巨人の島
それは、島だった。岩ばかりの、全体的に白っぽい印象の。
ごつごつした岩山以外にはほとんど何にもない、殺風景な島だ。ところどころにまばらに木が生えているが、林とも呼べないくらいの密度だ。水もないのだと船長は言った。時折降る雨水が岩のくぼみにたまり、そのお陰でちらほらと生える木や草が生息しているだけで、動物や鳥もあまりいない。いったい何を好き好んでこんな場所に――とぶつぶつ言う様子は、デクターが積み上げた金を受け取ったことなどすっかり忘れて、こんな無為な旅に無理やりつきあわされた被害者の風情だった。
デクターはマリアラに、水夫や船長を避ける必要などない、と何度も言ってくれたけれど、マリアラが彼らを避けるのは、どちらかといえば自分のためだ。一緒にいて楽しい相手じゃないのだから、多少寒くても、彼らのいないところにいた方が気が楽だ。
世界のへそに上陸すると、マリアラは早速散歩を始めた。
船長がマリアラと彼を置いてきぼりにする懸念はまずなかった。船長が既に受け取った莫大な金額の、更に二倍の額を、島に戻ったら支払う、と、デクターが確約しているからだ。マリアラは彼の金遣いの荒さに感嘆の念を抱いていた。ガソリンを使用したエンジンに関する特許料は受け取っていないはずだし、アルガス=グウェリンのへそくりはまるまるラルフに渡してしまったはずなのに、まだこんなにお金があるなんて。彼の財産はまるで底無しのようだ。
何とか自分の銀行口座からお金を降ろす方法を考えたいものだが、口座は凍結されているだろうし、どこの窓口を使ったかで居場所がすぐにばれてしまう。彼にすべてを任せっきりにしている現状が、歯痒くてたまらなかった。
ともあれ、水夫達から離れて散歩できるのは嬉しかった。彼も、羽を伸ばすように後からのんびりついてくる。
「猛獣とか先住民とかは、たぶんいないはずだけど。足場が悪いし、あんまり遠くに行かないで欲しいんだ」
彼に言われ、マリアラはうなずいた。水夫達の姿が既に見えないことを確認し、ずっと取りたかったかつらをとる。
「ふう――」
「申し訳ない。窮屈だったね」
彼が言い、マリアラは苦笑した。
「ううん、ちょっと大きくて、動くたびにずれるのが気になるだけで。痛くはないから、大丈夫。ねえ、巨人って、どの辺にいたの?」
「見えてるよ」
少し悪戯っぽい口調だ。マリアラは目を丸くし、彼の指さす方を見上げた。
「……え!?」
「白っぽい岩の、ほら、ちょっとカールしてて屋根みたいになってる部分があるだろ。あれが肋骨」
「……うわあ!」
マリアラは思わず叫んだ。あれが肋骨だとしたら――何という大きさだろう!
