ジェイドとデート(1)
また雪が降り出した。憂鬱な季節の始まりだ。
でもリンは、今は窓の外など見ている余裕がなかった。鏡の前からどうしても動くことができない。何しろ今日は、ジェイドにリンの行きつけのパン屋さんを紹介する日なのである……!
「ううう……ダリアにアドバイスしてほしい……」
鏡に映る自分を見つめて、また呻いた。同じことをもう何度呟いたかわからない。
鏡の中で、リンは、裾のふんわりしたスカートを履いていた。
それも白だ。
これを買った時、ダリアはよく似合うと太鼓判を押してくれたけれど、本当にそうなのか、本当に大丈夫なのか、自分でまったく判断ができないのだった。長年の習慣の作り出す壁は、予想以上に強固だった。リンは背が高く、同時に細身なので、どうしてもひょろりとして見える。だから今まで、裾のふんわりしたスカートを避けてきた。胸がないので、かわいらしい格好をすると幼年組の少女をそのまま上に引き伸ばしたかのような錯覚に駆られるからだ。でも、ダリアはその考え方自体がそもそも間違っているのだと、自信たっぷりに言うのだった。
「髪をもうちょっと伸ばすのよ、リン。リンの髪はもうちょっと伸ばせばうねるはずなの」
「なんでわかんの!? それが嫌で短くしてんのに……!」
「まったくもうっ、リンってば自分の武器を何だと思ってんの!? その色でその髪質! 伸ばせばふわっふわじゃないの!」
「だからそれがっ」
「それが何よ!? 適切なケアと適切なアレンジで、あっと言う間に華やかヘアのできあがりよバカー!」
などという押し問答を店内で繰り広げたあげく、ついに、リンはこのスカートを買った。ダリアに適切な上着も見繕ってもらって、適切な化粧も伝授してもらって、あの時はこれで大丈夫だと思ったのだ。
でも。
「よく考えてみりゃまだ髪伸びてないじゃん……?」
それに気づいてからというもの、もう、にっちもさっちも進めない。リンは途方に暮れて鏡を見つめるしかない。もうあんまり時間がない。今日のところはあきらめて、普段どおりの服を着るか、と思い始めたころ、部屋の電話が鳴った。
まさか急な呼び出しだろうか。
冬になって忙しいジェイドがやっと半日確保してくれた貴重な時間なのに。
「も……もしもし……」
びくびくしながら出ると、受話器の向こうから流れ出たのは他ならぬダリアの声だった。
『やっほーリン、準備できた~?』
「ダリアー!」
リンは思わず叫んだ。その声に含まれた弱気に、ダリアは敏感に気付いた。
『あのスカート履いてるでしょうね? 言ったでしょ、今日は絶対あれ履いて行くのよ!』
「う、う、で、でもでも」
『でもじゃないわよもー!』
「だってまだ髪伸びてないしっ」
『伸びてなくても大丈夫! ちゃんと教えたとおりに髪も作ったんでしょ!?』
「やったけど……でも……」
『じゃあ大丈夫! リンはかわいい! すっごく似合う! あたしを信じなさい!』
「……信じてるけど~」
『あのねえリン、ジェイドを誰かに取られてもいいの!?』
とたんにリンは絶句した。ダリアが続ける。
『一度告白して振られて二度目をすかされたってことはね! いいリン、ジェイドはね、バカってことなの! それもただのバカじゃない、大バカってことなのよ!』
「ば、バカじゃないよ、だって、」
『普段どんなにすてきで賢くったってね、恋愛に関しては大バカのこんこんちきなの! だからスカート履いてけって言ってんの! 何度も言うけど待ち合わせの時間より三分遅れて行くのよ、これは絶対よ! いい!?』
「う、うん……」
『気をつけてね』ダリアは心底まじめな声で言った。『事務所前の噴水で待ち合わせって言ったっけ? 官舎からも近いわよね? 雪だからまあ……大丈夫かな。ねえリン、応援してるから。だから、ジェイドと付き合いたいなら、あたしを信じて』
「うん……わかった」
リンは覚悟を決めた。ダリアがこうまで言ってくれているのだ、それに応えなければ女が廃るというものだ。
「ダリア、ありがと。頑張ってくる」
『うん。ね、リン、大丈夫だよ。リンは本当に可愛いよ』
だから気をつけてね、と、ダリアは言った。リンはうん気をつけるよと返して電話を切った。自惚れでも自慢でもなく、ダリアに言われずとも自分が平均以上の外見を持っていることを、リンは重々知っていた。だからこそ気後れしているのだ。普段どおりにしていれば一定以上の評価を得られると分かっているのに、あえてそこから踏み出すのは勇気のいることだ。
