仕事場2
「え……」
リンはせわしなく視線を泳がせ、フェリクスを見る。フェリクスは机に腰を預けるようにして、薄い笑みを浮かべながらリンを見ている。
「あ、あの時言いましたよね、ね、フェリクスさん、」
「あんな言い訳を信じられると思うのか?」
フェリクスが言い、リンは焦る。
「でででもっ、でもあのっ、あのっ」
「リン」ガストンの右手も、リンの顔のわきについた。「いつ報告するのかって、楽しみに待ってたのにな。保護局員になったら大っぴらに俺に会いにこられるのに、全然こないから、我慢しきれなくてこっちから来たんじゃないか」
――何かせりふと姿勢がおかしくないですか……!
リンは硬直していた。どうしてだろう、なんだか、浮気か心変わりを責められているような気持ちになる。フェリクスはニヤニヤしている。ガストンのやり方が客観的に見るとかなり普通じゃないことをよく分かっていながら止める気がないことは明白だ。リンの窮状をあざ笑うようなその笑みにリンは内心で当たり散らした。ふざけんなこの先輩! あとで覚えてろ!
「リン。報告はもうひとつあるはずだよな。ジレッドとベルトランが逮捕した、歴史学助教エリック=フランシスの持っていた、“何か”についても」
ガストンの吐息が額にかかり、リンは動けない。イーレンタールの工房のことを告白するわけにはいかない。だってあれは保護局の仕事とは関係ないし、紛うことなき犯罪行為だし、リンだけではなく、ジェイドやグレゴリーまで巻き込むことになるからだ。
「おまえならきっと、うまいこと隠して、ジレッドたちの目からうまく隠し続けてるはずだ。そうだよな?」
これ以上どうごまかしていいか分からない。あわあわしながら途方に暮れた時、窓枠の辺りから声がした。
「これは、通報すべき事態なんでしょうか」
――ジェイドだ!
リーナの伝言を聞いたジェイドが、帰りに寄ってくれたらしい。ガストンが少し離れ、リンはその隙にガストンの腕の範囲から逃げ出した。
「通報? なぜだ?」
ガストンは呆気に取られていて、リンは呆れた。無意識か! 無意識なのかこの天然!
フェリクスの方はさすがに事態が分かっていて、苦笑しながらこちらへきた。
「ええと……ジェイド=ラクエル・マヌエルでしたか。いえ、恫喝などの暴力的な意味合いのある行為だったんじゃないんです」な? とリンに同意を求め、「ただ質問してただけです」
「……質問? 今のが?」
ジェイドが顔をしかめ、リンは、話の収拾を試みる。
「あああああああのですねっ、だ、大丈夫だよジェイド! こないだのとは全然違うから! あのっ、寄ってくれてありがとう! あのあのっ、……ガストン指導官、ご報告があるんです! ご報告が遅れてすみませんでした!」
リンはジェイドに向き直り、
「預けといたあれを、ガストン指導官に見せて、判断を仰ぎたい……の」
言いかけてリンは驚いた。ジェイドがものすごく、険しい顔をしていたからだ。柔和な顔立ちがしかめられ、激しい苛立ちを剥き出しにして、ジェイドは言った。
「……やっぱりジルグ=ガストンさんがリンの後ろ盾だったんじゃないか」
「あ」そうだった。まだジェイドには、はっきり言っていなかったのだ。「あー……ご、ごめん、ね、……言えなくて……」
「別にいいけど」
ちっともよくない、と如実に言外に示しながら、ジェイドは箒の柄をぱこんと開けて、中から小指大に縮めたノートを取り出した。リンはうろたえていた。どうしてこんなに怒っているのだろう。ガストンに本当は嫌われていないということを、確かにリンは明言できなかったが、ジェイドはとっくにわかっていたはずだ。否定するのは構わない、でも俺はそう思ってる、と、言っていたではないか。
なのにジェイドは出会って以来初めてのぶっきらぼうさで、ん、とリンにノートを差し出した。
「あ……ありがとう……」
「どういたしまして」
むっつりして言いながら、ジェイドは窓枠に腰をかけた。怒ってはいるが、成り行きを見守る気はあるようだ。土足が床につかないように気をつけている、そのすこし窮屈そうな座り方に、やっぱりこの人はジェイドなのだとリンは思う。
なのに、どうしてこんなに怒っているんだろう。
「……あの、これ……」
しょんぼりしながら、リンはノートを元の大きさに戻して、ガストンに差し出した。受け取ったガストンはぱらぱらめくって、首をかしげる。
「なんだ、これ」
「あの、日記なんです。たぶん、……媛の」
言ったときの反応は、初めは、静かだった。
ガストンはしばらく日記に見入り、フェリクスが、声を上げる。
「え……媛って、……あの、媛?」
「……エリック=フランシスが持っていたものか?」
ガストンの目がリンを射貫き、リンはうなずいた。「そうです」
「隠蔽したのは俺です。保護局員の逮捕があまりにひどくて、つい、隠してしまいました。アリエノールさんを危険な目に遭わせることになって、後悔しています」
ジェイドが言い、リンは打ちのめされた。アリエノールさん! アリエノールさんって!
