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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の再会
634/780

レストラン

   *


 旧市街に入るとカレーの匂いがたちこめていた。

 ジェイドは鼻をひくつかせ、ああ、と言った。


「いい匂いだね」

「それがもうね! すっごく美味しいんだよ! 一日限定百食で、あっと言う間に売り切れちゃうんだって」

「百食?」


 ジェイドは目を丸くし、リンは盛り上がった。


「すごいよね! 昨日はトマトとバジルのチキンパスタだったんだけど、なんか、人生変わる味だったよ」

「そんなに? 困るな」

「そうなの、困るんだよ! これ食べ終わっちゃったらどうしようって、半泣きだったよ昨日」

「やめといた方が良さそうかも」


 ジェイドが冗談をいい、リンは嬉しくなって笑った。


「やめないでよ! 一緒に困って! 道連れだー!」

「ええー」


 ジェイドは笑いながら隣を歩く。リンはうっとりした。楽しい。ジェイドといると、やっぱり楽しい。身も心も焦がすことはなくても、やっぱり自分は、ジェイドのことが好きなのだろう。


 ミーシャに取られてたまるか。

 決意を込めて、リンは言った。


「……明日、ミーシャがあたしにくっついて来るって言ったの。どうしても仮魔女のうちに、ジェイドと話を――ゲームをして勝ちたいって」

「うん。リンの部屋ってどの棟だっけ」

「Aの7の5」

「女子棟だから、窓まで迎えに行くってのは顰蹙だよね。じゃあ、」

「いっ、いいの!」


 リンは思わず叫び、ジェイドが目を丸くする。「いいの?」


「いいの! だってもう社会人だもん、寮母さんもいないもん、門限もないしっ顰蹙なんて絶対ないよ!」


 我ながら必死だ。でも、女子寮の窓からマヌエルの箒で飛び立つという、エスメラルダ女子憧れのシチュエーションを逃すわけには絶対いかない。ジェイドは笑った。


「じゃあ早めに行くよ。仮魔女寮は門限があって、朝八時前には外出できないから、八時前でも?」

「もっ、もちろん!」


 リンは飛び上がるほど嬉しかった。ジェイドがミーシャのゲームに協力して相棒を得ようというそぶりを全く見せなかったからだ。そうだ、だって、ジェイドは荷運びが好きなのだ。相棒いらない、と、以前はっきり言っていたではないか。


 ――日陰者扱いされなくても良くなる……


 ミーシャは根本的にマリアラに似ているけれど、でもやっぱり決定的に違う。

 だってマリアラならば、荷運びを頑張っている人のことを、日陰者、だなんて絶対に言わないはずだ。




 行列が見えてきて、話はそこでいったん途切れた。

 ティティはリンと、リンのつれてきたジェイドを見ると、一瞬、ニヤリ、と意味ありげに笑った。次いで、約束どおり、整理券なしで中にいれてくれた。


 そこで食べたカレーは、冗談抜きで、一生忘れられないものになった。うま味と酸味と辛味と複雑なスパイスの味が情け容赦なく襲いかかってきて、カレーを食べて酩酊しそうになったのは初めてだ。


 リンもジェイドも、何も話さなかった。今回もリンは、食べ終わることへの恐怖と戦わねばならなかった。ジェイドも同様だった、いや、初体験だからもっとだろう。ひと足先に食べ終えたジェイドは、リンを見ながらしみじみと言った。


「……道連れにされたことを恨んでいいのか感謝していいのかわからないよ」

「あたしは感謝してるよ。気持ちを解ってくれる人が増えて」

「……やっぱ恨もうかな……」


 呻くような言葉にリンは、昨日半泣きになった自分を思い出す。

 ジェイドが、ここで心底悲しんでくれるような人で良かった。そう思っていると、ティティが昨日のように助け舟を出しにやってきた。ティティは店中によく気を配っていて、食べ終えて悲しんでいる人には絶対に声をかけにいっている。常連はそのティティの言葉を盗み聞いて、明日のメニューを把握するというからくりらしい。


「お兄さん、アリエノールさんのお友だち?」


 ティティは店用の口調でそう言って、宥めるようにジェイドの膝に手をおいた。


「食べることが好きな人と、どうでもいい人っているでしょ。例えば、自分で作るご飯を美味しくするためのひと工夫が、全然苦にならないタイプと、めんどうで省略しちゃうタイプ。美味しいものを食べるために遠くの高いお店に行く気持ちになる人と、近所の安いお店で食べる美味しくない食べ物で満足な人と。お兄さんは食べることが好きな人。だから、うちのメニューを食べた後にはケアが必要だわ」

