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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の相棒
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五日目 非番 午前(4)


     *


 専攻会に入ってからと言うもの、朝八時に寮を出る癖がついた。

 リン=アリエノールは、足早に歩きながら袖をくんくん嗅いだ。朝食の後片づけ当番だったから、ソースの匂いが残っているような気がする。大丈夫だろうか。


「おーい、リーン」


 寮の窓辺から少女が言った。ダリアの声だ。見上げるとそこにいたのはダリアだけではなく、同い年のリンの“家族”たちが数人。彼女たちは手を振りながら口々にリンに激励の言葉を降らせた。


「リン、頑張ってねー!」

「朝から偉いねー!」

「リン、寮母さんがこれ持ってきなさいって」


 ぽーい、ダリアが放ったのはなんと、水筒だ。リンは慌てて右往左往し、危ういところでキャッチした。小ぶりな水筒はずしんと手に重い。手が痺れて、リンは仰向いて抗議する。


「あっぶな! 落としたらどうすんの!」

「リンが落とすわけないって信じてるからー」

「はあ!?」

「これからも落とすわけないって信じてるからー!」

「うまいこと言った!」

「なるほど、うまいこと言った!」


 周囲の少女たちが無責任な喝采を浴びせダリアはふふんと胸を張る。リンは苦笑して手を振った。


「ありがとー、行ってきまーす」

「行ってらっしゃーい!」

「進めリン、少女寮三十八番期待の星!」

「ごーごーリーン、負けるなリーン!」

「恥ずかしいからやめてー」


 リンは慌てて駆けだした。寮母さんが預けてくれた水筒は、開けてみるまでもなく、温かいミルクティーだとわかっていた。その期待が嬉しい。そして恥ずかしい。


 リンが保護局員を目指すことを、ダリアも寮母も、他の寮生たちも応援してくれている。

 打ち明ける前は、“現実を見ろ”と諫められるだろうと思っていた。リンの成績では、保護局員なんて夢のまた夢だ。もう少し現実的な職業を目指す方がいいと、きっと諭される。そう思っていたのだ。

 でも現実は違った。マリアラもそうだったが、ダリアも寮母も笑わなかった。応援してくれている、それがとてもよくわかる。その応援には応えたい。できる限りのことをしなければ。


 保護局員試験は難関で、数々の試験対策が必要となるため、各学区に“保護局員試験対策専攻会”が存在している。その専攻会を卒業して晴れて局員になった人たちが、今度はオブザーバーとして後輩の指導に来たりアドバイスをくれたりする。もちろん専攻会外から受験してもいいのだが、受験前も、合格したその後も、専攻会に入っておいた方が絶対に有利だと言われ、リンも受験を決めた直後、いの一番に専攻会に入会した。最近、通常の授業の前や合間に専攻会室に行き、試験対策をするのが日課になっている。座学は後回しにすることにして、まずはひとつずつ研修をこなしていかなければならない。先輩方にアドバイスをもらいながら研修計画書を仕上げ、提出しなければ間に合わなくなってしまう。


 ぐい。


 出し抜けに、背後から襟首を掴まれた。


「――!」


 路地に引きずり込まれ、だん、と背中を壁にたたき付けられた。痛みと衝撃で息が詰まったリンを押さえつけ、ぬうっ、と覗き込んできたのは知らない男だ。


「リン=アリエノール?」


 低い声がリンを呼んだ。息が、酒臭い。リンは暴れることも大声を上げることもできなかった。男の腕があまりに強くて情け容赦がなくて、恐怖で頭の中が真っ白だ。


「何をしている!」


 見とがめた通行人が助けに入ろうとした。が、男がその人の鼻先に、ずいっと丸いものを突きつけた。「あ、これは」助け船が声を改めた。リンを押さえ込んだ男が嗤う。


「ご協力どーも」

「……ご苦労様です」


 通行人が遠ざかっていく。リンはその男が掲げたものを見てぞっとした。

 保護局員の身分であることを証明する、銀のバッジだった。


「お前、リン=アリエノールだな?」


 男がリンに向き直る。真っ白だったリンの頭の中には、今は疑問符が飛び交っている。保護局員? 保護局員なの? 保護局員が、どうしてあたしを逮捕するの? 疑問が脳をぐるぐる回り、事態がさっぱりわからない。


「こないだ雪山に狩人が侵入した時に被害に遭った、リン=アリエノールだな?」


 男が繰り返し、リンはこくこく頷いた。首元を絞められてはいるが苦しいと言うほどではない。でも、打ち付けられた頭と背中が痛いし、男の拳が万力のようで、恐怖で全然動けない。


