間話 秋祭り前のとある一日
例の小部屋に入るには、少しだけ面倒な手続きがいる。
狭い部屋で両親と膝を付き合わせることになるから、まず簡単にシャワーを浴びた。
使用人(ドリーを除く)さえ知らない部屋だから、念入りに周囲を窺わなければならない。用事は無いかと待ち構えている召使いに山ほどの洗濯物を頼んで部屋から出し、『放置推奨』の札を外にかけておく。鍵をかけ、寝台の下に潜り、床板を滑らせ、現れた透き間から隠し通路に出る。入り口を元に戻してから、通い慣れた暗闇をてくてく歩いて、ようやく到着だ。両親ともに既に待っている――
「カルム!」
父親がわーいとばかりに飛びついてきた。この抱擁は何歳までやるのだろうと、数年前までは疑問に思っていたものだが、最近はその疑問を持つこと自体をやめた。もうすぐ二十歳の息子に対していまだにやるのだから、もはやどちらかが死ぬまで続くのだろう。背の低い父親はカルムの胸の辺りにぎゅうっと抱き着いてから、満面の笑みを浮かべてしげしげとカルムを見る。
「……またひとまわり成長しおったな! うんうん!」
「もうさすがに成長期は終わってると思うんだ……ただいま」
「おかえり、カルム」
母親は相変わらず綺麗だった。石造りの、ちょっと牢屋を彷彿とさせる殺風景な狭い小部屋にいても、大輪の花が咲いているかのような美しさだ。彼女は落ち着いて座ったままだったが、カルムを見上げてにっこり笑う。
「見たわよ見たわよ、ふたつ目の課題! さきに郵便で送ったでしょ! よくやったわねえあれ、たいしたもんだわぁ。ヴィディも絶賛して、どんな分からず屋の審査員だって絶対優を出すって太鼓判押してた。さすがは父さんの息子ね!」
「いやいや高等学校に咲いた大輪の薔薇の才能を受け継いだのだよ」
「でもあの論理的思考の鋭さはやっぱりあなたの」
「いやあの天才的なひらめきと着眼点はやはり君の」
カルムは黙って、両親がお互いと愛息子を褒め合うのを拝聴していた。黙って、口を挟まず、謙遜せず、反論もせず、話も変えず、抗議もせず、ただただ拝聴するというのが、一番早く終わる道なのだ。十九年間で嫌というほど思い知っている。
ふたりが気が済んだころを見計らって、カルムはにっこりした。
「ありがとう。頑張った甲斐があったよ」
それで丸く収まった。ふたりは満足して椅子に座った。母親はともかく父親は、この小部屋でしか愛息子を猫かわいがりできないのだから、疎ましくても面はゆくても面倒でも、この部屋にいる間くらいは付き合ってやるのが子供の努めというものだと、もはや達観の境地である。
「それで、門番から急用だって聞いたけど?」
ようやく本題に入れる。カルムはそう切り出した。
カルムが学校に戻る前に家に寄ったのは、首都ファーレンの門番がわざわざカルムを呼び止め、学校に戻る前に実家に寄るようことづかっていると、くれぐれもと念を押したからだ。
父親は、まじめな顔をしてうなずいた。
「うん、疲れてるところ悪かったな。だが他の人間から中途半端に聞くよりはと思ったんだ。簡単に言うと、お前に結婚の話が出た」
なんだそんなことか、と、カルムは思った。別に珍しい話でもない。
「へー。誰」
「誰ってそんな、ひとごとみたいに」
「いや、初めてじゃないだろ? 小せえ頃から何度も出てたよな? それ全部俺に話す前に断ってくれてたんだよな、なのにわざわざ知らせるってことは、よっぽどの相手なのかなと」
「まあそうだな……。アナカルシスのお姫様だな」
父親の、苦虫をかみつぶしたような顔に、断りづらい相手なのだなと悟る。
父親は、言葉を選びながら、慎重に続けた。
「エルバート王太子の従妹にあたる。リーザ・エルランス=アナカルシスという……二十二歳でな。これが写真だ」
見せられた写真はカルムの好みではなかったが、一般的には美女と言われる範疇だろう。可愛らしいタイプの美貌だった。ふうん、とカルムは言った。リーリエンクローンの奥方としては、悪くないのではないだろうか。
「厄介な姫君だ。狩人の役付きだったんだ。【水の砂】という」
「へえ」
それは意外だ。カルムは改めて彼女の写真を見直した。
「跳ねっ返りのおてんばというか、じゃじゃ馬というか……狩人が凋落してからも、だいぶ長いこと逃げ回っていた。狩人の残党を集めて、王を奪還しようともしたらしい。血の気の多い……アナカルシスでは犯罪者の扱いだな。先日逮捕された」
