籠城(1)
目が覚めると同時に、リンは驚いた。目が覚めるとは思わなかった。
あの殺人鬼と遭遇するのは実に三度目だ。一度目はあの子を捨てないとここで殺す、と言われた挙句に地面に押さえつけられた。二度目はリンを捕まえて、奥借りるよ、と軽く断って、リンを抱えて行こうとした。何よりゾッとするのは、グールドがあくまでも本気だったこと。おもちゃでも扱うかのような手つきで、ふざけているような言い方で、それでもグールドの目の底にある光は、その言動が脅しでも冗談でもないということを如実に告げていた。
それでも、リンにとってグールドは、もう『終わった』脅威だった。
もう二度と、会わないで済むはずだった。
グールドは死刑になった、はずなのだ。絶対に抜け出せないようにがんじがらめに拘束されて、【毒の世界】に落とされた。それで処刑は済んだはず。ニュースでそう報じられた。最悪の狩人【炎の闇】の死刑は執行された、と、新聞でもニュースでも大きく取り上げられたのだ。
それが、なぜ。
そして、リンを捕らえたのに、――なぜまだ殺していないのだろう?
そこは建物の中だった。殴られたらしい背中がずきずき痛んだが、それ以外はケガもしていない。あの時は昼過ぎだったはずだけど、今はもう、多分夜だ。大きめの窓から星明かりと、ネオンの明かりが見えていた。賑やかな雑踏と楽しげな音楽が流れてくる。前夜祭の会場が近いらしい――ということは、ここはエスメラルダの、都市部の真っ只中。
「……て、いうか」
リンは体を起こした。部屋は暗いが、窓から入る明かりで見える間取りに見覚えがある。拘束されてもいなかったことに驚きながら、立ち上がった。
「……事務所じゃん……!」
呻いた瞬間に、ドアノブががちゃがちゃ言った。リンが後ずさった瞬間、扉が開いて、外からどっと楽しげな声がなだれ込んで来た。
「リンちゃー……あれっ、暗いよ?」
「ねーねーお兄さん、ほんとにここにリンちゃんがいるのー?」
「あーいるいる。中入ってえー。寮母さんもどうぞおー」
そう朗らかに応じたのは、グールドの声で、リンはぞっとした。ぱっと明かりがついて、眩しさに顔を歪める。と、
「あっ、リンちゃーん!」
叫んで飛びついて来たのはケティだった。他にも見覚えのある女の子が何人も駆け寄って来てはリンの体に纏わり付いた。リンは体当たりに、よろめきながら叫んだ。
「なっ、なんで来たのよ……!」
「え? だってあのお兄さんが、リンちゃんのお仕事見に行かない? って」ケティがにこにこと言った。「寮母さんが、リンちゃんの職場はこの辺だよって教えてくれ……リン、ちゃん?」
「あ……すみません、突然押しかけて……」
まだ若い寮母さんが、子供たちの向こうからおどおどと声をかけてきた。
「お邪魔でしたか……同僚の方が、ぜひどうぞって、あの、前夜祭のライトアップを上から見られるって……」
リンの表情を見て、寮母は慌てて頭を下げる。
「すみませんっ、お仕事中なのに! ほらみんな! 帰りますよ!」
「ええー!」
ブーイングが上がり、グールドが笑顔で言った。
「だいじょうぶだいじょうぶ! ほらもう八時だ! 噴水の時間だよ! みんなあっちの窓を見てご覧~?」
「わーい!」
みんながいっせいに窓に走った。ケティだけは不安そうにリンを見上げて動かない。リンは唇を噛み、子供たちの数を数えた。みんな女の子だ。ケティと同じ寮ということは、八歳から十二歳の少女寮だろう。人数は十五人。前夜祭に遊びに来て、そろそろ帰るところをグールドに誘われたのだろうか。
「リン、ちゃん……?」
「きゃー!!!」
ケティの不安そうな声を、少女たちの歓声がかき消した。噴水の水音が高らかに響き渡った。今日は大々的なお祭りの、前夜祭だ。特別に夜も噴水を出すのだろう。ライトアップされた噴水はかなりの迫力らしく、みんな大はしゃぎで窓にへばり付いている。
「……どういうつもりなのよ」
たずねるとグールドは、当然のごとく、ひとつしかない出入り口に陣取っていた。にやにや笑って、猫なで声で答える。
「いやー、食べ物物色してたらさあ、アリエノールの噂してる子たちがいてさー。この辺にリンちゃんの事務所があるんだとか、雪山であんたがどんなにかっこ良かったかとか……ねえケティ?」言ってグールドは、リンにしがみついたままのケティに微笑みかけた。「リンちゃん大好きなんだよね? 十七歳で保護局員になった憧れのお姉さんで、頑張りやで、狩人に捕まっても励ましてくれて、かっこよくて尊敬してるんだってねえ? アリエノール、もてもてだねえ。だから、つれてきてあげたんだよ? そんなに怖い顔しないでもいいじゃないか。ケティが怯えてるよ」
「……リンちゃん、忙しかった? 怒ってるの? あの、寮母さんが一緒だから、大丈夫かなって……」
ケティが一生懸命訊ね、リンは泣きたくなった。
目の前にいるあの男がリンの同僚などではなく、流血大好き変態殺人鬼だということを、……どうやって知らせればいいのだろう?
