旧市街のレストラン
エスメラルダの道路は全般的に狭い。
修学旅行でアナカルシスへ行った時、その街の見晴らしのよさに驚いたものだ。たぶん、道路の広さが段違いだからだろう。
エスメラルダの都市部の、動道以外の道は、広いところでも道幅は三メートルないくらいだ。両脇にビルがそびえ、正直言ってごみごみしている。けれど、今はその密集具合が却って功を奏していた。壁面の色とりどりの飾りが華やかで、細い道路を歩いていると、極彩色の絵画の中にいるような気分になる。
去年、マリアラと一緒に、【魔女ビル】の屋上で、フェルドが属しているパレード隊の演舞を見たっけ。
あれからもう一年。この一年は本当にあっという間に過ぎ、そして同時に、全てのことが変わってしまった。
フェリクスがたどる道筋を、リンは注意深く覚えた。
生粋のエスメラルダ育ちであるリンでさえ知らないような道を、フェリクスは危なげない足取りで歩いて行く。
やがてふたりは、不思議な商店街に出た。
恐らくそこは、エスメラルダに残る最も古い街のひとつだった。リンは唐突に、周囲にそびえる建物の一階部分が、コンクリートではなく石造りであることに気づいた。画一的な近代的なビルに慣れた感覚には、その古びた建物を構成する石の、まちまちな大きさや、天井の低さ、中の薄暗さが異様に感じられる。でも、同時に、強く引かれる事も確かだ。なんという古さだろう――そして、なんという頑丈さだろう! 石造りの部分の上に、五階だの七階だのの上部が建て増しされているというのに、土台がびくともしないなんて。
「すっげえよな。これが、千年建ってんだってんだから」
フェリクスが言い、リンは仰天した。「……千年っ!?」
「ああ~? 歴史の授業で習ったろーよ。エスメラルダが世界に誇る旧市街じゃねーか」
「……ここが」
リンは呆気に取られて、改めて周りを見回した。
「もういいかげん古いし危険だってんで取り壊そうって話も何度か出てるらしいんだけど、もうこの一軒一軒が歴史の遺産だってんで。取り壊すにしても、石造りの部分の、上だけしか壊せねえんだとさ。さ、よく道覚えとけよ。入れんのはおまえだけだ。帰りはひとりだし、次からはひとりで来んだからな」
「……あ、はい」
リンは再び緊張を取り戻した。一体どうして、と考えずにはいられない。どうして今までずっと頑なに門戸を閉ざしてきたルクルスたちが、よりによってリンだけを受け入れる気になったのだろう……。
いいにおいがする。
旧市街に入ってしばらくして、リンはそれに気づいた。
商店街の中に、レストランがあるらしい。ニンニクと、オリーブオイル。とうがらしと、バジルとチーズ。ピクルスだとかトマトだとか、胃がきゅうっとするような匂いが、どんどん強くなってくる。
「あーおまえマジうらやましーわ」フェリクスが立ち止まり、リンを見下ろした。「あそこ本気で旨いんだ。店が小さくて、ランチは限定百食しか作らねえ。だから出勤前に朝いちで整理券もらわねえと食えねえんだよ……俺だって今までに一度しか……ほら、これが整理券だ。メニューは選べねえから」
「あ、……はい」
「今日はトマトとバジルのチキンパスタだとよ……覚えてろ……呪われるがいい……」
どさくさ紛れに呪詛を吐きながら、フェリクスはリンの手に木でできた札を一枚乗せ、そのまま歩み去った。リンはあわてて声をあげる。
「えっ、あのっ、それでどう……っ!」
「整理券あんだから並んで食え!」
「た、食べればいいんですか!? それで!?」
「成り行きに任せろ! 後で報告な! あんまり旨そうに表現したら殺す!」
「報告ってご飯の!? てかなんなんですかもー!」
叫んでもフェリクスは立ち止まらず、さっさと歩いて行ってしまった。
リンは途方に暮れて周囲を見回した。
少し前に、行列ができていた。まだ十二時になっていないのに、既に十数人が並んでいた。リンはまた周囲を見回したが、あの香りには抗えず、ふらふらとその行列の最後尾に並んだ。
多種多様な人が構成する行列だった。貴族の末裔のような気品をたたえた老婦人が黒レースの縁取りのある日傘を手にしているかと思えば、エプロンにサンダルばきの妊婦もい、営業の途中らしきスーツ姿のふたり連れもいる。
「お待たせしましたあ――開店でーす!」
そう言ったのは、驚くほど幼い声だ。
ラルフやケティよりもまだ小さい、まがう事なき幼女の声だった。
行列が動き出した。リンはふらふらとみんなの後に続いた。今扉を開いた幼女が見えてきた。黒いビロードのふんわりしたスカートの下からたっぷりした白いレースがのぞく、という、懐古趣味な服が目眩がするほど似合う、目の大きな幼女だった。多分三歳か、四歳くらいだろう。ラセミスタを彷彿とさせる、人形のような美少女だ。黒髪の巻き毛を結い上げ、白いレースの髪どめで留めている。
