厨房兼事務所2
ここはどう見ても調理中だ。カレーの鍋はとろ火で煮込まれ続けている。なのに、料理人はどこにいるのだろう? リンがここに来てから、この鍋は一度もかき回されていない。
「煮込まれているカレーって、いくらとろ火でも、放置が長ければ焦げ付くよねえ」
エスメラルダの寮では、十三歳からは交替で炊事をすることが決まっている。リンもつい最近まで、当番の時にはこういう鍋で寮生全員分の食事を作った。万一焦がしたり味付けを間違えたりすると、寮生全員からのブーイングを受けることになるので、炊事当番はとても緊張する。
至宝である(に決まっている)カレーが焦げたらこの世の損失じゃないか。リンは鍋の中にあるリンの身長ほどもありそうな木べらを両手でつかみ、カレーをそっとかき混ぜた。実際、危ないところだった。焦げるまではいかなかったが、鍋底が少々ざらざらしている。
ああ、それにしてもいい匂い。
木べらの肌に付いたカレーを見ながら、リンは誘惑に必死で耐えた。でも。
焦げるところを救ったのだ。少しくらい、ほんの少しくらい、味を見たっていいんじゃないだろうか――?
「リンさ、気をつけた方がいーよ」
すっかり力を取り戻したラルフの声が、リンの狼藉を危ないところで止めた。
「今さらだけどさ、ここに来てるって事は、ティティさんにもう会ったんだよね? 三歳くらいの可愛い女の子の外見してる。あの人ああ見えて実はすっげえ恐いよ……?」
「な、何も悪いことなんかしてないよ。鍋が焦げそうだったから、かき混ぜただけだもん」
「料理してんのが誰なのかは俺も知らないけど」ラルフは体をゆっくりと起こした。「ティティさんは、ここの料理をみんなにふるまうのを、そりゃあ楽しみにしてるんだよ。ティティさんが、はいどーぞ、って言ってないのに勝手に味見したら、怒って二度と食わしてくんないかもよ」
「あ、味見なんてしてないですよー」リンはくるりと鍋に背を向けた。「焦げ付きそうだったから、かきまぜただけですよぉー」
「あー、でもほんと、すっげいい匂い」ラルフは鼻をひくひくさせた。「熱下がってきたら腹減ってきた……その辺に食えるものないかなぁ……」
がちゃっ、と扉が鳴って、リンは飛び上がった。
食堂に続く扉が開いて、今噂したばかりの、あの幼女が入ってきたのだ。ティティさん、とラルフが呼んだその幼女は、リンを見、ラルフを見、嬉しそうに笑った。
「やはり人との会話が三日病の一番の特効薬じゃな」
ティティはそして、リンを見上げた。
「鍋、面倒見てくれやったのか。ありがとう」
「ああ、いえ、いえ。……味見は、してないです」
「もちろんそうであろ。儂が招き入れた客には、つまみ食いするような行儀の悪いものはおらぬはずじゃ」
ティティは全く当然のことだ、と言わんばかりの口調で言い、ラルフが止めてくれて助かった、と、リンは心底思った。
「ねーねーティティさん、なんか食っていいもんない? すっげ腹減った」
ラルフがねだると、ティティはそのあどけない顔に、寮母のような慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「よしよし、少し待ちやれ。ほんに子供は回復が早いのう、頼もしい限りじゃ。アリエノール、ラルフの隣に座っておやり。そなたのお陰で予想以上に良うなった。親しき者の言葉がけほど、三日病によく効くものはない」
言われたとおり、リンはラルフの隣に戻った。起き上がっていたラルフの隣に座ると、ラルフが囁いてくる。
「ティティさんってね、ディーンさんを子供扱いするんだ」
ディーンさんって、誰?