とにかく、みんなを窓から逃がさなければならない。リンはグールドを睨みながら、窓の方へにじり寄ろうとする。と、グールドが笑った。
「わかっていると思うけど……その窓からひとりでも逃がしたら、逃げてる間に他の全員殺す」
寮母が硬直した。
「夜は長いんだ。おいしそうなもの、いっぱい買って来たよ。焼き団子とか、唐揚げの串とか、串揚げとか、焼き鳥とか、芋餅とか」
言いながら、リュックから次々と食べ物を取り出した。お茶もある。全員分にしては少し少なめだ。グールドは、楽しそうに言う。
「さ、こっちに座って食べなよ。お腹減ってるでしょ。子供たちも寮母さんも、屋台でたらふく食べてるから大丈夫だよ」
「……何で串ばっかりなのよ」
言うとグールドはくすくす笑った。
「僕はあんたのそういうところがほんっと大好きだよ。とがってるものが好きなんだ。決まってるでしょ?」
「決まってないわよ……」
「とにかく、座って食べなよ。腹が減っては……っていうでしょ。空腹でふらふらのあんたを切り刻んでもちっとも楽しくないからね」
「……リンちゃん……?」
ケティが訊ね、リンは、ケティを抱き締めた。
そして背を軽く叩き、腕を放して、グールドの方へ行った。寮母に言う。
「子供たちの方へ行ってくれませんか」
「は……は、はい……」
寮母は事態を悟ったらしい。こくこくと頷いて、壁に背をつけるようにしてじりじりと子供たちの方へ行った。噴水はいよいよ佳境らしく、子供たちの大半はまだ窓の外にくぎづけだ。
「あーん、ってしようか?」
「……結構です」
リンはうめいて、グールドの示した椅子に座った。
串ものばかりとは言え、食べ物はどれもおいしそうだった。キュウリに長い串を刺して丸ごと漬物にしたものはリンの好物である。リンは覚悟を決めてひとしきり食べた。グールドは戸口に戻って、そこに座り込んで、リンの食べるところを愛でている。
――愛でている、と言うしかないほど、うっとりした顔なのだ。リンは居心地の悪さに耐えながら、方策を考えた。
「それで、何が狙いなの?」
訊ねるとグールドは、あっさり答えた。
「うん、あいつに会いたいんだよねえ」
「……あいつ?」
「見せたいものがあるんだ。どんな顔するか見たくてね。あんたなら、連絡取れるんじゃないかと思ってさ」
「あいつって、誰?」
「フェルディナント=ラクエル・マヌエルだよ」
リンは絶句した。グールドは嬉しげに続けた。
「ね、連絡取ってよ。あいつが来たら、子供たちは解放してあげる」
その時、事務所の扉がノックされた。
防音がしっかりしているので、外の音は聞こえない。ノックの音は三回で途絶えたが、少しして、苛立ったようにまた鳴った。グールドはリンに言う。
「インターフォンで応対して。わかってるよね? 下手なこと言わないように」
「……わかってるわよ……」
リンは呻いて、インターフォンに向かった。
スイッチを押すと、フェリクスの怒鳴り声が聞こえてきた――
『……にやってんだおまええっ!? 何があった! 開けろこらー!』
「先輩だよ。あたしを捕まえた時、誰かに見られたでしょ。あれ取引先の人だもん、ごまかせないよ」
グールドに言うと、グールドはやれやれとため息をつく。
それから、そこに陣取ったまま、軽い口調で言った。
「殺人鬼に籠城の人質にされてますって言っていーよ」
「いいのかよ……」
リンはインターフォンの通話ボタンを押した。フェリクスの喚き声が途絶えた瞬間に、なんとか言葉をねじり込む。
「殺人鬼に拉致されました」
「わー、ホントに言ったあー」
グールドは楽しそうだ。フェリクスは絶句した。
それから、言う。
『……リンか? ほんとに? 生きてんのか?』
「今元気よくあたしに向かって喚いてませんでしたか……」
『おまえ、無線機どうした。昨日渡したろ』
「あー、なんかぴりぴり言ってたやつ? うるさいから壊したよ」
「こ、壊したあ!? あのねえっ、あれ昨日もらったばっか……っ!」