「へええ」
可愛らしい顔立ちが意外なほどの血気盛んな経歴だ。
それからカルムは顔を上げた。
「……そりゃ断りづらいね」
「そうなる」
父親は深くため息をついた。
対外的には、父親はカルムを疎んじているということになっている。父親に疎まれたリーリエンクローンの御曹司の相手として、このリーザという女性は打ってつけだ。
カルムは長いこと、将来はガルシアを出ようと思っていた。その方が、父親が楽になるからだ。
父親は今のところ、後継を定めていない。リーリエンクローンの後継の座はガルシアの貴族ならば誰でも欲しいものだから、ガルシアの社交界には長年虎視眈々とその座を狙ってきた人間が多い。しかしガルシアの身分制の打破という改革を進めている父親は、きっと平民から選ぶはずだ。そのために、一番邪魔になるのがカルムだった。カルムは半分は貴族の血を引いている。そのカルムを差し置いて平民から後継を選んだら、貴族たちを刺激し過ぎることになる。
だからカルムはずっと、自活の手段を手に入れたら、立派な放蕩息子として家出するつもりだった。
ところがカルムの事情で、高等学校に入ることになった。おまけにうっかり手を抜くのを忘れて主席になってしまった。高等学校に主席で入った実の息子を勘当したら、それだけで父親は貴族たちの矢面に立たされる。カルムが家出しない限り――そしてもはやカルムには家出の意志はなくなっている――、父親がカルムを後継にしないという道は閉ざされたも同然だ。
でも抜け道がひとつある。カルムの妻が、リーリエンクローンにふさわしくなかった場合だ。
ガルシアでは、公式の祭典には夫婦もしくは恋人の同伴が基本だ。夫婦はふたりでひと組の貴族と見なされる。ふさわしくない女性がカルムの妻になっていたなら、後継候補から外しても何の支障もない。息子を疎んじていると公言している父親として、身分は高い、しかし素行の悪い女性ほど、息子の妻としてありがたいものはないのだ。父親には公式に拒む理由がない。この婚姻を拒めば、カルムを後継にすると公言したも同然だ。
「別にいーよ」カルムはうなずいた。「リーリエンクローンを継いで政治をやるってのは、ごめん、できればやりたくないんだ。そんなら、仮面夫婦でよければ、結婚してもかまわないよ」
父親はじっとカルムを見た。本心だろうかと、探るような目で。
すると、母親が言った。
「ふざけんじゃないわよ」
見ると彼女は目を吊り上げていた。美貌ゆえに、結構な迫力だ。
「あんた、好きな子いるんでしょ」
切り出されて、カルムはギクリとした。動揺が体を駆け巡る。
一瞬で計算して、カルムは何とかごまかそうと声をあげようとした。
「な、に、言って――」
「ラスかね!?」
父親が叫び、思わずカルムも叫ぶ。
「なんでだよ! つか何、いまやラス呼びなの!?」
「ああ、ラスは課題を全部ファーレン内でこなしてるからね。今はここの近くの工房に通っているから、帰りによく寄ってもらうんだ。泊まることもよくあるよ。部屋も用意した、私物をおいてくれ始めてるんだよ、もう嬉しくて嬉しくて」
「頼むから課題の邪魔すんなよ……?」
「話を逸らすんじゃないわよ」母親はひとり座ったまま、刺すような目でカルムを見ている。「ラスは違う、妹みたいなものでしょ。あたしが気が付いたのはもっと前。高等学校に入るっていきなり帰ってきて受験勉強始めた時よ。放浪の途中で見つけた誰かよ。――そうでしょ?」
「う……」
カルムは思わずうめき、母親は立ち上がった。
「いつ紹介してもらえるかって楽しみにしてたのに」
紹介なんかできるか、と、カルムは思う。
「高等学校に入ったのだって、その子のためなんでしょ」
「ち」
「違うの?」
問われて、カルムは何も言えなかった。彼女のことを思い出すだけで、否応無しに刺すような後悔が胸に押し寄せてきて。
彼女の、優しい声がまた聞こえる。
――カルムのせいじゃないよ。そんな顔しないで。
全てを失っても、彼女の微笑みの優しさは変わらなかった……
「なんで言ってくれなかったんだ!」
父親が叫び、現実に引き戻された。母親がなだめる。
「カルムの口から言わせたかったのよ。確証もなかったし。……なのにどう、犯罪者の女と結婚しても構わないなんて! その子に失礼だと思わないの、このバカ息子!」
