噴水前
トレーニングをこなし、リンは十一時半過ぎに事務所を出た。今日もいい天気だ。
セレモニーの開会式をいよいよ明日に控え、街は大変な華やかさだった。なにしろ独裁者ドンフェルの恐怖政治から解放されて、楽園のような現代の礎が築かれて二百年の節目である。街そのものが、明日への期待でうずうずしているような気がする。リンはすがすがしい空気の中をてくてく歩いて行った。慣れない筋トレのせいで体中がだるいが、いよいよあのカレーが食べられるのだと思うと、空腹が進んでちょうどいい、と思うほどだ。
噴水のわきを通った時、どことなく見覚えのある女の子がベンチに座っているのに気づいた。
――あれ、マリアラ?
一瞬、そう思った。彼女はどことなく、マリアラを彷彿とさせる外見をしていた。
でもそんなわけがない。見直すとやっぱりマリアラではなかった。少し年下だろうか、派手な美人というわけではないが、優等生タイプで、穏やかな雰囲気の子だ。目が大きくて、長いまつ毛が印象的だ。背の半ばまでもある亜麻色の、豊かで艶やかな髪も、マリアラを思い出させる。リンは、マリアラはどうしているだろう――と考えた。ラルフが、あまり元気じゃなかった、と言っていた。元気じゃなくてもいいから、どこかで、ちゃんと無事でいてくれますように。
と、目が合った。
「あの」
その子は声を上げ、立ち上がった。
そして歩き出す。真っすぐこちらにやってくるのを見て、リンは少なからず驚いた。今までにその子を見た記憶は一度もなかった。マリアラを思い出させる外見の子だ、今までに会っていたら、覚えていないわけがない。
彼女はリンよりだいぶ背が低い。ラセミスタよりは大きいだろうが、マリアラよりは小さいだろう。人懐っこい笑み。
「突然すみません。リン=アリエノールさん、ですよね!」
「は……え、は、……うん」
どう見ても年下なのでリンは言葉遣いを改める。彼女はにっこりして、きちんとしたお辞儀をした。
「私、ミーシャ=ブラウンと言います。初めまして。あの……今少し、お時間、いいですか……?」
「みー……あ!」
思い出した。ミーシャ――ミーシャ=ラクエル・ダ・マヌエルだ。トールのことをジェイドに話した時、『突然孵化したラクエルの左巻き』の話を聞いた。ダリアに頼んで、雑誌に載っていた似顔絵も見せてもらった。今は制服ではないけれど、去年の七月に孵化したばかりの仮魔女だ。
「え、ええ? 仮魔女がこんなところうろうろしてていいの?」
リンはうろたえた。仮魔女は本来、あまり表に出ないものだ。他のマヌエルと言葉を交わしてはいけないという制限――伝統が、あるからだ。ミーシャは悪戯っぽく笑って、ぺろっと舌を出した。
「ほんとはだめなんですけど。でも今日は休日なんです。だからどうしても、アリエノールさんに会いたくて」
「よく会えたね……? てか、何で知ってるの? あたしのこと」
「私、仮魔女になってから、官報を読んでいるんです。こないだの号が、新人保護局員の特集でした。アリエノールさんの写真とプロフィールを見て、絶対会いたい! と思って」
はきはきした口調に、この子の頭の良さを感じる。きっと優等生だろう――マリアラみたいに。リンは訊ねた。
「どうして? 初対面だよね」
「ええ、でも、私の【親】から、いろいろ聞いていたんです。あなたのこと。ご存じですよね? 私の【親】は、ダニエル=ラクエル・マヌエルです」
「あ――」
マリアラの【親】じゃないか。リンは身じろぎをした。
この子も、ダニエルの【娘】なのか。
「お聞きしたいことがあって。お昼休み、ちょっと、お時間いただけませんか」
「ごめん、あたし、今から打ち合わせが……」
逃げ腰になったことを自覚しながら、リンはもごもごと言った。ミーシャが悲しそうな顔をする。
「……そうですかぁ……」
「……ご、ごめんね? それじゃっ」
「じゃああのっ、目的地まで一緒に行かせてください!」
ミーシャは先程の憂い顔をあっさり脱ぎ捨て、意外な押しの強さで食い下がった。リンは急いで頭を働かせた。断る理由。断る理由。断る理由――。
ああ、と思う。断る理由が見あたらない。
一体何の用だろう?