『つーか生きてんなら何よりだ。てか……殺人鬼って何だあおおい!?』
「落ち着けよ先輩」リンはもう一度通話ボタンを押した。「例のお店の前で拉致されまして。さっき起きたんです。あの、最悪です。少女寮の十五名と、寮母さんが、今一緒に。犯人は、【炎の闇】グールドです」
『……』
フェリクスは長々と考えた。
それから、静かな声で言った。
『とにかく事態は分かった。要求は?』
こんな荒唐無稽な報告を即座に信じるところがこの人のすごいところだ、と、リンは考えた。
グールドを見ると、グールドは嬉しそうに頷いて見せた。まるで悪戯がうまくいっている子供みたいだ。
「フェルディナント=ラクエル・マヌエルに会いたいそうです」
『わかった。また連絡する』
フェリクスがインターフォンから遠ざかった。
グールドがすかさず言った。
「アリエノール、インターフォン切って、こっちにおいで。子供たち、もう寝る時間じゃないかな? そこのマットの上でなら、結構気持ち良く眠れそうじゃない? これ以上、もう誰も窓に近づかないようにね。寮母さん、みんな連れて、そっちに移動して」
グールドは相変わらずおちゃらけた様子ではあったが、寮母は即座に従った。グールドの危険さを肌で感じていたのかもしれない。少女たちの大半も、もう事態が正常ではないことに気づいていて、混乱はそれほど起こらなかった。
ケティが不安そうにリンに擦り寄ってきた。リンは微笑んで、ケティの背中を撫でる。
「大丈夫、きっと大丈夫。ね、ケティ、小さい子たちを頼んだよ」
「う……うん、」
「アリエノール、早くおいで」
「リンちゃん――」
「大丈夫だよ」
リンはもう一度微笑んで、ケティをみんなの方へ行かせた。
それから、グールドの方へ行った。
「悪いけどさ、一緒にいてね。あんたのお仲間が突入して来た時のためにさ」
「どうして今さら、フェルドに会いたいの」
訊ねるとグールドは、嬉しそうに笑った。
「ちょっといろいろ、うまくいったんだよねえ。だからその成果を見せてやろうと思ってさ」
「成果って?」
「それはナイショ」グールドはくすくす笑う。「どうして会いたいかっていうとさ。あいつすごいよね。〈毒〉も効かない。魔力も桁違い。……でもあれは、体質だけだ。そうだろ?」
「た、体質」
「そう。あのね、僕も、もともとの体質がすごかったんだ。自分で言うのもなんだけどさ、ラルフと同じで、体の作りがそもそも、殺人に向いてたんだよ。目がいいし、耳もいいし、感覚も鋭いし。普通の人間にはあるブレーキってものが、僕にはないんだ。これ以上やったら死んじゃうかな? って、気が付いて寸前で手を止めるってことができない。それってものすごく殺人鬼向きの仕様だと思わない?」
「ラルフはあんたとは違うわよ。一緒にしないでよ」
「そ」グールドはくすくす笑う。「あの子は多分、よりどころを手に入れたんだ。……いまいましい話だよ」
「よりどころ……?」
「で、僕はその体質を自覚して、より研ぎ澄ますことに没頭した。それで、今の僕になったんだ。今の僕はもう、体質だけじゃない。だから」
「……そんな努力、しなきゃいいのに」
「そう悪いもんでもないよ。というか、そもそもの優れた素質をただ腐らせる方が罪深いと僕は思うんだよね。優れた素質をもっているなら、それを研鑽して、生かす道を選ぶべき。
だからあいつにも、そうするべきだったんだって、教えてやりたいんだ」
「……フェルドに?」
何のためにそんなことをしたいのか、リンにはよくわからない。
グールドはしみじみと言った。
「あいつはすごいよ。あれだけの力だ。ねえアリエノール、想像したことある? 周囲の人間のほとんどが、あいつがその気になったらそれだけで死ぬんだ。それってすごいことだと思わない?」
「……すご、い……?」
