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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の誕生
664/779

黒猫

   *


 一時間ほど歩いて、集落に着いた。


 夜明けの朝もやに満ちた集落は、ひっそりと静まり返っていた。しゃんりん、どん、という音は、透明な水に沈んでいるような集落の中に、さざ波のように響いていく。


 【出口】のある神殿は集落の中央にある。しかし、一行はそちらに続く大通りを右手に逸れ、ゆるやかな下り坂を降りて行く。デクターは目で距離を測ったようだが、ふう、とため息を付いて、渋々一行の後に続いた。


 ややしてたどり着いたのは、質素な家家の中では場違いなほど豪奢な、大きな建物だった。


 平屋で、とても広い。門構えも堂々として、広々とした庭園の中を、ゆるやかにうねる通路が通っている。マリアラは思わず足を止めてその庭園をしげしげと眺めた。ウルクディアの離宮とは全く違う、しかし荘厳な風景だった。地面に、細かな、真っ白な砂が敷き詰められていた。ぽつりぽつりと深緑の木が植えられて、その根元まで丁寧に白い砂で埋められていた。深緑の木は背が低く、マリアラの腰くらいまでの高さしかない。きちんと、というよりもっと執拗な慎重さで、完全な球を思わせるほどに律義に刈り込まれている。大きさの違う木が他にもいくつかあって、白い砂の海に浮かんでいるみたいに見える。


 なんだか、太陽系を思わせる。


 白い砂の間におかれた飛び石を、慎重に渡った。白い砂を踏んでしまうわけにはいかない、と思わせるほど整えられている。


 入り口も風変わりだった。家の床は地面より高く作られていて、どうやらここで靴を脱ぐらしい。

 デクターは嫌そうな顔をしたが、黙って靴を脱ぎ、しまおうと手を差し出した男を無視して、小さく縮めてポケットにいれた。マリアラが脱いだ靴も縮めて、手渡してくれる。


 戻すとき、ちゃんと自分でできるだろうか、と、マリアラは考えた。


 でもそれは口にせず、靴をポケットにしまって、家の床に足を乗せた。磨き込まれた木の廊下はすべすべとした光沢を放っていた。確かに、この廊下を靴で踏みたくはない。けれど、靴下だとどうにもつるつる滑って、転びそうで怖い。


 輿の一行は、この玄関からは入らなかった。鈴と太鼓の音もとうに止んで、辺りは静まり返っていた。ここから入ったのはシゲタと名乗った男の人と、松明を持っていた粗末な身なりの人たちと、リーザと、デクターとマリアラだけだ。シゲタを先頭とした男たちは松明に覆いを被せ、先に立って進んで行った。マリアラたちが付いてくるものと信じて疑わない様子だった。リーザも続いた。彼女は既にこの建物を知っているらしく、歩く様子に迷いがない。


 玄関のあった建物を抜けると、一度外に出た。今度はさまざまな植物が植えられた中庭を、渡り廊下が通っている。そこを通り過ぎると、さらに大きな建物だ。


 と、


「お嬢様はこちらへ」


 シゲタがくるりと振り返り、床にひざを付いて頭を下げた。他の男たちとリーザは、左へ進んで行く。デクターが冷たい声で言った。


「俺も行く」

「どうかご遠慮ください。ルファルファ神とレイルナート様にご参拝なさるために、なにとぞご入浴とお召し代えを」

「必要ない」


「この方は高貴な姫君であらせられましょう。我らが主人にお引き合わせする際に、落ち度がありましたら私どもの首が飛びます。なにとぞ」

「姫――」


 マリアラは目を丸くしたが、男はマリアラの戸惑いには注意を払わなかった。デクターに向けて、深々と頭を下げた。


「しきたりをご存じでしょう。お客様の身支度は我らの責。しかるべきやり方でお持て成しせよと。なにとぞ、その責を、果たさせてはいただけませんでしょうか」


 果たさせなかったらこの人はどうなるのだろう、と、マリアラは思った。


 じわじわと、嫌な予感が胸に確実に巣くい始めていた。集落のみすぼらしさと、この建物の豪華さと。松明をもつ人達の粗末な衣服と、輿に載っていた人の、身なりのあまりの違い。『船乗りから聞いた』と言ったあの神官の、蔑むような言い方と。


 身分の差。教科書でしか知らなかったその概念は、ほんの二百年前まで、エスメラルダにも確かにはびこっていたものなのだ。


「……」

「……行ってくるね」


 マリアラは言い、デクターは諦めたように頷く。わたしは弱い、と、シゲタの後について歩きながら、考えた。この期に及んで、未だ、目の前で消えるかもしれない命を見捨てるのが怖い。

 首が飛ぶ、という言葉が、比喩じゃなかったらどうしよう、と、思わずにはいられない。




 右に曲がり、次は左に曲がり、そこに現れた果てしない廊下を進んだ。廊下の両脇には、白い紙を張られた戸が延々と立てられている。壁と戸の役割を同時に果たすものらしい。合理的だが、冬は寒そうだ、と思う。


