間話 〈彼女〉の別れ(1)
ミーシャの誕生日が近づいてきている。
あとふた月と、少しだ。
仮魔女法に加えられた附則が、先日元老院の認可を得た。来年の一月一日――あとひと月とちょっと――から施行になる。レジナルドの思惑を抜いて考えると、仮魔女法の変更に異を唱える理由はどこにもない。人手不足のマヌエルへの救済措置として設定されたものだから、どこからどう見てもまっとうなものだ。
満十六歳以上のダ・マヌエル(仮魔女)は、孵化して半年を過ぎた時点で正式なマヌエル(魔女)として認められる。
ミーシャに先立ち、レイエルの右巻きがひとり、イリエルの右巻きと左巻きがひとりずつ、この附則によってマヌエルとしての身分を得ることになる。【魔女ビル】はおおむね歓迎ムードだ。とにかく人手がほしい。ひと組でも多くのマヌエルにシフトに入ってほしいというのが、みんなの希望なのだ。
中でも特に、ミーシャの誕生日を待ち望む声は大きかった。
フェルドとマリアラに加え、ダニエルとララのふたりも、現在はシフトに入っていない状況だ。ラクエルの人手不足は深刻だった。特に、健康で若い男性であるフェルドに、箒を与えず【魔女ビル】近辺の雪かき仕事だけをさせていることを惜しむ声が大きかった。
マリアラを返さないのはガルシアの、国家的な都合だ、というのが、【魔女ビル】の共通認識になりつつあった。『大変高度に政治的な問題』が絡み、『魔女不足にあえぐガルシアのたっての願い』であり、『エスメラルダに不足している数々の地下資源の融通を受けられる見返りがあるらしい』という噂があり、マリアラの帰還を無理強いするのは得策ではないという説明を受けている人々は、既に、フェルドを『独り身』として扱うのに抵抗がない――むしろ、フェルドをこのままにしておくのは気の毒だ、という風潮ができつつある。
ミーシャが誕生日を迎え、十六歳になれば、フェルドには新たなコインと箒と、そして相棒が、与えられることになるだろう。それは国家間の政治的問題の犠牲者であるフェルドの、将来を思っての措置だ。
みんなが、ダスティンすら、そう認めつつある現状を、〈彼女〉は悔しいような、諦めるような、悲しいような――そういう気持ちで、ただ見つめるしかない。
何より、他ならぬフェルドが、新しい相棒を拒否しない。むしろ歓迎している節があるという報告が〈アスタ〉に届くたびに、悔しくて悲しくて、情けなくて。
今度もまたダメだったのだと。
今回のふたりも、やっぱりレジナルドに敗れるのだと。
〈彼〉の努力が、〈彼女〉の目の前で、レジナルドに踏みにじられるのだと――
一月、三十一日。
ミーシャの誕生日まで、あと、ふた月と少し。
――もうすぐ、三十一歳の誕生日になる。
誕生日、という言葉に刺激されて、〈彼女〉の脳裏にあの記憶が浮かび上がってきた。
ああ、いやだ。いやだ。見たくない。いやだ。
そう思うのに、記憶は勝手に再生される。ああ、そうだ、誕生日だったのだ。誕生日まで、あと二日という、日のことだったのだ。
あの呪わしい、人生最悪の、そして――
――人生最後の、誕生日。
「ビアンカ」
声が聞こえ、あたしは身じろぎをする。ああ、起きなくちゃ――起きなくちゃ――起きなくちゃ。ああ、でも、まただ。
体が重い。
「おうい、ビアンカ」
揺り起こされ、あたしはようやく目を開ける。ああ、いやだ。まただ。
最近何だか、熱っぽいのだ。
朝ちゃんと着替えはしたけれど、あまりお腹がすかなくて。〈アスタ〉の仕事も休んで、家の居間の、ひじ掛け椅子に、座り込んだら動けなくて。外を見たらもう昼過ぎだ。
「どうしたあ? 風邪でも引いたか」
のぞき込んでいるのは、デリクだった。
七十を越えたデリクは、真っ白な髪を、丸坊主に近いほどに刈り込んでいた。禿げてきたからだとデリクは笑うが、こんなに格好いい禿げオヤジを、あたしは他に見たことがない。デリクは年を取れば取るほどかっこよくなる気がする。しわが増えるごとに。少し痩せるごとに。頬から赤みが抜けるごとに、かっこよくなっていく。年月に磨かれて、洗練されていく。
――あの人がこうなるところを、あたしが見ることはないんだな。
そんなことを思って、たじろいだ。寒気がして、ぶるっと震えた。
「熱があるじゃねえか」
デリクは、あたしが十歳だったころのように額に手を当て、しげしげと覗き込んだ。
「ガルテに診てもらえよ。もうすぐ誕生日じゃねえか。あの坊ちゃんが来るんだろう、ビアンカ? んん?」
「……デリク……」
大事なことを思い出し、あたしは言いかけた。そう、そうなのだ。
デクターが戻ってきたら、あたしは、彼と一緒にここを出て行く。
随分長いこと努力を続けてきたけれど、最近もう、限界を感じるようになっていた。エスメラルダの冬がますます苛酷になっていくのがよくないのだと思う。長い長い冬の間、人々は寄り集まって、地下神殿の跡を利用して震えながら冬をやり過ごす。エルヴェントラがみんなを指揮して作っている堅牢な冬籠もり用の施設は、大急ぎで建築されているけれど、国民全部が安全に避難するにはまだ少し足りなくて。
苛酷な生活は、人々の心を荒ませる。
そこに、何年も何年も何年も、まったく成長しない成長期の若者がいたら――?
