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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の誕生
659/781

 リーザ・エルランス=アナカルシスは、新聞で取り沙汰されていた、数々の犯罪が嘘のように大人しかった。


 イェルディアで拉致され、荷物のように移動させられている数日も、船に積み込まれて否応なしに船旅をさせられている間も、まるで人形のように静かだった。なぜ自分を連れていくのか、どうしてこんな島に連れてきたのか――説明しろと暴れ出すのではないかと、フランチェスカはだいぶ期待していたのだが、リーザは全然暴れなかった。全てのことに投げやりで、どうでもよさそうに思える。




 この島に連れてこられて三日が経った。

 リーザが大人しいからなのか、待遇はそれほど悪くなかった。


 木の香も新しい小さな小屋が彼女に当てがわれた住処だった。植物の草で編まれた風変わりな床材が敷かれたそれほど広くない部屋の隣には、小さな温泉がついていて、リーザが気が向けばいつでも入れるようになっていた。食事も三食、きちんと届けられた。温泉の隣には清潔な、水洗トイレまである。小屋には鍵もかけられていない。島から出るのは無理にしても、島の中ならどこでも自由に歩き回って良いと言うことらしい。虜囚にしては相当良い待遇と言える。


 今日もリーザがうとうとと眠って過ごしているので、フランチェスカは小屋を抜け出し、島を見にいくことにした。

 この島に住む人々は貧しい。下働きの人間は裸足だ。衣類も、そっけないすとんとした貫頭衣を着ているものが多く、装飾なんてほとんどない。温泉が湧いているからか、みな清潔ではあるのだが、栄養は行き届いていないのではないかと思われるほど痩せている人間が多い。加えて、子供たちの姿をあまり見ない。


 フランチェスカは見咎められないよう注意しながら島を見て回った。

 着いた時に見たとおり、この島は、ほとんど断崖絶壁に囲まれた絶海の孤島だ。


 大きさは南大島くらいはあるだろう。しかし比べ物にならないほど険しい島だ。船をつけられる場所は、西側に大きな港が一つある(リーザもそこから上陸した)。そこから島をぐるりと回った北側に小さな砂浜がいくつかあり、海苔や海藻を収穫する拠点として使われているが、それ以外はほとんど聳り立つ断崖絶壁になっている。人が住める平地をぐるりと囲むようにごつごつした岩があり、海から見上げるとその頂きは、40から50メートルはあるところがほとんどだ。


 午前中から昼過ぎまでかかって、人の住む場所をぐるりと見て回ったフランチェスカは、西の港に差し掛かった。

 おや、と思う。なんだか、騒がしい――ような。


 物見櫓にいる人間が何か叫んでいる。「……――だ!」また聞こえた。「……って……きた……!」下にいた若者が命じられ、村に注進すべく走っていく。


 船が来るようだ。フランチェスカは知らせに走る若者を追って走り出した。背後で、果たして物見櫓の上にいる人間が叫ぶ声がはっきりと聞こえた。


「船だ――! 『水の女神』号が戻ってきたぞ――!」




 この島に住む人間の大半は貧しいが、それは、この島に富がないと言うことではない。

 この島には王がいるのだ。――王と、その娘。


 王は『長』と呼ばれ、その娘は『レイルナート』と呼ばれている。長はこの島の全ての富を独占し、全てのことを一人で決めていた。その権力は、ひとえに、その娘『レイルナート』によって支えられているようだ。


 ここにきてからの三日の間、注意深く観察したおかげで、そのあたりまでは掴めている。レイルナートといえば水の女神の名前である。そんな大それた名を臆面もなく娘に付け、周りから崇めさせていることを思うと、どうやら〈水鏡〉を授けられたのは長の娘なのではないか。そこまで推測はつけられていたのだが、まだレイルナートの能力を確かめるところまでは至っていない。


 長とその娘が住む家は、島の中でも一番豪奢で絢爛たる御殿である。たった二人の住人のために、他の島人の住む家の百軒分くらいの敷地と建材を使って作られている。

 港から休まず走り続けた若者はまず、その家の一番外側にある御用聞の小屋へ行った。門番や警備を担当する人間たちが詰める場所らしい。そこで用を聞き取ったのは、シゲタという名の、四十過ぎの男だった。


 シゲタはどうやら長の右腕のような立場にいる。この御殿の全てのこと、この島で起こる全てのことは、シゲタが采配することが多いようだ。リーザを拉致して連れてきた男たちを労い、休ませ、リーザをあの小屋に連れて行ったのもこの男だ。なかなか細やかな気配りのできる男らしく、リーザの食事にはいつもさまざまな彩りがあるし、入浴に必要なタオルや石鹸も適切なタイミングで交換される。


 シゲタは連絡を受けるとすぐに長に知らせに行った。シゲタはまことに行き届いた男で、島をほとんど横切るほどの距離を走ってきた若者に、冷たい飲み物を振る舞うよう命じることも忘れなかった。