なぜ逃げ腰になるのだろうと考えながら、リンは渋々うなずいた。
「……いいよ」
「わあっ、ありがとうございます!」
ミーシャは満面の笑みを浮かべてリンの隣に並んだ。
歩きだそうとして、リンは困った。というか、意固地になった。
目的地までならという申し出だったが、この子にティティのあの店の場所を教えるなんて絶対嫌だ。
ミーシャは少し首をかしげたが、噴水のそばに佇んだまま、話し始めた。
「私、こないだの七月に、孵化したばかりなんです。毎日忙しくって、あっと言う間に時間が過ぎちゃって。もう、覚えることがいっぱいあって。たまご認定されてたら、小さいころからもっと少しずつ勉強できたんでしょうけど」
快活な口調でよく話す。リンはうなずいた。
「たまご認定されてなかった子の仮魔女期って、ほんと大変なんだってね。ダニエルは元気?」
「そうですね。普通です」ミーシャはうなずいた。「物静かな人ですね。あんまり話さないの」
「そうなの?」
そうだっけ? とリンは思った。ピロシキを山ほど持ってきてくれた、あの金髪碧眼の巨人が、ダニエルで良かったはずだが。
明るい口調で楽しげにしていたあの時、寡黙な印象は受けなかった。
ミーシャはもう一度、うなずく。
「医局をかけもちしてるし、休みの日には出かけちゃうから、【親】といってもあんまり一緒にいないです」
「へえー……じゃあ、ララは? ダニエルの相棒の」
「ララにもあんまり会ったことないんです。いつも出掛けてる。だから、私にいろいろ教えてくれるのはダニエルと、それから、ランドというおじさんです」
「おじ……」
「ラクエルのリーダーなんですって。すっごく明るい人ですよ。それから、ヒルデ。どちらかというと、ヒルデとランドと一緒にいる方が多いかな」
おじさん呼ばわりはどうだろう、と思わずにはいられない。ミーシャは全く屈託がなかった。
「あ、すみません、お忙しいんですよね。あの、本題です。お聞きしたいんですけど……ジェイドって、どんな人なんですか?」
「じぇい……」
リンは目を丸くした。どうしてジェイドのことを、リンに聞くのだろう。ミーシャは少し照れ笑いをする。
「独り身の右巻きのラクエルって、ダスティンとジェイドだけなんです。ということは、仮魔女期が明けたら、どちらかが私の相棒になるわけでしょ。できればジェイドになってほしいの、だってダスティンって、だいぶ年上だし」
「まあ……」
確かにダスティンは二十歳を過ぎている。十五歳のミーシャにとってはかなりの年の差だ。ミーシャは続けた。
「それにジェイドの方が優しそうで、良く見れば格好いいし。相棒になるならジェイドの方がずっといい。あの、アリエノールさんが、」
「り、リンでいいよ」
言うとミーシャはぱっと顔を明るくした。
「わあ、ありがとうございます! あのね、リンさんが、こないだジェイドに助けてもらった話を聞いたの。保護局員にひどい目にあわされちゃったとき――それを聞いて、もう断然ジェイドがいいなって。だってやっぱり、せっかく右巻きなんだもの、ちゃんと守ってくれる人じゃないとね。でも、私今ダニエルとララと、ヒルデとランド、以外のマヌエルとは話せないし、情報収集できる相手ってリンさんしか思いつかなくて。ね、ね、ジェイドって、どんな人ですか?」
「あの、先に言っておくね。あたし、ジェイドが好きなの」
単刀直入に言うと、ミーシャは目を丸くした。
そして、――微笑んだ。不敵な笑み。
「私、リンさん好きだな。……相棒になったからって、恋人になるとは限らないでしょ?」
「まあ……ね」
胸がザワザワする。確かに理屈ではそうだ。でも、相棒になるということは、一日の大半を一緒に過ごすということだ。
ミーシャはなだめるように言った。
「相棒を得てシフトに入るというのが、マヌエルのステイタスってものじゃないの? 人の救出という仕事が、やっぱり花形じゃないですか。荷運びって、地味だし、なんか、半端仕事って感じがする」
「……そうかな」
「そうですよー。私と相棒になって、シフトに入れば、ジェイドももういろんな人から日陰者扱いされなくても良くなるんですよ」
