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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の誕生
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島に到着

 するとデクターはポケットを探り、何かを取り出した。


「俺の方も。……これ返す。今まで悪かった」

「なに、これ?」


 それは、灰色の、上質なフェルトでできた小さな巾着袋だ。ビロードの細い紐が口を縛っている。紐を解いて中身を手のひらに出し、マリアラは思わず声を上げた。


「ああ……!」

「なんとなく返しそびれてて。ごめん」


 それは二枚のコインだった。マヌエルであることを示す、マリアラの、それからフェルドのもの。金色の細い鎖につけられた、金色のぴかぴかした、懐かしいコイン。


「あ……ありがと……」


 マリアラは思わず、胸の前で握り締めた。金属の重みがしっくりと手に吸い付いてくる。十徳ナイフをなくした透き間にすとんと入り込んでくるような感触、うっかり泣きそうになって、慌てて先程まで乗っていた船の方に視線を移した。


 気が付くと、辺りは驚くほど暗かった。もはや先程の船ははるかな背後になっていて、もう少しで島の向こうに消えるところだった。追いかけて来ている船も見えるが、距離はだいぶ離れていた。島をぐるりと回り、小船を小さくして回収してしまえば、マリアラとデクターが彼らから逃げ切るのは簡単だろう。

 デクターが言った。


「思ったんだけど、エルカテルミナだって主張したのが、悪かったんだと思う。ごめん、軽率だった」

「あ、ううん、そんなの、警戒できないのは仕方ないことだよ。でも、わたしもそう思った。エルカテルミナだって言ってなかったら、もう少し態度が違ったのかなって」

「そうだな。だから、もう、あの人たちに会わずに、直接【出口】を通って【毒の世界】に出るのがいいと思うんだ。【出口】はご神体になってたから、夜になってみんなが寝るのを待って、神殿にこっそり忍び込むしかないわけだけど」


「うん、そうだね。でもまあ、見つかっても、あの【出口】にさえ入ってしまえば、あの人たちは追いかけて来られないわけだから」

「いきなり狙撃されることさえ警戒すれば何とかなると思う。あんたが身を守れるような武器を何か考えないと……」


 それにしても、数日はきっと警戒されているだろう。デクターの体調のことも考えて、今夜は森に隠れてゆっくり休むことで話が決まった。



 そのころには、すっかり夜だった。島は南大島ほどの大きさがあり、しかし住んでいる人はとても少ないらしく、島の大半は闇に沈んでいた。


 この島は、ごつごつした巨大な岩の固まりのようだった。進んでも進んでも、切り立った断崖絶壁ばかりだ。上ることなど到底無理そうな絶壁具合だった。高さにして四十メートルはあるだろう。もし上ることができたとして、万一落ちたりしたなら、あの高さではいくら海でも即死だろう。


 桟橋のあった砂浜以外の場所は、もしかして全部崖なのだろうか、と不安になってきたころ、やっと、小さな砂浜が見つかった。半分の青の月と、ほとんど真ん丸に膨らんだ銀月のお陰で、明かりを灯さなくても周囲が見て取れる。


 それでもデクターは大事を取ると言って、ひとつめの砂浜は素通りした。


 その先は少しなだらかな地形が続き、小舟から上陸できそうな地点をいくつか過ぎた。夜十時を回る頃、デクターはようやく、ここにしよう、と言った。これだけ用心すれば、この島の人たちがふたりを捜そうと思っても、ひと晩ではきっと無理だろう、とマリアラも思う。


 ふたりはつつがなく砂浜に上陸した。デクターは船を小さくし、早速そこにズレを作った。ズレの中だから警戒する必要はないと、眠る前に彼は言った。ゆっくり休んで構わないと。


 でもマリアラは、真夜中を回る時間まで起きていた。デクターの睡眠の妨げにならないよう防水布で覆いを作って、その中に媛の日記と光珠を入れ、温かな飲み物を飲みながらゆっくりと読んだ。時折顔を上げて、月光に照らされた砂浜に、何か脅威が現れないかと確かめることを忘れなかった。