 フランチェスカが姿を見せてついていってもシゲタは別に咎めなかった。

 シゲタはは初めから――リーザにくっついてこの島にやってきた時から、フランチェスカに気づいていた。でも今まで、追いかけるのはもちろんのこと、フランチェスカを捕えるよう周りに命じることもしなかった。細やかなのか大雑把なのかわからない。シゲタが咎めないので、周りのものたちも咎めないのがありがたい。


 フランチェスカはシゲタの後に続いて長の部屋を覗き込んだ。

 草で編んだ厚みのある床材は真新しく、草っぽい匂いがした。床材の縁は美しい布で縁取られていて、大きさが揃っているので、縁取りが幾何学模様を描いていて、清廉さを感じさせる。正面は、リーザの部屋にもある、紙で張られたついたてで仕切られていた。右手の壁は開け放たれていて、見事な庭が見えている。

 しかしその部屋の主人の方は、一段高く設えられた高座に寝そべって、とてもだらしなかった。


 長にこんなに近づいたのは初めてだ。広い部屋なのでまだ十数メートルは距離があるが、フランチェスカと長の間を隔てるものがなく、長の姿がよく見えた。でっぷり太った体を白装束に包んだ長は、とても醜悪な男だった。遠目に見ていた時も思っていたが、間近でみるとその醜悪さが際立つ。白装束は他のものが着ている粗末な貫頭衣とは全く違い、おそらく絹と麻を組み合わせて作られている。複雑な作りだ。さまざまな箇所を飾り紐で結んであったはずだが、今はだらしなくゆるめてある。


「長。船が戻ってきます」


 シゲタがそう言い、長は、「おお」と言った。


「リーザ姫の出番だな」

「はい。支度をさせておきます」

「美しく装いを調えろ」


 長はそう言い、にいー……と笑った。

 その時フランチェスカは、ふと、匂いを感じた。

 くらり、眩暈がした。


 ――いい、匂い。


 フランチェスカは驚いた。なんと……なんと妙なる、芳香だろう。どこから漂うのだろう? フランチェスカは酩酊しそうになり、首を振って自分を取り戻し、座り直した。芳香は、長の部屋の中から漂ってくる。ごくかすかな香りだ。


 ――美味しそう。


 そう感じる。美味しそう――そうだ、その芳香は、狂おしいほどに美味しそうだった。今まで一度も味わったことがないのに、絶対に美味しいとわかっている。ああ、恥も外聞もなく齧り付いて、口いっぱいに頬張りたいと切望せずにはいられない、その香りは、いったいどこから漂ってくるのか。


「レイルナート」


 長が声をあげ、フランチェスカは、その部屋の中に長の娘がいるのに気づいた。

 右手の方、壁が開け放たれて庭が見えているところに、少女がひとり立っていた。スケッチブックを抱えている。

 マリアラやミランダと同じ年頃の、美しい少女だった。切長の目、すっと通った鼻筋。この島の人間たちはみな、エスメラルダやアナカルシス近辺の人々とは違う人種に属するらしく、肌の色が少し違う。色が濃いのだ。今現れた少女は特に、玉子の黄身をふんだんに使って作ったクリームのような色合いで、この部屋の中に漂う酩酊しそうな美味しそうな匂いのせいもあり、ちょっと味見をしたくなる。


 レイルナートと呼ばれた少女は父親のだらしない寝姿を見て、眉を顰めた。軽蔑するような視線だった。長は機嫌が良さそうに、言った。


「船が帰ってきた。明日は宴だぞ、シゲタがいつでもお前を見つけられるようにしておけよ」

「お願い申し上げます」


 シゲタが慇懃に頭を下げ、レイルナートは嫌そうな顔をしていたが、微かに頷いた。

 船には誰が乗っているのだろうとフランチェスカは考えた。リーザがここに連れてこられたのは、その船に乗っている誰かが理由らしいけれど。


 ああ、それにしても良い匂いだ。人間の中にごく稀にいる、死ぬほどうまい人間――それがこの近くにいることは明らかだった。長だろうか。この長を食べれば、フランチェスカのこの弱りきった体を、復活させることができるのだろうか。


「では、出迎えに行って参ります」


 シゲタがそう言い、踵を返した。シゲタはすり足で歩いた。草でできた床材の縁を踏まぬように気をつけているのにフランチェスカは気づいた。いい匂いに酩酊しそうになっていたから、身を隠すのが遅れ、フランチェスカはまともにシゲタと目が合ってしまった。


 すうっ――と、シゲタの目が細くなった。ついにシゲタはフランチェスカを捕えようとするかもしれない。ちょっと身構えたが、シゲタはうっそりと微笑んだだけで、フランチェスカの脇を通り過ぎた。フランチェスカは思わずシゲタの、通り過ぎてゆく後ろ姿を見つめた。


 ――嗤った。


 ここに来て、シゲタが微笑むのを見たのは初めてだ。やけに禍々しい微笑みだった。フランチェスカがただの猫ではないことを、シゲタは知っているような気がした。何か災厄を期待するかのような、微笑みだった。

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