「結婚しても構わないなんて言ってない! 仮面夫婦でよけりゃって」
「おんなじことよこのバカ!」
「じゃあこの話はなしだ」父親はきっぱりと言った。「お前に好きな相手がいるならば、私はどんな手を使ってでもこの話を破談にする」
「父さ――」
「反論はなしだ。それで、ん? どんな相手なのかね?」
「いい機会だわ。一切合財吐いてもらいましょうか」
双方から詰め寄られ、カルムは思わず後ずさった。両親はいまいましいほど見事な連携で逃げ道をふさぎながらずずいと距離を詰めてくる。
「どんな子かね? 年齢は? 学生かね? それとも」
「何か問題があるみたいよね、あんたに高等学校への入学を決意させるほどだもの、問題を解決するのはもちろんあんたたちふたりだけど、あたしたちが役に立つことがあればなんだって手助けしたい気持ちはあるのよ、覚えておいてね」
「結婚を前提のお付き合いなのかな? 四年も待たせるのならば一度うちにお呼びしてだな、」
「ああ! そうね、それがいいわ、ご招待すればいいじゃないの! ラスもグスタフくんも連れて来たんだから、その子だって――」
「そういう関係じゃないんだ」
カルムはうめき、両親が揃って顔をのぞき込んで来た。全く正反対のふたりなのに、どうしてこうも同じ表情を浮かべられるのだろう。
「じゃあ何、片思い? 告白もしてないの?」
「いやそーゆー……」
「片思いでも家に呼んで悪いわけがあるまい」
「そうよそうよ、いろんな理由つけて、」
「そもそも結婚とか考えられる相手じゃないから!」
叫ぶと、両親は顔を見合わせた。
それから母親がカルムを見る。
「身分違いとか?」
「あ? あー……近い……」
言いかけて、失言に気づいた。目の前の両親は、まさにその身分違いの困難を克服したのだということを後ればせながら思い出した。案の定、ふたりはさらに距離を詰めて来た。
「身分差なんて! 見くびらないでよ! 相手がどんな身分だろうと受け入れるに決まってるじゃないの!」
「違う、こっちが下!」
「リーリエンクローンが下!?」
父親がショックを受け、カルムはとうとう頭をかきむしった。
「ああもうっ、だから、身分とかそういうんじゃなくて……彼女は自分の国を離れられないし、結婚とか、考えられるような状態じゃない。悪い。本当に、申し訳ないと思うけど……連れてくることも、会わせることもできない」
「それって、今は? それとも、一生?」
一生に決まってるじゃないか、と、カルムは思う。
カルム自身、もう二度と彼女に会えないだろうと覚悟しているくらいなのに。
けれど、それをはっきり言うのは憚られた。この子煩悩にもほどがある両親が、息子が連れて来た友人をどれほど歓迎したかを思い出すまでもなく、その恋人の存在をどんなに喜ぶだろうか、という想像くらいはできる。
結婚して、子供を一緒に育てることのできる相手だったなら。カルムと彼女が築いた家庭を、この二人はどんなに慈しんでくれただろう。
――このふたりは、永遠に、孫をもつことはないんだ。
今までも分かっていたはずの事実が、ずしりと胸に落ちてくる。
「……ごめん。今は聞かないで」
逃げだと思いながら、カルムは言った。
「俺のせいで彼女は住む家をなくした」
――そんな程度の話じゃないけれど。
「今はもう、別の場所に、移ったと思う。その行き先は、俺も知らない」
「……そう」
「そうか」
父親がカルムの肩をたたいた。リーリエンクローンの力をもってしても、彼女に新たな〈家〉を贈ることはできない。両親がそれを言い出したら何と言って固辞すればいいのだろうと途方に暮れたけれど、ふたりは意外に、何も言わなかった。
「まあ、話は分かったよ。アナカルシスの姫君との話は破談だ。疲れているところ悪かったね」
父親は優しい声で言い、母親は染みるような微笑みを見せた。
「晩ごはんはあんたの好物ばっかりにしてって、料理長に言ってあるからね。泊まってく? 学校に帰る?」
「……泊まっていこうかな」
言うとふたりは目に見えて喜んだ。そして即座に、使用人たちに不審がられずに、息子と一緒に晩酌をする算段をあーだこーだと考え始めている。どこまで子煩悩なのだろうと、カルムは呆れて――それが今は、哀しかった。




