舞の襲撃1
日々はゆるゆると過ぎていく。
レジナルドはミランダ=レイエル・マヌエルによって訴訟を起こされ、その対応に追われている。訴訟のタイミングは、まるで狙ったかのように絶妙だった。レジナルドが副校長に成り代わる、寸前だったのだ。
ミランダの訴訟のせいで、レジナルドはナイジェル元校長という人間をひっそりと引退させ、捨てることができなかった。副校長に成り代わるタイミングを逃したレジナルドを、〈彼女〉は最近見ていない。イェール副校長がつつがなく校長の座を継ぎ、エスメラルダはほとんどの人が知らぬまま、新しい時代に入ろうとしている。
フェルドは元気そうだった。独り身の右巻きの仕事に戻り、淡々と義務をこなしていた。苛酷な冬の到来の前にフェルドが戻ってきたことをみんなが歓迎していた――もちろん、ダスティンを除いてのことだが。しかし、十一月に入ったエスメラルダで、独り身の右巻き同士が、協力しあうことはできても、反目し合うことはあまり現実的ではない。ひとつでも多くの屋根や路地の雪を融かさなければ、エスメラルダはすぐに雪に埋もれてしまうのだ。衝突している暇などどこにもない。
冬のエスメラルダで、誰もが皆忙しそうだった。〈アスタ〉もだ。
〈彼女〉だけは暇で、それが、少しいたたまれない。
――舞もそんなこと言ってた。
記憶のスイッチが入り、〈彼女〉は今日は、あの頃のことを思い出した。エスメラルダ中がぴりぴりしていた、あの頃のこと。
始まりは、きっと、オーレリアの孵化だ。
オーレリアは、長いこと――それこそ、ビアンカが生まれたかどうかという位のころから、ひとりで、世界の謎に挑んできた。ひとりで、孤独に。初めは誰に伝える当てもなく、単なる趣味のようなものだっただろう。でも知れば知るだけ、その重みにつぶされそうになっていったのではないか。ひとりで抱えるには重過ぎ、しかし、投げ捨てるわけにもいかなかった重荷。
だからオーレリアは、きっと嬉しかったのだ。世界の謎を解くという難事業に、舞を、巻き込むことができて。
ゲルト――当時のエルヴェントラ――が、舞を後継に指名しようと躍起になったことは記憶に鮮明だ。それと同じ気持ちを、きっとオーレリアも抱いていた。たったひとりで立ち向かわなければならなかった世界の謎に、何よりも力強い味方を――後継を――得たと、オーレリアは、思っていたのだろう。舞はエスティエルティナであり、真実を探り当てる勘が人並み外れていて、聡明で、何より誠実だった。だから。
オーレリアは舞にさまざまな要求をした。今まで行きたくてたまらなかった〈中枢〉――【毒の世界】にだって、舞と一緒ならば行けるのだ。
アルガスとオーレリアの間に亀裂が入ったのは、きっとあの時が始めだ。
真っ先に思い出すのは、アルガスの瞳の色。あの頃、アルガスの瞳はいつも、海のように青かった……。
手紙を持って、丘を上がっていた。気分は浮き立ち、とても幸せだった。一緒に読もう。喜ぶだろう。楽しい旅行の計画だって、そのまますぐに立てられる。
あたしは頭の中であれこれと段取りを考えた。デクターは絶対一緒にくる。アルガスもくるはずだ。そうなら、地下街にだって行ける。レティアもマーシャも連れて、みんなで一緒に――。
「ビアンカ」
呼び止められ、振り向いたそこにアルガスがいるのを見て、すごく驚いた。何という絶妙な偶然だろう。それに、明るい日の下でアルガスを見るなんて、随分久しぶりだ。
「こんにちは、ガス。今日は見回りはいいの?」
「休みをもらった」
アルガスはうなずき、あたしは嬉しくなった。それは、もう、舞が大喜びだろう。アルガスが働き過ぎだ、あたしだって手伝えるのに仲間にいれてくれない、と、彼女はいつもやきもきしていたから。
「それじゃ、あたしがどれくらい上達したか見てくれる?」
「もちろん」アルガスはうなずき、「……でもその前に。頼みがあるんだ」
「頼み?」
あたしはもっと驚いた。いったい、何を改まって頼もうというのだろう?
