ヴェルテス
*
デクターは本当にこちらにきたのだろうかとマリアラは思う。
この島はあまり開けているとは言えない。人々の家は、さっき火刑にされかかったあの広場を取り囲むように立っていて、そこを抜けるとほとんど森ばかりのようだ。エスメラルダよりもずっと温暖で、アナカルシスよりもずっと湿度の高いこの島の森は、今まで見たことないくらいの鬱蒼ぶりだ。背の高い木々の足元にはマリアラより背が高いくらいの下生えがみっしりと生えている。定期的に人が通っているらしく、細い獣道のような通路ができていて、通行に支障はそれほどないが、前に見える道はとても細くて暗い。
はてなく続くような密度の高い暗い森を延々と歩くうち、その暗がりに、一筋の光が見えた。
レイルナートもその光を見て、嘲るように笑った。
「もうすぐ崖ね。さああ、ここで問題です。本当にこっちで正解でしょうかー?」
その瞬間、マリアラの耳に、何かが届いた。
「ちっとも疑問に思わないみたいなんだもの、呆れちゃったわよ。ここまで時間を無駄にして、残念だったわねえ。でもま、島一周すれば見つかるかも、」
「しっ」
声を上げるとレイルナートが一瞬黙った。落ちた静寂の中、また、何かが聞こえた。
「なによ? なにか聞こえ、」
「……」
唇に指を当てて睨むとレイルナートはまた黙った。
マリアラは耳を澄ませた。なんだろう。
今まで一度も知らなかった感覚だった。
耳と皮膚、両方から、何かが訴えかけてくる。ぴりぴりと肌に刺激が走り、マリアラはスケッチブックを小わきに抱えて、そっと肌をこすった。こっちはだめだ、と、自然に考えた。こっちには何か危険なものがある。
海の匂いがする。木々の間を通ってくる風は少し冷たい。マリアラは崖に向かっていた方向を右に変えた。そちらにも細い獣道が伸びている。レイルナートが声を上げた。
「……そっ、ちじゃ、ないわよー」
「黙って」
言い捨てて歩いた。十数メートルほど離れてから、また獣道が二手に分かれる場所に出た。崖に向かう方の道に向き直った。今度は肌がぴりぴりしない。歩きだすと、レイルナートが苛立った声を上げた。
「何でわかんのよ。気味が悪いわ」
「黙ってて」
「……あんた嫌い」
レイルナートが憎々しげにうめき、マリアラは無視して歩を進めた。木々の間を擦り抜けること数分。
視界が、開けた。
少し先に、デクターの背中が見えた。
*
『彼』の態度が変わったのがいつからなのか、はっきりと覚えているわけじゃない。
十二歳になっても、十三歳になっても、リーザはヴェルテスが好きだった。厳つくしかつめらしい外見の中に、若く穏やかで優しい中身が隠されていることを、赤ん坊の頃からずっと知っていたように思う。ヴェルテスはあまり狩人たちの中に混じらず、〈銃〉も持たず、仲間というよりたまに訪れる賓客のようなものだったが、会うたびに見せてくれる笑顔と、ひとりでいる時に時折暗い影が差すその横顔が、本当に大好きだった。
それからしばらくしてヴェルテスは突然引退して――
あまり間をおかず、『ウィナロフ』が【風の骨】に着任したのはリーザが十四歳の時だった。
同一人物だということは、教えられずともすぐに分かった。若く、自分とそれほど年の変わらない若者として現れてくれたことが夢みたいで。我ながら愚かなことに、あの時の自分は、若返ったのはリーザのためだと思い込んだ。いつかリーザを受け入れてくれるつもりで、そのために、年齢の釣り合う若者になってくれたのだと。