ただ単に公式な呼び方をしただけだとは思うのだが、そんなに怒っているのだろうか、と、思わずにはいられない。
と、
「……リン」
ガストンが動いた。
出し抜けにぎゅううううううっと抱き締められ、リンは硬直した。顔中の血が沸騰した。ガストンはリンの頭に頬を寄せ、うめくように言う。
「……たいしたもんだ。本当に、たいした奴だな、おまえは」
「……! ……!! ……!!!」
リンが酸欠になる寸前にガストンはぱっと手を放し、ジェイドに向き直った。ジェイドを抱き締めることまではしなかったが、両手を奪ってぶんぶんと振る。
「ありがとう。リンを救ってくれたんだよな。本当に、君が一緒にいてくれて助かった」
ジェイドの表情は堅かった。リンはジェイドが息を止めていることに気づいた。顔色が少し悪くなっていて、唇を噛み締めていた。具合でも悪いのだろうか。ガストンはジェイドの手を放し、フェリクスに言った。
「これで交渉もやりやすくなる。かなり前進するぞ」
「……全くですね」
フェリクスはあいづちを打ったが、目は、ジェイドを見ていた。フェリクスもジェイドの異変に気づいているらしい。ジェイドはガストンに放された右手で自分の左腕をつかみ、ふうう、と長い長い息をはく。
苦しいのだろうか。
雪山で、あの二度目の孵化を迎えた時のフェルドを思い出し、なんだか少し背筋が冷える。大丈夫か、とたずねようとした時、ガストンが言った。
「それでもうひとつ、イーレンタールの工房の方は――」
リンはびくりとしたが、フェリクスが、手を挙げた。
「いや、ガストンさん、それは聞かない方が良さそうです。俺が報告したのにいまさらですが。すみません」
ガストンが驚いたようにフェリクスを見る。「なぜだ?」
「あの時イーレンタールが留守だった理由は、そこにいる、ジェイド=ラクエル・マヌエルが、イーレンタールをコオミ屋に呼び出していたからなんですよ」
ふうううう、ともう一度、ジェイドが息をはくのが聞こえた。 見ると少し顔色がよくなっていた。右手を放し、体から力を抜いた。普段どおりの柔和な表情が戻ってきて、リンはほっとする。ガストンはリンとジェイドを見比べ、
「……そうか」
納得したようだった。どうしてだろうとリンは思う。
「まあ、報告が必要だと思うなら、いつでも連絡して来い。アドレス帳を持ってきた。いいか、『こっち』の人間の連絡先が載ってるんだ。当然部外秘だからな」
言いながらガストンはロッカーを開けてそこに一冊のファイルをいれた。それから時計を見、
「フェリクス、すまん。後は任せていいか。『日記』の入手を加えて条件を練り直す。リン、おまえ、これは本当にすごいお手柄だ。全くたいしたもんだよ、おまえは。それじゃ」
怒涛のように言うだけ言って、慌ただしく出て行ってしまった。
バタン、と扉が閉まり、嵐の去った静寂の中、ジェイドが口を開く。
「……あの……俺、なんか、……部外秘とか見ちゃって良かったんですか」
口調ももういつもどおりだ。さっきのはいったい何だったんだろう、とリンは思う。二度目の孵化がジェイドにもきたということなのだろうか。でも、ジェイドは『そんなに魔力が強くない』と言っていたのに。
フェリクスは簡単に請け合った。
「そりゃいいですよ。大丈夫です。『日記』の入手も、リンの無事も、全部あなたのお陰だったんですから。な、リン。ほら、茶はどうしたんだよ」
「あ――ああっ、そうでした」
リンは慌てて給湯スペースへ戻った。適切な抽出時間をとっくに過ぎた香茶は、急須のなかで黒々とした色になっていた。謝りながら流しに捨てた時、ジェイドが言った。
「それじゃ俺、これで」
「ええっ」リンは給湯スペースを仕切るアコーディオンカーテンの陰から顔を出す。「ジェイド、もう行っちゃうの?」