「オーレリアを諦めさせるために知恵を貸してほしい」
「知恵を」
ピンときて、目を丸くする。
「諦め……えええ?」
「俺は、どうも、辛抱が難しくて。あの人を前にするとそのうち斬りそうで怖い」
「まさか」
思わず笑った。冗談を言ったのだと思ったのだ。
でもアルガスは真顔で、ため息をついた。あたしは急に不安になる。
「でも、ねえ、こないだ、気絶したでしょう……デクターと、ニーナと、オーレリアもよ」
問題の発端は、舞とアルガス(そしてニコル)は【夜】を見たことがあり、オーレリアはない、ということだった。
王宮を崩した舞が行方不明になったあの恐ろしい半年――そう、半年も時間が過ぎたというのに、舞にとってはほんの一晩に過ぎなかった、あの時。エスティエルティナがアルガスを呼びに来た。ニコルも一緒に行った。彼らがエスティエルティナに導かれるままに走った先に、大きな木のうろがあって、そこをくぐると不思議な場所に出たのだという。
アルガスとニコルは、そこに倒れていた舞を見つけた。
そして、【夜】に出会った。
【夜】とは、夥しい魔物の群れだとニコルは語った。
ごく小さな魔物もいたが、闘技場ほどもありそうな巨大な魔物もいたという。空一面を覆い尽くすほどの魔物が雪崩のように押し寄せ、3人を押し包んだ。3人が助かったのは人魚が呼んだからで、そうでなかったら死んでいたはずだ。
舞を、そしてエスメラルダを守ることを自らに課したアルガスが、二度と〈あちら〉への扉など開くべきではないと主張するのは、当然のことだった。
けれどオーレリアは、その〈夜〉を見ていない。
遭遇した3人が無事に戻ってきたことも、オーレリアの楽観を後押しした。
世界の謎をコツコツと調べ続けてきたオーレリアは、〈あちら〉に続く扉を開くのはエスティエルティナの責務であると主張した。いつかはその責務は果たされなければならないと。エルカテルミナとエスティエルティナが揃っているこの時に、責務の端緒だけでも掴んでおくことはどうしても必要なのだと。
【夜】への認識の違いから生まれたその問題が、大きくなったのは、オーレリアがあまりに真摯だったから。そして彼女が、美しかったから。そしてアルガスよりもずっと、弁が立ったから。そして――【壁】の出来上がる速度があまりに早く、それに伴ってひどくなっていく冬の寒さが、恐ろしいほどに、過酷だったから。
話は、舞とオーレリアの口喧嘩だけでは収まらなかった。冬の過酷さに恐れをなした国民たちの大勢が、オーレリアに味方したのだ。
オーレリアの主張を受け入れる形で、舞がエスティエルティナとして〈中枢〉――【毒の世界】への扉を開けたのは、巡幸が出発する直前のことだ。
アルガスがいつでも剣を振るえるよう待機した状態で、舞は、〈中枢〉への隙間を開いた。
ほんの隙間だけ、それもほんの数瞬だけだったのに、開けた瞬間に、マヌエルである三人が気絶した。あたしもアルガスも、全く何も感じなかったのに、そこにある何かが、三人に顕著な影響をもたらしたのだ(舞は気絶まではしなかった。でも、気味が悪い、とは言っていた。息苦しい気がする、とも)。
あの体たらくで一体何ができるというのか。あたしはてっきり、もう、諦めたものだと思っていた。
「……〈中枢〉で何かをしろって言われても、マヌエルはあの中に入れないでしょう? あの中で平気なマヌエルが生まれるのを待とうって話になったじゃない、そんなの、何百年単位で考えるべきよね。舞とニーナの代じゃ無理だってことだわよね。オーレリアもそれで、納得……」
言いかけて、ぞっとした。
「してないの……?」
「そうらしい」
アルガスは、いつも言葉が足りない。
あたしはその先を少し待ち、それから、促した。
「……それで、イライラしちゃうのね」
「理解ができない」
アルガスはうなずいた。
それから、続けた。
「エスティエルティナだからといって、なぜ舞が、望んでもいないのに、あんな危険な場所に関わり続けなければならない?」
「そうね、乗り気じゃないみたいだわよね、舞」
それもオーレリアを苛立たせる一因なのだと、あたしはこっそり思った。最近、舞は世界のなぞを解くことに積極的ではない――というよりむしろ、尻込みしている、という印象だ。
アルガスが先を続けている。
「オーレリアはデクターに、あの世界の夜を無事に越せる、防護壁のようなものを作ってくれと頼んだ」
「そうなの? また無茶な」
「そうだろう。あの人は自分の影響力を理解してない」
アルガスはやっぱり言葉が足りない。あたしはまた考え、思い至った。
「……『信者』のことね?」
「そう。オーレリアは、あの中で平気なマヌエルが現れる前に、準備をしておくべきだというんだ」
「まあ、準備くらいなら……」
言いかけたあたしを、アルガスはじっと見た。
「デクターが試作品を作るとする」
「う、うん」
「首尾よく作れたとして……あの中で平気なマヌエルが実際に使う前に、それが本当に大丈夫なものかどうか、まず試してみなければならないだろう」
「……そうね」
「『誰が』試す?」
またぞっとした。