あたしはもう、ここに未練はなかった。デクターを排斥しようとする人達に愛想がつきかけていた。どんなに頑張って摘んでも、排斥の芽は次々と生まれる。なのに、デクターはここに帰って来る。
――あたしが、いるからだ。
だから。
「デリク。あたし、……あの」
「わかってらあな」
デリクは遮り、あたしの頭を軽く胸に抱いて、ぽんぽん、と叩いてくれた。
「今度あいつが帰ってきたら、一緒に行くんだろう? そんでもう、帰ってこないつもりだ。な?」
「……うん。ごめんなさい」
「なんで謝るんだよ。だってお前、俺に会いたくねえわけじゃねえだろう? ニコルやらバーサやらにも会いてえだろう? 姫も帰って来るんだ。あの石頭がな、姫をな、エルヴェントラに指名するって発表した。国中大騒ぎだ。女性がエルヴェントラになるなんて前代未聞だ、ってさ。だが、確かにグウェリンもそれなら納得するだろうよ」
あたしは顔を上げた。
「……決まったの?」
話自体はだいぶ前からあった。舞は嫌がっていた。面倒だと言っていた。
でもそれは、みんなの願いでもあった。アルガスはいったん決めたら絶対情に流されない人だ。エスティエルティナが舞から離れない限り、エスメラルダでまた舞を傷つけようとする人が出るかもしれない、そう思っているから、ここに帰ってこない。みんなが、エルヴェントラが、どんなに頼んでもだめなのだ。アルガスにとって舞とレティアを守るのが一番大事なことで、ちょっとやそっとの頼み方では絶対に折れてくれないと、みんなとっくに分かっている。
デリクの声も、だからとても明るかった。
「ああ、正式な発表だ。さっきな。俺がここにきたのは、おまえにそれを早く教えてやりてえと思ったからさ。……だからなあ、ビアンカ。あんまり遠くに行っちまうなよ。この中に戻らねえでも、外の集落まできて連絡すりゃあこっちから行くさ。地下街でもいい。だからさ、そんな顔しねえで、笑って行くんだ。お前の笑顔をな、次に会うまで覚えとくんだからな」
「……うん」
ああ、泣いてしまう。
あたしは立ち上がり、よろけた。デリクが支えてくれて、その広い胸に顔をうずめた。優しい、あったかい、大好きな、あたしのデリク。デリクには花嫁姿を見せて上げればよかったなぁ。そう思いながら鼻をすする。
「ほらほら、やっぱ熱あんじゃねえか。ガルテに診てもらえ。な?」
デリクはそう言って、あたしをくるりと後ろ向きにさせ、扉の方に押し出した。
「風邪引いてちゃあ、坊主が心配すんだろうよ。出掛けねえなんて言い出したら大変だ。な」
デリクが自分の涙目をなんとかごまかそうとしているとわかっていたので、あたしは頷いて、振り返らずに手を振って、居間を出た。扉を閉めて、ため息をひとつ。
デクターは、エスメラルダの人達の排斥を、陰口や非難、数々の軽い嫌がらせ、差別の兆候を、全く気にしていない。――少なくともあたしにはそう見える。
留まり続けるのはあまりに危険だ。今回も三カ月、留守にしていた。でも、全く屈託なくあっさりと帰って来る。帰ってきたらのんびりと、あたしが望むだけ滞在してくれる。最近、だから、不安になるのだ。
デクターは、エスメラルダの人達に傷つけられ、場合によっては命を落とすことになっても、それはそれで構わないと思ってるんじゃないか――って。
彼がここに来るのはあたしのためだ。ここにはあたしの仕事があり、あたしがここを離れたがらないとわかっているから、あたしのためにここに会いにきてくれる。危険かもしれないとわかっているのに。あたしと一緒にいられるならここで死んでも構わないって、思ってるんじゃないかって。うぬぼれみたいだけど、でも。そう思えてしまうほど、デクターは優しくて。危険を告げても、淡々としていて。
あたしが風邪を引いてたら、デクターは出掛けるのを渋るだろう。あたしはこれから彼を説得して、一緒に行くことに同意させなきゃいけない。デクターはあたしにとって〈アスタ〉がどんなに大切なものか知っているから、自分のせいであたしに〈アスタ〉を捨てさせるのを嫌がる。
でもあたしにとっての一番は、〈アスタ〉ではなくデクターなのだ。
デクターはもう、エスメラルダに来るべきじゃない。冬の苛酷さをデクターのせいにしたがっている愚か者たちのところになんか。あの人が、あんな奴らに傷つけられたりすることを、あたしは絶対に許さない。だから、あたしは、デクターと一緒に行くのだ。それで、死ぬまで、一緒にいよう。しわしわのよぼよぼになるまでに、一緒の思い出をいっぱい作って。あなたのことが好きで好きでたまらない人間がいたのだという思い出を、デクターの中に残して逝こう。
だから風邪なんか、引いてる場合じゃないんだ。
よっこらしょ、と体を立て直し、あたしは家を出た。七月のまぶしい日差しに頭を殴られたような気がし、よろめいて、家の壁にぶつかって何とか体を支えた。おかしいな。熱はそんなにないのに、少し重症かもしれない。
頭と体の操縦がうまくできない。そんな感じ、だった。