こないだ、【学校ビル】と同じくらいの大きさだと聞いたけれど――予想以上の大きさだった。そうだ、マリアラは、巨人が座った体勢でいるものだと、漠然と思い込んでいた。【学校ビル】に例えられたから、当然かもしれない。でも巨人は横に寝ている状態で、だから予想以上に大きく見えるのだろう。
岩山の一部。それもかなり大きな一部が、巨人の骸だった。
「……どんな話をしたの?」
訊ねると、彼は少し考えた。
「そうだな。主に、世界のなぞについて。銀狼と人魚のいさかいとか、巨人の役割とか、そういう類いの話だよ。……この辺かな」
独り言のように言い、彼は立ち止まった。岩のくぼみになった箇所が、平らになっている。
「あの人たちと一緒にいると不愉快だから、ここに拠点を作るよ。洗濯もしたいし。風呂にも入りたいだろ」
「あ――あ、わあ。ありがとう」
マリアラはつい顔をほころばせた。移動する船の上で〈隙間〉を作り出すことができなかったから、ここ数日の間、シャワーを浴びることができなかったのだ。本当にこの人は、つくづく行き届いた人だ。マリアラは彼がテントを張るのを手伝い、荷物の整理などを終えてから、つくってもらった〈隙間〉のなかで、心置きなくシャワーを浴びた。それから、久しぶりにサイズのあった自分の服を着た。岩山を探検することを考えて、スカートははけなかったけれど、しっくり身になじんだ衣類というのはそれだけでほっとする。ジーンズに、長袖のシャツを着て、少し肌寒いので、もこもこしたベストを着た。髪はふたつに分けてきっちり編んだ。そうすると、やっと自分に戻った気がした。
片付けを終えて出てみると、彼は座卓を設置して座り込んでいた。周囲に紙束や本が積み上げられていて、テントの中が、ちょっとした書斎になっている。
彼は座卓の上に紙を広げ、何やら難しい顔をして、書き付けの束を時折ぱらぱらとめくりながら、点を描いていた。マリアラは目を丸くした。いったい、何をやっているんだろう。
マリアラが興味津々でのぞき込んでいることにも気づかず、彼は書き付けをめくり、描いてある数値をチェックして、大きな紙に定規で点をつけている。既に、随分たくさんの点が描かれている。マリアラは、気づいて、どきりとした。
――もしかして、地図、描いてる?
すごい。戦慄のようなものが体を駆け抜けた。
――デクター=カーンの地図、なんだ。
点を描かれている紙がやけに古びているのは、もしかして――昔の紙、だからなのだろうか。古地図らしさを出すために、あえて、古い紙を使っているのだろうか。
点は着実に増えていった。彼の手先は正確で、全くよどみがない。この点が、そのうちあの精巧な、美しい地図になるなんて。マリアラは時間を忘れてその技術に見入った。
ややして彼は、ぽつりと言った。
「……やりにくいんですけど」
「あ……ああ、ご、ごめん」
気が付かないうちに身を乗り出して覗いていたのだ。マリアラは座り直した。彼が伸びをする。
「別に面白くないだろ。日暮れまでまだあるし、散歩でもしてくれば?」
「お――面白いよ!?」
「ただの資金稼ぎだよ。昔の紙とインク使うと額が倍になるから」
しかし新品の紙とペンを使ったとしても、かなりの額で売れるのは疑いない。けろりとしてあんな大金をざくざく使うのは、きっと、描けばまとまった額で売れるという自信があるからなのだ。マリアラは感嘆した。
「すごいねえ。ね、続き描いて。すっごく面白い」
「あのね」彼はため息をつく。「本格的に描き始めると周り見えなくなるから。シャワーが終わったんなら、新しく〈隙間〉作って、そん中入って描くから。夜に没頭すると危険すぎるから、明るいうちにやっときたいんだよ。集中したいから、散歩してきて」
水夫を警戒しているらしいとマリアラは悟った。
夜に周りが見えなくなってしまうと、水夫のだれかがお金を盗んだりしにきても気づけないから、ということらしい。
本当にやむにやまれぬ時以外、彼はマリアラと一緒に〈隙間〉の中に入ることがない。気を使ってくれているのだろう。つまり、今夜、マリアラを〈隙間〉の中で寝かそうと思うなら、彼は地図を描く余裕がないわけだ。どこまでものんきな自分にしょんぼりして、マリアラは頷いた。
「ごめんね。行ってきます」
「いえいえこちらこそ。行ってらっしゃい」
「……できたら見せてね?」
最後に言うと、彼は、微笑んだ。
マリアラはどきりとした。今まで、あまり見たことのない表情だった。
昔を懐かしむような。――誰かを思い出すような。
――誰を?