「まさかオーレリアだって、舞に、そこまで」
「オーレリアじゃない。『信者』の話だ」
返す言葉がなくなり、絶句した。そう。
オーレリアには今、『信者』と呼ぶしかないような、熱烈な信奉者たちがいるのだ。
孵化して以来、オーレリアは男漁りをしなくなった。
彼女の毒が抜け、悪ふざけがなくなり、まじめに、真摯に、一途に、世界の謎に取り組むようになった彼女は――今や、あたしの目から見てさえ、恐ろしいほどの魅力を放っていた。
何より今の彼女には明確な目的があった。歪みや魔物に脅えることのない、真の世界、という目的が。牢獄から解き放たれて、完全な自由を手にいれる。彼女の唱える世界は理想的で、ルファルファの教義に合致していた。自らのすべてを擲って、その世界を実現するために奮闘しようとしている彼女は、ある特定の人々にとっては、ルファルファの伝承者だった。ニーナと同じ、信仰の対象になったのだ。
オーレリアならば、確かに、舞にそこまではさせないだろう。でも『信者』は違う。エスティエルティナとして当然の義務だと、その要求が次第に増長していくことは容易に想像できる。
「……俺はもう、舞を、あんな場所に関わらせたくないんだ」
うめき声のような心情の吐露に、胸を衝かれた。
「あたしもよ」
うなずくと、アルガスは微笑んだ。悲しそうだった。
「舞が望むなら仕方ない。説得はするが、それでも望むなら……一緒に行って、できるだけのことをするだけだ。でも、舞は望んでない。彼女は、どうやら、恐れている。あの場所に関わるのを恐れるのは当然だと思っていたが、どうも、そういう感じじゃない」
やっぱり。
あたしはうなずき、アルガスも、うなずいた。
「世界のなぞを解くことそのものを、恐れているみたいだ」
彼はまた、ため息をついた。
「舞は何も言わないが、彼女が恐れるなら、相応の理由があるはずだ。なのに……望んでいないのに、無理やりに……俺は……どうして舞に、いまさら重荷を押し付けようと思えるのか、そこが理解できない」
「あたしもよ、ガス」
うなずいて、アルガスの腕に手をかけた。
「エスティエルティナだからって、何だっていうのよね。舞はもう義務を果たしたわ。充分すぎるほどよ! あそこが危険で、今の段階で行くのが無理ってわかった、それだけでもういいはずよ。いいわ。何とか、考えなくちゃね。信者があの人を苛めでもしたら目も当てられないわ」
「ありがとう」
それに今は、時期が悪い。ニーナとエルヴェントラは巡幸の真っ最中だ。宗教的な判断は居残りの神官が下す。ふだんならば舞に無茶など言えない奴らも、今は、いろいろな要求をしやすいというわけだ。
早く帰ってこないかな。もう秋だけれど、帰還まではまだ少しかかる。
「……あのね、今、ちょうど、家に行くところだったのよ。ほら見て、アイオリーナから手紙が来たの、あたしそろそろかなって思ってて、最近郵便局を覗いてたのよ、そしたらちょうど来たの! 舞とあたし宛よ。ニーナへはきっと巡幸先に出したと思うわ」
「時期が」
わかっていたのか、と不思議そうに目で問われて、思わずアルガスの腕をたたいた。
「嫌だわ、もう、臨月なのよ! ふたり目よ!」
「……ああ」
「きっと生まれたのよ! 一緒に見ようと思って、まだ読んでないの。あのねガス、デリクに話して調整しておいた方がいいわよ、あたしも舞も生まれたら駆けつけるって約束してるから、二、三日中に何週間かでかけるわよ。あなたが一緒にこられないなら――」
「行く」
「そうよね、ふふ」嬉しくなった。「ちょっと出かけましょ。気分が変わっていいわよ。留守の間に、オーレリアの頭も冷えるかもしれないし。それにね、ひとつ、考えついたことがあるの」
先に立って歩きだした。そうしながら、話を続ける。
「オーレリアは最近、変だと思うんだけど……それっていつからなのかなって、考えたら、やっぱり孵化の直後からでしょ」
アルガスは返事をしなかった。不本意そうなその顔を振り返り、あたしは思わず吹き出した。
「男漁りして、あなたの蕁麻疹をおもしろがって追い回してた時の方が無害だったじゃない? 認めるべきよ」
「……認めたくない」
「でも、そうでしょう? 孵化する前は、ああじゃなかったわ。なんだか、いつもイライラしてる。ぴりぴりしてる、って感じかな。で、思いついたの。……オーレリアの孵化って、水よね」
「……ああ」
思い至ったらしい。あたしはまたくるりと振り返った。
「オーレリアの炎の契約って、まだあるのよ、ね?」
「そうだな」感心してもらえたようだ。「それでイライラしてるのかもしれない。水と炎は相いれない」
「でしょでしょっ、話してみる価値はあるわよね! 今日、デクターが帰って来たら、早速頼んでみるわ」
「ありがとう」
礼を言われて、ほっとした。
ニーナと舞とアルガス同様、オーレリアだって、あたしの大切な友人――姉のようなものだ。アルガスとオーレリアが反目しあっている状況はとてもつらい。
「きっと大丈夫よ」
微笑んで、足を速めた。丘を上がりきると、アルガスと舞の家が見えてくる。