日陰者って、なんだ。リンはかちんとし、ミーシャは、リンのいらだちを良く分かっているというようにうなずいた。うんうん、と。
「シフトに入ってるマヌエルは、独り身を見下してる。ヒルデとランドと、何度か一緒に仕事をさせてもらったけど、その少しの時間だけでもちゃんとわかりますよ――うーん、というよりむしろ、シフトに入ってることをすごく誇りに思ってる、って言った方が正しいかな。シフトに入って、人を助ける。マヌエルの仕事って、やっぱりそれなの。ね、ゲームって知ってます? あたし、それの逆をやろうと思って」
もちろん知っている。マリアラが仮魔女だった時、ダスティンがこだわっていた。ものすごく、こだわっていた。誰が一番先に仮魔女と言葉を交わすかという――マリアラの仮魔女試験はあまりにも波瀾万丈で、結局ゲームはうやむやになった。それどころじゃなかったからだ。
でもその、逆、って、どういう意味だろう? もしかして、と、リンが考えたとおりのことを、ミーシャは言った。
「仮魔女期のうちに、ジェイドと話をしたいの。リンさん、協力してもらえませんか――?」
すごいな。肉食獣みたいだ。
リンは感心しながら、言った。
「嫌」
「ええー? どうしてですか」
「さっきも言ったでしょ。あたしは、ジェイドが好きなのよ」
「でも相棒が得られた方がジェイドのためになるんじゃないですか」
「〈アスタ〉がミーシャとジェイドを組ませるなら残念だけど受け入れるよ。でも自分から加担するほど、あたし人間できてないの」
「あたし、リンさん好きだなあ」ミーシャは先程と同じことを言った。「素直で、率直で。あたしにジェイドのこと好きにならないで、みたいなバカなこと言わないもの」
「今まで散々言われてきたからね……その台詞の理不尽さはよくわかってる。でも今、生まれて初めて、その台詞を言いたい気持ちが分かった」
リンは、ミーシャに向き直った。
「あなたがジェイドの相棒になるのを止める権利はあたしにはない。付き合うことを止めることもできない。でもあたしは、あなたがジェイドと恋人同士になることを、座して見過ごすなんて絶対しない」
「うん、そうですね。あたしはまだジェイドと話したこともないから、ジェイドのことを好きになるかどうかは分からないですしね。でも、あたしは、ジェイドと相棒になりたいの――というよりむしろ、ダスティンと相棒になるのが嫌」
「そんなに? まあ……ダスティンには相棒がいるしね……」
「ああ、なんか、アルフィラの相棒がいるんでしたっけ? でもアルフィラでしょ? ダスティンとあたしとの相性がもしすごく良ければ、アルフィラは外見と人格を変えればいいだけだもの、それが理由じゃないわ」
リンは淋しくなった。マリアラを思い出させる外見で、そんなこと言わないでほしいのに。
印象や外見はとても似てるけれど、でも、やっぱりこの子はマリアラではない――ダニエルの【娘】だからって、マリアラの代わりにはなり得ない。
そう思うと、少しほっとした。ミーシャはまっすぐな瞳でリンを見ている。
「〈アスタ〉に決められるのを待ちたくないの。あたしは、自分の相棒は自分で決めたいの。来年の七月までに、あたしは絶対ゲームに勝って、ジェイドの相棒になります。……あの、リンさんの電話番号、教えてもらえませんか」
「嫌」
「即答だ!」ミーシャは楽しそうに笑った。「ああ、あたしやっぱりリンさん好き。休みの日に会いに来ます。リンさんの事務所の場所も、官舎の場所も、知ってるから。【魔女ビル】や荷運びに係わらずにジェイドに会うには、それしかないと思うから」
だろうな、と、リンは思った。
ミーシャはにこっと笑って、勢いよく頭を下げた。
「それじゃ、また明日!」
「……って、明日かよ!」
思わず突っ込んでしまう。顔を上げたミーシャはまた笑った。
「明日もお休みなんです。ほら、セレモニーがあるでしょ? マヌエルに会わないように気をつければ、仮魔女も行けるんですって! リンさん、明日ジェイドと待ち合わせして屋台巡りとかするんでしょ?」
「しないよ!?」
「まだ約束してないだけでしょ! 全くもー、何してんの! 好きならちゃんとそーゆーイベントキープしとかないと!」
「あなたに言われる筋合いないんですけど!」