 と、ひとつの戸の隙間が空いていた。その隙間から、さっと黒い影が走るのが見えた。

 まるで、マリアラが来るのを窺っていて、気づかれて慌てて逃げたように思えた。


「猫――?」


 呟くとシゲタが足を止めた。マリアラを振り返る。


「何か、おっしゃいましたか」

「今、猫みたいな生き物がいたんです。ここにも猫がいるんですね」

「あれは猫ではありませぬ」


 シゲタの声音が、少し変わった。

 今まで淡々として落ち着いていたその声音が、少しだけ色を変えた。欲望のような――期待のような、そんな色が滲んだ。


「猫、じゃ、ない?」

「あれは神の使いでございます」

「神の――?」


 マリアラは呆気に取られた。場所が変われば、伝承もずいぶん違うものである。

 歴史学の徒としては、黒猫は不吉だという印象を拭うことはできない。アナカルシスには有名な暴君が何人かいたが、そのいずれの王座にも、黒い猫がまとわりついていたと文献に残っている。少なくとも昔、アナカルシスの人々は、黒猫を不吉だと考えていた証左だ。闇の女神、破壊の女神、毒の女神として恐れられる『エスティエルティナ』の絵にも、黒い猫が記されることが多い。


 けれどこの国では神の使いと言われるらしい。瑞兆という扱いかもしれない。なんにせよ、人間が黒い猫に真逆な意味を意味を見出したからと言って、当の黒猫にとっては知ったことではないだろう。




 白々と明かりのついた廊下は永遠に続くかと思われたが、当然そんなことはなく、シゲタは行き止まりの壁を左に曲がった。そこには急な勾配の階段が下に続いていた。シゲタの頭がどんどん下に降りて行く。


「……あの」

「お足下にお気をつけて」


 シゲタは丁寧な口調で言い、階段を降り切った。マリアラは手すりにすがりつきながら、奈落の底に通じるような階段をゆっくり降りた。地下にも板敷きの廊下があるようだが、暗くて何も見えない。


「ご不便をおかけします」


 シゲタはやはり丁寧な口調で詫び、光珠をつけた。柔らかな明かりにほっとする。


「どこまで――?」

「もうすぐでございます。こちらへ」

「あの」


 言いかけたが、シゲタは構わずに先へ行く。明かりも遠ざかり、暗闇に閉ざされるのが怖くて、マリアラも後に続いた。シゲタの背に追いついて、言ってみる。


「あの。巫女姫、という方は……どんな方、なんですか?」

「御年十七歳。利発で聡明な、神官長のご息女、レイルナート様でございます」

「……レイルナート?」


 呆気に取られて聞き返すと、男は前を見たまま、重々しくうなずいた。


「水の女神の化身と呼ばれております。人魚の長に愛され、神託を授けられます。あなた様方のご来訪をも予知されました。あなた様の護衛の怒りを和らげる娘御を呼び寄せ」

「怒りを、和らげる?」

「しかり」シゲタはあくまでまじめだった。「あなた様とお会いになられ、しかるべき対応を決められます」


 怒りを和らげるなんて。マリアラは首を傾げる。ついこの間まで敵対していた。ラルフがリーザを捕らえて保安官に引き渡しても、デクターは顔色も変えなかった。なのに。


「神託って、どういうものなんですか?」


 訊ねるとシゲタは黙った。沈黙。

 しばらくしてから、惧れ多いというように、囁いた。


「神託は違いませぬ。違うことは絶対にありませぬ」

「たがう……」

「違うことは、ありませぬ」

 シゲタは繰り返し、黙った。マリアラも黙った。前方、シゲタの掲げる光の向こう、天井の辺りに、ぽつりと明かりが見えているのに気づいたからだ。


「着きました」


 シゲタは言い、光珠を消した。



 それは、天井に四角く切られた出口だった。

 マリアラの身長で届く高さではない。マリアラは仰向いて、首を傾げた。ご入浴を、と言っていたようだけれど、水音も匂いもしなかった。

 シゲタは速やかに梯子を設置して、そのわきにひざまずき、頭を下げた。


「わたくしも男でございますれば。この先はどうかおひとりで」

「は、はあ」

「ご不便をおかけいたします」


 深々とさらに頭を下げられ、仕方なく、梯子に手をかけた。ぐらつく梯子をシゲタが支えてくれる。その手を踏まないよう気をつけて上がり、出た先に広がる真新しい木の香に驚く。建てられたばかりのような匂いだった。床も壁も天井も、すべてが木で作られた、


 掘っ建て小屋だった。

 とても狭い。


「……あの」


 下を向いた瞬間、梯子が揺らされた。反射的に動かない床に手をつき、慌てて上にあがった。振り返ったその鼻先で、下から穴がふさがれた。がん、と大きな音が鳴り、多分梯子で、動かないようつっかえ棒をされたのが分かる。


「あのっ!?」

「ご無礼をお許しください。これは必要な儀式なのです」


 相変わらず落ち着き払った言い方でシゲタが言う。マリアラははね蓋を上げようとしたが、当然のように手掛かりがどこにもなかった。四角い透き間は見えるけれど、爪の先くらいしか入らない。


 途方に暮れて、辺りを見回した。本当に狭く、小屋というより少し豪華な電話ボックスといったサイズだった。急ごしらえらしく、板と板の間に透き間が空いていて、ちらちらと外が見える。


 体当たりしたら崩れるだろうか。透き間から外を覗いて、何本もの丸太が立て掛けてあるのを見て取った。窓も扉もどこにもない。


 一体これは、何の建物なのだろう。

 儀式って、なんなのだろう。


 と、丸太の向こうに、人影が見えた。

 ぞっとした。


 大勢の人間が、黙ってこの掘っ建て小屋の回りを取り囲んでいた。みんな真顔で、黙って、こちらを見ている。


 ここはどうやら、広場のようだった。人垣の向こうに林が見えた。マリアラは小屋中を見回し、一番大きな割れ目を見つけてそこに目を押し当てた。


 荷車が見えた。

 樽がいっぱい載っている。


 その荷車のとなりに、あの鈴を持っていた神官がいた。今は鈴を持っておらず、代わりに、火のついた松明を持っていた。


 全身の毛が、逆立ったような気がした。

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