 媛の日記は、幼い子供をもった若い女性の、なんてことない日常が綴られていた。確かに身分の高い女性と手紙をやり取りしていたりする様子は新鮮だし、当時の日常を知る上での学術的な価値を思えば目眩がするほどだ。しかし、今は歴史学の学生ではないマリアラに、なぜモーガン先生がわざわざ現代の言葉に直してまで渡したのかと、内心首をひねっていた。


 でも読み進めるうちに、次第にその理由が明らかになってくる。特にマリアラの興味を引いたのは、【壁】の閉じたエスメラルダの中に、魔物が侵入してくるようになったこと。


『出て行くべきはあたしたちの方だったんじゃないだろうか?』


 媛はそう分析している。彼女の愛する夫はエスメラルダを魔物から守るため組織されたパトロール隊を率い、休日もとらずに働いていたようだ。媛が『魔物と話をしてみたい』と漏らした言葉を実現させようと、無理に生け捕りにしようとして大ケガをしたくだりには、あの人らしいと苦笑してしまった。


 【壁】に囲まれた土地には、魔物が棲み付くようになる。


 マリアラは既に、その話を、モーガン先生のまとめたもう一冊のノートで読んでいた。人魚の匿った魔物の話。毒に染まる前の、純白の、理知的で穏やかで、平和な国の話を。


 アルガスが生け捕ろうとして失敗したという魔物は、純白だったのだろうか。それとも、漆黒だったのだろうか――。

 『毒が抜けた』という記述があるから、たぶん漆黒だったのだろう、けれど。


 それからもうひとつ。媛はいったい何者だったのか、ということだ。知らない単語がいくつかあった。地球、日本、といった単語だ。


 そこから媛は来たらしい。そして、一時期、『世界の謎』を解くのに尻込みしていた。理由は、『青の月』がぼやけて見えるから――。


 マリアラは、外を見て、ぞくりとした。

 ズレの中から見る外は、いつも少し、ぼやけて見える。


 外からは、ズレの中は見えない、という点。ズレの中と外は基本的にそっくりだという点。媛の懸念は、『キファサの先の島国と、自分の知っている『日本』の地図が、そっくりだったらどうしよう』ということ。


 マリアラはもう一度、ぞくりとした。この符号は、本当に、一体なんなのだろう。

 それからもうひとつ、媛が殺されかけたという事件のこと。


 オーレリアという、日記の初めから登場していた、恐らくは媛の姉のような存在との確執が、そもそもの発端だったらしい。


 マリアラ、つまり現代のエスメラルダの常識から言えば、オーレリアの主張は無茶苦茶だ。オーレリアは恐らく、【毒の世界】がどんなところか知らなかったのだろう。【夜】に襲ってくる魔物の大群がどんなに恐ろしいものなのか、知識として知ってはいても、その恐怖を実感するのは難しいものだ(だから現代では、【毒の世界】で撮影された映像の視聴が、義務教育課程に組み込まれている。子供には刺激が強すぎるという反対意見も根強いが、【毒の世界】を軽んじないために必要だという意見が主流だ)。


 エスティエルティナは、鍵だ、と、ビアンカは言っていた。

 【毒の世界】へ通じる扉を開くことのできる、鍵なのだ。


 もし【毒の世界】の恐ろしさがよく知られていない状態で、『孵化の引き金』という考え方が主流になれば、その鍵を持っている人間にかけられる圧力は相当なものだ。その人間によほどの理性と自制心と知識がなければ、その圧力に耐え続けることは難しいだろう。かつてマヌエルがそれほど多くなかった時代、【穴】がほぼ死と同義だったころ、【穴】が空いて誰かが死ぬたびに、【鍵】を使え、中枢へ行けるマヌエルを作り出せ、そうしないとどんどん人が死ぬぞ、と、責められ続けることは容易に想像できる。


