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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の誕生
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レイルナート3

 フランチェスカはようやく我に返った。

 身体中に活力が満ちている。


 指先の隅々にまで血が通い、潤っているのが感じられた。腹の底に活力の源が生まれていた。この一年というものほとんど増えていなかった体力が、戻り始めている。

 とても満ち足りている。美味な人間の伝説は間違いなかった。フランチェスカは幸福さえ感じていた。あとはどこか静かなところで丸くなって数日眠れば、かなり回復できそうだった。

 数ヶ月ぶりに、熟睡できそうだ。


 長はもはやいなかった。彼のいたところには、ちぎれたロープと血に染まった装束と、地面に溢れた夥しい血だけが残っていた。血溜まりからはまだ芳香が漂っていたが、啜りたいほどの渇望はもはや感じなかった。必要な栄養は十分摂取できたのだろう。


 その時。


 人垣がざわめいて、二つに割れた。

 フランチェスカはあくびをした。先ほどまであれほど恐ろしく見えていた人垣は、もはや敵だとは思えなくなっていた。ほんのひとかきふたかき、前足を振るうだけで容易く抜け出せるだろう。しかしそれをしてしまったら、島から出るのが難しくなる。〈あちら〉を通るのはリスクが高いから、できうるならばこの島の人間たちを騙くらかして、レイキアまで送らせたい。どうも神の遣いだと誤解されているようなのが好都合だ。


 ああ、それにしても眠い。胃の底に美味しい塊がずっしりと沈んでいる。もうひとつあくびをした時、二つに割れた人垣の向こうから数人の男たちが現れた。

 二人の男が先頭だった。真ん中に細身の少女を挟んでいた。少女はレイルナートだ。いつも美しく結われていた長いまっすぐな黒髪は、今や無惨に、ざんばらに乱れていた。いつも着ていた豪奢で可憐な装束も剥ぎ取られ、肌着のような薄手の衣類だけが残されて、その上からロープでぎちぎちに締め上げられている。


 先ほどの長が受けたような扱いを、レイルナートも受けたのだろう。

 と、レイルナートを連れてきた男たちは、フランチェスカの目の前でそっとレイルナートを離した。レイルナートはよろけ、その場に倒れ込んだ。

 シゲタが言った。


「次の供物はこちらです」


 広場に響いたその声は、嬉しそうな響きを持っていた。

 フランチェスカはシゲタを見た。その姿は異様だった。彼の左手――さっきフランチェスカを不躾にも握りしめていたその手は、フランチェスカの爪で引っかかれ、そこから〈毒〉が入っていた。〈毒〉は生き物の血肉を糧にじわじわと広がり、手の甲から指の中ほどくらいまでが黒く染まっている。

 通常ならば、倦怠感と吐き気に襲われているはずだ。全く魔力を持たない人間だって、傷口から入ったら、五分もたたぬ間に立っていられなくなると聞く。なのにシゲタは笑っていた。清々しいと言えそうなその笑顔が、異様だった。


「こちらもお召し上がりください」


 倒れたレイルナートの髪が、長の血溜まりに浸かっている。

 開いた人垣は元どおりに閉じている。人々の、何か期待するような眼差しに、フランチェスカは苛立った。フランチェスカが長を食べている間も、こんな顔をして見守っていたのか。火刑をうっとりと見守っていたのと同じように。そしてまた、フランチェスカがレイルナートを食べるのを、また娯楽として消費しようというのか。

 なぜこの私がお前たちの娯楽を提供してやらなければならない。


 何よりレイルナートは、長ほど美味しそうには見えなかった。今は満腹だからだろうかと思いはしたが、長を食べる前に戻ったとしても、食べたいと思ったかどうかはわからない。長とは匂いが決定的に違った。まだ早い――という気がした。例えばあと数年熟成させたらもしかしたら美味になるかもしれないが、今はそこまで育っていない。


