舞の襲撃2
二間しかない小さな家の前で、小さな女の子が遊んでい た。ひとりで、大きな木切れで。
このおもちゃは『つみき』と言うそうで、舞がニコルの父親に特注したものだ。軽くて、いろんな形があって、大きさが揃っていて、角を丸くしたものを、びっくりするほどたくさん。初めは、ただの木のかたまりをいったい何のために――とみんなが目を丸くしたものだが、レティアの没頭振りをみた今では、若い母親たちからの注文が引きも切らないそうだ。近々アイオリーナを訪ねる予定になっていたから、舞はアイオリーナの長男のためにひと揃い頼んだのだとこないだ言っていた。
忘れずに持ち物一覧表にいれなければ、と考えながら、あたしは眉をひそめた。
舞の姿がどこにも見えない。
「レーティーア」
声をかけ、足を速めた。小さな女の子はぱっと顔を上げ、満面の笑みを浮かべて走りよって来た。
「びあんかー! とーさま!」
もうすぐ三歳になるその子は、恐ろしいほどの愛くるしさだった。言葉はまだ舌っ足らずだが、そのおしゃべりまでひっくるめて目眩がするほど可愛らしい。デクターもデリクもフェリスタも、アルガスの子供のころにそっくりだと口を揃えた。黒髪と肌の色だけは舞に似ている。あたしはレティアを見るたびに、将来を思ってそら恐ろしくなる。もしかしてシルヴィアのような美少女になるかもしれない。
「レティア、舞……母様は?」
訊ねるとレティアは、指をさした。
この明るい昼間だというのに、堅く閉められた居間の窓を。
あたしが理解する前に、アルガスが動いた。あたしは、レティアも、びっくりした。アルガスはその窓に斬りつけたのだ。
底冷えがするほどの切れ味だった。剣の鍛練を積んだ今は、アルガスの技量の凄まじさがよく分かった。決して薄くはないはずの板がすぱっと斬れ、がん、と音を立てて落ちる。斜めに開いた穴の向こうに、驚きに目を見開いたオーレリアが見える。
舞はその向こうにいた。開いた扉のそばに立っていたから、ふたりは窓を閉めてはいたけれど密室にいたわけではなかった。
今から思えば、アルガスはきっと気づいていたのだと思う。
〈あたし〉にもわかった――何度も何度もこの記憶をたどる間に、やっとわかった。
だからあの時、駆け込む手間さえ惜しんで窓を斬るなんてことまでしたのだと。
「……ガス」
舞は複雑な表情をしていた。アルガスを歓迎していることは明らかだった。でも、その方法については文句を言いたい、そんな顔だった。
「悪い。手が滑った」
アルガスは真顔でそう言い、舞は苦笑した。
「夜までに直してね」
「……無理そうだ」
「あたしは無理だとは思わないわ」
オーレリアが話を蒸し返した、ようだ。舞がため息をつく。
「あたしは無理だと思う」
「努力くらいはするべきよ」
落ち着いた口調だった。でも。
オーレリアの口調には、最近いつも、ごくわずかな苛立ちが含まれているような気がする。そのささやかな感情の乱れが、こちらの感情を逆なでする。
「オーレリア。悪いが今日はここまでにしてくれ。急いで計画を立てたいんだ」
アルガスの口調も落ち着いている。でもオーレリアに対する時だけは、やはりその感情の乱れに影響されてしまうらしい。オーレリアは少し考えたが、いいわ、とため息と共に言った。
「また来るわ」
「あのね、オーレリア。二度目の孵化というものが絶対に起こるって確証がない限り、あなたも、他のどのマヌエルも、絶対にあそこへは連れて行かない。何度来ても、同じだからね」
舞が言い、オーレリアは嗤った。
「たまごなら気絶まではしないでしょ」
舞はため息をついた。まあね、と言った言葉は、同意というより、あいづちに近いものだった。それじゃまたねとオーレリアは言い捨ててさっさと出て行き、舞は苛立ちを持て余すように両手で顔を覆って深々と息をついた。
そして、ぱっと両手を開いた舞は、もういつもどおりだった。