 【毒の世界】と『孵化の引き金』の恐ろしさを正しく知っているはずの為政者は、エスティエルティナへの要求をセーブするために、罰則を設けたのではないだろうか。


 現代のマヌエルに、【魔女ビル】を通さずに仕事を依頼することは重罪だ。金貨三枚という多額の罰金を支払わなければならない。そうしなければ、『ついでに』『気軽に』『顔見知りのよしみで』頼まれる仕事だけで、マヌエルが潰れてしまうからなのだ。重体の患者を治したばかりの左巻きに、ついでにと子供の虫歯や咳を治してほしいと頼んでしまう人間は、実際非常に多かったらしい。頼む方は自分だけのつもりでも、マヌエルに会う人会う人みんなが頼めば、負担は相当なものだ。


 同じように、エスティエルティナの近所に住んでいる人、顔見知りの人、道ですれ違った人が、ひとこと気軽に投げかける言葉だけで、エスティエルティナにかけられるプレッシャーは相当なものになると想像できる。いつしか、エスティエルティナに誰が選ばれたかを秘密にするようになったとしても不思議じゃないし、為政者によっては、選ばれた人間をどこか神殿の奥に守るようになったかもしれない。現代、エスティエルティナが魔王だと信じられているのは、もちろん責務の成就を邪魔したいレジナルドがそう仕向けたのだろうけれど、それが定着する下地は充分にあったのかもしれない。


 ふう――ため息をついて、マリアラは頭を整理しようとした。


 それにしても、最後まで読んでも、媛が斬られた動機が、良く分からなかった。


 オーレリアの留守中に起こっているのだ。エスティエルティナがもう一度媛を選んだことで、オーレリアは自分が間違っていたことを認め、しばらく出かけることになった。事件はその数日後だ。一体なぜ、『信者』は、媛を斬らなければならなかったのか。メリットが全然ない気がする。媛は世界で一、二を争う剣豪と結婚していて、同時に彼女自身が、エスメラルダで極めて重要な地位にあった。『草原』という場所にも媛の友人たちがいて、『人肉でどんちゃん騒ぎ』を画策しているし、アナカルシスの王はエルギン――媛に求婚し、その後独身を通した――であり、王弟とその奥方とも友人関係にあるほどの人だ。五人の受けた刑は、戸籍を剥奪され(エスメラルダはもう彼らが誰に何をされても助けない、という宣言と同じだ)、激怒している媛の友人が待ち受ける外の世界に着の身着のままで追放された。犯人たちは、いっそ処刑された方がマシだと思ったのではないだろうか。


 五人は捕らえられ処刑されることを覚悟して、それでも敢行した。

 そこまでの理由が、この日記からは読み取れない。



 ――教えてくれるかなぁ。


 考えて、マリアラは、デクターの方をちらりと見た。彼は寝袋にくるまって、丸まって、熟睡している。寝袋に入る際に枕を持っていたようだが、頭の下には入れていない。


 日記には、この人のことも書いてあった。いや、むしろ頻繁に登場していた。孵化をして【炎】が体に合わなくなったオーレリアから『契約』を『引っ剥がし』、魔物の襲来の頻度を減らすために人魚の骨を取りに行く際にも同行し、地下街で串肉を食べ、アイオリーナ姫のお見舞いにも一緒に行き――本当に、ずいぶん、仲がよかったらしい。


 媛が斬られた時、この人はどうしていたのだろう。きっと怒ったはずだけれど、その動機を聞いても、教えてくれるだろうか――そう訊ねることが、無神経なことに、ならないだろうか。


 ――ビアンカとデクターは、いつ結婚するのだろう。


 媛はそうも書いていた。はたから見ても仲睦まじいふたり。媛はビアンカの花嫁姿を見たがっているが、その夫は、そう簡単ではない、今のままでも充分な進歩だ、と、媛を諭している。


 デクターは、年を取らない。ビアンカはそれを知っていて、そのうえで彼を愛した。恐らく尻込みする彼を口説き落として。古くからの友人は驚き、そして喜んでいる。彼がビアンカを受けいれたことを。