「あの、あの、……これはいったい、何……」

「うるせえ」


 だん。また頭と背中を壁に打ち付けられ火花が散った。男が顔を近づけてくる。生臭いような異臭。汚れた歯と濁った瞳。とても巨大な、粗野な顔つき。

 これは本当に保護局員なのか。疑問だけが浮かんでくる。

 ――あたしがこれから目指そうとしている職業の、ひとりなのか。


「お前雪山の保護局員詰所にいた職員に暴言吐いたんだってな」


 保護局員はまだ名乗りもせずリンにバッジをきちんと見せることもなく、嬲るような口調でそう言った。


「報告書が上がってんぞ。同行してもらおうか」

「ど」

「任意同行だ。同意するな?」


 男はリンの鼻先に、小さな機械を突きつけた。スイッチを入れ、繰り返した。


「リン=アリエノール。保護局員への暴言に関する取り調べのため任意同行を依頼する。同意するな?」

「――」

「言え!」


 だん、もう一度石壁に叩きつけられた。恐怖で頭が働かなかった。逆らったら何をされるかわからない。従えば最悪の事態だけは回避できるのではないか。状況がまるでわからず、判断など何もできなかった。ただ機械的に同意しようとした寸前、明るい声が言った。


「ベルトラン。――あなた馬鹿じゃないの?」

「――あ?」


 ふわり。

 いい匂いが吹き付けた。


 何がどうなったのかわからないまま、ベルトラン、と呼ばれた男の匂いを吹き散らすように、いい匂いがリンを包み込んだ。万力のようだった男の拳が外れ、気がつくとリンの目の前に、誰かの背中があった。リンより背の低いその人は、栗色の髪を持っていた。いい匂いのするその人は、きびきびとベルトランに言った。


「そう言うのは任意同行とは言わないわ。あなたね、また始末書書くつもりなの? いったい何枚書けば気が済むの? 学習能力ってものがないの?」

「俺は報告を受けて――」

「ああ、“雪山でリン=アリエノールから暴言を受けた保護局員”の報告書ね? ヴァイトって言ったかしら?」

「そう、そいつだ」

「バーカ」彼女は軽蔑しきったように吐き捨てた。「本当に、ばっかじゃないの? それが始末書ものだって言ってんのよ! あの報告書はあくまで事実関係を整理するためだけに作成された内部文書よ! ヴァイトに彼女を告発する意思なんかないし、彼女の報告を信じないで突っぱね続けたせいでヴァイトは二ヶ月減給処分になったの、その処分の根拠になった文書だからあれは彼女じゃなくてヴァイトの落ち度を示すための文書なのよもう本当にバカじゃないの!? 通報される前に消えなさい、バカ!」


「な――」


 ベルトランは引き下がる様子がないが、彼女はリンの手を掴んで歩き出した。「待て!」怖ろしい声ががなる。反射的に足が竦みそうになったリンを、「歩いて」彼女の声が励ました。リンは歩いた。何度も打ち付けられた後頭部と背中が痛い。目眩がする。吐き気もしてきた。でもここで止まってはいけないことだけは、この人を見失ってはいけないことだけは、本当によくわかる。

 大通りに出て、人混みに紛れた。彼女はちらりと後ろを見、ベルトランとの距離を確かめた。追いかけて来ていなかったのか、歩調が少し緩んだ。人通りを突っ切り、動道の下をくぐる地下道へ入った。


 彼女は小柄だが、きびきびして、とても有能そうな人だった。栗色の髪は一本にまとめられ、頭の高い位置で結い上げられている。その髪から、とてもいい匂いがするのだ。地下道の半ばで彼女は振り返り、リンの顔色を見て慌てた。


「ちょっと、座りましょう。――大丈夫?」


 地下道の壁際に作り付けられたベンチに座らされた。あのいい匂いがリンを包み込む。リンはハンカチを取り出して口元を押さえた。

 狩人に攫われて“あの子を棄てないとここで殺す”と言われたあの時より、ずっとずっと怖かった。


「ごめんなさい、もう少し早く気がつけば良かったんだけど」


 彼女は一度離れていき、自動販売機で冷たいレモンティーを買ってきた。プルトップを開け、飲みなさい、と口元に宛がわれた。一口飲むと、冷たくて甘くて、目眩が少し遠のいた。彼女の手がリンの背をそっと撫でた。


「治療院に行きましょう。その……通報はやめた方がいいわ。逆恨みされないとも限らないから――」

「あの人、何なんですか……保護局員のバッジ、持ってましたけど……保護局員、なんですか」

「ええ」彼女は沈鬱な顔で頷いた。「あいつはまあ、残念だけど、正真正銘の保護局員なのよ。警備隊のクズの中のクズ。こないだの仮魔女試験の時のような大事件があると、報告書がたくさん作られる。あいつは落ち着いた頃にそれを見て、その……言いがかりをつけられそうな子を探すの。そして任意同行を強いて、“取り調べ”をするわけ。本当に、本当に、間に合って良かったわ」


 少し、気分が良くなってきた。リンは顔を上げて、彼女をまともに見た。

 素敵なスーツをびしっと着こなした彼女は、年上らしい。けれど、リンとあまり変わらないくらいの年齢に見える。


「あの……あなたは?」


 訊ねると彼女は、微笑んだ。


「あたしは南大島北部詰所所属、ステラ=オルブライト。よろしくね、リン=アリエノールさん」


 丸い眼鏡が、きらりと光った。彼女が実年齢より幼く見えるのは、きっとこの眼鏡のせいだ、とリンは思った。瓶の底みたいな、色気もへったくれもない大きな丸眼鏡。

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