彼女はにこやかに、入店する客たちにあいさつしながら整理券を受け取っているが、リンを見て動きを止めた。真っ赤な唇が薔薇のつぼみのように見える。色が白い。
「いらっしゃいませ」
にっこり笑って、手のひらを差し出した。
リンが整理券をのせると、うなずいて見せた。
「奥の『予約席』へどうぞ。本日のメニューはトマトとバジルのチキンパスタです。お姉さん、ナスは好き?」
「え、あ、だ、大好き、です」
「よかった!」
ほっとしたように彼女は笑い、リンの背に――身長が足りないので太ももの辺りに――手を添えて店の中に入れ、声を張り上げた。
「店長! 本日のスペシャルランチのお客様でーす!」
その瞬間、明らかに空気が変わった。
店中の客の視線がリンに集中し、リンはうろたえた。紛れも無い、羨望の視線。
「あいよー!」
店の奥で『店長』が答えた。こちらもまだ若い声だった。幼女はリンに、店の奥を示した。
「あちらです。すみません、うちは、セルフサービスなんです。ほら、カウンターの上のをひとつずつ、ご自分で持っていただいて、席に座って召し上がっていただくの。お姉さんのは一日限定一食のみのスペシャルランチですから、まだカウンターに載ってないから、お呼びするまでお席でお待ちくださいね。――いらっしゃいませー!」
そのまま幼女は外へ出て行き、リンはおずおずと、その店内に足を踏み入れた。
石造りの、狭い店だった。カウンター席が十、ふたりがけのテーブル席が五つ、それでもう店の中は満杯だ。お客はまずカウンターで自分の皿と水を受け取り、そのまま席へ向かう。リンは言われたとおり、一番奥の席へ行った。『予約席』という札の置かれた席だ。
こういうシステムの店へきたのは初めてだった。
リンはドキドキしながら席に向かった。全くもう、何という香りだろう。きゅうきゅう胃が哀れっぽい声を上げている。近くの席で一心不乱に食べている人の皿を覗くと、揚げナスとチキンがごろごろ入ったパスタに赤いトマトと緑のバジルのソースがかかっていて、食べている客の恍惚とした表情を見るまでもなく、おいしいだろうということが分かる。あの見た目とこの匂いで美味しくなかったら嘘だ。
「スペシャルランチお待ちー!」
威勢のいい声と同時に、どん、とカウンターの上に盆が乗せられた。リンはいそいそと立ち上がり、盆を取りに行った――
「うらやましいわ」
近くの席に座っていた老婦人が、リンを見て言った。
「あたくし、四十年前に一度いただいたきりよ。楽しんでね、お嬢さん」
「あ……は、はいっ」
盆を受け取って、急いで席に戻る。盆の上には、他の人と同じパスタの皿。それから、つやつやした色合いの、シンプルなジャガイモの皿、大きな貝殻に品よく盛り付けられた魚介らしきもの。ひと口大のサンドイッチと、小さなカップに入った、アイスクリーム、だろうか?
「いただきます……」
リンはまず、パスタのナスから食べた。赤と緑のソースを絡めて、口に入れる。
――なんだこれ!
陶然となった。
――なんだこれ、なんだこれ!
それしか言葉が浮かんでこない。
しょっぱさとほのかな甘さが、ナスの柔らかな食感と同時に口の中に、いや頭全部に広がったような気がした。香りそのものが皮膚から旨みとして染み込んでくるようだ。ソースをたっぷり絡めたスパゲッティの、歯ごたえさえ美味しかった。リンは夢中で食べ、その減りの早さに恐怖を覚えた。まだほんの少ししか食べてないのに、もうこれしかない。
フォークをきれいにしてから、ジャガイモに移った。
そしてまた打ちのめされた。
「……何これ!」
思わず声に出してうめいてしまった。老婦人がこちらを見て、羨望と嫉妬と共感のないまぜになった目配せをよこした。
それはたぶん、マッシュポテトだ。たぶん。
でもあまりに滑らかで、今まで知っていたマッシュポテトという食べ物と同じ材料でできているとは思えなかった。バターとクリーム、それからたぶんチーズが入っている。舌の上にのったりとまとわりつくそれもまた、旨みそのものの固まりのようだ。
魚介の方は、驚くほど酸っぱかった。バジルやマッシュポテトの後味がすうっと消える。こりこりした食感がおもしろい。
そしてサンドイッチ――
「ど、どうしようこれ……」
中身は、ハムとキュウリとチーズだ。なんの変哲もない。
なのに。
「ふだんの食事ができなくなったらどうしよう……」
恐らく、パンに塗られたソースが特別なのだろう。ハムのしょっぱさとキュウリのみずみずしさとチーズのコクが、そのソースによって魅惑的にひとつにまとめられ、さらにパンが。たぶん、格が違うのだ。
「コオミ屋以上のサンドイッチなんて……」
今まで十七年間で培ってきた価値観すべてがガラガラとくずれ去る体験だった。
