第一章 海上
潮の匂いがする。
マリアラが初めに感じたのはそれだ。
続いて、ぽかぽかとした日光が、体中に降り注いでいたことを認識した。剥き出しの顔や手は冷たいけれど、体にもこもことしたもの――毛布だろうか――が掛けられていて、ぬくぬくとしていい気持ちだ。波の音がする。かすかに潮の味を感じる。疲れもなくて、すっきり爽快な気分だ。
ああ、よく寝たなあ。
のんびりとした気分で目を開けようとした時、その気分とは裏腹な、呪詛のような、低い低い罵り声が聞こえた。
「……さわるな」
ひいっ、と誰かがすぐそばで息を飲むのが聞こえる。
デクターの声だ、と、マリアラは思った。変声器を使っていない、彼の本当の声。
「何度も言わせるな。近づくな。触るな。お前達をまだ生かしてるのはその子が起きたときに余計な罪悪感を持たせないためだけだってことを忘れるな。それ以上指一本でもその子に触れてみろ、全員感電させてひとりひとり舳先に逆さ吊りにして帆を焼いて舵壊して人魚の贄にしてやる……」
怖い。
彼が心底からの本気だということは、その声を聞いただけでよく分かる。マリアラは目を開けた。すぐそばで、凍りついたように中腰で動きを止めているのは、水夫のひとりだ。その向こうに、震え上がった水夫が数人と、それから、恐怖に顔を引きつらせた船長も見える。彼らはどうしたことか、頭からずぶ濡れだった。なのに、すぐそばで眠っていたマリアラも、掛けられていた毛布も、全然濡れていない。
「あ、起きた。おはよう」
デクターは、少し離れた船縁に背を預けて座っていた。さらに驚いたことに、彼はロープでがんじがらめに縛られていた。足を投げ出して、疲れ切った様子だ。何より目が血走っていて、育ちの良さそうな顔立ちなのに、人相がひどく悪い。
マリアラは呆然とした。事態がさっぱり分からない。
デクターは縛られていて、全く動けない状態だ。なのにどうして、水夫たちの方が脅えきっているんだろう?
マリアラはきょろきょろと辺りを見回し、とにかく立ち上がった。歩きだそうとすると、水夫たちが、あああ、と悲鳴のようなため息のような声を漏らした。マリアラが彼らから離れることを止めたいような、しかしどう止めていいのか分からないような、そんな感じだった。
でもとりあえず、水夫たちの方を気にするよりも、デクターの縄を切ってやる方が先だ、ということだけは確かだ。
マリアラが動いたことが引き金になったのか、船長が引きつった声を上げた。
「あ……あんたらだってこの船っ、動かせなきゃ困るだろうっ!?」
「小舟くらい持ってるんだよ」
デクターは軽蔑しきった口調で言いながら、自分の後ろに回ったマリアラがやり易いように少し身動きをした。
「ありがとう、助かったよ。……あー本当に、全く失敗だったよ。初めから小舟で行けば良かったんだ。ただ大きな船の方が彼女の負担が少ないかなって思ったからわざわざお前らを雇ったのに、嘘つきの泥棒の追いはぎどもだったとはね……死んでご先祖様に詫びろ、この恥知らずどもが」
「嘘つきはそっちだろうっ!? よりによってエルカテルミナを騙るなんて――」
とたん、海水が吹き上がった。
巨大な水の柱が、寄り集まっていた水夫と船長を、脅すように、のぞき込むように、頭上からのしかかろうとする。ひいいっ、と悲鳴を上げて水夫達がしゃがみこみ、マリアラは、納得した。そうか、だから船長も水夫もびしょ濡れなのだ。
「誰が騙りだって? 口に気をつけろ。積まれた金を受け取っておきながら寝込みを襲うようなクソ野郎どもが」
ロープは堅くて、なかなか緩まない。マリアラは十徳ナイフを探そうとし、ポケットに見当たらないことに愕然とした。でも、そう、すぐに思い出した。置いてきてしまったのだ。多分、三年か四年前の、あの巨人の頭蓋骨の中に。
「ゆっくりでいいよ。面倒かけて申し訳ない」
デクターは穏やかな口調でマリアラに言い、
「水の槍で串刺しにされたくなけりゃ盗ったナイフ返せ」
打って変わった低い声で水夫に命じた。脅え切った水夫のひとりが、船長の許可を待たずにこちらに滑らせて寄越した。今までにも何度か見た、デクターの持ち物だ。
「本当に申し訳なかったよ」
情けない口調でデクターは言う。
「早い方がいいかと思って船を出させたら、三日目の晩に寝込みを襲われてこの体たらくだ。今日の夕方には島に着く計算になる。着くより先に起きてくれて助かった。……大丈夫、あいつらがあんたに触ったのは、さっきの場所に寝かせた時と、毛布かけた時だけだから」