「〈銃〉やナイフを使う必要さえない。周囲の風や水すべてが武器になるんだ。殺し放題だ。ねえアリエノール、力を持ってるのに、それを誇示しないって難しいことなんだよ。周り全部の人間に対して、自分の恩情で生かしてやってる弱い存在だって、考え始めたら、絶対歪むはずなんだ。しかもあいつの場合、生まれつきじゃないんだよ」
グールドは、ほとんど、感嘆、と言ってもいいような表情を浮かべていた。
「十五の時だ。十五だよ? もちろんあれだけの魔力の強さなんだから、ずっと、いつかは孵化するだろうって思ってきたんだろうけど……でも十五歳で、いきなり、あの力を手に入れる。ねえアリエノール、十五歳の子供がいきなり大砲と無尽蔵の毒ガス散霧器と機関銃を手に入れたら、ふつうどうなると思う? ちょっと試し撃ちとかしてみたくない? 気に入らない奴ら全員集めてそこに機関銃をぶっ放す妄想とか、すると思わない?」
「まあ……妄想くらいなら……するんじゃない? でも実際には普通やらないわよ」
「甘いね。僕やラルフやあいつくらいの体質になると、妄想が常習化した時点でアウトだ。ちょっと誰かと喧嘩する。で、考える。こいつを僕の持ってる武器で殺してやりたい。ね? 次に誰かと喧嘩する。で、考える。こいつは僕の持ってる武器を知らないでこんな大口たたいてるんだなって。次に誰かと喧嘩する――考える――こいつは僕がその気になればすぐに死ぬくらい弱いのに、なんで僕に刃向かってくるんだろう? 弱いくせに刃向かうなんて間違ってる、どっちが強いか思い知らせてやりたい、思い知らせてやるべきだ、思い知らせてやる――ここまでくるのに、僕の場合一カ月だった」
「短いよ!」
「それはあんたが持たないからだよ」グールドは笑った。「まあ別に、理解してもらわなくてもいいけどさ。体の中に魔物みたいなものがいて、いつも囁くんだよ。なんで人間のフリしてるんだ、なんで人間みたいな弱い相手に合わせて付き合ってやらなきゃいけないんだ? ってさ。十五歳なんて年齢で、いきなりあの魔物が体の中に巣くった。それがあいつなんだよ。
なのにどう? あいつ、変じゃない? 僕みたいになってないんだ。誘惑に負けてないんだ。他の人間を見下したりもしてない。フリじゃなくて、ちゃんと人間続けてて、これからも続けていこうと思ってる。体質としては僕よりずっと強いはずなのに、そんなのってありえないだろ?」
「何よそれ。嫉妬なの?」
「よりどころってそんなにすごいものなのか」
独り言のようにグールドは言った。
「僕はそんなの認めない。僕はねえアリエノール、あいつに会って、自分が間違ってたんだって教えてやりたいんだ。あいつのよりどころなんて脆いものだったんだって。僕みたいになるのが正解だったんだって。よりどころなんてない方が、ずっと自由で幸せなんだって、思い知らせて、後悔させて、苦しませてから、殺してやりたいんだよ」
「……フェルドからしたら、いい迷惑だと思うわ。それってただの言い掛かりじゃないの」
「まあねえ」グールドはまたくすくす笑った。「でも付き合ってもらうよ。僕だって自分の主張が、はたから見たら間違ってるんだろうなってわかってる。人間からみればね。だからこんな人数の人質を取ったんだから」
「……」
「よりどころなんかいらないんだ」グールドは一瞬、ひどく、恍惚とした表情を見せた。「そんなものいらない。ないほうが正しい。力を育てる邪魔になるだけじゃないか。だからラルフにももう会わない。もう一度会ったら、きっと殺してしまうだろうから」
「……フェルドを……殺すの」
「もちろん」グールドは笑って頷いた。「そうだよ、アリエノール。ねえ、どんな気持ち? あいつが来なきゃ子供がひとりずつ殺されてあんたも死ぬ。でも来たら、あいつが死ぬ。あんたがさっき、先輩に僕の要求を話しちゃったから。あんたのせいであいつが死ぬって、どんな気持ち?」
「フェルドは……強いもん。死なないもん」
「アリエノールは可愛いねえ」
グールドの手が伸びて、リンを抱き寄せた。右手にナイフを持った男に抱き寄せられるなんて、なかなかぞっとする。