デザートはと見れば、全く溶けている様子がないので、たぶんアイスではないのだろう。リンは安心して、またスパゲッティに挑んだ。けれど、美味しすぎて哀しくなるのだ。このままずっと食べ続けていたいのに、現実として残りはどんどん減っていく。そんなの当たり前のことなのに、その現実を受け入れられない。
「どうしよう……」
マッシュポテトと魚介のピクルスで時間をつなぎながら、つぶやいた。
「こんなの食べちゃったら……この先どうやって生きていけばいいんだ……」
「結構生きていけるものよ」
食べ終わったのだろう。上品に口元を拭きながら、さっきの老婦人が優しく言った。
「でもここの食べ物は呪いだわね。スペシャルランチは特に。食べ終わるたびにいつも思うのよ、この味を知らなければ、心穏やかな人生だっただろうなって」
「そうそう、でも食べ始めると、この味を知らない人生なんてごめんだなって思うんだよね」
そう合いの手をいれたのはでっぷり太ったおじさんだ。リンを見て、いたずらっぽくウインクをした。
「明日はカレーライスだってさ。何が何でも整理券手に入れないと。それじゃ」
「お先に」
老婦人もあいさつをして、さっさと出て行った。気が付くと、店の中の客はだいぶ入れ替わっていた。店が狭いから、食べ終わったら次の人のために席を空けるのがマナーなのだろう。リンは涙ぐみそうになりながら、名残を惜しみながらパスタとマッシュポテトとサンドイッチとピクルスを食べ終え、デザートに取り掛かった。
そして打ちのめされた。
「……けしからん……!」
ほどよい甘さと濃厚な旨み、絶妙な舌触りのその菓子は、いったい何という名前なのだろう? コオミ屋にもあるだろうか? 次の人が待っていると思いながら、リンはていねいにていねいにその菓子を堪能した。そして絶望を感じた。この味に、あと四十年巡り会えないなんて、これが絶望でなくてなんだろう。
「お味はいかがでしたかー?」
可愛らしい声に顔を上げる。さっきの幼女がリンを見上げている。
リンは率直に呻いた。
「死ぬなら今死にたいです」
「うふ」幼女は含み笑いをした。「泣かないで、お姉さん。たかが食べ物じゃないの。ただの栄養の固まりよ」
「違うよ……い、生きてるってことだよ。友達と話して楽しいとか、仕事しておもしろいとか、大変とか、やりがいあるとか、そういう時に感じてきたものが、今のあたしを作ってる、んだから。美味しいなあ、幸せだなあって、感じる、ことだって、……あたし……ああ、食べ終わっちゃったよ……もう明日からどうすればいいの……?」
「明日はカレーよ。一昨日仕込んで、今もとろ火で煮てるところなの。ぐつぐつぐつ、ってね。どっさりの玉ねぎと、牛すね肉と、里芋と。夏だったらオクラが入るんだけどね。でも悲観することはないわ。秋だから、茸がふんだんに入れられるもの。それからにんじんと。うちのはお水は入れないの、ワインと、ジュースを数種類。それから皮をむいたナスをいっぱいいっぱい入れるの、ぜーんぶ溶けてなくなっちゃうんだけど、ナスのお腹に入ってる美味しい水分を使うってわけよ。それから、絶対に忘れちゃいけないのがアスパラガスね。これは煮込まないのよ? あつーい油でさっと揚げて、カレーにのせて、できあがり」
歌うように言って、幼女はリンを覗き込んだ。
「どう? 生きる気力が湧いてきた?」
「明日も食べにくるよ……!」
「毎度あり」幼女は蠱惑的に笑った。「お姉さんならいつでも歓迎だわ。あのね、うちでは、前払い制なの。朝整理券をくばる時、引き替えにお金を渡すのよ。でも気をつけて? うちの整理券を持ってるってばれたら、盗まれたりするんだから」
「……だろうね……」
リンはしみじみと頷き、幼女もしみじみと頷く。
「でも、盗んで食べに来たらあたしにはわかるの。そういう人は入れてあげないのよ。整理券をもらえるのは、あたしの気に入った人だけなの。威張りん坊とか、怒りん坊とか、金ならいくらでも積むからスペシャルランチを食べさせろだとか……そういう人には、うちのお店が見えなくなるのよ」
幼女の言葉は荒唐無稽ではあったが、不思議に説得力があった。リンを覗き込んで、幼女は微笑む。
「明日はカレーだって噂が広まると、必ずと言っていいほどお店に泥棒が入るのよ。カレーは仕込みに数日かかるものだから。ね、でも、匂いを嗅いでみて。カレーの匂いは全然しないでしょう? 泥棒に入ったって無駄なの。ここじゃないところで作ってるの。そこに入れるのは、あたしが迎え入れた人だけなのよ。ね、わかったでしょ? 正直でいなきゃダメよ。俺は偉いんだから食べさせるのが当然だって言っちゃダメ。食べさせてくださいっていう姿勢でいなきゃ。ちょうどあなたみたいにね?」
幼女は出し抜けに、リンの腕をぐっと引いた。バランスを崩したリンの体を引き寄せて、額に軽いキスをする。
「ようこそ、リン=アリエノール」
その囁きを最後に、周囲から音が消えた。




