籠城(3)
七時五十分。また電話が鳴った。
寮母がすかさず取った。
「も、もしもしッ」
寮母の声は引きつっている。向こうの声が何か言ったのだろう瞬間に、グールドが鋭く叫んだ。
「切れ!」
「で、も、あの、もう少し時間をって、」
「駄目だ。切れ!」
声のあまりの鋭さに、寮母は受話器をおいた。ちん、と電話が音を立てて沈黙し、リンは、グールドを見上げた。
その時リンは初めて、グールドが苛立ったところを見た。いままで余裕たっぷりで、すべてのことを面白がっているようだったグールドが、初めて見せた癇癪だった。リンは息を詰めてそれを見つめた。もともと白かったグールドの肌が、青ざめるほどに白くなっている。
「……あと八分三十秒」
つぶやいてグールドは、目を閉じた。
残り七分になった時、また電話が鳴った。グールドは険のある声で寮母に命じた。
「線引っこ抜いて。イライラする」
ジリンッ、と抗議じみた音を最後に電話は沈黙した。グールドは圧力を抜こうとするかのようにふうっと息を吐く。
「あと六分四十三秒」
「……」
リンは何か言おうとして、何も言えないことに気づく。
言葉を探して黙り込んだ。自分の無力さに打ちのめされる。
ただ焦燥がじりじりと、体の内側をなめている。その感触に耐えているだけで時間が過ぎていく。五分を切った。リンは、その時、そろそろ認めないわけにはいかないのかもしれない、と、思わないではいられなかった。
――グールドの言ったとおり、フェルドは、まだ、この事態を知らないのかもしれない。
――校長は、フェルドを出すくらいなら、いたいけな少女十五人と寮母、新人保護局員のひとりごとき、見捨てたって構わないと思ったのかもしれない。
「……ウソだ」
リンはつぶやいた。でも、有り得る。
あんな場所に厳重に閉じ込めて、ごく限られた人にしかその居場所すら教えないようにしているくらいなのだ。
「ウソだ……」
それはリンのせいだ。唐突にその考えが、リンの中に落ちて来た。
フェルドがあんな状況に有るということを、リンは知っていた。でも、ガストンは知らなかったのだ。だからガストンは、まずは通常の手続きを経たのだろう。そして、〈アスタ〉の嘘にごまかされてしまったのかもしれない。でもそれは、当然なのだ。だってリンが報告していないからだ……!
「でも……」
ヘイトス室長は知っている。室長なら――。
いや、ダメだ。
――いいですか。私はあなたを助けませんよ。
それはこういうことだったのだ。フェルドがあんな状況にいるから、通常の手続きでは駄目だと、ガストンにアドバイスをすることは、辞令を発行できるポジションにいるヘイトス室長自身を危険にさらすことだから。だから、室長は言えない。どんなに言いたくても。
「……そんな」
グールドが立ち上がった。リンはぞっとし、次の瞬間、軽々と抱き上げられた。パイプ椅子に座らされ、どこからともなく取り出されたロープが魔法のようにリンの体をはい回る。あの南大島の、嵐の晩と同じように。
「ま、待ってよ」
「待たないよ。ねえアリエノール」
微笑みのかけらもなくなったグールドの真っ赤な炎のような目が、リンに残った最後の希望を焼き尽くした。
「自分が動かなくても、誰かがどうにかしてくれるって、思ってたんでしょ」
「……!」
そのとおりだ。心の底で、そう思っていたのだ。知らせを受けた校長は渋々でもフェルドを外に出す決意をするだろうとたかをくくり、ガストンが全部うまくやってくれると思い込み、グールドは結局子供を殺さないだろうと心のどこかで信じていた、だから、自分にできることをすべてやったかどうか確認することを怠った。お前のせいだとグールドの目が言い、あたしのせいだとリンは納得した。絶望しそうになり、絶望している場合ではないと思う。
――あたしのせいだ。
「待ってよ! まだ三分あるわ! もうすぐ、もうすぐ来るから――」
「アイカ。こっちにおいで」
「待って、待って、待ってッ!」
暴れ過ぎてパイプ椅子が倒れた。左半身を強打したが痛みなどまるで感じない。リンは必死で頭をもたげてグールドを見た。
「あたしを先にして」
「アリエノール」
グールドはくすっと笑った。
「あんたは一番最後だよ」