リンは思ったが、今聞くわけにはいかない気がする。
「……へー」
「俺よりずっと小さいのに。噂では、この店が開店した四十五年前からずっと、あの姿のまんま、店員やってんだって」
「四十五年っ!?」
「話し方も変だよね。でも何聞いても、自分のことは全然教えてくんないんだよ」
「よしよし」
ティティが盆を捧げてやって来た。盆の上に乗っている丸いぽってりした鉢の中身は、どうやら粥らしい。ラルフが唇を尖らせる。
「この匂いさせといてそりゃないよティティさん……」
「カレーはまだできてないと料理人が言い張るでな。明日まで待ちやれ」
「ええー。明日は俺、南大島に行くんだよね? 子供に三日病うつすって言ったじゃんか」
「もちろん。じゃから出る前に必ず食わしてやるゆえ、今はおとなしく粥で我慢するがよい。二日食べずにきた胃袋に、いきなりカレーは重すぎるであろ」
「……はぁ~い」
ラルフは渋々粥を受け取って食べた。ティティはキャスターつきの椅子をもって来てちょこんと座り、目を細めてラルフを見た。
「うまいか」
「……すげーうまい」
あながちお世辞でも無さそうな顔でラルフが言った。ここでは粥もおいしいらしい。どんな味なのかなあ、と考えていると、ティティが言った。
「ラルフは抵抗力がかなり強いゆえ、今まで三日病に罹らなんだ。ガルシアに行ってもアナカルシスに行ってもな。しかし成長してから、夏に風邪を引いたりケガをしたりなどして抵抗力が弱まった時のために、今回わざと罹患させたというわけじゃ。……じゃからそなたにも」
そこで言葉を切り、ティティはリンの胸の辺りをじっと見る。
「……なんじゃ、もう免疫ができておるな。わくちん、というやつか」
何で分かるんですか。リンは呆気に取られた。
さっきラルフにそれを話した時、ティティは確かにいなかったのに。
「ティティさんって、どうしてそんなことができんの」
粥を飲み込んだラルフが言った。
「魔女じゃないんだよね? つか、三日病を治すんじゃなくてわざと罹らせるなんて、魔女にもできないよね、たぶん。すごかったんだよ。俺の胸んとこ、手ェかざしたと思ったらさ、急に三日病に罹ったんだ。いきなり頭が痛くなって、ぐわっと熱が上がってさ。びっくりしたよ」
リンはぞっとした。任意の人間に三日病をうつすことができるなんて。
三日病の致死率の高さを考えたら――ティティがその気になれば、大変な惨事を巻き起こすことだってできる。ティティは苦笑して、手を振った。
「そんな面倒な。儂はそこまで暇ではないわ」
リンはぎくりとした。「あたしの……」
「顔に全部出ておるわ、阿呆。アリエノール、儂はそなたを歓迎しておる。じゃから、そなたに手みやげをやろうと思うたのよ。月曜日は定休じゃが、そのほかの日はいつでも昼飯を食べに来るがよい。整理券もいらぬ、かおぱす、というやつじゃな。それから、三日病の免疫もじゃ。だから今日呼んだ。ラルフの病が完治する寸前、一番感染力が強くなる日じゃからの。――じゃがわくちんの免疫では少し心許ないの。儂が強めてやろう」
ティティはリンの胸の前に手のひらを翳した。
とたん、体が熱くなった。リンは思わず声を上げ、ティティがたしなめる。
「動くな」
「で――でもこれ、何ッ!?」
「免疫を強めておるだけじゃ。人間の体の七割は水でできておるでの、魔女でなくとも、整えるのは容易なこと。少し心の臓が跳ねるゆえ気をつけろ。そら」
どくん、と、心臓が鳴った。リンは体を抱きしめて呻いた。
――少し、って言ったじゃないか!
跳ねると言うより、重い槌でそっと叩かれたような感触だった。リンはソファに座り込み、ティティが言った。
「もう良いぞ。これでそなたは生涯、三日病に苦しむことはないであろ。これがそなたへの引き出物じゃ」
「引き出物……って……」
「我がかたくなな幼子が心を開く気になった。そなたの存在でな。嬉しいことじゃ。人間は良いのう。不幸なすれ違いがあったとしても、次から次へと、憎しみを知らぬ新たな幼子が生まれ、いつかそのすれ違いを溶かしていく。――儂らにはそれがなかった」
ティティの声は酷く、淋しそうだった。
心臓の反乱が収まり、リンは顔を上げた。全身はまだ熱かったが、少しずつその熱も引いていく。
ティティのあどけない顔が、複雑な色を湛えて、急に、恐ろしく歳経た老女のように見えた。
「あなたは……誰なんですか」
リンは訊ね、ティティは薄く笑った。
「死に損ないじゃ」
「死に損ない……?」
「共に責務を果たすべき片割れをみすみす死に追いやった、愚かな種族の末裔よ。儂らだけ生きながらえ、幼子を引き裂いて食べてまで、種の存続にしがみつく哀れな咎人じゃ。儂にできることはもはや何もない。そなたら幼子に時折こうして、癒しや力を与えてやることだけじゃ」
ティティは自嘲するように言う。リンは、気づいた。
