間話 <彼女>の別れ(2)
ガルテはあたしを診て、診て、診て。
口を開けさせて脈を聞いて瞳孔を覗いてあちこち調べ、体中を指でつついて、ひざ頭を木槌で叩いて反応を見、何でもっと早く来なかったのか、と、絶望的な口調で言った。
それから、今すぐオーレリアを捜せ、と言った。
不治の病だ。エルヴェントラに頼んでオーレリアか、治療のできるマヌエルを捜してもらえ――隠してもしょうがないから言うが、おまえの寿命はあと半年もったらいいほうだ。
そんなことを、言った。
嘘でしょ。
気が付いたらあたしは道端に立っていた。
ガルテの診断が絶望的で――信じられなかった。
でも、ガルテはあたしの体調を、話してもないことまでことごとくピタリと言い当てた。信じられなかったけれど、でも、薄々わかっていた。ガルテは嘘を言ってない。ガルテの欠点はいろいろあるけど、こんな嘘をついてあたしをからかう人じゃない。誤診だということもなさそうだ。だって相手は、あのガルテなのだから。
まず立てなくなるとガルテは言った。
次に自分の体を支えていられなくなると。
それから、厠のあれこれが自分の意志でできなくなる。よだれが垂れ、呂律が回らなくなり、ついに幻覚が始まる。うわ言を言ったり幻を見たり、目の前の人が誰なのかも分からなくなって、恐ろしくて、疑ったり、罵声を浴びせたり、して。
何も分からなくなって、狂って、それで――終わり。
だから急げとガルテは言った。
オーレリアを捜し、急いで来てもらえ。間に合わなかった時のために、同時に後始末をしておけ。体を支えていられなくなったら、幻覚まで一直線だ。だからそれまでに、財産の整理とか、仕事の引き継ぎとか、親しい人への別れとか――あたしの病がどんなもので、どんな症状が進行するものなのか、下の処理を含めた世話をしてくれる人を捜して、罵詈雑言を浴びせてもそれが病気のせいであってビアンカのせいじゃないということをちゃんと説明して、理解してもらって、おいたほうがいい。もちろんガルテも口添えをしてくれるけれど、でも何がなんだか分からなくなる前に、みんなに別れを告げておいた方が――
――オーレリアは呼べない。
うららかな日の当たる往来で、あたしは悟った。
――オーレリアは、呼ぶべきじゃない。
あの事件以来、オーレリアは一度もここへ来ていない。それはいいことだったのだ。万一ここへ来たら、オーレリアはもう二度と出られないだろう。苛酷な冬を越すために、人々はオーレリアを捕まえるだろう。何の罪もないデクターをあそこまで悪し様に罵る奴らが、万能の治療の腕をもつオーレリアを放っておく、わけがない。
――それに、今から捜しても、きっと間に合わない……。
舞の時とはわけが違う。あの時はオーレリアがエスメラルダを出たばかりで、それほど遠くに行っていなかった。でも今回は、オーレリアがどこにいるのかさっぱりわからない。どこの大陸にいるのかすら誰も知らない。
あと、半年しかないのに。
じゃあ、どうする?
あたしはその現実の前に、ただ、立ち尽くした。
よだれを垂らすのだ、と思う。看病してくれる人の前で。
それどころか、幻覚を見て、目の前の人が分からなくなって、罵ることもある。おまえは誰だと。おまえなんか知らないと。罵って、それで――
気が狂って。
それで。
「ビアンカ」
その時、あたしは、あんなに聞きたくて聞きたくてたまらなかった声を聞いた。
道の真ん中で立ち尽くしていたあたしの、少し離れた場所に、デクターが立っていた。
――会いたかった。
あたしは呆然と彼を見た。信じられなかった。
三カ月振りの、大好きな大好きな人。
デクターは屈託ない笑顔を浮かべて、あたしを見ている。
「ちょっと早くついたんだ。驚かせようと思って」
彼はまだ旅装だった。街道の集落から、多分徹夜で来たんだろう。笑顔で、それで。あたしの方に、近づいてくる。
からかうような、悪戯っぽい笑顔で。
「どうした。そんなに驚いた?」
――会いたかった。
どうしてこんなに愛しいんだろう。体中が悲鳴を上げてるみたいだ。歓喜の声と、悲鳴と。好きだ好きだ大好きだ。会いたかった会いたかった。会いたかったよ会いたかったよ。
会えて嬉しいよ、デクター。
――なのに。
「……デクター。あのね。危ないよ」
頭だけがまだ呆然としたまま、あたしは言った。
「エスメラルダはもう、危ないよ。ごめん。頑張ったんだ、けど。あたしの力が及ばなくて。ごめん。今すぐ、ここを出た方がいいよ。あの人たちったら、冬が苛酷なのをあなたのせいにして――このままここにいたら、危ないよ……」
デクターは足を止める。あたしを見る。じっと。
「もう来ない方が、いいよ」
自分が何を言っているのか、うまく考えられなかった。
病気のことを話したら、デクターは、あたしの寿命のある間ずっと、あたしを看取るまで、ここに留まると言い出すだろう。それが、怖かった。あたしの命でデクターを縛るのが怖かった。半年もここにいたら、もう真冬だ。雪に閉ざされたエスメラルダに、デクターは春まで閉じ込められてしまうだろう、そしてその間、鬱憤のたまっているエスメラルダの人間に、デクターが何をされるか。
そんなの許せない。
あたしのせいでデクターが傷つけられたり殺されたりするなんて絶対だめだ。
でも。
「そろそろ限界だろうなあ、って、思ってたよ」
デクターは優しい声で言う。
