五日目 非番(1)
フェルドが不機嫌にならないのが、不思議だった。
助けたいと言ったのはマリアラだ。フェルドはそのせいで、大変な労力を強いられていると思う。疲れている上に色々と想定外のことが起こっては、イライラするのが普通ではないだろうか。
【魔女ビル】に魔物を運ぶのが、まず予想外に大変だった。
魔物は何も言わないが、こちらの話を理解していることは明白だ。マリアラの要請に従って、数分の時間をかけて自分の体を小さくした。あれだけの巨体がこんなに小さくなるなんて、これこそ本当の“魔法”ではないだろうか――そう思ったが、すぐに、全てがうまく進むわけではないらしいと悟った。
意識し続けていないと、その小ささを維持できないらしい。
魔物の傷はもうふさがっていたが、傷を癒やすのにはやはり睡眠を必要とするらしい。箒に乗って飛ぶ間に何度か居眠りしかけ、その都度元に戻りかけ、その都度重さで落ちかけ、その都度降りて縮むのを待たねばならなかった。普段ならほんの数分の距離を飛ぶのに何時間もかかり、いつ目撃されるかと気が気ではない。
そんなこんなで、【魔女ビル】にたどり着いただけで既に、真夜中をとうに回っていた。
これから先、【毒の世界】の扉の向こうの時間を確かめ、魔物をつれて【魔女ビル】の中を通って地下まで行かなければならない。
ここまで手伝ってくれてありがとうと言うべきだ。まだ相棒でも何でもなく、仕事でもなく、フェルドにとっては何の義理もないマリアラの、ただの我が儘のために、これ以上フェルドを引っ張り回すわけにはいかない。
そう、思うのだけれど。
――謝られると俺が巻き込まれて渋々手伝ってるみたいになるからやめて。
あの言葉を思い出すと、こんなにうじうじ悩んでいること自体を怒られそうな気がして言い出せない。
「――おうお疲れ。どんな感じ?」
唐突にフェルドが言ってギョッとした。彼はいつの間にか無線機を取り出して話していた。マリアラは慌てたが、フェルドは全く気にする様子もなく、通話口を押さえて言った。
「大丈夫だってさ、誰も俺たちを探しに来たりしなかったって」
相手はラセミスタだ。マリアラの同室の、魔法道具制作員。十六歳にして、技術大国エスメラルダの魔法道具に関する最高位に登り詰めた天才少女だ。
彼女はフェルドと仲が良いらしい。さっきフェルドが彼女に“アリバイ作り”を頼んだときにも、ふたつ返事ですぐに協力してくれた。治療院のあの時に“待っててやって”と頼まれたことも考え合わせると、兄妹のような関係を思い起こさせる。
「で、時間どうなった――【毒の世界】の昼の時間だよ、さっき頼んだだろ。今すぐ行って大丈夫……は? ……はあ? ああ、あーいーよわかったよ、いくらでも頼めば――あー? 何でだよ、食いに行けばいーじゃんかめんど、……あーわかったってば! ちょっと待て」
何だか雲行きが怪しい。フェルドは眉根を寄せてまた通話口を押さえ、マリアラを見た。
「ごめん、頼みがあるんだけど」
「――うん、はい。もちろん」
何でもやりますもちろんです。マリアラはフェルドに向き直った。
「ラスが、今回の協力の報酬として、ちょっと面倒なこと言い出してて」
「面倒な、こと?」
「水の博物館の中だけで買えるなんとかケーキっつーものが食べたいんだそうで、でも行くのは嫌だから買ってこいと」
「もしかしてキャラメルハニーナッツクランチカップケーキ?」
『それ!』無線機の向こうでラセミスタが叫んだのが聞こえた。『今すっごい人気なんだよ! フェルド知らないのーおっくれってるー』
「るっせ!」
「もちろんいいよ。カップケーキ全種類買ってくる」
水の博物館は水に関する体験なら殆ど何でもできると言われる、有名な博物館――というよりむしろ、テーマパークに近い。エスメラルダの中でも特に人気のある観光地で、同時にデートスポットでも有名だった。カップルやグループデート、女の子同士のグループはよく見かけるが、男の子だけのグループはあまりいない。フェルドがカップケーキを買うためだけに一人で行くのはちょっと敷居が高いだろう。
『やったやったー♪ ほっほーい♪』
ラセミスタの喜びの声が聞こえ、マリアラは頬を綻ばせた。ラセミスタとは同室になって二週間近くたつが、未だに、打ち解けられていなかった。こんな風にはしゃぐ声を聞いたのも初めてだ。この機会に少しでも仲良くなれるならとても嬉しい。
フェルドがこちらを見て、ありがとう、と言い、マリアラは微笑んだ。それはこっちの台詞だ、とまた思う。
『一度食べてみたかったんだー♪ あそこ通販やってくんないんだもん』
「わかったからほら、【毒の世界】の時間言えって」
『今は【夜】だよ』答えはすぐに来た。『明日……じゃないや、今日の午前十時には〈毒〉の雲が通過を終え、十一時には魔物の波も落ち着き、空気は晴れるでしょう』
「十一時か……わかった。ありがと」
フェルドは通話を切り、無線機をポケットにしまった。
魔物はうつらうつらしていた。それを見上げて、彼は唸る。
「しょーがないな。俺の部屋に入れよう」
「え!?」
「俺同室の奴がいなくてさ、ふたり部屋をひとりで使ってるんだよ。マリアラとラスの部屋に連れてくわけにはいかないから……〈アスタ〉に覗かれないようラスに頼んでおいて、鍵かけとけば、明日の朝までは隠せるだろ」
「でもフェルド、フェルドはどこに寝るの?」
「更衣室のソファで寝るよ。大丈夫だよ、慣れてるから」
でも。
言いかけて、マリアラは黙った。
申し訳なさや気後れや懸念を抜きにして考えたら、それが最善の方策だということは疑いなかった。同室のラセミスタにかける迷惑を考えたら、確かにマリアラが自室に連れて帰るわけにはいかない。今夜の内に〈毒の世界〉に連れて行くのは無理だ――【夜】に扉を開いたら、〈毒の世界〉の魔物が傾れ込んでエスメラルダ全土どころか世界中が魔物に蹂躙される、という事態になりかねない。十時過ぎまでここに寝かせておくわけにもいかない。――それなら。
それなら、言うべきは“ごめんなさい”ではない。
「……ありがとう。よろしくお願いします」
そう言うとフェルドは嬉しそうに笑った。マリアラは少し驚いた。笑うとこんな顔になるんだ、と思った。どうしてだろう。笑顔なんて、今までに何度も見てきたのに。
「いえいえ、どういたしまして。――ほら、起きろ。もう少しだから、もう一度縮んでくれ」
フェルドの声に目を覚ました魔物が、また少しずつ縮み始める。マリアラは微笑んだ。こんな事態に巻き込まれてしまった時の“相棒”が、フェルドで良かった。そう思った。
フェルドの方は、貧乏くじを引いたと思っているかも知れないけれど。