間話 王太子秘書マルゴットの観察2
*
ミランダ=レイエル・マヌエルがマルゴットの家に到着したとき、マルゴットは、マリアラ=ラクエル・マヌエルにケープをかぶせてあれこれ塗りたくり、くるくる巻いている最中だった。
だからミランダはマリアラに飛びつくことができず、ふたりの再会はあまり感動的にはならなかった。マリアラは大きなケープをかぶったてるてる坊主のような格好で、髪を黒く染めるためのジェルを頭にたっぷりとつけられ、同時にマルゴットが次々と彼女の髪をつまみ上げてはカーラーを巻いているので、ミランダの興味を引いたらしい。半泣きで飛び込んできたミランダは、マリアラを見て動きを止め、次いで、しげしげとのぞき込んだ。
「……何、してるの……?」
ふたりの再会第一声目はそれだった。マリアラは情けない声で答えた。
「髪が焦げちゃったから。マルゴットさんが、似合うようにしてくれるって」
「……何で焦げたの? ほっぺたも火傷してるよ」
「火刑、だって」マリアラは言って、苦笑した。「誤解されて、閉じ込められて、そのまま家ごと焼かれちゃったの。やー、参った参った」
「参った参った、って」
「これも」言ってマリアラは、手のひらをミランダの前に差し出した。「ごめん、ミランダ、治してくれる……? わたし、今、魔力がうまく使えなくて」
「何それ」
手のひらにあった火傷は、結構深いようだった。水ぶくれが何度も破れたように見える。マルゴットは思わず顔をしかめたが、その傷はすぐに治った。ミランダが一瞥し、左手を翳しただけで、その傷が消え失せたのだ。噂以上に、ミランダの技術はすさまじかった。
傷が失せるや否や、ミランダはマリアラの前に座り込んだ。
それから、苦笑した。みるみるその目尻に涙が盛り上がり、ひっく、としゃくり上げ、ミランダは笑う。
「……もー、マリアラったら……」
「ごめんね、ミランダ。ありがとう」
「ホントだよ、もう」
ぐいっと腕で涙を拭ったミランダは、〈天使〉などではなく、幼い子供のようだった。
「心配したんだからね……保護局員に騙されて別の場所に行っちゃうしさ……その上なに、火刑ってなによ! 何焦げてんのよ! 火傷までして! あたしを呼んで、くれない、しさ! ヴァイオレットと一緒に屋台のご飯食べたんでしょ! あたしも呼んでよもー!」
「ごめんね、ミランダ」
「まったくだー! 覚えてろー!」
「ここで食べればいいじゃありませんか」
カーラーをすべて巻き終えて、マルゴットは微笑んで手袋を外した。
「今ね、【風の骨】が屋台の食べ物を買い出しに行ってるんですよ。ああ、そうだ、すみませんけど、染料を髪に浸透させることってマヌエルの方にはできるんですか? できるようなら、少し時間が短縮できるんじゃないかしら。このパッケージには二時間って書いてありますけど……」
「ああ、髪への浸透を助ければいいんですね。やってみます」
ミランダは涙を拭いて立ち上がり、マリアラの後ろに回った。その間にマルゴットはその辺を片付け、食事の用意をすることにした。今日買ったのは酒のつまみだけだが、チーズや果物なら女の子たちも食べるだろう。
「マリアラはね、髪の短いのも似合うだろうなって思ってたよ」
マリアラの背後で彼女の髪に両手をかざしながら、ミランダが優しい口調で言った。
「そうかな?」
「そうだよー。アナカルシスに来てからね、私も髪切ったんだよ。似合うでしょ?」
「うん。すごーく似合う」
「でしょー。アナカルシスってさ、短い髪の人が多いよね。私、今まで、自分には長い髪しか似合わないんだって思い込んでたなあ、って、気が付いて、えいっとばっさりやっちゃったの。軽いし動きやすいし手入れも楽だし似合うし、いいことずくめだった。マリアラも絶対似合うよ。イメチェンだよ。それに、ああ、これってパーマなんだよね。私ね、パーマって、かけても二、三日で取れちゃうの。でもマリアラの髪なら柔らかいし、きっと、ラスみたいにふわふわになると思うよ。うらやましい」
「ラス、元気かな」
マリアラがつぶやき、ミランダは頷いた。
「うん、元気だった。でも、すっごく忙しいみたいだよ」
「手紙、来たの?」
「んーん、電話で話したのー」
ミランダが笑い、マリアラが背筋を伸ばした。「電話で! いいなあ!」
「でしょ? ちょっと……頼みたいことが、あって」ミランダは咳払いをした。「それで、あっちがお昼頃の時間を見計らって、電話したの。まあそれでも、ラスと話せるまでに三日くらいかかったかなぁ。ラスはね、今ね、高等学校のカリキュラムに取り組んでるところで……課題でね、ガルシアの、首都ファーレンの、電話網を構築するってことをやったんだって」
「電話網……構築!?」
マルゴットも思わず耳をそばだたせた。彼女らの友人で、ガルシアにいる、ラス、と言えば、ラセミスタに決まっている。さすがはリズエルというところか、学生なのにかなり大がかりな課題をやっているらしい。