「それじゃ、明日ね! 官舎まで行きますから!」
「まだいいって言ってねえー!」
「また明日ー!」
ミーシャは言って、走り去った。ああ全く、と、リンは思う。
ジェイドやマリアラのことがなければ、リンもきっとミーシャが好きだっただろう。いや、実際、嫌いじゃないのだ、ああいう性質の女の子は。自分の願望に忠実で、変に取り繕ったりしない子と付き合うのはおもしろい。
――根本的に、マリアラに似てるんだ。
そう思うと、ため息をつきたくなった。そう、あの子は外見や印象ばかりでなく、根っこの部分がマリアラと似ている。マリアラも自分の願望に忠実だ。譲れないと決めたところだけは、どんなに涙目になっても頑として死守するところがマリアラにはある。
ふう、とため息をついて、リンはきびすを返し――
噴水側のベンチに座っているその人に気づいた。
小さくなっている。この季節だというのに上着を脱いで、白いシャツ姿。隣におかれた上着は黒い。うつむいて、左手で、横顔を隠すようにしている。
「……ジェイド?」
訊ねると体が強ばった。ぎくりと。
リンはゆっくり歩みよって、その人の前に回る。
のぞき込むと、ジェイドは、引きつった笑みを見せた。
「や――やあ、リン」
「……聞いてたの?」
「なななななななななにを?」
聞いてたな、とリンは思った。
「いつからいたの?」
「……ごめん」
ジェイドはとても情けない顔をしていた。顔の前で両手を合わせて、深々と頭を下げる。
「その……聞く気はなかったんだ。荷運び終わって……昨日のこと、謝ろうと思って……近くにきたら、リンがミーシャと話してるのが見えて。話が終わるまで待とうと思ってたら、……俺の名前とか聞こえたから、……つい」
リンは笑った。
「やー気にしないでよ。あたしだって聞くと思うもん。それにしても、ミーシャってすごいよね。なんか、圧倒されちゃった。ねね、お昼ごはんは?」
「ま、まだだけど……」
「じゃあ一緒にどう? あのね、あたしはお昼を食べたら、打ち合わせがあるんだ。だからお昼だけなんだけど。カレー好き?」
「大好き」
ジェイドが言い、リンはドキリとした。大好き、って、そういう意味じゃないって分かっていても、なんだかドキドキする言葉だ。
「じゃ一緒にどう?」
「うん」
ジェイドは嬉しそうに笑う。暴走、とフェリクスが言ったことを思い出す。ガストンさんは誰にでもああなんだって、ちゃんと弁解しといた方がいいぜ。
「……昨日は」
ジェイドがそう言い、リンは驚いた。「えっ」
「……昨日はごめん。八つ当たりした」
その言い方で、ジェイドが、恐らくは昨日からずっと、言おうか言うまいか散々悩み続けたのだろうということが分かる。言い終えるとジェイドは、とてもほっとした顔をした。
八つ当たり。リンはときめいた。
八つ当たりするほど、腹が立ったということじゃないだろうか。
「八つ当たり、って……?」
ドキドキしながら訊ねると、ジェイドは言いよどんだ。あ、とか、う、とか言った後、困ったように言う。
「いやその……仕事でちょっと嫌なことがあってね……」
正直になれよ! と背をどついてやりたくなった。
これはいけると、リンの野生の勘が告げていた。今度こそは絶対大丈夫。ミーシャとの会話がリンの闘争心に火をつけていた。確かに、ジェイドが相棒を得ることを邪魔する権利はリンにはない。でも、恋人の座まで譲る気だけは絶対に、ない!
「そっか」
うなずくとジェイドは、ほっとした顔をした。
「ごめん。嫌な態度取って」
「んーん、全然。気にしないで。……あのさ。明日って、荷運びあるの?」
ないことはわかっていた。ダリアの影響で、最近リンは『月刊マヌエル通信』の購読を始めたのだ。ジェイドの荷運びスケジュールは今月分すべて頭に入っている。ジェイドは案の定首を振り、リンはにっこりした。
「じゃあ明日さ、一緒に屋台巡りしようよ!」
「いいよ」
ジェイドも微笑んだ。その笑みは絶対に義理ではない。
明日にするか、それとも今日にするか。おいしいカレーを食べてからなら、きっとジェイドの気持ちもほぐれるだろう。心配するなと自分に言い聞かせる。さっきの会話を聞かれていたのだ、もう、告白したも同然じゃないか。




