リーザ
リーザはふと、耳をそばだたせるような表情をした。
そしてこちらを見た。
ふたりはぎくりとした。こちらの声が聞こえたはずはないのに、そうとしか思えないようなタイミングだった。リーザはこちらを見て、ゆっくりと近づいてくる。
リーザが何か言った。その声は聞こえない、だから、眠っている間にズレが解除されてしまったわけではない。リーザからこちらが見えているはずもないし、ここにふたりがいるとわかっているはずもないのに、リーザは迷う様子もない。
――あんま、過信しない方がいいかもね。
ラルフの言葉を思い出す。【炎の闇】にもあっさり見つかってしまった。
「……あの人もルクルスだ」
デクターは低い声でそう言った。ふう、とため息をひとつ。
「今までそんな勘の鋭い方だなんて思ったことはなかったんだけど……腐っても、ってやつなのかな」
「なんて、言ってるのかな」
「さあね」
投げやりに言って、デクターは荷物をまとめ始めた。マリアラを見て、南の森の方を指さした。
「一応荷造りしといて」
そちらを見て驚いた。砂浜の途切れる辺り、森の始まるところに、ちらちらと明かりが揺れている。
結構な数だった。
「なんでここがわかったんだろな。事情がわからないと気味が悪い。合図したらすぐ出られるようにしといて」
「ズレを維持しておくのは、神経使うんでしょう」
マリアラは急いで荷造りを終え、立ち上がった。
「わたしも一緒に出る。始めから解除した方が、いろいろとやりやすいでしょう。一緒にいることは分かっているはずだし、わたしだけ隠れてるメリットはないはずでしょ?」
デクターは顔をしかめた。
「あの女は危険なんだよ」
「わたしは今治療ができない。あなたが〈銃〉で撃たれても、毒抜きができないの。……前に、言ったよね。わたしの魔力はそのうちどんどん減って、ルクルスレベルにまで落ちると思う、その方が有利だから、って。今魔力が使えないのは、そうなったからなんじゃないかなって思うの。だとしたら、わたしは撃たれても平気なはずだよね」
「もし違ったらどうすんの」
「あなたが撃たれて動けなくなったら、わたしは路頭に迷う。ひとりで旅を続けてそのうちフェルドに再会して責務を果たすなんて絶対無理。でも、わたしが撃たれても、あなたはわたしを担いで、ズレの中に隠すことができる」
「隠してどうすんの。そのままあんたがじわじわ死ぬのを見てろと?」
「あのね、確率の話をしているの。わかってるんでしょう? あなたが撃たれたら一巻の終わり。助かる確率はゼロに近い。でも、わたしが撃たれても、助かる確率は結構高い」
「――あのね」
「お客様扱いしないでって、言ったでしょう?」
「……」
デクターは、はああああ、とため息をつき、立ち上がった。
次の瞬間、世界が音を取り戻した。
ぼやけていた視界が開け、静かな波の音が耳に届いた。しゃんりん、と、遠くで鈴の音が聞こえる。リーザは突然出現したふたりに目を丸くしていたが、ややして、微笑んだ。
可憐と言えそうな、笑顔だった。
「やっぱりそこにいたのね」
「なんであんたがここにいるんだ」
デクターが低い声で言い、リーザは笑う。しゃんりん、と遠くで音が鳴る。
「逃げてきたの。……好きでもない人間に嫁がされそうになったから」
デクターが黙り込み、リーザは、俯いた。
「ガルシアの宰相のひとり息子にどうかって、縁談が持ち上がったの。でもね、あたし、嫌だったの。――嫌だったのよ。だからここの人たちがあたしをここに連れてきた時、抵抗しなかったの」
俯けたリーザの頬が、ひどく青くて。
「結婚させられるなんて絶対に嫌だった。……嫌だったの。だから」
まるで別人のようだとマリアラは思った。
あのとき、シャルロッテとマギスの赤ちゃんを人質に取り、マリアラに向けて放り投げたあの人とは、本当に別人みたいだ。
二色の月の光に照らされて、彼女はとてもたおやかに見えた。とても綺麗で、可愛らしくて。
声も、あのビアンカにそっくりで。混乱しそうになる。
しかしデクターは意にも介さなかった。
「あっそ」
どうでも良さそうにデクターは言う。リーザは傷ついたような顔をしたが、それは一瞬だけだった。すぐに松明の明かりの方――だいぶ近づいている――を振り返り、手を振った。