十五歳になり、十六歳になり、リーザは少しずつ狩人の活動にのめり込んでいく。王である伯父が不当に権力の座から追われていることが許せなかった。王女たる自分が社交の場に出られもしないことが悔しかった。自分には目的があり、それは崇高なものだと思っていた。『ウィナロフ』はきっと、リーザを愛して、リーザの目的のために力を貸してくれるものだと思い込んでいた。伝説の媛とアルガス=グウェリンのように。そうしてくれるべきだと。他の狩人たちのように、リーザを崇めてくれるものだと。
――思い、たかった。
でも、現実はそうではないということを悟れないほど愚かでもなかった。
いつしか、『ウィナロフ』はリーザを避けるようになっていた。その事実を信じたくなくて、追いかけたり、拗ねたり、命じたり、地団駄を踏んでみたりした。そうすればそうするほど彼は離れていった。極め付けにはあの言葉だ。
――本当の唯一無二の姫君は、却って身分の上下にはこだわらないものだ。
どうしてあんなに激昂したのか。今では理由がよく分かる。そう、その指摘が真実だったから。図星だったから。リーザの一番痛いところをついていたから。
でもそのときは、その事実を認められなくて。
そしてその頃、あの肖像画の存在を知った。
――ビアンカ=クロウディアは、『こだわらない』お姫様だったに違いない。
許せないと、思った。
*
崖のそばにリーザが立っていた。
デクターは、それに向かい合う形で、マリアラのいる森から数メートル離れた場所に、こちらに背を向けて立っていた。無事だったことにほっとして声をかけようとしたとき、リーザが言った。
「……あたしを連れて行って、欲しいの」
「ふざけるな」
デクターが低い声で言い、リーザは目を伏せる。その顔を見て、マリアラはどきりとした。
ビアンカじゃないのに。そうじゃないってわかっているのに。
【魔女ビル】の落とし穴の中で、明るい口調でマリアラを励ましてくれたあの人が、実体を持ってそこにいる。そう思ってしまうのは、そう思いたいからだろうか。
「怒るのは当然だわ。今までのことを謝りたいの。あたし……」
「今そんなことを話してる場合じゃないんだ」デクターはひどく苛立っていた。「あの子の居場所を聞いてる。知ってると言っただろう。どこにいるんだ?」
「そんなにあの子が大事なの」
リーザが傷ついたような声で言い、マリアラは違和感を覚える。なんだか、論点がおかしくないだろうか?
デクターもそう思ったらしい。刺のある言葉が聞こえる。
「今はそんなこと言ってる場合じゃないんだ」
「あたしがとりなせば、無事に戻ってくるわ。ほんとよ、あたし、ここの人達に大事にされてるんだから。だから、取引しましょうよ。あたしを仲間にいれて。結構役に立つと思うわ、お金も武器もないけど――ねえデクター」
リーザはデクターを真っすぐに見た。
「あたし、あなたが好きなの」
「今――」
「お願い、聞いて。あたし、あなたが好き。あなたと一緒にいたいの。あなたをできるだけ、幸せにしたいと思ってる」
「……」
「今までのことを謝るわ。本当にごめんなさい。だから……お願い、ヴェルテスだったころのように、あたしを受け入れて。優しくしてくれたじゃない。あたしが好きだったでしょう? 何がいけなかったの? 急に冷たくなって……あたしは小さいころからずっとずっと、あなたが好きだったのに」
「……」
「一緒に行かせて」
「……いや、だ……」
呻くようにデクターが言う。リーザは立ちすくみ、デクターは、ひとつ頭を振った。何かを振り切るように。
「……あんたがしてきたことを許す気はないよ。それにあんたを連れて行くメリットがない上に、デメリットがちょっとしゃれにならない。あんたが一緒にいるとあの子を危険にさらすことに」
「そんなにあの子が大事なの」
険のある声でリーザは言う。マリアラは何だかぞっとした。
リーザは異様だ、という感覚が頭から離れない。
