籠城(4)
*
血の香りがむせ返るようだった。
グールドは顔や体についた返り血には無頓着だったが、ナイフと両手だけはていねいに洗った。リュックの中に薬品とタオルが入っていて、それで拭うと血がよく落ちるらしい。それから砥石だ。机の上で、水を持って来て、丁寧に研いでいる。まるで職人のような几帳面さだ。
ケティは青ざめた顔で、グールドがナイフを研ぐのをじっと見ている。
「ケティ」
リンが言うとケティが、びくりとした。
リンは微笑んだ。
「せっかくのお祭りなのに。……こんなことになってごめん」
ケティはふるふると首を振る。
「リンちゃんのせいじゃない」
泣いていいのにとリンは思う。喚いていいのに。暴れて、リンを叩いていいのに。
「あのね、ケティ。……フェルドのせいじゃないんだよ。フェルドは、まだ知らないんだと思うんだ。教えてないのはなんでなのか、誰が情報を止めているのか、あたしにはわからないけど――。フェルドはね、こんなことが起こってるって知ったら、絶対真っ先に飛んで来る。本当なんだよ。それだけは、信じてね。お願いだから」
「知ってるよ。雪山で、助けてもらったんだもん」ケティは微笑みさえした。「あのハンバーグ、すっごくおいしかったよ……後から知ったら、きっと悲しいだろうね。かわいそうに」
おまえは天使か。リンはつっこみそうになり、腕も足も動かせない現状を呪った。動いていたら、抱き締めることくらいはできたのに。
「もっと早く孵化してればよかった」
ケティの声が涙声になった。
「そしたら、アイカも、ミレーヌも、……治療してあげられたのに」
「……」
「リンちゃんも……リンちゃん、おでこ、大丈夫? ロープ、ほどいてくれればいいのにね。腕も足も、擦り切れちゃって、痛そうだよ……お兄さん、ひどいよ」
「こーらこらー、何人の悪口言ってるわけー?」
グールドがからかう声で言い、ケティは咳払いをした。
「リンちゃんが痛くて可哀想だよ。解いていい?」
「だめ」
「いじわる」
「いやいじわるとかじゃなくて無理。無理無理。今解くとだいぶ危険」
ぱくん、と、グールドが何かを食べた。
もごもごしながら言う。
「そーいえば君達おなかすかない? 食べ物あるけど食べる?」
「あたしはいい」ケティは首を振り、伸び上がってみんなの方を見た。
「みんな食べる? いる人は手を挙げるんだよ……リンちゃんは?」
リンも首を振り、ケティはグールドを見た。
「みんないらないって」
「ふーん」
ぱくり。グールドがまた何かを食べた。
よく食べられるなあ、とリンは思った。
「あと七分か……」
グールドがつぶやいて、沈黙が落ちた。リンは感情が麻痺しているのを自覚する。その代わり、頭の中は澄み渡っている。まだかなあ、と、考えた。
今頃ニュースになっているだろうか。ジェイドとグレゴリーは、うまくやってくれただろうか。窓が閉まっているので、外のざわめきはまったく聞こえてこないけれど。
「リンちゃん」
ケティがころん、と横になった。椅子に座った体勢で横倒しになっているリンに、正面から向かい合って、ケティは微笑んだ。
「リンちゃん、だーいすき」
「ケティ」
「大丈夫だよ。あのね、アイカもミレーヌも、あのときあの雪山にいたの。リンちゃんがいなかったら、みんな吹雪であのとき死んでたと思うんだ。リンちゃんが励ましてくれて、洞窟の入り口で壁になってくれて、だからあたしたち、生きてきたんだ。あれからいいこといっぱいあった。おいしいものもいっぱい食べた。リンちゃんがいなかったら、全部なかったことなんだ」
「ケティ……」
「ありがと、リンちゃん」
ぎゅっと抱き締められた。
同時にリンの首筋から、リーナがするんと入れられた。