持ち物をチェックし、部屋の時計を睨んだ。待ち合わせの時間まで、あと五分。事務所前の噴水まで、ゆっくり歩いて五分。三分遅刻するためには、あと三分、ここで時間をつぶさなければならない。再び鏡を覗いて、ため息をひとつ。
「そもそも三分の遅刻を勧めるってどういうことなんだろう……」
いぶかしみつつも、すぐにでも出られる準備を整えて、時計を睨んだ。時間を厳守することを子供のころからたたき込まれているエスメラルダ人であるリンには、わざと遅刻するということがどうにも落ち着かない。まあ三分ならば許容範囲ではあるだろう。ヘアワックスをつけて少しくしゃくしゃにした髪の一房をつまみ、ダリアが教えてくれたのとそう遠くない形に仕上がっていることを確認する。なんてことだとリンは嘆く。たぶん似合っていると思うのだけれど、普段と違う装いだというだけでこんなに自信がなくなるなんて。
あとは部屋中をうろうろして時間をつぶし、三分後、リンは部屋の扉を開ける。あのパン屋さんは混むのだ。店内で食べる時間を確保するには、昼になる少し前に行かなければならないから、あまり遅刻するわけにはいかない。
待ち合わせの時刻は十一時。ジェイドの空き時間は夕方の四時までだ。
リンと会ってから、ジェイドには食べ歩きの楽しみができたのだそうだ。
でも、冬のエスメラルダでは、マヌエルはそう頻繁に休みを取ることはできない。だからジェイドはリンに、テイクアウトできる美味しい店を教えてくれるように頼んだ。仕事の合間に美味しい物を食べられる楽しみがあれば、働く元気も出る、とジェイドは言った。リンにもその気持ちはとてもよく分かるので、喜んで協力しようというわけである。
階段を駆け降り、雪の降りしきる外へ出た。路面は既に発熱し、傾斜も始まっているので、雪は全然ない。しかし周囲の建物や街灯、街路樹などには積もり始めている。冷たい空気の中で、ふわふわのスカートは心もとなかった。もちろん厚手のタイツは履いているけれど、久しぶりに履くスカートはやはり無防備な気分になる。もこもこのコートをかき寄せ、襟巻きに鼻までうずめて、リンは足早に道を歩いた。
それから、思い出して、ハンドバッグを覗き込んで話しかけた。
「リーナ、起きて」
「……にゃー」
リーナの声がする。ハンドバッグの内ポケットの中という定位置から、リーナのしっぽがちょろんと覗く。リンは囁いた。
「ごめん、ちょっと遅くなったの。もうすぐ着くから待っててって、ジェイドに伝えて」
「にゃあー」
リーナが顔を見せた。なんだそんなこと、よっぽど後ろめたいのね、と言わんばかりの笑みを含んだ瞳に見られ、リンは、そんなことないもん、と言い訳しながらハンドバッグを閉じた。
今、リーナに魔力を供給しているのはジェイドだ。
グールドの事件の時に山の中に捨てられていたリーナは、回収され、グレゴリーによって損傷と機能のチェックを受ける時、リンとジェイドの了解を得て、魔力供給者の設定をされた。だから今やリーナはその気になれば、自力で元の大きさに戻って、自由に動き回ることができた。必要があれば、ジェイドに連絡を取ることもできる。そうすれば、リンかリーナが危険を察知すれば、すぐジェイドに連絡することができるから、とグレゴリーは言うのだった。
よっぽど心配されているらしい。リンにはそれが、ちょっとこそばゆかった。別にそんなに心配することなんかないのに、と思わずにはいられない。リンはちゃんと口止め料を受け取ったし、そもそも、『あの男』はもはや校長の座に座ってさえいないのだ。
今の校長は、イェールという男だった。警備隊の出身で、長年元老院議員を務めた実直な人だ。ガストンが新人の頃から目をかけてくれていて、ガストンが今まで数々の命令無視やスタンドプレーを行ったにも関わらず、国外に行かされず、保護局を首にもなっていないのは、イェールが庇ってくれていたからだという。
校長就任後に、リンはガストンの指示で、イェールの声を注意深く聞いたのだが、あの深い余韻は感じなかった――もちろんイーレンタールが変声器を改良すれば、リンにもわからなくなるのかもしれないけれど。
恐らく『あの男』はイェールに成り代わるのに失敗したのだろうと、ガストンは言った。
ナイジェル元校長がグールドの事件の責任を取って辞任した時、それを待っていたかのような絶妙なタイミングで、ウルクディアのミランダ=レイエル・マヌエルが、ナイジェル元校長を相手取って訴訟を起こしたのだ。ナイジェルは辞任後も、頻繁に、法廷という公の場に足を運ばなければならなかった。マスコミの報道も盛んだったから、『あの男』はいまだにナイジェルという人格をひっそりと引退させることができないでいる。多忙な校長職と掛け持ちするには危険だろうというのがガストンの認識だ。