「ケア……?」

「食べ終わった後の喪失がダメージになるんだもの。ダメージは、癒されるべきよ。あのね、明日はお肉なのよ。やわらかい仔牛のお肉を、赤ワインでぐつぐつ煮たの。フォークを刺したらくずれちゃうくらい柔らかいの、口にいれたらとろんってするの。それからエビよ。とれたてのね、小さいぷちぷちのエビを、甘くて酸っぱいソースで和えて、しゃきしゃきのお野菜と一緒に食べるのよ。それからパン。シチューの時のパンは特別製なの、シチューを吸い込んでもどろどろにならないように、粉の配合を工夫してあってね。端っこはあくまでカリカリで、白い部分はふわふわよ。よくね、このパンを持ち帰りにしてもらえませんかって頼まれるの。家でも食べたいんですって。でもあのパンは、そんなに量が作れないから、ごめんなさいってお断りするの。全部焼きたてをお出しするのよ、ぱりって割ると中からほわんって湯気が上がるようなのをね」

「……明日も食べに来ていいですか」


 ジェイドが立ち直り、ティティは慈愛に満ちた笑みを浮かべる。「もちろんよ!」


 この調子でいけば、常連がどんどん増えるのではないだろうか。百人分しか枠がないのに、この調子で熱狂的な常連を増やし続けていったら、冗談でなく整理券を巡っての血みどろの殺し合いが起こっても不思議じゃないのに。


 リンは疑問に思いながら、お水をひと口飲んだ。ティティはリンを見て、微笑む。


「お姉さん、今日はちゃんといるわ。昨日は申し訳ありませんでしたって。食べ終わったら、ごめんなさい、裏口に回ってもらえる? 事務所の出入り口はあちらなの」


 リンは仕事を思い出し、慌ててうなずいた。そうだ。これから大事な仕事があるのだ。カレーに酔っぱらっている場合ではない。





 食べ終えたふたりは、次の客に席を譲るためにそそくさと店を出た。


 この魅惑的な匂いと行列がなかったら、店がどこにあるのかすぐにわからなくなるだろう。見た目は、ただの粗末な木の扉なのだ。周囲の壁は年季の入った石造りで、なるほど千年の重みを感じさせる。


 先に出たジェイドは少し決まり悪そうな笑みを浮かべていた。


「……明日、屋台巡りであんまり食べすぎないようにしないとね」

「だねえ」リンは微笑む。「それから、ミーシャに見つからないようにしないとね」


 ジェイドは一瞬、真顔になった。

 それから、苦笑する。


「そうだね」

「ミーシャってすごい子だよね。見た目、ちょっとマリアラに似てるから、あんなに積極的な子だとは思わなかった。……あの、さ。あの、さっきのミーシャとの話、聞いてた、ん、だよ、ね……あ、あたし」


 リンはジェイドをまっすぐ見上げた。


「……あたしっ、こないだも言ったけど、……あのっ」

「ミーシャがああ言うつもりだってもうわかってるからっ」

 ジェイドは、リンの言葉を遮った。


 リンは瞠目した。

 ――すかされた。

 ジェイドは目を逸らし、口ごもりながら言った。


「……気をつけるよ。話をしないようにさ」

「あ……う、うん……」

「じゃあ、明日の朝、迎えに行くから。仕事、頑張ってね」


 ジェイドは逃げるように背を向けた。こんな場所でマヌエルの制服の上着を着る気になれないのか、いまだに白いシャツ姿のままだ。少し寒いのか、身を縮めるようにしている。

 リンは呆然としていたが、ジェイドの背が路地を曲がって消えてから、少しして、我に返った。


「……聞きたくないって、こと?」


 リンが何を言おうとしたのか、ジェイドは絶対解ったはずだ。だから、遮ったのだ。リンに言わせないように。


「……どうしてよぉ……」


 前回とは違う。違う、はずだ。再会して、会うようになってからほんの数日なんて、あの時の自分は確かに軽薄だったと思う。だから自分に、何度も確かめたのだ。本当にジェイドが好きなのか。そして、何度も頷いた。やっぱり、リンはジェイドが好きなのだと。


 そして、ジェイドも。


 絶対リンを、嫌っていないはずだ。少なくともミーシャよりは気に入ってくれているはずだ。一緒にご飯を食べ、会うたびに用はなくても声をかけ、他愛のないおしゃべりをして。エスメラルダの観光地に一緒に遊びに行ったことも、この数ヶ月で何度もあったのだ。危ないときには助けてくれて、ガストンに抱き締められたときには、暴走しかけるくらい嫌がった、はずなのに。


 なのに、どうして?


「レイキアの風習ってどうなってるんだよぉ……」


 リンは半泣きで、建物の裏手に回った。両手で頬をぺちぺちたたいて、気持ちを切り替えようとする。

 好きですつきあってください、という申し出は、もしかして、結婚するまで言っちゃいけないものなのだろうか。

 気持ちを切り替える努力も空しく、頭の中はそればっかりだ。

 結婚、という制度はエスメラルダでは一般的ではないが、絶対にあり得ないほど希有なわけでもない。確か、一緒に暮らすことでいいはずだ。ジェイドとなら一緒に暮らすのだって悪くないと思う。しかし、マヌエルと一般人が一緒に暮らすためにはどうすればいいのだろう。

 いや、待て。

 リンは立ち止まり、はああああああああ、とため息をつきながらしゃがみこんだ。


「現実を認めよう……ふられたんだよやっぱ……」


 フェリクスの言葉は勘違いだったのだ。ジェイドはミーシャと恋人にも相棒にもなる気はないけれど、リンとだって、付き合う気はない、ということなのだ。レイキアの風習だってきっと関係ない。ただ単に、ジェイドの相手はリンではない、ということなのだ。