「……できあがったのでよければ、結構枚数あるけど」
「も、持ってるの!? 早く見せてくれればいいのに!」
「ただの地図だろ。はいはい、これもって。はいはい、行ってらっしゃい」
袋を手に押し付けられ、そのうえしっしっと手を振られ、マリアラはむうっとしてその岩のくぼみを出た。ただの地図だなんて。あんなに綺麗なのに。
押し付けられた袋には、お茶の水筒と、いろんな種類のクッキーがたくさんと、飴玉が数個、入っていて、さらにむうっとした。子供じゃないんだから、と言いたい。
巨人の骨は、長い長い年月の間に風化して、だいぶ崩れていた。
歩くうちに、巨人の体がどういうふうに倒れているのか、なんとなく解ってきた。大腿骨ときたら、大変な長さだった。骨盤なんて中央体育館の屋根みたいだ。こんな巨きな人と、デクター=カーンは、それから姫も、アルガスも――どうやって話をしたのだろう。
囁き声で話してくれたんだけど。それでも地響きみたいだった。
彼の言葉を思い出し、そうだろうな、と思う。だって、肋骨がこんなに大きいのだから、肺の大きさだって相当なものだ。
歩くうちに、なんだか楽しくなってきた。背骨の節を数えながら歩き、肋骨が取り囲む巨大な回廊を抜け、鎖骨の辺りに出た。頭蓋骨までもう少しだ。
「こんな場所で。……淋しく、なかったのかな」
ひとりで。たったひとり、この世に置き去りにされて。
モーガン先生がまとめてくれたノートの記述を、自然に思い出す。
記述によれば、銀狼と人魚が仲違いをしたのは、姫の時代よりさらに昔。もう、六千年とか七千年とか、そんなはるかな古代の話だ。
人魚と銀狼は仲睦まじく、共に支え合っていた。巨人の数もずっと多かった。そんな平和なある日のこと。
人魚が匿っていた魔物が、暴走した。……らしい。
もともと人魚にとって魔物は敵ではなく『救うべき幼子』だった。魔物を狂わせるのは毒であり、毒を受けない魔物は危険ではないという信念が人魚にはあった。銀狼の手前、魔物を箱庭の中に住まわせることはできなかったが――箱庭には時折、【壁】に取り囲まれる土地が出る。空間の歪みが増え過ぎて、周囲を【壁】が取り囲んで、空気が動かず、極寒の地となり、生き物はみなそこを見捨てて去るのだそうだ。【壁】が閉じ、完全に隔離されたその土地は、箱庭でありながら箱庭とは見なされない空間になる。人魚が毒に染まっていない魔物を匿ったのは、そんな空間のひとつだった。
魔物は人魚の庇護の元、穏やかな社会を作っていた。高度な学術体系もあり、衛生面でも文化の面でも、優れた社会だったらしい。住民は皆穏やかで優しく、理知的だった。寿命が尽きることがないからか、争いもそれほど起こらなかったらしい。真っ白な毛むくじゃらの住民は、みんなそこで幸せだった。
でも、事件が起こった。毒に酔った魔物が出たのだ。
魔物にとって毒は麻薬と同じだった。一度摂取すると、抗えない魅力を放つ。魔物は歪みを移動できる生き物だった。好奇心から【毒の世界】に出て毒の味を知った魔物は、戻ってきて仲間たちに毒を撒き散らした。毒の味を知ってその渇望に抗えなくなった魔物たちは皆一様に理性を失い、自らの半身を求め、その国を取り囲む歪みから箱庭の中に躍り出た。
もちろん大半は、火山の中や大地の底に出現してしまって即死した。しかしほんのひと握りは生きて箱庭の中にたどり着いた。世界の各地に出現した魔物を一度に全部屠るのは、今よりずっと数の多かった銀狼にも難しかった。最後の一体を屠る前に、その魔物は【毒の世界】に通じる穴を空けてしまい――【毒の世界】にひしめく魔物が、次から次へと押し寄せて、穴を押し広げてしまったのだった。
仮魔女試験の時、【炎の闇】に拉致されたリンを救うためにフェルドが【壁】に開けた穴を思い出す。
小さく縮んだフィがかろうじて通れるくらいのごく小さな隙間だったのに、あの向こうにひしめいていた魔物たちが押し寄せようとした。あれがもっとたくさん、しかも世界の各地に空いてしまったら、それはもう、人間にはなすすべがないだろう。