「いらっしゃい、ビアンカ」
嬉しそうにそう言って、
「お帰り、ガス。今日はどうしたの? 見回りはもう終わり?」
もっと嬉しそうにそう言った。こちらに駆け寄って来て、無事だった側の窓を開いて、そこにレティアがいるのを見て顔をほころばせる。
「レティア、終わったよ。いい子で待っててくれてありがとうね」
「かーさま、あっこー」
レティアは爪先だちで両手を伸ばし、アルガスが抱き上げて舞に渡してやった。レティアは全身で舞にしがみつく。その背をぽんぽん叩きながら、舞は微笑む。
「それで、計画って何? 何の計画立てるの?」
「ふふふふふ」
あたしはほくそ笑み、服の隠しからそれを取り出した。じゃじゃーん、という擬音つきで。
「来たわよ、舞!」
「……来たの!?」
舞がレティアごと身を乗り出し、あたしはさっと手紙を後ろに隠した。舞が抗議する。
「ああっ、見せてよー!」
「あたしだってまだ見てないんだからね! 待ってて、今そっちに行くからうふふふふふ~」
「レティアっ、ちょっと降りて! お茶いれなくちゃお茶!」
舞はさっそく大騒ぎを始めた。さっき害された気持ちを立て直そうとしているのは明らかだ。走りだしたあたしに、アルガスがささやいた。
「ありがとう、ビアンカ」
「どいたしましてえ~」
走りながらあたしは笑った。一緒に来てよかった。つくづくそう思っていた。あたしが一緒に来たお陰で、オーレリアとアルガスは子供の前で言い争いをしないで済み、舞は嫌なことを忘れ、これから楽しい旅行の計画を立てられる。あたしだってあたしにお礼を言いたいくらいだ。
計画が走りだしたらデクターを呼びに行かなければ。玄関から駆け込みながら、あたしは一回だけ軽く跳びはねた。
*
二度目(もしくは複数回)の孵化、孵化の引き金、という概念を初めに思いついたのはオーレリアだ。
彼女は焦るあまり、自分を、そしてエスメラルダにいる大勢の『たまご』を、実験台にしようとしていたのだ。今ならそれがわかるけれど、ビアンカ=クロウディアは思い至らなかった。『実験』に加担させられそうになっていたのが、ビアンカの大好きな舞であったから反感を抱いていただけで、もしそうでなかったなら、もしかしたらオーレリアに与していたかもしれない。それほどオーレリアの弁舌は巧みで、ひたむきで、いちずで、けなげで――彼女の『信者』たちからは、舞がオーレリアをがむしゃらに邪魔しているかのようにさえ、見えていたのかもしれない。ルファルファの愛娘としての立場を揺らがせるオーレリアに意地悪をしていると、誤解されていたのかもしれない。
孵化の引き金――孵化を起こしそうな人間に【毒の世界】の毒を嗅がせ続ければ、それが引き金になって、【毒の世界】へ耐性のある孵化が起こるかもしれない、という考え方だ。舞も、その考え自体を否定していたわけではない。
オーレリアの問題は、『起こるかもしれない』ではなく、『女神が起こすはずだ』という強さの信念まで、抱いていたことなのだろう。
もし舞以外の人間が、エスティエルティナに選ばれていたなら、オーレリアの要求にあらがい続けることができず、恐ろしい大惨事が起こっていたかもしれない。ルファルファが舞をどこかから無理やりつれてきたのは、エルギンを王位に就けるためなどではなく、ここで起こるはずだった惨禍を食い止めさせるためだったのかもしれない、とさえ思う。
その説は舞とオーレリアの死後も、長い間、エスメラルダを蝕み続けた。まるで毒そのものみたいに。
*
アイオリーナとカーディスのふたり目は女の子だった。
滞在した三週間は、ビアンカ=クロウディアの生涯の中でも、特に幸せな三週間だった。親しい友人たちと一緒に、のんびりした気分で毎日遊んで暮らした。記憶を再生するだけでいつも幸せに浸れる。