『いらぬ』


 フランチェスカがそう言い捨てた時、

 異様な気配を感じた。


 静かな光――のようなもの。

 フランチェスカの肌がピリピリと痛みを感じた。その光に照らされるだけで毛が逆立ち冷たい汗が背を伝い、肌が焼けるように感じる。フランチェスカの体の隅々にまで染み渡っている崇高な〈毒〉が、われがちに逃げ出そうとしているのを感じる。ああ、来る。わかっているのに動けない。逃げ出したいのに近づきたいという相反した本能がフランチェスカの四肢を縛り付ける。憎悪、絶望、そして――


 フランチェスカはゾッとした。


 自分の身のうちにあるこの感情は、歓喜ではないのか。

 まるで飼い主を見た犬が尾を振るように――

 自分は、神の娘に会えることを喜んでいるのではないのか。


 そんなばかな。


 その異様な気配はゆっくりと、しかし着実に近づいてくる。ひとりでに足が後ろに下がりそうになり、なんとか踏みとどまる。後退りなんてしない。して、たまるものか。


「お召し上がりください」


 シゲタが促す。フランチェスカは焦燥を感じた。今すぐここから逃げ出したい。そのためには船が必要だ。そう、そう、船がいる、だから、島の人間たちを完全に敵に回すのは得策ではない。


『いらぬ。そなたらの心づくしはもう充分。儂は、帰る』


 フランチェスカが身を翻そうとした時、人垣がざわめいた。


 ――きた。


 人垣の向こうに、神の娘が立っている。


 


    *


 


 陽の光が広場に降り注ぎ、濃い影が落ちている。おそらく午後に差し掛かったあたりだろう。人々のざわめきは聞こえない。今まで通ってきた集落も、広場も、しん――と静まり返っている。


 デクターは迂回しないつもりらしい。黙って広場に向かって歩いて行く。レイキアからここへ来た時の〈出入口〉までは広場を突っ切るのが最短だ。

 マリアラは必死で自分に言い聞かせていた。おそらくレイルナートは捕えられているはずだ。彼女を助ける筋合いなどない。フェルドの絵を描いてもらいたいとは思ったけれど、十徳ナイフを渡してくれた時の絵があれば、これ以上望むのは高望みだろう。助けるメリットがない上にデメリットは計り知れない。マリアラはレイルナートが好きではなく、はっきりと嫌いだったし、むしろ嫌悪感すら持っている。――けれど、父さんはわかってくれない、と泣いた時の声が耳の裏にこびりついて離れない。


 神殿までの間にレイルナートに会わないといい、と、心の底から祈っていた。

 殺されそうなところに遭遇したら、自分がまた愚かなことをしでかすかもしれない。命が失われるその場に遭遇したら。デクターはリーザを――ビアンカに酷似した女性を、目の前で喪ったばかりだ。いまだ心の整理ができていないはずなのに、愚かなマリアラを説得までさせるのはあまりに酷だ。


 わたしの敵はわたしなのだ、と、心底そう思った。


 ――わたしはもっと、強くならなければならない。


 けれどその祈りは聞き遂げられなかった。広場の中が見えた時、全ての人々が集まっているのがわかった。何かを取り囲んだ人垣は、異様なほどに静かだった。マリアラの火刑が執り行われたあの小屋の残骸が見えている。