引き裂いて食べて、種を存続させる。
それって、もしかして。
「……儂はそなたらが羨ましい。同じ種族に男と女がおり、右と左がおり――寿命は短いが、そのお陰で、過ちを何度でもやり直せる強靱さがある。覚えていやれ。愛するものを手放してはならぬ。つまらぬ我を張って、強がって、相手を突き放すことは容易いが、のう。その代償に、儂はもうずいぶん長いこと、ぬくもりを感じておらぬ」
「ぬくもりを……?」
「人魚は銀狼の毛皮によってしか、あの切ないまでのぬくもりを、安堵を、安らぎを、感じられぬ生き物なのじゃ。銀狼はもはやおらぬ。いくら悔やんでも取り返せぬ。もはや人魚の中に、銀狼のぬくもりを知る個体はほとんどおらぬ。愛することを知らぬまま、種だけを必死で長らえさせて、どんな益があるじゃろう」
「……」
相づちすら打てず、リンは黙った。ティティは哀しそうに微笑んで、リンの頬をそっと撫でた。
ぬくもりを知らぬ、と言ったとおり、水みたいに冷たい指先だった。
「儂は人魚の中でははみ出しものじゃ。人魚に交わるのを疎み、儂の愛し子が拵える自慢の料理を人に出すことだけを楽しみに日々を送る死に損ないじゃ。じゃから、気が向いた時だけで良いから、時折は思い出してここに食事に来やれ。そなたならば代価はいらぬ」
「……どうして、あたしなんですか……?」
フェリクスに話を聞いた時から、ずっと思っていたことだ。ティティは微笑んだ。
「さあ?」
「さ、……さあ、って」
「それしきのこと、自分で考えるが良い。さ、来やれ。無駄足を踏ませて悪かったが、そなたの待ち人は今日は来られぬことになった」
「あ……そうなんですか?」
「そなたの上司が先ほど、とんでもない品物を手に入れたと知らせて寄越したそうでな。ルクルス側としても、それに見合う条件を練り直さねばならぬわけじゃ。明日また来るがよい。二日続けて出すと常連にいぶかしがられるゆえすぺしゃるらんちは出せぬが、かれえだけでも後悔は決してさせぬぞえ」
「は、はい! 絶対来ます!」
「ぼーいふれんどもつれて来やれ」ティティは悪戯っぽく笑った。「口実にちょうど良いであろ」
「ええっ!? ど、どうして――」
人魚って怖い、とリンは思った。何をどこまで分かっているというのだろう。ティティは苦笑いのような見守るような、複雑な笑みを浮かべている。
そして。
瞬きをしたと思ったら、ティティはもうそこにいなかった。リンは絶句し、呆然と、辺りを見まわした。ティティばかりでなく、ラルフもいなかった。あの石造りの厨房兼事務所もなく、カレーの匂いも薄れ、リンが今立っているのは、あの店がある商店街の、入り口だった。行き交う人達はリンの出現に驚いた様子もなく、淡々と周囲を通り過ぎていく。
「あ……あれ……?」
まるで全てが夢だったかのようだ。
でも、夢ではない。今は午前中ではなく、もうおやつ時だ。十月のエスメラルダでのおやつ時と言えば、既に夕暮れが近い時刻だった。それに、お腹はまだいっぱいだ。あの幸せな味は身体中が覚えている。肩口に鼻を近づけてみると、カレーの匂いが残っている。
リンは下を向き、自分がちゃんと鞄を持っているかどうかを確かめた。抜かりなく、ちゃんと持っていた。不思議だなあ、と思いながら、事務所へ向かって歩き出した。大丈夫だ、と思う。明日またおいで、と、ちゃんと言われたのだから。
時刻のせいか、何だかもの悲しかった。ぶらぶらと歩きながら、目の前に伸びる、自分の長い影を眺めた。色々なことがありすぎて、どのことについて考えればいいか、脳が決めかねている、そんな感じだった。
人魚のこと。ラルフのこと。マリアラのこと。
新しい仕事のこと。ディーンさん、という人のこと。明日のカレーのこと。
マリアラが無事で良かった。でも、元気だとは言えない、というラルフの率直な言葉。
フェルドのこと。マリアラのこと。ふたりがまた会う日は、いつなのだろうか、ということ。
それから、ジェイドのこと。
「明日……あのお店に、ジェイドを誘ってみようかな……」
そしてまた、告白してみようかな。近いうちに。
――愛するものを手放してはならぬ。
――銀狼はもはやおらぬ。いくら悔やんでも取り返せぬ。
――もはや人魚の中に、銀狼のぬくもりを知る個体はほとんどおらぬ。
「ティティさんは……ぬくもりを、昔、感じたことのある人魚なのかな……」
淋しげなあの笑みを思い出し、リンはため息をついた。
ジェイドをもし失った時、自分はああ言う顔をするだろうか。ジェイドのことは大好きだ。でも、愛してる、とまで、言えるのだろうか。
そんなことを考えながら、リンは石造りの商店街を、ぶらぶらと歩いていった。とてももの悲しい気持ちで。
*
事務所に帰るとフェリクスが待っていた。
事細かに念入りに報告して、少し憂さ晴らしができたリンだった。