リンは自分を恥じていた。ミランダが勝手に逃げたせいで、フェルドとマリアラが現在の境遇に陥ったのだと思っていたかつての自分を。リンは最近まで、ミランダが、ウルクディアで〈天使〉などと持ち上げられて、華やかに幸せに暮らしているのだと思い込んでいた。でも違ったのだ。ミランダも戦っている。いまだにリンがもっているあのヴィレスタのバックアップディスクは、ミランダに送るのが最善だろう。この証拠が加われば、ミランダの勝訴は決まったようなものだ。グレゴリーがミランダに送る役目を買って出てくれている。もちろんフェルドに了解を得てからだけれど――どうやって了解を取ればいいのか考えあぐねている。いっそ事後承諾でもいいだろうか。
「ねえねえ」
出し抜けに横から声をかけられ、リンはそちらを見た。若い男。
「どこいくのー?」
「デート」
「なーんだ」
あっさりしたものだ。彼はひらひらと手を振って歩み去った。すると、前から来ていた男がこちらに軌道を変えたのが見えた。あっと言う間に近づいて、
「ねえ君、今日暇?」
随分立て続けだ、と思いながら、リンは言った。
「今からデート」
「ええー」
男は足を止めないリンの横に並んで歩きだした。
「誰と? 彼氏?」
「彼氏じゃないけど、そうなってくれたらいいなって思ってる人」
「へえ。じゃあうまくいかなかった時のために、これ、俺の名刺」
リンが拒否する間もないうちに、するん、とリンのコートのポケットに名刺をいれて、男は歩み去った。家に帰ったら捨てよう、と思いながら広場に足を踏み入れた。噴水のそばにジェイドがいるのが見える――と、
「ねえちょっと」
まただ。今日はみんなよっぽど暇と見える。官舎を出てからほんの五分足らずで三組目だなんて。
今度はふたり連れで、すすすと近寄ったふたりは素早くリンの両側に並んだ。
「ねえ今日、暇? 遊ばない?」
「遊ばない」
端的に言うが、ふたりはあきらめなかった。リンより少し年下らしい。
「そんなこと言わないでさー」
「ごめん、急いでるの。待ち合わせなの」
「ええー」
と言いつつ、ひとりがリンの前に回り込んだ。リンは驚いた。こんなにしつこいナンパは初めてだ。横を擦り抜けようとしたが前に回り込まれ、リンは眉間にしわを寄せた。
「どいて」
「じゃあ連絡先だけでも教えてよ」
「嫌」
「ええー」
ええーじゃない。リンは自分でも驚くくらい苛立っていた。でもその苛立ちにも気づかず、眼前の男の子は涼しい顔だ。
「誰と待ち合わせ? もう来てる?」
「来てる。ねえ、どいてよ」
「どこどこ? どいつ?」
「関係な、」
「リン」
ジェイドが、いつの間にか近くに来ていた。
振り返った男の向こうで、ジェイドが険しい顔をしている。リンはほっとした。目の前の男の子が存外素直に身を引き、リンはジェイドに駆け寄った。
「ごめんね、遅れて」
「かまわないよ。行こう」
「なんだ、大したことねえじゃん。俺らの方が――」
リンの隣にいた男の子が聞こえよがしに声を上げた。しかしリンが振り返る前に、さっきまでリンの前に立ち塞がっていた男の子が慌ててシッと言った。
「やめろよ、行こうぜ」
「な、なんだよ」
「マヌエルだよバカ!」低めた声で友人に囁く男の子の声が辛うじて聞こえた。「めっちゃ怒ってんぞ! 風がビリビリ言ってた――」
「動道乗るんだっけ」
ジェイドはまだ少し固い声で言う。リンはいたたまれない気持ちで、ジェイドの横に並んで歩きだした。失敗した、と、思っていた。ジェイドに不快な思いをさせてしまったのだ。
「ごめんね、ジェイド」
「……リンが謝ることじゃないよ」ジェイドは苦笑した。「謝らないでよ。情けなくなるから」
「え、どうして?」
「行こう」
リンの疑問には応えてくれないらしい。リンはしょんぼりして歩いた。失敗した失敗した失敗した、頭の中でその言葉だけがぐるぐる回る。
多分このスカートがいけないのだ。隙があるように見えたのだろうか。落ち込まずにはいられなかった。ダリアの厳命に従ったことをつくづく後悔していた。今までダリアの助言が裏目に出たことなど一度もなかったのに。もう二度とスカートなんか履くものか。
しかし、少しして口を開いたジェイドは、もう普段どおりだった。
「少し遠いんだったよね」