その時、デクターが、ある種の決意を固めたのが分かった。どうしてだろう? 病気で殺されかけているあたしの感覚が、最後に足掻いているのだろうか? デクターの心が手に取るように分かった。今までも言いたかったのだということ。でも不死の――呪わしい――体である自分などのために、あたしに犠牲を強いるのは嫌だと、今まで言い出せずにいたのだということ。
ほんの数刻前に聞いていたら、きっと泣き出してしまうほど幸せだっただろう、その言葉を。
デクターが、言った。
「一緒に来てくれないか、ビアンカ」
――なのに。
あたしはもう、どうしていいかわからなかった。
どうして病気になどなったんだろう。あたしがいままで生きてきたのは、デクターからこの言葉を聞きたいがためだったのだとさえ思うのに。デクターが、あたしの仕事とか友達とかデリクとか、そういうもの全てをあたしから奪ってでも、それでも、別れるくらいなら一緒に来てほしいと言ってくれるのを、さっきまで本当に切望していたのに。
なのに――
「ごめんなさい……」
気が付くと、そう言っていた。
あたしはデクターの視線から逃れるように頭を下げて、声を振り絞って、言った。
「あたし、あなたと一緒には行けないわ」
デクターはしばらくの間黙っていた。あたしの言葉を、何度も、何度も、自分の中で繰り返しているようだった。
ややして、言った。
「……どうして?」
「あた――あたし――」
「〈アスタ〉を捨てさせるのは、申し訳ないと、思う。でも――だから、か。だから、あなたがここにいたいなら、俺も、」
――だからそれはダメなんだよ!
――あたしに縛られてちゃダメなんだ!
――あたしのせいであなたが死ぬなんて絶対ダメだ……!
ダメなことばかりが頭に浮かんで。
どうすればいいのかが浮かばない。
「……ダメよ。聞いて。あたし、他に好きな人ができたの」
「嘘だ」
デクターは簡単にあたしの嘘を切り捨てる。そうだろうと思う。あたしの感情は随分前からデクターの前にだだ漏れなのだ。体調が万全だったなら、もしかして、巧くいったかもしれない。でもこの体調で、あたしがデクターに太刀打ちできるわけがない。
「でもあたしは行けないの」我ながら、うわ言のようだった。「あたし――あたし、赤ちゃんが、」なにそれ「……できたの。ごめんなさい。クロウディアの血筋を残すのは、やっぱりあたしの義務かなって」何言ってるの「あなたにちゃんとお別れをしたら、アナカルディアに――」
アイオリーナもいるし。クロウディアの嫡子を、その血筋にふさわしい子に、育ててくれると思うのよ。だからもう来ないで。二度と会いに来ないで。今までありがとう、突然こんな裏切りをして、ごめんなさい……
何、言ってるの、あたし。
もう、何がなんだか分からない。
気が付くと、デクターはもういなかった。
あたしはひとりきりで、ぽつんと、往来の真ん中に立っていた。
自分がさっき何を言ったのか。我に返ると、少しずつ、自分の声が、耳に蘇ってくる。
あたし、あなたと一緒には行けないわ。
赤ちゃんができたの。
クロウディアの血筋を残すために。
今からアナカルディアに行って、そこに住むの。
――なんてことを。
あたしはそこに座り込んだ。体中から血の気が引いていく。なんてことを――あたし、あたし、なんてことを。
なんてことを彼に言ったんだ。
一番言っちゃいけないことを言った。一番取り返しのつかないことを。赤ちゃんなんて嘘だ。デクター以外の人に抱き締められたことすらないのに。あなたをもう好きじゃないと言った。あなたが留守の間に、誰かとそういうことになったのだと。
あなたなんかもういらないんだ、と、言ったのだ。
「あ……あ」
指が震えていた。なんてことをなんてことを、と、頭の中で罵倒するあたしがいる。なんてことを言ったの――あたしの大事なあの人に、なんて事を言ったのよ……!
「だって……」
ここから追い出したかったのだ。危険な場所に、あたしのせいで縛り付けるのが嫌だった。追い出すために、ああする、しか。
―― 一緒に来てくれないか。
行けるわけがない。一緒になんて。
――どうして?
あたしは――
あたしはその時、自分の罪深さに気が付いた。
あたしは、デクターに、病気になった自分の末路を、見せたくなかったのだ。
一緒に行ったら、デクターは半年もしない間に、あたしが弱って立てなくなって寝たきりになるところを見ただろう。すべての世話を彼に負わせ、よだれを垂らして彼を罵り、お前なんか知らないとわめく狂った女の全てを、背負うことになっただろう。
――あたしはただ、デクターの記憶の中に、元気で明るいビアンカとして、残りたかっただけなのだ。
見られたくなかった。これから千年も続いていく彼の人生の中に、できるだけ綺麗な思い出として、残って逝きたかった。しわしわのよぼよぼになっても良かった。頭と言葉さえはっきりしていたら、あたしは自分の全てを尽くして、ビアンカ=クロウディアという女の思い出を、綺麗にするために努力し続けただろう。
最期に狂った自分をデクターの中に残したくない、ただそれだけのために、あたしはあんなことを言ったのだ。
――あたしって、最低だ。
デリクが倒れていたあたしに気づいたのはその日のおやつ時。
それを最後に、あたしは、立てなくなった。
――罰を受けたのだ。受けて当然の罰を。