「……じゃあなんでお祭りの屋台巡りなんて大事な時にあたしなんかをOKするわけですか……? おかしいじゃん、だって、……他に好きな子がいるならその子と出かけるはずだし……友達と出かけたっていいはずだし……どうでもいい相手となんて、出かける約束しないでくれればいいじゃない……」


 なんだかもう、言葉すらままならない。だんだん、腹が立ってきた。リンは確かにレイキアの風習に詳しくはないけれど、ジェイドはもはやエスメラルダ人であり、ずっとエスメラルダに暮らしていく立場なのだから、少しくらいはエスメラルダの風習を学ぼうとしてもいいはずだ。リンは確かに軽薄だった。認めよう。ジェイドにすれば嫌悪を持つ程に浅はかだったのかも知れない、しかし、彼女にする気のないどうでもいい相手ならば、あんなに軽々しく一緒にご飯を食べたり出かけたり、屋台巡りの約束をしたりすることは、エスメラルダではマナー違反に当たる。いくらレイキアで生まれ育ったからと言って、マナー違反をし続けていいわけがない。その気がないなら、初めから断るべきなのだ!


「ああ、もう……明日どうしよう……」


 こんなことなら、約束なんかするんじゃなかった。どんな顔をして会っていいのか分からない。仮病でも使おうか。いや、寮に止まっていたらミーシャが会いにくるはずだし、ミーシャと一緒に屋台巡りなんてごめんこうむりたい。


 自分でも意外なほどショックだった。


 リンは再度ため息をつき、とぼとぼと歩いた。歩きながら、自分に言い聞かせる。リンはもう学生ではない。れっきとした社会人なのだ。失恋くらいで仕事を投げ出すわけにはいかない。失恋の痛手を癒すことはすぐには無理でも、先送りにすることはできるはずだ。

 もう一度両手で頬をたたき、その扉の前に立った。


 粗末な木の扉。あのレストランの裏手に当たる、厨房兼事務所の、出入り口。

 の、はずだ。


 リンは呼吸を整え、扉をノックした。

 フェリクスの話では、ルクルスの親玉と会うというのが、今回の会合の趣旨のはずだ。ガストンではなくなぜリンが呼ばれたのか、という疑問はあるにはあるが、とにかく今までかたくなに門戸を閉ざして来たルクルスの元締めが、ようやく『こっち』に扉を開けてくれる気になったのだから――


「……」


 リンは扉を見つめた。

 開かない。


 咳払いをして、もう一度たたく。こん、こん、こん。


 ――沈黙。


「……あれえ……?」


 ティティが確かに、『今日はいる』と言っていたのに。

 ノブに手をかけ、回した。がちり、と、堅い手ごたえ。

 鍵がかかっています。

 リンは手をわきわきさせ、仕方なく、きびすを返した。昼食時で忙しいティティの手を患わせるのは申し訳ないが、どうにかしてもらわなければならない。

 リンは顔を上げ、……そして。





 そこに、その人が立っていた。





 赤い瞳がリンを射貫く。リンは硬直した。細身の、色白の、ぴかぴか光る靴を履いた身なりのいい若い男が、静かな微笑みをたたえてそこに立っていた。通路の向かいの壁にもたれて、何か芸術品でも愛でるかのような目で、こちらをじっと見ている。


「……え……?」


 リンはあえいだ。数メートルは離れた場所にいたはずのその男は、ゆらり、と揺らいだ直後にもう、リンの正面にいた。記憶と違って髪は黒い――でも生え際に、その本来の髪の色が見え始めている。


「締め出されたんだ? 気の毒だね、アリエノール」


 くすくすと笑いながら、からかうようにそう言って、彼は腕を伸ばしてリンを抱き締めた。


「んん……相変わらず柔らかいね。会いたかったよ……」

「な……なん、で……」


 辛うじて絞り出した言葉はそんな間抜けなものだった。

 【炎の闇】グールドは、小さなリュックを背負っていた。グールドの肩越しに、リンはそのベルトをぼんやり見ていた。頭が麻痺していて、何も考えられない。グールドは、リンを抱き締めたまま、リンの髪に頬をすりよせた。すんすん、と匂いを嗅いでいる。


「いー匂い」グールドは笑う。「生きてて良かったなぁ……またあんたで遊べる日がくるなんて思わなかったよ……」


 言って、グールドは、リンの頬をペロリとなめた。


「さあ、一緒に行こうよ、アリエノール」グールドは、くつくつと笑った。「締め出されたんだろ? 僕がそいつの代わりに、……あんたを悦ばせてあげるから」


 背中に、にぶい衝撃を感じた。同時に、視界が暗くなる。

 意識を手放す寸前、リンは確かに、背後の扉が開く音を聞いた。「待て!」叫んだその声に、聞き覚えはなかった。もうだいぶ年を重ねた、老人の、しかし鋭い声だった――。


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