「いやよ! 子供が殺されてんの目の前で見るくらいなら生きたまま引き裂かれた方がマシよ! お願い、もうすぐ来るから! その時間はあたしに稼がせて、お願い……っ」
「だあーめ」
グールドはいつの間にか、左腕にアイカを抱えていた。ケティや他の子が泣いて取りすがろうとした、その目の前でナイフを一閃した。ぴっ、と鮮血が飛んだ。ケティとエティエンヌの鼻と頬にうっすらと血がにじんだ。
「……!」
「君らの出番は後だよ」
「まだ二分あるわ……!」
グールドは構わなかった。凍りついたように動かないアイカを抱えて部屋を横切る。リンはがたがた椅子を鳴らしながらそちらへ向かおうとしたけれど、同じ場所で体をはねさせることしかできなかった。「待って!」頬をぶつけて、口の中に血の味がにじんだ。「もう少しだけ、」
ぴんぽーん。
インターフォンが鳴り、リンは叫んだ。
「来た……!」
アイカを抱えたままのグールドが画面を見た。
そしてそのまま給湯室へ向かった。アイカの三つ編みがぶらりと揺れた。リンはぞっとして、インターフォンの画面を見た。
フェリクスが映っている。何か叫んでいる。
フェルドはいない。
給湯室のアコーディオンカーテンが開かれ、……閉じられた。
リンは頭を床に打ち付けた。「待って!」自分が叫んでいることも「やめて!」意識の外にあった。「お願いい……っ」ばかだばかだと思っていた。あたしはばかだ。ばかだばかだばかだ、ばかだ。
そして。
給湯室で、少女の悲鳴が、――聞こえた。
「リンちゃん……!」
泣きながらケティがリンを揺すっている。リンは我に返った。
額が、熱い。
「リンちゃん、リンちゃん、やめて、やめてよぉ!」
「……ケティ」
囁くとケティが動きを止める。涙と鼻水でぐしょぐしょの顔。リンは自分が今の今まで、床に、唯一動く自分の頭を打ち付け続けていたのだと言うことを悟る。
――こんな小さな子に、友達が目の前で殺されるところを見せ、その上、頼るべき大人であるあたしが、半狂乱で暴れるところを止めさせるなんて。
何やってるんだ。自暴自棄になってる場合か。
リンは囁いた。わめき続けたせいで、声が嗄れている。
「お願いケティ。あたしのポケット……おしりのとこ。そこに、入ってるもの、出して」
アイカの悲鳴はもう聞こえなかった。でもグールドはまだ出てこない。何をしているのか、考えないようにして、リンは唇を噛みしめた。
「リンちゃん、これ?」
ケティがリーナを取り出し、リンは頷いた。
「ありがと。……リーナ。起きて」
リンの声紋パスワードに反応して、リーナが起きた。目を開けて、伸びをする親指大の小さな猫に、ケティが目を見張る。
「リーナ。グレゴリーに……」
『リン!』
リーナが叫んだ。グレゴリーの声だった。
リンは慌ててリーナに顔を寄せた。「グレゴリー、静かにして! あの、お願いがあるの」
『今どこにいる!? 無事なのか!? ジェイドが血眼で捜し回って――どうした、血が出てるじゃないか!』
「お願いグレゴリー、後にして。あたしはもう、ひとり殺してしまった。だからもうこれ以上、ひとりだって殺させたくない。グレゴリー、お願いです、力を貸して」
リーナが座り直した。琥珀色の瞳が、まっすぐにリンを見る。『何があった』
「あたしが今どうなっているか、ニュースは流れていないのね。グレゴリーも、ジェイドも、今まで、どうなっているのかわからなかったのね。ね、お願いします。このままじゃ全員殺されるわ。ジェイドに連絡取れませんか、」
『リン!』
今度叫んだのはジェイドの声だ。リンは心の底からホッとした。
「ジェイド、そこにいたの? お願い、ジェイドは、ラングーン=キースという人を知っているでしょう、『月刊マヌエル通信』という雑誌の名物記者だって――シフトに入ったときの通例インタビュー、受けたでしょう? 覚えてる?」
『……覚えてるよ』
ジェイドの声は酷く固かった。リンはリーナに頷いた。
「その人を捜して、それから、あたしの事務所の、窓からじゃダメよ、玄関側に、先輩がいる。フェリクスって人、一昨日会ったでしょう、あの人が今いるから、事情を聞いて。それでキースという記者に頼んで、報道記者のつてで、テレビ局の報道記者の知り合いがいないか教えてもらって欲しいの。お願い、時間がないの。信じて。あたしは今、【炎の闇】グールドに人質にされてる、子どもも人質になってる、グールドの目的はフェルドに会うことなの」