それ以外の時は全て、さっきのように威嚇してくれていたのだろう。マリアラはほっとして、お礼を言った。
「ありがと」
「いえいえ、どういたしまして。ていうかもう……」
やっと、ロープが切れた。デクターはこわばった両腕を痛そうに前に戻し、血を通わせようと少しずつ動かし始めた。水夫と船長がじりじりと後ずさり、船室の壁にぶつかって止まった。
と、吹き上がったままだった水が、唐突に彼らに襲いかかった。
「……待って!」
と思わずマリアラが声を上げたほど、攻撃的な動きだった。水は彼らを船室の前から、甲板の上を止める様子もなくどんどん押し流していく。このままじゃ海に落ちる、マリアラが顔を覆いかけた瞬間、水はぴたりと動きを止めた。溺れそうになっていた水夫たちがばしゃばしゃもがいてぷはっと顔を出し、喘ぐ。
四方八方から人の頭が突き出た水の固まりは不格好で、グロテスクだった。デクターは全員の頭が出ていることを確認してから、おもむろにそれを凍らせた。もはや泣き出している水夫がほとんどだ。
「島に着いたら錨つけて沈めてやる……」
低い声で呪詛を吐きながら、彼はゆっくり歩いて船室へ向かった。船長が叫んでいる。
「嵐がくるぞ! 高波の前兆だ! 帆を畳んでっ船室に入らないとっ」
マリアラは思わず空を見上げたが、一点の曇りもない快晴だ。デクターは見上げもしなかった。
「あっそ」
「いやいやいやいや!? 船動かすにゃ水夫が必要だしょ!? 着岸とかどーすんだ、桟橋にぶつけずに停められんのかあんた!?」
「島が見えたら自前の小舟に移るから」
「いや停めろよ! 桟橋も船も壊れるだろ!?」
「俺は全ッ然困らないから」
「おおいいっ、うちの島にゃでっかい船はこれ一艘しかないんだぞ!」
「知るか」
デクターはマリアラに、その場で待つようにと言ってから、船室に入り込んだ。中でがたんばたんがちゃんと、何やら破壊的な音がしている。鬱憤を晴らすかのような、情け容赦のない騒音だ。
と、船長がマリアラに向けて叫んだ。
「ちょちょちょちょ、ちょっとあんた! そこのかわい子ちゃん! ほんのちょっとでいいから助けてえっ」
「助けるなよ、言っておくけど」
中の騒音がぴたりと止んで、デクターが顔を覗かせ、手にしていた袋をずいっとマリアラに差し出した。
「孵化の直後だ、腹減ってるだろ? 盗られたもの全部取り返して、あいつらの財産全部海に沈めるまで、ちょっとそれ食べて待ってて」
「沈めるな! 沈めるなよおー!」
船長の泣き声を無視して、デクターはまた船室に引っ込んだ。マリアラは指摘されて初めて、自分がつくづく空っぽだということに気づいた。空腹感、というよりむしろ、飢餓感が押し寄せてくる。
袋の中には色とりどりの食べ物がぎっしり入っていた。チーズの固まりがごろごろ入った丸いパン、太いソーセージをのせたパン、ポテトサラダの詰まったパン、レーズン入りのロールパン。パックに入ったサラダ、焼き菓子が数種類と果物。お茶もちゃんと入っている。
マリアラは椅子を探す時間も惜しく、その場に座り込んで、必死で口の中にぎゅうぎゅう詰め込んだ。固形物が喉を通るだけで、体中が歓喜の声を上げる気がした。お腹がすいてたんだ、すいてたんだ、すいてたんだあ、としゃくり上げるような胃袋をなだめつつ、フェルドは気の毒だった、と心底思った。フェルドは二度目の孵化の直後、流動物しかもらえなかったのだ。それは逃亡してステーキを注文して貪り食らってもいい。
「寒いよおー! 凍傷になるよおー!」
パンを三つ食べ終え、胃袋が少し落ち着くと、また船長の声も聞こえ始めた。マリアラは思わず腰を浮かせた。氷づけにされているのだ、当然寒いに決まっている。顔が真っ青で、水夫の半分近くは意識がもうろうとし始めている。マリアラは急いで食べかけのものを一度全部袋に戻し、扉の中に声をかけた。
「……あの……」
「あ、いーよ。もう大丈夫、中入って」
デクターが扉を開けて言った。船室の中には、入ってすぐに下へ通じる階段があり、その向こうが二間に分かれていて、ひとつが客室、もうひとつが操舵室だ。地下に通じる階段には大きな板が乗せられて、移動できないように固定されている。操舵室には書類やさまざまな器具がたくさんあったが、客室に以前はあふれていた道具はすべて一掃されていた。ハンモックがひとつ、それ以外には全く何もない。