「時間が足りないから、まだ王宮と、高等学校と、王立研究院と……まだいくつかの拠点にしかないらしいんだけど。〈アスタ〉を通さずに、アナカルシスやエスメラルダの既存の電話網にね、ガルシアの電話網を接続する、下準備をラスがやったんだって。既に基礎となる通信網はあったらしくて、それを強化するための方法を考えてマニュアルにまとめただけだよってラスは簡単に言ってたけど、でも、ねえ。すごいよね」
「すごいねえ……」
「マリアラが無事でいることも伝えておいたから。ラスから伝言だよ。落ち着いたら絶対絶対絶対絶対ガルシアに来てね、来ないと暴れるからね、だって」
「うん」
マリアラは嬉しそうに笑う。そのふたりを、レイルナートと言うらしい黒髪の少女がじっと見つめているのにマルゴットは気づいた。
風変わりな少女だった。顔立ちも肌の色も、このあたりではあまり見かけないものだ。エキゾチックというのだろうか、綺麗な印象の少女だった。さっきまで、彼女は随分長いこと風呂にこもっていた。ドラッグストアで買った薬品とシャンプーと石けんとで念入りに洗ったらしく、血のにおいはだいぶ落ちている。
先程から彼女はひとことも話さない。どうも、言葉が通じないらしい。
マリアラが火刑にされかけた場所で、血まみれになっていたところを、【風の骨】とマリアラがつれてきた。そう考えると、彼女がどういう境遇に陥るところだったのか、深く考えずとも推察できる。気の毒だとマルゴットは思った。この子もなかなか気立てのいい少女らしく、何も話さないけれど礼儀正しかった。ミランダとマリアラの仲のいい様子を見て、彼女は何を考えているのだろう、とマルゴットは思う。
ミランダの尽力のかいがあって、【風の骨】が戻ってくる前に、マリアラの髪に深い色とパーマ液が浸透した。孵化さえすれば美容師としてもやっていけるらしいと思うと羨ましいような気がする。
シャワーを浴びて薬液を洗い流して出てきたマリアラを、丁寧に乾かして、整えてみると、全く別の印象になった。マルゴットはしげしげと彼女を眺め、うん、とひとつ頷いた。ふんわりした髪は深い焦げ茶色でゆるやかに波打ち、ところどころが房になって顔の周りで踊っている。わざと不揃いの長さに整えた毛先が、色の割に軽やかな印象を与える。ほっそりした顎とうなじが髪の下から覗いており、以前より活発な印象になったが、なかなかよく似合う。
「いいんじゃないかしら。どう?」
手鏡を渡すと、マリアラは目を見開いた。
ミランダが目を丸くしている。マリアラは不安そうにたずねた。
「……どう……かな?」
「すごい」
ミランダは端的に言い、こちらを見上げた。
「マルゴットさん、すごい! 可愛いよ、マリアラ、すごく似合うよ!」
「う、うん」
マリアラは気恥ずかしそうに笑った。
「マルゴットさん、本当にありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして。さあ、【風の骨】が戻る前に、準備にかかりましょう。お嬢さんたちはワインというわけにはいかないでしょうけど、んー……そうね、炭酸水はあるし。あ、オレンジジュースがあるわ。シグルドさんは、今日は?」
訊ねるとミランダが一瞬、口ごもった。
次いで、ごまかすように笑った。
「今日はちょっと……出張で」
「あら」
喧嘩でもしたのだろうか、と、マルゴットは思ったのだが――
マリアラがたずねた。
「トールの」
ミランダがギクリとする。マリアラはミランダを覗き込んだ。
「……トールは、元気、なの、かな……? ごめん、ちょっと、……気になって……」
ミランダは視線をさまよわせ、それから、マリアラを見て苦笑した。
「何でわかるの」
「さっき、ラスに何か、頼みたいことがあるって言った時、なんだか、もしかして困りごとかなって思ったの。ラスにミランダが何かを頼むとしたら、トールの関係かなって。……あの。マルゴットさん、トールが、ええと、裁判がどうとか……デク、いえ、【風の骨】が、マルゴットさんから聞いたって、言っていたんですけど。それって、どう、」
「マリアラは、トールに会ったことある?」
ミランダが逆に訊ね、マリアラは、一瞬、硬直した。
うなずく。
「うん。……あるよ」
「エスメラルダで?」
「うん……。ヴィヴィ、なの、かなって。思ったよ」
「あたり」
ミランダは苦笑し、マルゴットの用意していたまな板と包丁に手を出してきた。バゲットと一緒に渡すと、危なげない手つきで、薄く切り始めた。マリアラはセロリの筋を取り、レイルナートはナッツや缶詰の中身を皿に盛り付ける。マルゴットがサラダを作り出したころ、ミランダが言った。
「私は……ヴィヴィが治るのをずっと待ってた。でも……グムヌス議員に、トールが生まれた、話を聞いて。ヴィヴィはもう、死んだものだと思いなさいって、言われて……。もう、ヴィヴィは消えちゃったんだ、二度と会えないんだって、思ってた」
「……そっか」
