似てんな。最近まで外国にいたとかで、今年いきなり試験受けて合格って派手な経歴の持ち主で……いやあ、それにしてもあれはすごいわ」
「すごい?」
「見りゃわかるよ」
フェリクスは笑い、行くぞ、と言ってまたレーンを移動した。ホームに降り、慣性をやり過ごしながらリンを見る。リンはなんだかむずむずした。フェリクスは、万一リンがバランスを崩したら手助けしようとしたのだと、わかってしまったからだ。
どしたんすか先輩、と、今度は口に出さずに呟いた。
何か悪いものでも食べたんすか。
グールドの事件のせいで、やはり心配されているらしい。前みたいに『遅えっ』と罵倒された方がまだマシだ。
そこはビエタ地区だった。【魔女ビル】と空島のちょうど中間くらいに位置する、訓練施設や研修施設の多い街区だった。リンも研修ざんまいだった時よく来た場所だ。動道から五分くらい歩いたところに、七階建ての大きな体育館がある。今日の合同訓練の会場は、ここの五階だ。
と――。
「リン……!」
野太い男の声が叫んだ。
リンはびっくりした。全く聞き覚えのない声だった。
赤茶けた髪をした大柄な男が、体育館の入り口に立っていた。入り口の段に足をかけた体勢で、顔だけこちらに向けて、他ならぬリンを見つめている。と、男はこちらに体ごと向き直り、走りだした。
「知り合いか?」
フェリクスが訊ね、リンは首を振る。
「いえ……」
「久しぶりだなぁリン! リン=アリエノール!」
赤茶けた髪の男はあっと言う間にリンの前にたどり着くと、満面の笑みを浮かべてリンをのぞき込んだ。ずずい、と。背が高い。フェリクスよりも高いくらいだ。リンは思わず後ずさり、フェリクスが言う。
「ヴィンセント=ラングラー。お前らふたりとも同期だ」
この人は結構行き届いた人だったんだな、と、感謝しながらリンは思った。ヴィンセントはフェリクスに向き直り、ぴっと背筋を伸ばして敬礼する。
「フェリクス先輩! ご無沙汰しております!」
「おー。そんで」とフェリクスはリンを見、「リン=アリエノールだ。何、知り合いなのか?」
「はい!」とヴィンセントが笑顔で答え、
「いーえ」とリンは真顔で答えた。どうしよう、と思っていた。全く見覚えのない顔、聞き覚えのない声。完膚無きまでに知らない人だと思うのに、ヴィンセントのこの自信たっぷりな様子はどうだろう――
「……おまっ!?」
ヴィンセントは信じられない、と言った調子でリンを振り返る。
「お、覚えてるだろう? 俺だよ? ……まさか忘れた、なんてこと――」
「忘れたんじゃないわ。知らない人なの」
リンはフェリクスの背に隠れるようにしつつ、しげしげとヴィンセントの顔を眺めた。
赤茶けた髪、日焼けした――というより地黒なたちなのだろうか、エスメラルダの人間にしては肌の色が若干濃い。目がくりくりと大きくて、パッチリというよりどんぐり眼な印象だ。たぶんふたつかみっつ、年上だろう。どことなくアンバランスな男だった。大柄で目も大きいのに鼻と口が小ぶりなせいだろうか。詰め寄る様子は傍若無人な印象だが、身を引いた今は気弱げだ。しかし大柄な男が身を縮めて上目使いのどんぐり眼でこちらを見る様子は、なんだかえも言われぬ滑稽みがある。ひとことで表現するなら、『ひょうきんな』イメージだ。愛嬌がある、とでも言うのだろうか。
リンはつくづくとヴィンセントを見、そのイメージも名前も反すうした。
リンの沈黙の間、ヴィンセントはさらに縮こまっていく。
息を詰めて待つ彼に、リンは判決を下した。
「……ごめん。やっぱり知らない人だ」
「おまええええええええ」ヴィンセントはへたへたとそこにしゃがみこんだ。「嘘だろ……おい……昔の彼氏を忘れるって」
「彼氏?」
「ふーん。つきあってたのか」
フェリクスが言い、リンは首を振る。
「そんなはずない。全っ然知らない」
「ひでえよ!」
ヴィンセントはがばっと立ち上がり、リンは風圧で吹っ飛ばされるかと思った。いちいち行動が大きい人である。
「ひでえよ……相変わらずつれなすぎるよ! こっちはお前のことが忘れらんなくて、進路調べて必死で受験勉強して……」
「怖っ」
思わず後ずさるとフェリクスが吹き出し、「まあそう落ち込むな」ぽん、とヴィンセントの肩を叩いた。とたんにヴィンセントが飛び上がる。
「痛って!」
「あーなんかバチッてしたぞ」フェリクスは叩いた手を見つめた。「何だ今の。静電気か? 慰めようとした先輩に静電気かますってどういう了見だコラ」
「す、すみませんっ」
ヴィンセントは気の毒にまた敬礼した。根っからの体育会系体質なのかもしれない。フェリクスはこれ見よがしに手を振り、ついでにしっしっ、とふたりを追い払うしぐさをした。
「まーいーや。とにかくラングラー、お前は前二回の合同訓練も出てんだろ。こいつ頼むわ」
「えっ」
「は、はいっ」
ヴィンセントが立ち直り、リンはフェリクスがくるりと背を向けて立ち去って行くのを見てぞっとした。
「あのっ」
「もー社会人なんだからな。しっかりやれよ」
フェリクスは振り返らずにさっさと歩いて行く――まあ、言われてみればそのとおりだ。今日、ここまで連れてきてもらったこと自体がおかしかったのだ。
――どうして。
そう思った時、フェリクスが振り返った。
そして彼は、少し、顔を歪めるように笑って見せた。
「言い忘れてた。……俺ぁ来週から異動になる」
リンは硬直した。「えっ」
来週――って。
今日はもう、金曜日だ。
「ラク・ルダだとさ。後は頼むわ」
真摯な言い方に、胸を衝かれる。
後は頼む。後って。後、って。
ふと気づくと、フェリクスの背はもうだいぶ遠くまで行っていた。人込みに紛れてすぐに消える。リンは硬直から覚め、震える息をついた。あの人にももう、気軽に会うことはできないのだ。そう思ったあの時の淋しさが押し寄せてくる。
ギュンター警備隊長も、ルッカも、ベネットも、異動になった。ガストンの仲間だと判明した人はみんな異動になる。
――後は頼む。
フェリクスはどんなに悔しかっただろう。ガストンのそばにいなければ、役に立つこともできないのに。グールドの事件のせいで、『あの男』に目をつけられてしまった。




