五日目 非番 午前(5)
その後リンは近くの治療院に連れて行かれ、“人混みに足を取られてうっかり倒れました”と嘘をついて治療してもらった。それからカフェに連れて行かれて、温かなココアを有無を言わさず注文された。せめてものお詫びとステラは言った――保護局員志望者に対して現役の保護局員が行ったあまりに酷い仕打ちへの、同業者としてのお詫びだと。
「でも、保護局員の中に少なからずああいう人間が含まれてるってのは、動かしがたい事実なのよ。本当に、申し訳ないことなんだけどね」
ウインナーコーヒーを飲みながら、ステラは眼鏡の奥の目を伏せて言った。睫が長い、とリンは思った。大きな丸い眼鏡のせいでわかりづらいけれど、この人、“眼鏡を外したら美人”というやつなのかもしれない。
「あなたの身を守るために報告はしないでおくけど――これ以上今回の件で、あいつがあなたを煩わせることがないよう手を打つわ。だから、安心してね」
〈穴〉に落ちたようなものだと思え、とステラは言った。ベルトランというあの男は自然災害のようなものだと。リンには何の落ち度もなかった、ただその災害に巻き込まれてしまっただけ。ああいうこともあるのだと思って、できるだけ早い内に忘れなさい。
温かく甘いココアが体に染みるにつれ、リンは、先程の痛みの記憶と恐怖とが、少しずつ和らいでいくのを感じた。同時に――とても運が良かったのだと、思うようになっていた。ステラが通りかかってくれたから、リンはあれ以上のことをされずに済んだのだ。“任意同行”に従っていたら、いったいどんな目に遭わされていたのだろう? 想像するだけでぞっとする。
「あの、それで」
言い始めてから、酸素が足りないことに気づいて深呼吸をした。今まで縮こまりすぎて、息をするのも控えめだったらしい。深呼吸するともっと体がほぐれた。後頭部と背中が痛いような気がするのは幻だとわかっていた。治療院で治療してもらったのだから、大丈夫。
リンはやっと背筋を伸ばして、ステラをまっすぐに見た。
「ステラ=オルブライトさん……でしたよね。あの、あたしに何かご用だったんですか?」
「ん? ああ」
ステラはカップから口を外して微笑んだ。
「そうなのよ。登校前に捕まえられたらなって思って寮に行ったんだけど、もう出たって聞いたから。専攻会室で自習してるんですって? まだ十六歳なのに、偉いわねえ。今年受かるつもりなの?」
「え……いやちょっと、それは無理、かな……来年か再来年に、受かればいいなって思っています」
言いながらリンは、自分の気持ちを確認した。そう、保護局員を目指す決意に変わりはない。でもベルトランのせいで、その決意に少しだけ翳りが落ちた。保護局員にもああいう人間がいるのだ、その事実が、今は少し重い。
ステラは身を乗り出して、困ったように微笑む。
「まあ、保護局員になって、今もその仕事を続けているあたしから言わせてもらえれば――多少の覚悟はいるわよ、そりゃあね。あなたは必死で受験勉強して入る組だけど、ベルトランみたいなのが受験勉強したと思う?」
リンは唇を噛んだ。――思えない。あの男が真面目に研修を受けて、必死で座学を詰め込んだとはどうしても考えづらい。
リンの表情を見て、ステラは気の毒に、という風に微笑む。
「保護局員と言ったって、そりゃあ、人間の集まりですもの。汚いところも嫌なところもあるわ。保護局員を目指すのなら、そういう汚い部分にも向き合う覚悟がいる。保護局員以外にも色んな職業があるんだし、受験資格は二十五歳まであるのよ。どうすれば自分にとって一番いいのか、受験勉強しながら考えてみたらいいわ」
「そう……ですね」
リンは頷き、ココアをもう一口飲んだ。ステラはどうやら今までに、色々な経験をたくさんしてきたようだ。リンが自分と同じ道を進むことを、あまり歓迎していない様子なのが少し哀しい。
「でね、あたしが今朝あなたを訊ねてきたのはね、マリアラからあなたのことを聞いたからなのよ」
「え」リンは顔を上げた。「マリアラって……マリアラ=ラクエル・マヌエルですか?」