「……荷物、全部捨てたの?」
「捨ててはない。没収しただけ」
「……凍え死んじゃうよ」
するとデクターはマリアラを見て、ふうっとため息をつく。
「悪いけど肉弾戦は不得手なんだよ。近づいてまた縛られるのは勘弁だし」
「あのね、融かしても、みんなすぐには動けないよ。顔色が真っ青で、寝そうになってる人も……縛るのは、わたしがやるから。お願い、融かしてもいいでしょう?」
「縛るって、あのね。人縛るのって難しいよ。絶対緩まない縛り方なんて知ってんの」
「知らないけど、……でも……」
「あーくそ、もう。わかったよ」
デクターはため息をつき、マリアラの隣を擦り抜けて甲板に出た。船長はまだ何か言っているけれど、歯の根が合わなくてガチガチ震え、言葉になっていない。彼らに抵抗の意志が全くないことを見て取ったのだろう、デクターはもう一度、ため息をついた。
「融かしてやれば? 治療まではやめて。島に着くまでに数時間でいいから寝たいんだよ」
「あの、あの。地下の船室に閉じ込めるってのはどう、かな。あの、運ぶのは、わたしやるから」
「あんな奴らに近づいたらダメだ」デクターは心底真面目な口調で言った。「嘘つきの、泥棒の、恥知らずの、ならず者だぞ。いくら凍死寸前でも近づいたらダメだ。今度のことでつくづく肝が冷えた。あんたにもし何かあったら」
言いかけて、デクターはマリアラを見た。
「まあでもとにかく融かさないと死ぬってのは分かった。融かしていーよ」
……でも。
マリアラは途方に暮れていた。二度目を言われるまでもなく、とっくに取り掛かっていたのだ。でも、氷が融けない。
というか、どうやって融かしたらいいのか分からない。マリアラは指先を見つめ、焦った。
魔力が使えない。
「……どうした」
デクターが言い、ばしゃっ、と水音がした。デクターが、やすやすと氷を融かしたのだ。マリアラはようやく事態を悟って、動揺した。
――どうしよう。
心底、ぞっとした。
――魔力の使い方が分からない。
デクターは結局、水夫と船長をマストや船縁の金具に縛り付けてから、全員を乾かした。血の気が戻るまで温かい風を吹き付けてやってもいたので、やはりこの人は何だかんだ言って親切なのだと、まだ途方に暮れながらマリアラは考えた。デクターが睡眠を取る間、マリアラは船室の外で、彼らを見張ることになった。と言っても、全員体力を消耗してぐったりしていたから、それほど心配はいらなさそうだったけれど。
「大丈夫だよ」
船室に入る直前で振り返って、デクターはなんでもない口調で言った。
「孵化した直後に魔力が使えなくなるってのはよくある話だ。体質が変わって、混乱してるだけだ。すぐ思い出すよ」
うん、と、マリアラはうなずいた。丸一日以上全く眠れなかったデクターを、これ以上煩わせたくなかった。
でも、到底平気ではいられなかった。魔力が弱くなっていることを発見した時より、もっとショックだった。何か恐ろしい目にマリアラの周りに自然に渦を巻いていた風も、体の中と外でいつでも優しく語りかけてくるようだった水も、最大の味方であったはずの光も、もはや、その意志を感知できなくなっている。
どうしよう、と、思わずにはいられなかった。
イェイラが――そしてミランダが、フェルドの本当の相棒なのだと、思い込んでいたあの頃よりも、もっともっと打ちのめされていた。二度目の孵化を迎えて、やっとフェルドに釣り合う相棒になれるのかと思っていたのに。
本当の相棒になれるのだと、思っていたのに。
「やっぱりわたし、違うんじゃ……」
言いかけて、残りの言葉は飲み込んだ。十五歳のフェルドを選ばなかった罰なのかもしれない、という恐怖も押さえ付けた。たとえそうでも、二度目の孵化で自分がマヌエルではなくただの人間に戻ってしまったのだとしても――だとしても、マリアラがフェルドに会いたいという気持ちには、何の影響もないはずだ。
エルカテルミナだから会いたいんじゃない。
フェルドだから会いたいのだ。
そう確認して、マリアラは、さっきの食事の続きに戻った。かなりの量を食べているのに、飢餓感はまだ残っている。デクターは全く行き届いた人だった。食べ物はどれもおいしく、充分な量があり、本当にありがたかった。かみごたえのあるチーズ入りのパンを一生懸命噛みながら、マリアラは、今魔力を測ったらどれくらいなのだろう、と、ぼんやり考えた。