「そろそろ時間だよ。ケティ、トイレは行ったかな~?」
「行ってくる」
ケティはしっかり立ち上がった。視界が滲んでいて、グールドの顔は見えなかった。リンは目を閉じ、ジェイドのことを考えた。
リンが死んだら、ジェイドは、……泣いてくれるだろうか。
ケティが出てきて、グールドを見上げた。グールドはにっこりと、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
「君はいい子だね、ケティ」
「お兄さんは悪い子ね。あたし、あなたが大嫌い」
「そう? 僕は結構、今の僕が好きなんだけどねえ。……さ、行こうか」
グールドが左手を差し伸べ、ケティがその手を取った。ひょい、とケティを抱き上げたグールドは、なんだか幼な妻をエスコートする新郎のように見えた。
リンは唇をかみしめた。間に合わなかった。
リンがやったことは、全部無駄だったのだ。
アコーディオンカーテンが開かれた――
がんがんがん、と、窓が鳴ったのは、その時だった。
グールドはアコーディオンカーテンを閉め、ケティを降ろした。ちょっと待ってて、とささやいてから、こちらにやって来ながら、寮母に言った。
「外を確かめて」
寮母がよろよろと窓へ向かう。
「アリエノール、一緒に行くでしょ」
グールドは言いながらロープを切り、リンを引きずりあげて立たせた。リンの腕の感覚が戻らないうちに、もう一度後ろ手に縛られた。しゃっとカーテンが開かれ、寮母のすすり泣きが聞こえた。リンの場所からは見えないが、振り返ったグールドがニヤリと笑う。
「来た来た。やっと来た」
――本当に、来たの?
グールドはリンの背中に手を突っ込み、先程ケティが滑り入れたリーナを取り出した。じっと見て、自分のポケットに入れる。
「アリエノール、あんたはよくやったよ。たったひとりで最善の手段を探って、やり遂げた。偉い偉い。ね、最期まで一緒においで」
グールドが動き、視界が開けた。グールドはリンの体を盾にしながら前に進み――ケティを探した。
ケティはアコーディオンカーテンの中にいた。グールドは舌打ちをひとつ。
「冒険心に富んだお嬢さんだね」
そしてケティを引きずり出した。ケティの背後でカーテンをバンと閉める。
「お兄さん――」
ケティが何か言いかけ、グールドは嗤った。
「黙って。喋るな」
「――」
リンの目は、窓の外にくぎづけだった。
だって。
そこにフェルドがいたのだ。
――本当に、来た。
驚いたことにフェルドは痩せていた。あんな場所でずっと動かずに、あんな量の食事を食べ続けていたら、どんな人間でも太るはずなのに。髪が少し伸びていて、日焼けしなかったせいか少し色が白くなっていたが、表情は鋭い。頬が削げ落ち、前まではふんだんに残っていた少年っぽさが消えうせていた。なんだか野性味が増した気がする。
グールドの要求どおり、フェルドは箒に乗っていた。柄が小刻みに振動しているのは、強制起動の証拠だろう。
「よう。久しぶり」
グールドは笑いかけたが、フェルドは何も言わない。グールドはフェルドの乗っている箒の後ろにつけられている、複数人数乗れるあの乗り物を見て、ますます嬉しそうに嗤う。
「お利口さんだねえ。初めからこうしてくれてりゃ、ふたりも死なずに済んだのにねえ」
「――」
ケティが何か言いかけ、グールドはその前に乗り物の入り口を開き、ケティの首根っこをつかんでその中に投げ込んだ。「きゃっ」小さな声をあげてケティが転がり込み、次はグールドとリンだ。
乗り込む一瞬に見えた噴水の回りには、おびただしい人々が集まっていた。こちらに向けられているテレビカメラももはや一台どころではなかった。リンはグールドに抱き上げられるようにして乗り物に乗り込んだ。リンを座席に押し付け、グールドは言った。