「そう。知ってるわよね? あの子ね、ほら、ラクエルでしょ。だから狩人襲撃の後遺症治療が済んだ直後から、南大島の浄化を続けてるの。あたしは南大島北部詰所の所属だから、浄化担当の魔女たちの受付やってて、勤務が重なってるときは毎日会ってるのよ」
「そうなんだ」マリアラの話を聞いて、少し気分が浮上した。「マリアラ、元気ですか?」
「そうね、とても元気よ。でも昨日、ちょっと……問題があって。ここだけの話なんだけど」ステラは周囲を窺い、リンに顔を寄せた。「南大島に魔物が出てね。あ、ううん、無事よ? ケガも全然なかったし。ただちょっとまあ、……大変だったのよね。それで、内緒にして欲しいんだけど……」
雪山に続いて南大島でも、マリアラは魔物に遭遇した。その心理的負担はとても大きかったのではないかと、上の人たちが心配している。だからステラは秘密裏に、マリアラの心理状態を調査すべく動いているのだ。ステラはそういう風に説明した。
聞きながらリンは、雪山でマリアラを、続いてリンを、さらにはエスメラルダ全域を救ってくれた、あの巨大な生き物について考えた。魔物についてレポートを書こうとしていたリンにさえ、あの魔物の行動は意外だった。
南大島に、狩人が潜んでいた。アナカルシスから持ち込まれた魔物は二体ではなく三体いた。狩人は時機を窺っていた。復興がある程度進むのを――そして本土に魔物を解き放ち、今度こそエスメラルダを壊滅させるつもりだったのだ。
マリアラが海岸にいるときに、狩人と接触した。保護局員に捕らえられたら死刑を免れない狩人は、自暴自棄になって魔物をマリアラにけしかけた。
その時マリアラの相棒当番だったフェルドが、魔物を殺した。
ステラの説明を聞く内に、リンの心はどんどん沈んでいった。マリアラは、魔物が暴走させられるのを、どんな気持ちで見ていただろう。雪山で助けてくれたあの魔物の死を悼んでいたマリアラは、南大島の魔物を助けてやれなかったことを、どれほど悔やんだだろう。
リンの表情を見て、ステラが囁いた。
「あなたも……そういう顔をするのね」
「え?」
顔を上げるとステラはリンを見ていた。
眼鏡のせいで、表情がよくわからない。
「雪山のあの事件の、報告書を読んだわ。マリアラもあなたも、“魔物が助けてくれた”という表現をした。
あなただったら、助けたいと思う?」
「誰を?」
リンは聞き返し、そしてすぐに悟った。誰を? ――魔物をだ、もちろん。
「狩人の手から魔物を奪い返して【魔女ビル】に連れ帰り、【毒の世界】に帰してあげる。それができたら、やってあげたいと思う?」
「それは……できたらいいですけど。でもできないでしょ」
「そうね。不可能だわ。ただまあ、あたしは、マリアラの心理的負担を軽減するために何ができるかの調査中なの。あの子とは、孵化前から友達だったんですってね? あの子なら、魔物を助けたいと望むかしら?」
「それは望むと思いますよ」
リンでさえ望むのだ、マリアラなら、そして目の前にいたのなら、それは絶対そうだろう。でも、危うい、という気もする。だって魔物だ。こないだの雪山の魔物が、特に親切なだけだった、という可能性は十二分にある。
でも。
マリアラだったら、それでも気にせずに手を差し伸べてしまいそうな気がする。
そう考えて、リンは微笑んだ。
相棒になる人はきっと大変だ。
リンの反応を見ていたステラは、微笑んで、立ち上がった。
「よくわかったわ。どうもありがとう」
「え、あの……こんな話で役に立つんですか?」
「そりゃもう、すっごく参考になったわ。……ごめんね、あたし出勤しなきゃいけないから先に行くけど、あなたはもう少し休んで行きなさいな。――それじゃまたね」
「あ」
ステラはそう言うと、伝票を掴んで歩み去った。リンが遠慮も恐縮もする暇がないほど鮮やかに。
リンは彼女を見送り、後頭部をそっと撫でた。もうすっかり痛みはないはずなのに、まだ時折痛い。ただ転んだだけだと嘘をついたから、精神的苦痛が肉体にもたらす影響の方は治療されなかった。この影響はしばらく残るだろう。
――自然災害に遭ったと思って忘れなさい。
リンは残ったココアを飲みながら考えた。
今日助けてくれたのがもしマリアラだったら、そんなこと絶対言わなかったんだろうな、と。
助けてもらったのにこんなことを考えて、本当に申し訳ないけれど。