「うん。でも、トールが来て……。トールは、私を恐れた。トールにとっては初対面のはずなのに、私から逃げ回った。それで、わかったの。トールの中に、ヴィヴィが生きてるって……」
サラダができた。といっても、冷蔵庫から出てきたレタスとキュウリと、買ってきたトマトを切っただけの簡単なものだ。マリアラはセロリを一口大に切りわけ、クリームチーズとナッツをのせ、皿に並べる、という作業をしながら、真剣にミランダの話を聞いていた。
「それで、私は、トールを、エスメラルダから取り戻そうと考えた。裁判をやって、絶対勝って。トールがヴィヴィだと証明できれば、一度は私の相棒になったヴィヴィを、ナイジェル校長が――ううん、あの男が、ヴィヴィが壊れたのをいいことに、無理やり別のアルフィラに作り替えたということでしょう。だまされて、財産を奪い取られたってことになるの。……今ね、もう、ほとんど勝訴の段階まできてるのよ。一度目の裁判の判決を待っているところなんだけど、あちらは起訴事実をおおむね認めていて、弁護士さんの話では、こちらが勝訴しても多分控訴はしないだろうって。いろんな証拠を余さずに提出したし、マルゴットさんの紹介してくださった弁護士さんが、それはもう凄腕でね。こないだ、あちらが、和解の申し入れをしてきたわ。いくつか――気に入らない点があったんだけど、んー」
ミランダはバゲットをすべて切り終え、包丁をおいて、眉をしかめた。
「しょうがないかな、とは思うのよ。私の訴えは、エスメラルダの一番有名なリズエルである、イーレンタールの背任行為を問うのと同じことだから。私が裁判で勝てば、イーレンタールの経歴に傷が付くの。私は、そうしたかったの。イーレンタールは誰かの命令があれば、平気でそういうことをやっちゃうんだって、エスメラルダの人たちに知らせたかった。できれば、リズエルの地位を剥奪するってところまでいきたかった。……でもそれはさすがに……あちらもその線だけは守りたくて、必死なわけ」
「……うん」
「和解金は莫大なものだったわ。お金もトールもやるからイーレンタールにだけは手を触れないでくれって、必死で頼み込んできてるのが丸分かりな金額よ。弁護士さんも、それで手を打つのが一番賢いだろうって勧めてきた。私はそれが、悔しかったんだけど……でも……。三日前、グレゴリーから連絡があって」
マリアラは目を見開いた。「グレゴリーから?」
「うん。……ああ、グレゴリーは、今もエスメラルダにいるのよ。それで、ヴィヴィの記憶の、バックアップディスクを見つけたから、証拠品として提出するって。それで、ディスクを送ってくれたの。これがあればもう、こちらの全面勝訴は決まったようなものだったわ。イーレンタールを守ることさえ、あちらにはできなくなるはずだった。
あのね、そのディスクを手にいれてくれたのは、どうも、リンみたいなのよ」
マリアラは驚いたらしい。立ち上がりかけて、押された皿からセロリがころころ転がった。
「え――え、リン、が!?」
「そう。どうやったのかまでは、わからないんだけどね。それで、でも、リンはヴィヴィにもトールにも、会ったことないはずじゃない? なのにどうしてディスクを捜してくれたのかというと……フェルドに、頼まれたからみたいなのね」
「フェルド、に」
マルゴットは思わず眉を上げた。
まるでその名が宝石ででもあるかのような言い方だった。
――なるほど、これでは。
納得してしまった。フェルド、という名を聞いただけで、マリアラの雰囲気ががらりと変わった。なるほど、これでは、王太子の求婚も受けないわけだ。受けない、ではなく、受けられなかったのだろう。不可能だったのだ。
「うん」
ミランダは微笑んで、机の上に転がったセロリを拾い集めて、マリアラの前の皿に戻した。
「マリアラ、フェルドに会ったら、お礼を言ってね。きっとだよ?」
「……うん」
会うのだろうかとマルゴットは思う。
いつか本当に、会うのだろうか。
マリアラは、ミランダも、知っているのだろうか。ミーシャという新たな左巻きのラクエルが、今どんな地位にいるのか、ということを。
……けれど、これでは、まあ。
マルゴットは悲しい気持ちでそう考える。
マリアラは、もう一度相棒に会うまで、どこにも進めないのだろう。
離れてから半年以上だ。この年頃のふたりにとって、半年の離別は長い。それほどの間離れていても、名前を聞いただけで雰囲気すら変わってしまう。そんなに想っている相手には、もう、本人の口から拒絶を聞かされるまで、忘れることなどできないだろう。エスメラルダの中に入って、見つかれば捕らえられ投獄されるかもしれない危険を冒してでも。傷ついて絶望するはめになっても。ミーシャのことで諦めて、忘れてガルシアに行って、そこで安全に暮らすなんて、無理なのだろう。不可能なのだ。
「……それで……?」
マリアラが先を促し、ミランダがため息をつく。
その、時だった。
「あ」
ずっと無言だったレイルナートが、初めて言った。