この印象はあの外見だからだろうか。マリアラが知っているビアンカなら、こんな受け答えは絶対にしない。同じ外見だからこそ、その差異が異様に感じられる。
リーザはビアンカではないのだと、つくづく思い知った。どんなにマリアラがそう願っていても、あの人はビアンカではない。
裏切られたような気がしてしまう。同じ顔をしているくせに、どうしてそんな的外れな受け答えをするのかと、なじりたいような気持ち。顔が同じなら中身も同じであってほしいという無意識の願望が、確かにマリアラの中にあった。
――その顔で、そんなこと言わないで。
それが理不尽な望みだと、重々わかっているのに。
デクターは諦めたように首を振り、こちらに向き直った。
目が合った。
「あ」
「……」
「あの」
「……」
「ごめ」
「……無事でしたか」
デクターは長々と息を吐いた。
それから苦笑した。
「それで何してんの。早く声かけろよ」
デクターの苦笑越しに、リーザが何かを構えたのが見える。黄金色の光が日を受けて輝き、マリアラは反射的に走りだした。デクターがリーザを振り返る。ばしゅっ、とリーザの手の〈銃〉が毒を吐き、その固まりが届く寸前にマリアラはデクターに飛びついた。毒の固まりがマリアラの左肩をかすめた。ふたりは重なり合って地面に倒れ、まだ〈銃〉を構えながら、リーザが言った。
「つれて行かないと殺す」
「マリアラ」
デクターが引きつった声を上げた。
マリアラは身を起こした。
〈毒〉はやはり、マリアラに効果はないようだった。以前〈毒〉を受けた時のような苦しさは全くない。
「だいじょうぶ。何ともないよ」
デクターに名前を呼ばれたのは初めてかもしれないと思った時、リーザが言った。
「あたしがビアンカ=クロウディアにそっくりだから?」
デクターが彼女を振り返った。
彼の頭越しに見えるリーザは微笑んでいた。崖のそばにたたずんで、崖下から吹き上げる潮風に吹かれて、今にもそこから飛び降りてしまいそうに見えた。ポケットから取り出した何かを〈銃〉に装填する。デクターが身を起こした。マリアラがその前に出ようとすると、デクターは言った。
「さっきは助かった。でももう、頼むからそういうのやめて」
「でも、」
「あの〈銃〉は金属性なんだ。電撃を選んだのはそれが理由」
見ると、右手に装着した竜の顎のようなあの不可思議な器具が袖の間から覗いていた。リーザもその効果を覚えていたのだろう。後ずさり、泣き笑いのような笑みを見せる。
「あたしが悪いんじゃないわ。知ってるでしょ? この顔は、あたしのせいじゃない」
「行こう」
竜の顎をリーザに向けながらデクターは立ち上がった。その横顔には複雑な感情が渦巻いていて、内心の激しい何かを必死で押さえ付けているような印象をマリアラは抱いた。『僕は信じます』そういったエルバート王太子殿下の声がまた聞こえた。
――あの人は今も、千年前のしがらみを抱えているんだろうなって
「小さかったころは可愛がってくれたのに――」
「警告だ。もう二度と俺達の前に姿を見せるな」
「じゃあ殺してよ」
リーザは〈銃〉を投げ捨て、両手を広げた。
「今ここで殺してよ。あたしはもう全部なくした。あなたのせいで――全部あなたのせいで! あたしが何をしたって言うの!? ただ似てるだけ! あなたを傷つけたのはあたしじゃない! あたしはビアンカじゃない、リーザなのよ!」
「行くよ」
デクターはマリアラに言い、リーザが金切り声を上げた。
「お願いだから殺してよ! 置いていくくらいなら! あたしから全部取り上げて、あたしのもの全部壊したじゃない! あたしを愛してくれないなら今ここで殺してよお……っ」
「悪いけど」デクターは、淡々と言った。「あんたの命なんか、背負いたくないんだよ」