 マリアラは足を止め、デクターに言った。


「あっちから……行こうよ」

「ん」


 デクターはマリアラを振り返り、じっと見た。内心を見透かそうとするかのように。


「……何言ってんの?」

「だって……」

「〈出口〉は広場に面してるんだ。どっちにせよ見ないわけにはいかない。堂々としてるのが一番だ。道を避けてこそこそ入って、〈出入口〉に駆け込むのは却って危険だ」

「……だって」

「何を考えたのかは知らないけど」


 デクターは微笑んだ。優しく。


「自分を責める必要なんて全然ないよ、マリアラ」


 また名前を呼ばれて、どきりとした。デクターは笑って、広場の方に向き直った。


「行くよ。……今のままでいいんだ。女王はあんたを選んだ。そういう心根の持ち主が、望ましかったからだ」

「そんな」

「その優しさが、もしも身を滅ぼすことになってもさ。俺はあんたに賭けたんだから……破滅を避けるために努力はするけど、そのせいであんたを責めることだけは絶対しない」


 言い終えて、デクターは足早に歩き始めた。マリアラはうろたえながら後を追った。ものすごく重い言葉を言われたという気がしたが、今はじっくり考えられない。


 集落を抜け、広場に入った。


 人垣がざっと割れて中が見えた。と――デクターが立ち止まった。マリアラはゾッとした。

 そこに、あの魔物がいた。


 アナカルシスの王宮地下で出会った時より少し小さく見えた。でも間違いない、あの恐ろしい猫科の獣。大きさとしては、すこし小ぶりな鹿くらいだろうか。媛のことを『流れ星』と呼び敵視していた。媛の命をかろうじてこの世に繋ぎ止めていた、アルガス=グウェリンから細く伸びたあの体力の流れを断ち切り高笑った、あの残忍な声を覚えている。


 ――この世にいてはならない存在だ。


 心臓のあたりでその意思が生まれた。じわじわと胸に広がるその意志は、いったいどこから生まれるものかわからない。が、しっくりと心に馴染んでいる。本能と呼べるようなものかもしれない。憐憫だった。気の毒な仔だ。ここへいて良いと言ってやりたいが、それはできないとわかっている。この仔を許せば他の子たちが困る。この世の全てを愛し慈しむことは本来だが、まだその準備ができていない。


 どこからか風が吹いている。焼けて解けた髪が緩やかに翻っている。音が聞こえない。その奇妙な静寂の中で、魔物が魅入られたようにこちらを見ている。魔物の前の前にレイルナートが倒れていた。縛り上げられて、地面に転がされている。生きてる――マリアラはそう思った。安堵ではなく、ただ事実を確認した。生きている。酷い目に遭わされて、でも、生きている。


「――エルカテルミナ」


 シゲタが言った。とても恭しい響きだった。シゲタは地面に膝をつき、ばらばらと周囲の人垣がみんなそれに倣った。


「ようこそおいでくださいました」


 真摯に、淡々と、シゲタは何か口上を述べるかのように言った。


「エルカテルミナ――そして〈いかづち〉。我らが島へ、ようこそ、お立ち寄りくださいました。お待ちくださりませ、今、宴の準備をいたします。あなたの御使には、先に供物を」

「御使?」


 デクターが訝しそうに訊ね、シゲタは嬉しそうに頷いた。


「はい、御使をお遣わしくださり、ありがとう存じました。おかげさまで我らは長く圧政を敷いた権力者を排除することができました。心より御礼申し上げます」


 シゲタの身振りで、そこにいる魔物のことを、『御使』と言っているらしいことがわかる。魔物の前、レイルナートのいるあたりに、夥しい血が落ちていた。あの血をレイルナートが流したとは考えづらい。

 あの小太りの長は、どこにもいない。それが答えなのだろう、たぶん。


「伝承が誤って伝わっている。……それは魔物だぞ。エルカテルミナの御使じゃない」


「いえ、いえ」シゲタは宥めるような笑顔を浮かべた。「御使は人魚の国から来たのです、あなた方とは別に。それが証拠にこの方は、人魚と同じ言葉を話します。魔物だなんて、そんな」


 言ううちに、シゲタは事態を悟ったようだった。そんな、と言葉が漏れた。


 そんな――。


 シゲタは絶句し、恐る恐るというように魔物を見た。魔物はあまり覇気がなかった。王宮地下で見せた、あの威圧的な態度と攻撃性がなりを潜め、なぜか、怯えているように見えた。以前より小さいせいだろうかとも思うが、今まで何も言わず、姿勢を屈め、いつでも逃げ出せるように機会を伺っている。


 シゲタはすがるようにマリアラを見た。


「我らは敬虔なルファルファの民でございます」急に具合が悪そうに見えた。「敬虔な民――であるからこそ、エルヴェントラを僭称したあの男を、今日まで……万一にも誤りがあってはならぬと。耐えて、耐え忍んで、ようやく嘘が暴かれ、神の御使への、供物、へ、と……」