しゃんりん、どん。太鼓も混じった。
「あの人たちの巫女姫があたしを呼んだのよ。あたしの顔を見れば、あなた達が出てくるって、神託が下りた、とかで。あなた方に謝罪をしたいんですって」
「謝罪」
デクターがおうむ返しにつぶやいた。その時。
松明を持った人たちは、十メートルくらいの近さまで来ていた。ゆらゆら揺れる明かりが彼らを照らしていた。彼らには見覚えがあった。初めてこの島に来た時、マリアラとデクターを疑い、冷たくあしらった人たちだった。
デクターが身構える前に、彼らは歩みを止め、黙って左右に分かれ、一斉にひざを付いた。深々と頭を下げる。その向こうに、しずしずと近づいて来ていた一団が見えた。
しゃんりん、と、鈴が鳴った。
どん、と、太鼓の音。
豪奢な輿があった。風変わりだけれど、とても荘厳だった。輿の上に乗っているのはほっそりした人影だ。顔の前にキラキラ光る金糸の垂れがかかっていて、松明の明かりを下から受けていることもあり、顔がよく見えない。しゃん、りん、と鈴が鳴る。鈴のついた杖を持っているのは、輿を先導する男ふたりだ。握りこぶし大の鈴がいくつか付いた杖がしゃんと鳴り、親指大の小さな鈴の固まりがりりん、と鳴る。どん、と小さな太鼓。輿を担いでいるのは四人の男で、みんな豪奢な礼服らしきものを着ている。船乗りでないことは明らかだった。日焼けをしていなかったからだ。どうやら化粧もしている。
一番豪奢なのは輿の上に乗っている、恐らく、少女だった。輿の上にきちんと座り、金糸の垂れの向こうから、こちらを見ているのがわかる。
松明の明かりと、二色の月明かりに照らされて、なんだか夢を見ているみたいだった。
しゃんりん、と、鈴が鳴った。
「旅のお方」
大きい方の鈴の杖を持った男が、しわがれた声で言った。
彼は輿の集団の中でも、ひと際立派な身なりをしていた。糊の効いた、袖の大きな民族衣装を着ていた。純白の生地に、金糸で、複雑な模様が刺繍されている。額には濃い緑色の葉で作られた冠をしていた。そして、痩せている人々ばかりの中で、一人だけとても太っていた。年の頃は四十代半ば――くらいだろうか? 化粧をした肌はのっぺりとして、表情がよく分からない。
ここまで歩いてきただけで、息が上がっていた。ふう、ふう、と呼吸音を漏らしながら、彼は言った。
「船乗りから話を聞いた。無礼を働いたことをまず詫びよう。巫女姫より神託が下った。あなた方は島に仇なす存在ではないと」
「……」
デクターはその男ではなく、輿に乗った『巫女姫』を見ていた。
彼女は何も言わなかった。金糸の垂れの向こうで、彼女が何を考えているのか、全く読み取れない。
「客人としてもてなす。船旅の後ゆえに、娘御殿には身支度が必要だろう。参られよ」
「せっかくだけど」
デクターが言いかけ、鈴の男は杖を振った。
握りこぶし大の鈴が五つついていて、しゃらしゃらん、と軽やかな音を響かせた。
「神託が下りている。ルファルファに背くことはあなた方にも得策ではないはずだ」
「神託ってなんだ」
「ルファルファの命だ」
「何だって? まさか命じてるつもりなのか」
デクターの声が険しくなり、男は、宥めるように手を挙げた。
「そうではない。ただ、その娘御が我らの客となるのは既に決まったことだ。船乗り共の罪をとりなし、その生を許した。娘御の恩に報いようという、巫女姫のお心を無にせぬよう」
「この女を使いにしたのも神託だとか言ったな」
デクターはリーザを指し、礼服の太った男は重々しくうなずいた。
「巫女姫の神託だ。神託は違わない。現にそなたらは姿を見せた。参られよ。夜明けが近い。シゲタ、くれぐれも無礼のないように」
男は言うだけ言ってきびすを返した。
輿もゆっくりと向きを変えた。
しゃんりん、どん、と、ゆるやかに遠ざかって行く。マリアラは夢を見ているような気持ちのままそれを見送ったが、立ち上がった松明の一団が促すようにこちらを見たまま動かないので我に返った。デクターは顔をしかめて輿を見送っている。
シゲタとは誰のことだろうとマリアラは思った。
リーザが囁いた。
「エルカテルミナの責務について話があるそうよ」
デクターが彼女を睨む。リーザは宥めるように、両手を上げて見せる。