『フェルドに――』
「もう、ひとり殺された。校長はフェルドをよこす気がないの。だからテレビ局で、生中継で、大々的に放送してほしいの。それでね、ジェイドは〈アスタ〉から、フェルドがまだエスメラルダにいて何か別の仕事をしてるって聞いたんだよね? そう言ってたよね、だから、テレビの前でそれを話して! ジェイドはマヌエルだから発言に重みがあるはずよ、フェルドはまだエスメラルダにいるって〈アスタ〉がはっきり言ったんだって、フェルドがこれを知れば出てこないはずがないんだって――」
「リンちゃん!」
ケティが囁いた。アコーディオンカーテンががたっと言ったのだ。
ケティがとっさにリーナをポケットにしまった時、グールドが出てきた。グールドは凄惨な顔をしていた。顔中に赤い斑点が飛んでいる。血に染まった左手でそれを拭い、頬にまだらな縞模様を作りながら、インターフォンの通話ボタンを押して、まだそこにいるフェリクスに、吐き捨てるように言った。
「次は三十分後」
『グール』
フェリクスの怒号がぷつっと切れた。何も映っていない液晶を見つめて、グールドは、言った。
「ガストンはきっと監禁されたね、これは」
人を、それもあんな可愛い小さな子どもを殺した直後だというのに、グールドの口調は先ほどまでと変わらなかった。
リンは床に倒れたまま、しゃがれた声で言った。「そうね」
「君達みんな、僕に殺されなくても、国に殺されるね。可哀想に」
お前が言うか、と、言いたい気持ちを押しとどめて、リンは頷く。
「そうね。……でも絶対、そんなことさせないわ」
「本気になるのが遅いんだよ」
「自分がどんどん嫌いになるわ」
「あー、お腹空いた」
グールドはこちらへは来ず、机に座った。ずっと背負っていたリュックを下ろして、中から食べ物を取りだしている。リンは冷たいコンクリートに額を付け、目を閉じた。
そもそも、初めに電話をかけてきたのがガストンではなかったときに、疑うべきだったのだ。
ガストンだったなら、絶対に自分で電話をかけてくるはずだ。ガストンがリンを見捨てていないというメッセージになるからだ。
【夜】に向けて【穴】が空いたとき、それからリーザがリンとケティとラルフを人質にしたときも、ガストンは一介の指導官の身分でありながら、司令官を任された。だからリンは今回も、ガストンが指揮を執ってくれるものだと頭から思いこんでいた。
でもそれは、警備隊長がガストンの友人であるギュンターだったからなのだ。
今の警備隊長は、サンドラが、有事の対応には役に立たないと酷評した人間だ。ガストンに指揮官を任せるような度量がなかったのだろう。でもガストンならきっと、リンと子供たちを救うために色々と進言しようとして、そして。疎まれて、業務執行妨害とかの名目で、投獄でもされてしまったのかも知れない。
校長はフェルドを自由にする気がないのだ。犯人の要求を形だけでも飲むことで解決の糸口を探ろうという、まっとうな対応をするはずのガストンは邪魔でしかない。
そして校長が子供たちを見殺しにしたという事実を知る人間も、邪魔だ。ということは、事件が解決して人質が解放されるなんてあり得ない。この事件は初めから、起こらなかったことにされるだろう。グールドが何らかの方法で逮捕されたら即座に消されるのだろうし、そして、人質となった寮母とリン、それから子供たちも。
――モーガン先生のお葬式が大々的に執り行われたみたいに。
前夜祭でリンに会って、噴水のライトアップを上から見るために事務所に招かれた子供たちと寮母さん、それからリンも、宇宙空間に向けて空いた【穴】に飲まれてしまったと、痛ましい事故として報道されるのだろう。
校長は、もはや、人質を見殺しにしたりしない。積極的に殺しにくる。生き延び、証言されては困るのだから。
「……吐き気がするわ」
リンは呻き、目を閉じた。そんなこと絶対にさせるもんか。絶対に、絶対に、校長の思い通りになんかさせるもんか。