 シゲタの左手が黒く染まっていた。見覚えがあった。〈過去〉であの色に染まったフェルドの腕を見た。魔力の強いフェルドは〈毒〉のめぐりも非常に早く、医師たちが水を使って進行を抑えてくれていたにも関わらず、マリアラがたどり着いた時にはすでに顎のあたりまで染まっていたことを思い出す。


 シゲタは孵化をしていない。またもちろんフェルドほど魔力も強くない。けれど、もはや左手は手首の近くまで真っ黒に染まっていた。デクターは低い声で言った。


「気の毒だが、騙されたんだ。……あんたのその手、それが証拠だろ。その魔物は〈毒〉を持っている。ルファルファの御使じゃありえない」


「そんな……」


『誰も騙してなどおらぬ。勝手に思い込んだほうが悪い』


 魔物の声はひどく冷たく、蔑みをはらんでいた。嘲るように魔物は言う。


『お陰で体力も取り戻した。ふふ――ちょうどいい、この娘も食うてやろうかえ』


 言いながら魔物は首を伸ばして、すんすん、とレイルナートの匂いを嗅いだ。狡猾そうな色がその瞳に宿っていた。マリアラは一歩前に出て、魔物が『動くな!』声を荒げるのを確かめた。


 無防備なレイルナートの首にかけた前足からは爪が出ていない。一歩近づいても、変わらない。


『近づくでない。この娘を食ろうても良いのかえ』

「あなたはレイルナートを食べない。食べたくないってわかっている」

『儂がここにおる限り、そなたらはここを立ち去れぬ。島の民どもを食い殺してくれる。一人ずつ追い詰めて引き裂いてくれる』

「そんなことしないってわかってる。――人を食べたり殺したりするのはあなたの役目じゃない」


 自分でも不思議だった。話しているのは自分じゃないみたいだった。

 かつてあれほど恐ろしい存在だった魔物が、今はちっとも恐ろしくなかった。小さな赤ちゃんが地団駄を踏んで怒っているかのよう。


『そなたに――何がわかる!!』


 魔物は激昂した。

 飛びかかってこようとしたが、なぜか躊躇した。がちがちがちっという聞き覚えのある音が後ろで聞こえた。デクターが、あの金属の顎を組み立てた音だ。魔物は躊躇し、地団駄を踏んだ。頭を仰向けて咆哮を上げた。混乱と絶望と悲哀がない混ぜとなった慟哭のようなその声は、マリアラの心をかきむしるようだった。


 気の毒に。かわいそうに。救われて、然るべきなのに。


「〈あちら〉の入口がすぐそこにある。わたしたちもそこを通っていくの。一緒に連れて行ってあげる。あなたの居場所はここじゃない。帰ったほうが、いいよ」


『帰るところなんか!!』魔物の声はもはや悲鳴のようだった。『帰るところなんか――帰るところなんか……!』


 マリアラがもう一歩前に出ると魔物は後ずさった。複雑な模様が大理石のように渦を巻く、とても綺麗な瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。魔物の毛から微かに、ごく微かに、黒い煙のようなものがゆらめいているのが見えた。何が熱いものが近くにあって、黒い水が蒸発しているかのよう。ぶるぶると魔物は震え、か細い声で泣いた。マリアラは両手を広げる。


「いっしょにおいで――」


「たすけて……」


 微かな呻き声がそう言って、マリアラはハッとした。

 その瞬間、魔物が跳んだ。マリアラの視線から逃れるように奔り、人垣を潜り抜け、近くの茂みに飛び込んだ。「あ――」マリアラは一瞬そちらに気を取られたが、「助けて……」レイルナートの呻き声に引き戻され、かがみ込んだ。


 レイルナートは酷い有様だった。あの綺麗な装束は取られてしまっていて、肌着だけの細い体をロープが締め上げていた。長い黒髪がほどけて散らばり、地面の血溜まりに浸かっていた。


 今更、ゾッとした。これはあの、太った男の人の血だろうか。さっき確認した事実が、今更、その重みを増した。

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