「雪山に頼むよ」
フェルドは相変わらず、何も言わない。
黙ったまま向きを変え、雪山へ向かって飛んだ。
グールドはリュックの中から金色に光る〈銃〉を取り出した。窓を開き、そこから身を乗り出した。背後を飛んでくる魔女は十数人はいる、と、ばん、と大きな音がしてマヌエルがひとり落ちた。他の数人が慌てて助けに行く。
なんという腕だろう。リンは舌を巻いた。
こんな距離で、あんな小さな的に、動く乗り物の上から命中させるなんて。
それからグールドはポケットからリーナをとり出した。
「マヌエルを全員返せ。ケティの耳を削ぐよ」
ややして、マヌエルの動きが止まった。みんな宙に止まってこちらを見送っている。グールドはひゅうっと口笛を吹き、リーナをつくづくと見た。
「こりゃあすごい。こんなに小さいのに……アリエノール、他に何か隠し持ってないだろうねえ」
もうない。リンの切り札はリーナだけだった。
でもそれを正直に言ってやる義理もない。
リンが黙っていると、グールドは座席に背をもたせ掛けた。
「アクセサリーは持ってなかったけど……ホクロも全部穴開けて調べた方がよかったかなあ」
「痛いと思うわ」
ケティが言い、グールドは微笑んだ。
ケティをのぞき込んで、囁く。
「お願いだから黙っていてくれないかな。子供の声が嫌いなんだよね」
「子供が嫌いだったの?」
ケティの真っすぐな問いに、グールドは苦笑した。
「今度何か言ったら君の大好きなリンちゃんに痛い思いをしてもらうことになるよ?」
ケティは黙った。ケティはグールドが怖くないのだろうか、とリンは思う。この子の胆の据わり方はつくづく尋常じゃない。
雪山についた。十月の雪山は、紅葉が始まっていて、息を飲むような美しさだ。
グールドはフェルドに細かく指示を出し、梢の下に入ってからもしばらくじぐざぐに移動させた。フェルドは相変わらず何にも言わずに、忍耐強く、辛抱強く、グールドの指示のとおりにした。グールドはその途中でリーナをぽいっと薮の中に捨てた。マヌエルや警備隊に居場所を悟られないようにしているのだろう。
フェルドはどう思っているだろう、と、リンは考えていた。
急に外に出されて――殺人鬼がおまえを呼んでいるから従え、と言われて――既にふたり殺されていることも聞かされて、どういう気持ちでいるだろう。
グールドがようやく降りるように言ったのは、雪山中腹の温泉の近くだった。入局前に、受験の打ち上げで来たばかりの場所だ。グールドはそこに箒を置かせ、乗り物も小さく縮めさせた。
そのうえグールドは、みんなをもう少し歩かせた。温泉からすこし行くと崖がある。その手前がちょっと開けていて、グールドが選んだのはそのちょっとした草っぱらだった。
ケティは今や自由に歩いていた。逃げてもいいよ、とグールドが言ったのだが、気になるらしく黙ったまま後ろをついて来ている。どうしてケティまで連れて来たんだろうとリンは考えていた。なんだか、そのつもりはなかったけれど、とっさにつれて来てしまった、という感じだった――。
「じゃあ改めて。久しぶりだねえエルカテルミナ。けっこう元気そうじゃん?」
グールドがリンを羽交い締めにしたまま言い、フェルドは無言だった。怒ってるのか、悲しんでいるのか、その内心は全く窺えない。
「今日はプレゼントを持って来たんだよ。どんな顔をするか見たくてさ」
言いながらグールドは、片方の手を放してリュックを探った。少し苦労をして、リュックのジッパーを開け、中に左手を入れる。
次いで、中から引っ張り出した物を見て、リンは喘いだ。
フェルドの目が見開かれ、初めて、フェルドが言った。
「……てめ……!」