そのままリーザに背を向けた。マリアラは銃の〈毒〉のかすめた左肩をそっとなでた。〈毒〉が食い込んだ形跡は全くなかった。ただ衝撃で少し痺れているだけだ。
悲しい、と思っていた。
リーザはビアンカではなく、ただ外見の似ているだけの、全くの別人だった。彼女を助ける筋合いも、殺す筋合いもデクターにはなかった。それは当然のことで――だからこそ、彼女の存在がデクターにとってそこまで軽いものにしか過ぎなかったことが悲しかった。
顔が同じで、中身が違う。それはマリアラにさえ、受け入れ難いほどの嫌悪感をもたらした。理性ではどうにもならない、恐らくは本能的なレベルでの嫌悪感。その感覚は、かつてビアンカと恋人同士だったというデクターにとっては、正視に耐えないほどの強さだったのじゃないだろうか。
それはリーザのせいじゃない。全くそのとおりなのに。
「ずいぶん焦げてるけど。何をされた?」
デクターは声を低めてマリアラに訊ね、マリアラは心を切り替えようと、レイルナートの姿を探した。近くにいたはずなのに、今はどこにも見えない。
と――リーザが言った。
「デクター、あたし、あなたと一緒には行けないわ」
言い方が先程と少し違い、デクターがぎくりとしたのをマリアラはみた。
振り返るとリーザは微笑んでいた。ひどく透き通った笑顔だった。
そして、その笑みに、残忍な色が混じった。
「……って、言われたの? 気の毒に。ひどい女よね……はは、はは、あははははは! 愛してた女に裏切られて――ねえ、似てたでしょう今の? そっくりだったでしょう? もう一度やってあげましょうか? ねえデクター、」
リーザは嗤った。
「クロウディアを復興させるために、しょうがなかったの。あたし……エルギンの赤ちゃんができたのよ」
――なんてことを。
マリアラが彼女に向き直ったとき。
ずずず、と、地響きがした。
どん。
「……あっ!」
マリアラは声をあげた。
大地が揺れた。
デクターの全身に若草色の文様が浮かび上がっていた。彼の周りで風が渦巻くのをマリアラは感じた。崖下で海が吹き上がり、ずず、と大地が揺れる。足元に亀裂が走り、よろけ、マリアラは思わず、デクターを抱き締めた。
腕の中で魔力が沸騰している。悲鳴が聞こえる。苦しい苦しい苦しい、と悲鳴をあげている。
視界の隅で、リーザがよろめくのが見える。
彼女の足場の危うさに気づき、マリアラはいっそう強くデクターを抱き締めた。このままじゃリーザが落ちてしまいかねない。あんなひどい人の命を、デクターが背負わなければならなくなる。「だいじょうぶ」風に囁き、「だいじょうぶ」海鳴りをおさえた。腕の中の魔力の沸騰を、少しずつ、少しずつ、和らげようとする。
「あの人はビアンカじゃない。全然違う人だよ。あなたを傷つけられるような立場の人じゃない、だから、だいじょうぶ――」
風が和らぎ、海が凪いだ。でも。
大地の力だけは、マリアラにはどうしようもなかった。
崩壊も地響きも振動も止まらなかった。ひときわ大きな亀裂がめりめりと音を立てながらリーザに這い寄り、襲いかかった。地面に倒れていたリーザの体が、がくん、とずれた。爪が地面をえぐり、その爪の少し先で地面が崩れた。
「きゃあああああああああああああああ――ッ!」
細く繊細なリーザの爪が二枚、剥がれて血が飛んだのまではっきりと見えた。虚空に投げ出された指先がこちらに伸ばされ――デクターが身を起こしそちらに手を伸ばそうとした。揺れはまだ激しかった。歩くことは愚か中腰になることすら不可能だ。マリアラは目を閉じて、ただ、デクターの体にしがみついていた。熱があるのかと思うくらい、体温が高かった。
今だけはその熱を地上につなぎ止める楔になりたい、と思っていた。