赤ちゃんは可愛かった。ずっしりくったりした重みがたとえようもなく愛らしかった。兄王子は五つになっていて、レティアを気に入ってあれこれとよく構っていた。アルガスとマスタードラは剣の腕試しをして、アイオリーナと舞とビアンカは心行くまでおしゃべりをして。
そして、デクターもいた。
彼はいつも、王宮の書庫にこもっていた。エルギンが滞在に合わせて招いていた大勢の学者たちと話したり、魔法道具の原理について意見を戦わせたりしていてとても忙しそうだったが、ビアンカと川べりまで散歩に行く時間はちゃんと確保してくれていた。
彼は本当に、いつも、どんな時でも、ビアンカ=クロウディアに優しかった。
かつての〈自分〉に、〈彼女〉は、生まれてこの方ずっと嫉妬している。
*
オーレリアは【契約】を【引っ剥がす】ことに同意し、長年親しんできた【炎】にも、舞の口添えで右腕に彫ってもらえた【風】にも、何の未練も見せなかった。多分、自分が普通ではないという自覚があったのだろう。
【炎】が取り払われてからは、オーレリアの機嫌は目に見えてよくなった。言葉の端々にこびりついていたいらだちが消え、ビアンカ=クロウディアは術後二日目に、本当に久しぶりにオーレリアの笑顔をみた。
穏やかな日常が戻って来るだろうと、期待させてもらえるさわやかな笑顔。
でも――
オーレリアが舞を攻撃しなくなっても、『信者』たちに植え付けられていた不信の念は、既に根深かった。
巡幸が通常より半月ほど遅れてエスメラルダに戻ってきたのは、そんなぴりぴりした日のことだった。
後で聞いたことだが、ニーナはアイオリーナの訪問に加われなかったことをものすごく根にもっていた。帰ったらすぐ、即座に、舞とビアンカを連れてアナカルディアに引き返すと、心に決めていたらしい。
けれどそうはできなかった。帰って状況を聞いたニーナは、激怒したからだ。舞とビアンカと自分が、帰って早々アナカルディアに出発することが、どんな波紋を呼ぶかとすぐに計算したニーナは、早速解決に乗り出そうとして、エルヴェントラに止められた。ニーナは、信者をまとめてエスメラルダから永久追放する手続きを取ろうとしたのだ(それをこの時点で止められたことで、ニーナはその後だいぶ長いこと、エルヴェントラを怒っていた)。
エルヴェントラは舞を自分の後継にしようと、長い間こつこつと骨を折って根回しをしていた。その後継が、権力を笠に着て自分の反対者を追放した、などと後ろ指を指される事態になってはまずいと計算したのだろう。エルヴェントラはあくまで平穏に舞の苦境を救おうとし、その方策として、エスティエルティナの放棄を提案した。
その手があったかと舞は言い、ビアンカも同感だった。
【毒の世界】への扉を開けられる鍵――そんなものを舞が持っているから、話がややこしくなるのだ。
舞は早速、全国民の前で、エスティエルティナを放棄した。指先を切り、その血で、自分の名前を刀身に書いた。心ある国民たちは、舞が可哀想だと言ったものだ。いわれのない中傷を受けて、姫君としての座を放棄しなければならないなんて、あんな功績のある人に対する侮辱だと。
それでわかった。やっぱり、舞に無理難題を押しつけようとし、能力をルファルファから与えられていながらその責を果たさない無責任な【最後の娘】だと非難していたのは、やはりごくわずかな人々に過ぎなかったのだ。声が大きい人の意見が耳に入りやすかった、ということだったのだろう。
ニーナはみんなの前で、舞の手を取り、その指先に軟膏を塗り、今まであたしたちを導いてくれてありがとう、これからもあたしの大切な家族でいてねと、舞の地位がこれからも揺らがないことをはっきりと示した。エスメラルダ国民全員がほっとした。ビアンカも、これで平穏が戻るだろうと、とても嬉しかった。
その夜中に、エスティエルティナが舞とアルガスの寝室の窓をぶちやぶって乱入するまでは。