世界の危機を救うため、巨人はその穴に惜し気もなくその身を投じた。最後のひとりだけを残して。
一番幼かった彼は、責務の成就を見届けるため、巨人としての責務を果たすために、ひとりだけ置いていかれたのだ。それが、姫と、それからデクター=カーンの出会った最後の巨人だった。
気の毒な人だ。
そう、考えたころ、頸椎の辺りを通り過ぎた。頭蓋骨まで、後すこし。
みんなが死んでいくのに。お父さんも、お母さんも、家族みんなが、自分を置いて行くのに。お前はくるなと。仕事を頼むと。いつ果たされるか分からない責務の成就を見届けるという、気の遠くなるような仕事を、たったひとりで任されて。
そのうえこの人は、結局、責務の成就を見届けることができなかった。
すべてが収束し落ち着いた後、銀狼は人魚をなじった。魔物などを匿うから、こんなことになったのだと。
それ以降、人魚は【水の世界】に引っ込んだ。魔物を匿うことだけはどうしてもやめられず、銀狼を説得することを諦め、叱られることを厭って。銀狼は繁殖ができず数を減らした。責務の成就を果たすことがないまま、最後の一頭もいなくなった。人魚は意地を張ったまま、ただ【水の世界】に引っ込んで、銀狼が失われることを、見過ごした。
――責務はその後、人間に委ねられることになった。
モーガン先生の、几帳面な一文を思い出す。
巨人の見届けられなかった大仕事。それを、こんなちっぽけなマリアラが、果たすだなんて。
そんなことが、本当に、できるのだろうか。
頭蓋骨はほとんど崩れていて、あまり人骨らしくなかった。横向きに倒れた頭の、下半分は全て崩れてしまっていて、上半分がドーム状の屋根のようになっていた。鼻の穴が腰高の出入り口、眼窩は巨大な窓に見える。
中は乾いていて、適度な屋根もあり、居心地よく過ごせそうなほどだった。マリアラは少し考えた。もし彼が同意してくれれば、ここにテントを張った方がいいかもしれない。あちらよりずっと見晴らしがいいし、船からも遠ざかるし、巨人にもゆっくり挨拶ができる。外には立派な枝振りの、そして見事な乾き具合の枯れ枝も落ちていて、薪にも不自由しなさそうだ。
巨人は自分の頭蓋骨の中でくつろがれることを、嫌がりはしないだろうという気がした。むしろ喜ぶだろう。そんな、確信に近いものを抱いた。
昔はここは、もっと緑豊かだったはずだ。モーガン先生のノートにも、そんな記述があった。巨人が死んだからなのか、それとも【壁】に分断されたことで気候が変わったのか、水が消え、緑が減り、獣や鳥もいなくなってしまった。それを淋しがっていると思うのは、マリアラの勝手な感傷というものだろうけれど。
しかし没頭してるであろう彼を動かすのは難しそうだ。マリアラを養うために地図を描いてくれているというのに、それを邪魔するのも申し訳ない。さりとて、地図がひと段落するのを待っていたら、きっと日が暮れてしまうだろう。どうしようかな、と考えながら、戻ろうと足を踏み出した時だった。
がつっ――どさり。
そんな重そうで痛そうな音が、巨人の頭蓋骨の中で響いた。
マリアラは振り返った。
巨人の鼻孔から、スニーカーをはいた誰かの足が飛び出している。
「……っ!」
マリアラは慌てて、鼻孔に駆け寄った。一体どこから現れたのだろう? 今の今まで頭蓋骨の上部によじ登っていたのだろうか? でも、どうしてそんなことを――考えながら、見上げると、今にも、空間が揺らいで閉じるところだった。「あの子が落ちた!」悲鳴じみた喚き声がかすかに聞こえて、閉じる。
きっと【穴】に落ちたのだ。さっきの音だ、多分頭を打った。果たして、血がゆっくりと流れてくるのが見える。マリアラは歯や顎骨の残骸をかいくぐり、その人のところへたどり着いた。
細身の、マリアラとあまり変わらないくらいの年頃の、男の子――
マリアラは、愕然とした。
フェルドだったのだ。