「う、うん」リンはほっとした。「あたしの住んでた寮の近くなの。時間が難しいんだよ。空いてる時間に行ってもあんまりパンがなかったりするんだよね。でも十一時半くらいに行けばちょうどいいよ。お昼のピークタイムに向けて準備するパンが揃い始めるころだから焼きたてだし、まだそんなに混んでないし」
「リンが案内してくれて本当に助かるよ」
ジェイドは笑う。私服姿のジェイドは、制服の時よりもう少しだけ気弱げに見える。だからさっきの男の子も、与し易い相手だと考えたのだろう。でもジェイドは決して『与し易い』相手などではない。リンは既に重々知っているし、さっきのもうひとりみたいに、悟る人間も大勢いる。
「自分で授業を選べるようになってからは、水曜日の三限目はできるだけ授業いれないようにしたよ。水曜日はね、ドライトマトとモッツァレラチーズの塩パンが出る日なんだよ……!」
好物の食べ物について話していると、少し気分も明るくなってきた。ジェイドは目を見開く。
「塩パン?」
「うん、塩味強めのパンなんだよ。すっごい美味しいよ……! ふわっふわの塩味の利いた生地にモッツァレラチーズが水玉模様みたいにのってるのが、普通の日の塩パン。水曜日だけは、そこにドライトマトがのるの」
「ドライトマトってどういうの」
「ああ、ミニトマトを乾燥させたものなんだけどね、それをオリーブオイルに浸けて柔らかくしたものが、モッツァレラチーズと一緒にのるの。美味しいよー。マリアラもそこのドライトマトの塩パンが好きでね、水曜日はよく鉢合わせしたもんだよ。近くに噴水があるから、そこで一緒に食べたんだ。マリアラはあとアップルパイをよく食べてた。ずっしりしててね、林檎の食感がまだ残っててね、あれも美味しかったなあ。マリアラがたいてい一口くれたから、自分ではあんまり買ったことないんだけど。あたしはチーズマフィンをよく買ったよー。ほろほろしててチーズがぎっしりなの……あ、あと水曜日はもうひとつ、エビカツサンドが出るんだ。ぷりっぷりのエビがごろんごろん入ったカツのサンドイッチ。そこにタルタルソースが」
「タルタルソースが……」
「ジェイド、水曜日に荷運びの都合があえば、いってごらんよ。でもそのふたつはすぐ売り切れるし水曜日は混雑もすごいから、戦場だよ? 頑張ってね」
「……頑張る。でも、普段の日も美味しいんでしょ」
「うん! あそこのパン屋さんでハズレ引いたこと一度もないよ。革命祭のベルテントールもめちゃくちゃ有名なんだよ、今年はもう終わっちゃったけど、来年ぜひ食べてみて。今の季節はそうだな、今日は土曜日だから、タルトの日だけど、そろそろ胡桃とヘーゼルナッツが出てるんじゃないかな。ジェイドって甘い物好き?」
「うんまあ、嫌いじゃない」
「いろんな種類のタルトがずらーって並ぶの、二つか三つは季節ごとの新作で、毎月楽しみなんだよねえ。ああ、久しぶりだし、あたし絶対いちじくとクリームチーズのタルト食べるんだ。それから塩パンと、バターパン。バターパンはね、半分に折られたパンの中に、多分、バターの塊をいれて焼くんだと思う。当然焼く間にとけるんだけど、とけたバターをまわりの生地が吸うもんだから……噛むとさくっとしてじゅわっとして……カロリーとか気にしちゃダメだあのパンは……」
動道に乗った。土曜日の昼下がりだし、結構な混雑だった。マヌエルはたいがい混雑した動道を苦手とする。ふだん乗らないと、勘を忘れるものなのだ。ジェイドは外国育ちだからもっとだろう。でも頑張ってもらわなければならない。リンの元住んでいた地区まで行くのに、速いレーンに移らないと時間がかかり過ぎてしまう。
はぐれないようにと言い訳をして、リンはジェイドの手を握った。ジェイドが一瞬ギクリとしたのが分かった。リンはとたんに哀しくなったが、放すわけにはいかない。手を握って奥へ行くことが必要だったからだ。
何度も振られてるのに往生際が悪い、なんて、思われてないだろうか。
なんとか一番速いレーンに移動し終えると、リンはほっとしてジェイドの手を放した。このレーンは比較的空いている。
「ごめんね、急に。でも動道ではぐれると、下手したら自由時間の間に再会できないってことになるから」
「……いえ、お手数かけまして」
ジェイドは苦笑して言い、空席を探した。運よく二人がけがあいていて、並んで座ることができた。背後の窓の外の景色はすっかり雪模様だった。最速レーンの速度はかなりのもので、街路樹が飛ぶように後ろに過ぎていく。
しばらくふたりは無言で景色を見ていた。だいぶ前から気づいていた。ジェイドと一緒の時は、沈黙でも気まずくない。




