仕事場3
フェリクスは叫んでいたが、リンは聞いていなかった。じわじわと、嬉しさが胸の底から湧き上がってくる。そっか――そっか、そっかそっかそっか、
「そっかあ――! きゃー♪」
「きゃーじゃねえー! あーもーお前むかつく! ベネットの気持ちが超わかる!」
「いやだって、もう、どうしましょう!?」
「だから知るかってんだ! うるせえ黙れ! そこへ直れ! 仕事の話すっぞ!」
とたんにリンは着席した。頭を下げる。
「すみませんでした! よろしくお願いします!」
「………………」
フェリクスは長々と沈黙した。
そしてうめく。
「……おう……」
「仕事って、さっきガストン指導官がおっしゃっていた、もうひとつ、ですよね」
「……あー……なんつーか……なんつーかな……」
フェリクスはため息をついた。
「ストールンも気の毒だわなあ……」
「は? 何がですか」
なんで今イクスの話が出るのだろう。
「知ってっか。ストールンはな、アナカルシスのウルクディアってところに配属になったんだ」
寝耳に水だ。リンはびっくりした。
「……そーなんですか!?」
「異例の人事だぞおまえ。新人は普通、初めの一年はエスメラルダに配属になるもんだ。そこで訓練だの研修だので横のつながりを強固にしてから、いろんな場所に配属になる。そういうもんだ。……それがどーよおまえ。お前に粘着して言い掛かりつけて陥れようとしたばっかりに、初めっから左遷人事だ。……気の毒だよなぁ」
「……」リンは絶句した。「……あたしのせい……ですか」
「まーそーだろーな。ガストンさんの期待の秘蔵っ子の宿敵だもんなあー」ため息をついた。「自業自得とは言え、まあ、……相手が悪かったよなあ」
「……そんな」
一気にへこんでしまった。しゅんとしたリンを見て、フェリクスはぱたぱたと手を振った。
「いや嘘嘘、お前のせいだけじゃねえよ。あいつが常軌を逸してたってのは俺も見たし、報告したのも俺だし、そもそもストールンはあのブライトン事務部長をめちゃくちゃ怒らせて研修途中で追い出されてんだから、あいつの自爆だ。ただ、気ぃつけとけ。あいつはこないだ、お前をとっ捕まえて一気に挽回する気だったんだ。それができなかったのはお前のせいだ、お前がみんなを誑かしてるせいだって、思ってるだろうな。それがただの八つ当たりに過ぎねえって事実を飲み込めるようなら、そもそもあんな騒ぎは起こしてねえだろうから」
「……うう……」
「二度と会わねえように気をつけろ。そんで、ほら、仕事の話すっぞ」
フェリクスが、やり過ぎた、と思っていることがよく分かった。ちょっとちくちく苛めるだけのつもりが、うっかり言い過ぎたのだろう。けれど、だから落ち込むなと言われても無理だ。イクスは確かに嫌いだったし、あんな目で睨んだりリンを陥れようと後をつけたりするような相手に、もう会わなくて済むのならありがたい。
でも、だからと言って。
リンのせいで、イクスが『左遷』されるような事態まで、ありがたがることはできない。
――相手がどの時期にどの研修を受けるかを下調べしておいて、その時期を避けて申請を出す。
――それくらいの処世術は、身につけておいてもよかったんじゃないかしら。
もしリンがサンドラのような賢さを持っていたら、イクスは、もしかしたら左遷までされずに済んだのかもしれない。
フェリクスは咳払いをして、話を変えた。
「そんでな」
「はい……」
「お前の仕事はここの留守番だ。俺とかサンドラとか、ガストンさんとかな、『こっち』の保護局員の橋渡しだな。電話がない時は筋トレ。それから『こっち』に誰がいて、普段どんな仕事してんのかの把握。さっきのアドレス帳は丸暗記の勢いで」
「……はい」
「普通はそれだけなんだが、お前の場合はもうひとつ」
言われて、リンは顔をあげた。「あたしの場合……」
「ルクルスとの連絡役だ。『こっち』始まって以来の重要な仕事だぞ。心してかかれよ」
リンは瞬きをした。
「ゲンさん、とですか?」
「違う。ゲン=リカルドはもともと『こっち』に味方してたが、あの人はな、ルクルスの中でもこっちに特に友好的な一派なんだ。が、それでも、ごく限られた情報しかやり取りしねえ。ルクルスってのは排他的なんだ。当然だけどな。『あっち』だろうと『こっち』だろうと、ルクルスじゃねえことには変わりねえ、だから敵だ」フェリクスは、リンを見据えた。「それが今までのスタンスだ。ルクルスにとって『あっち』も『こっち』も同じ敵、だが最も敵視してんのは『あっち』。だから『こっち』とは一時的に手ェ結んどくか。そういう感じだな。今までガストンさんが何度も何度も、もっと協力し合おうと打診してもなしのつぶてだったんだ」
「……そうなんだ……」
「だが先日、あっちから申し出があったのさ。リン=アリエノールを介してならば、協力関係を結んでもいいって」
「……へ」リンは、目を見開いた。「あたし……ですか……!?」
「『こっち』の保護局員であり、エルカテルミナの友人であり、ラルフリア=レイリと信頼関係を結んだ。さらにゲン=リカルドのお墨付きもある。その人間ならば、『それ以外』でもルクルスの懐に迎え入れよう、だとさ。な、エルカテルミナってなんなんだ?」
「あたしが知りたいです……」
リンは記憶を探った。
確か、グールドが、フェルドのことを、そう呼んでいたような気がする。
「今一番問題なのはそこなんだよ」
フェリクスは探るような目でリンを見ながらしみじみと言った。
「ガストンさんが再々、ゲン=リカルドに聞いてきた。エルカテルミナって何なのか。エスティエルティナがどう関わるのか。エスメラルダで暗黒期の研究が認めらんねえのはなんでなのか。校長を始めとする『あっち』は、一体何を恐れているのか――。そもそもの、情報が、足らなすぎるんだ。
『こっち』は校長を排斥したい、が、そもそも校長とはいったい何者なのか、デクター=カーンだっつー噂は本当なのか、それさえわからねえ。敵を知れって言うだろ。だが、今まで、リカルドさえ一切教えてくれなかった」
「……」
「だがお前になら教えてやるって、あっちが言ってきた。実際すげえよな、お前は。そのくせ色恋ごとにうつつを抜かしてっからムカつくんだよなー」
「なんで……あたし……?」
「さーな。さ、支度しろ。今から行くぞ」
「い、今」
尻込みしそうになり、リンは自分を叱咤した。これは仕事なのだ。心の準備がとか、四の五の言ってる場合ではない。
慌ただしく身支度を済ませ、新調したばかりのハンドバッグを持って、フェリクスの後に続いて事務所を出た。退勤時間以外に外からこの鍵を閉めるのは、配属以来初めてだ。
「これがお前の無線機だ」
言いつつフェリクスは、リンに小さな機械を手渡した。
「この番号は『こっち』しか知らねえ。公的には存在しねえものだからな、プライベートで使うんじゃねえぞ。で、ルクルスにそれを教えて、連絡できるようにすると。けど、覚えとけ。無線機っつーのは盗聴されやすいんだ。無防備な電波が飛んでるわけだからな。だから、それでの連絡は最小限にな。通話には、事務所の電話使う方が安心だ」
「……はい」
事務所に帰ってから使い方を研究しよう。リンはそれをポケットにしまい、フェリクスにくっついて、週末のお祭りに向けて盛り上がる町中を歩いて行った。