 ビアンカはデクターのかたわらで、ずっと変わらぬ愛情を彼に向け続けた。ドロテオ=ディスタ原作の物語を絵本にした『おひめさまのこい』には、ビアンカ姫がおばあさんになった姿が描かれていたけれど――実際にはビアンカは、三十代の初めでこの世を去っている。でも、それでも十代後半と三十代だ。はたから見たら、恋人同士というよりは、姉弟とか、叔母とその甥とかに、見えるようになっていたかもしれない。


 マリアラは、フェルドのことを考えた。十五歳のフェルドと、十九歳のフェルド。たったの三、四年なのに、その違いはあまりに歴然としていた。マリアラより低かった身長があそこまで伸び、腕の長さも、肩の広さもまるで違う。女性よりも男性の方が成長の証しは顕著だということなのだろう。

 十六歳という年齢のまま、何年も何年も全く変わらない成長期の男の子は、傍から見れば異様だろうか――。


 マリアラはまたため息をついた。ビアンカとデクターのことを考えると、どうしても想像の中で、ビアンカの外見はリーザになってしまう。あの人が何歳なのかは分からないが、多分二十代の前半だろう。彼女のかたわらにデクターが並んでも、既に、恋人同士というよりは、姉と弟に見えてしまうだろう。


 ――この体になって始めのうち、五十年くらいは、全然うまくできなくてね。あの時できてりゃ……


 王宮の裏庭で、デクターはそう言った。ビアンカが生きている間には、デクターは、自分の外見を変える技能をまだ修得していなかった。あの時できていれば、どうなっていたのだろう。ビアンカとの仲も、こじれずに済んだのだろうか。


 一体ビアンカは、彼に何をしたのだろう。

 あんなに、いまだに愛しているのに。どんなひどいことを、してしまったというのだろう。




 いつしか、眠っていたようだった。


 銀月と、青月と。二色の光に照らされたそこは、幻想的だった。波はほとんど無い。南側が島の内部に続く森になっていて、東と西を大きな岩に囲まれた、三十メートル四方くらいの砂浜だ。細かな、綺麗な砂に、時折小さなごつごつした石が混じっている。波打ち際は、記憶の中より少し、南の海側に下がっているようだ。潮が引いたのだろうかと考えて、マリアラは、夢のあまりの細かさに少し驚く。


 そこを、ビアンカが歩いていた。


 音は全く聞こえなかった。マリアラは横になった姿勢のまま、ただ目を見開いて、その光景を見ていた。彼女はとても綺麗だった。月光の加減か、肌の色がとても白くて。腰まである黒髪が緩やかにうねって、彼女の細い体の周りをふわふわと彩っていた。裾のふんわりとした、綺麗なワンピースを着ていた。


 何かを捜しているようだ。時折あたりを見回しては、首をかしげるような仕草を見せる。その顔は、あどけないとさえ言えるようで。


 きっとデクターを捜してるんだ。

 ぼんやりと、マリアラはそう考えた。

 教えてあげなきゃ。彼はここにいるって。


 そう、思ったときだ。


「――……」


 低い、低い、うめき声のような、しわぶきのような、かすかな音が聞こえた。

 マリアラは愕いた。

 デクターが、起きていた。


 彼は食い入るように外を見ていた。彼を捜し回るビアンカの姿を。砂に混じった小さな石に足を取られた彼女がバランスを崩したとき、彼が身じろぎをして。


 マリアラは、やっと気づいた。

 これは、夢じゃない。


「……どうして」


 思わずつぶやき、デクターがぎくりとした。初めてマリアラの存在を思い出したというようにこちらを見、もう一度、『外』を見た。マリアラももう一度見直して、彼女がやはりそこにいることに、改めて愕然とする。


 夢じゃない。だから、彼女はビアンカじゃない。

 リーザ=エルランス・アナカルシスだ。


 あのときの騒ぎでラルフに捕らえられ、その後保安官に引き渡され、投獄されているはずの、狩人の役付――【水の砂】に、間違いなかった。

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