「ここの人たちは、そう話が通じない人ばかりじゃないわ。出航するときにいざこざがあったみたいだけど、それは平民に全部任せてたからだって、神官長は悔やんでいたのよ。初めからシゲタを通してもらっていればって」
「あんたは――」
「そう警戒するのはよしてよ」リーザは少し、困った顔をした。「あたしはもう、全部なくしたのよ。仲間もいない。お金もない。身分もないし、銃も持ってないわ」
「信頼できるか」
「……まあ、そうでしょうけど」
リーザは言って、肩を落とした。しょんぼりとうつむいた彼女は、まるで花が萎れてしまったようで、マリアラは切なくなった。どうしても、どうしても、ビアンカに重なってしまうのだ。とりなせればいいのにと、思ってしまうのだ。
でもそれをしてはいけないことは、よくわかっていた。デクターが彼女を邪険にするのはビアンカとは関わりのないことだし、彼女を警戒するのは全く当然のことだ。とりなすことで万一にも、デクターを非難するような形になってしまってはいけない。
「神託か。従う義理はないな。……行こう」
デクターはマリアラに言い、海の方へ歩きだそうとした。
と、松明の男たちが、一斉に地面に這いつくばった。
「どうか」
先頭の男が言った。その切実さに驚いた。彼がシゲタよ、とリーザがデクターに囁いているのが聞こえる。
「どうか――どうか、お立ち寄りください。神官長は我らがあなた様方のご機嫌を損ねたことをそれはお怒りで」
「知ったことか」
「あなた様方をお招きできなければルファルファのいかづちが島を撃つだろうと」
「それも神託か?」
デクターはバカにしきった口調で言ったが、シゲタも、他の男たちも、あくまで真剣だった。
「いかづちに撃たれる前に生け贄を捧げてお怒りをおさめていただかねばなりませぬ。生け贄は子供しかなれませぬ。私の子供はもう、ひとりしか残っておりませぬ」
ぞっとする。
「あーわかったわかった」
マリアラが何か言う前に、デクターが呻いた。
「行きゃいーんだろ行きゃ……」
ひとりしか残っていないというのはどういう意味なのだろう、と、マリアラは考えていた。
なんだか、いやな予感がする。すごく。
一行はこちらを取り巻こうとしたが、デクターの威嚇を受けて諦め、先に立って歩いていた。リーザも何も言わず、黙って先を歩く。デクターはマリアラに顔を寄せ、低い声で言った。
「あの神官は気に入らない。ルファルファの命を匂わせるなんて、最低の侮辱だ」
「……そうなの」
「でもとにかく、神託とやらの真相が分からないと、船でいったん島を出ても、また見つかる恐れがある」
「うん。だね」
「これ持ってて」
ぽん、と音がして、膨らんだ革袋が現れた。結構かさ張るけれど、両脇に紐が通してあって、肩に背負えるようになっている。
「出された食べ物には手をつけない方がいい」
「うん。そうする」
「神殿に近づけたらとにかく逃げるよ」
「うん」
「生け贄がどうとか言われても?」
「……うん」
マリアラは頷き、一瞬、身を震わせた。
それから、もう一度頷いた。
「そうするよ。わたしも、あの神官長はおかしいと思う」
「よかった」
デクターは息を付き、マリアラは、巫女姫と呼ばれていた、輿の上の少女について考えた。
神託って何なのだろう。なぜリーザを呼んだのだろう。というか、そもそも、リーザがこちらの関係者だと、どうしてわかったというのだろう? デクターが使った【出入り口】は他の人間には使えないのだから、アナカルシス近辺からここまで来るのに、少なくとも数日はかかるはずだ。ということは、マリアラとデクターが『世界のへそ』へ出航してすぐ、リーザを呼び寄せたということになる。
神官長は、マリアラとデクターの機嫌を損ねたことを怒り、丁重にもてなせと、指示を出したらしい。
けれどそれは、一体何のためになのだろう。マリアラがエルカテルミナだと認めたわけではないらしい。でもそれならば、何の用があるのだろう、と考えずにはいられない。
森は深く、暗く、南大島のあの夜を思い出させる。イェイラに殺されかけた、あの夜を。
もし今のマリアラが、イェイラに水の槍を向けられたら。あの時味方してくれた水は、今度はどうするのだろう。そんなことを考えながら、夜明け前の一番暗い森の中を、ゆっくり歩いて行った。