「うん。用って、さっきのノートのことだったんでしょ」
確かにそれはそうだ。そうだったが、でも。
ジェイドは手を振り、箒に乗って、さっさと行ってしまった。やっぱり、怒っているらしい。でも、どうして? 本当に、さっぱりわけがわからない。さっきの苦しそうな様子も気になるし――窓を見つめてため息をつくリンに、フェリクスが言う。
「もう秋だからな、独り身の右巻きだってそうそう油売ってる場合じゃないだろ。仕事が終わったら連絡してデートでもして弁解しとけよ」
「弁解」リンはフェリクスをみる。「なんのですか?」
「そりゃおまえ……ガストンさんは女性相手なら誰にでもああなんだ、ってことをさ」
「ああって」リンは呆れた。「そうなんですか? ガストンさんって」
「そりゃおまえ、エスメラルダ一の天然タラシの異名は伊達じゃねえから。リスナでさえあの手で落としたって評判なんだぜ? でもあのラクエルは、確か最近エスメラルダに来たんだよな。それなら、知らないかもしれねえだろ」
「はあ……でも、ジェイドが怒ってたのってそういう理由じゃないと思います。あたし、ふられてますもん」
「は?」
フェリクスは目を丸くする。「つきあってねえの」
「ないんですよ……あたしはつきあって欲しいんですけど、あっさり振られたんです」リンはため息をついた。「はああ……なんで怒ってたんだろ……それにあの、さっきの」
「さっきの?」
「なんか、様子がおかしかったですよね。あの、あの、……孵化、みたいな」
言うとフェリクスは目を丸くし、ついで、ぶはっと吹き出した。
「な、なんですか!?」
「いやいやおまえ、あーあーそーいやフェルディナント=ラクエル・マヌエルが二度目の孵化迎えた時、目の前にいたのもおまえだっけか。あーあー、なるほどなー、そりゃ心配だわなー。でもさっきのは孵化じゃねえよばーか」
リンはぶすっとした。ひと言余計じゃないだろうか。
「じゃあなんです?」
「暴走だよ、暴走。おまえも保護局員になったんだから、よく覚えとけ。おとなしい性格のマヌエルってのはたまになるんだ」
「おとなし……おとなしい人が暴走って変じゃないですか」
「変じゃねえよ? おとなしいっつーか、正確には、自制心の強いマヌエル、な。マヌエルってのは、ものすごく怒ると、無意識に風とか水とか、出しちまうもんなんだ。自制心が弱いと、マヌエルが望んだまんま、相手に襲いかかっちまう。でも自制心が強いと、湧いた風だの水だのが攻撃する寸前で止める」
「はあ」
「そうすると、とくに風の場合はな、わき出た風を自分の回りで押さえ込むわけで、まだ怒ってもいるし、風も本人も混乱して――で、暴走するんだ」
「……それが、さっきの?」
「けっこ苦しいらしいぜ。ひどい時には昏倒するってさ。でもあの子はさっき、うまいこと抜いたなー。自分で抜けなきゃ、誰か別のマヌエルに抜いてもらわねえとどうにもなんなくなるらしい。で、凝り固まり過ぎた周りの風で窒息して」
「ちっ!?」
「意識が飛ぶとすぐ風も霧散すっから、死ぬまではいかねえよ。そこで解決」
「それ、解決っていうか……」
「おまえが別の男に抱き締められたの見て暴走しかけてんだから、おまえを振るってのは変な話だなー。もいっぺん告ってみれば? 近いうち」
「……へ、」
「んで茶はいつ出てくんのかなあ~?」
「え、……あーっ!」
リンは慌てて給湯スペースに戻った。フェリクスの声が追いかけてくる。
「新人のくせに先輩に二度も茶の催促させるってどういう了見だコラー」
「すっ、すみません!」
香茶はだいぶ濃くなっていたが、許容範囲だったので、カップに注いで急いで出した。ひと口飲んで、フェリクスは、だん、とカップを机に置いた。
「渋っ!」
「あの、さっきの話ですが」
「渋い!」
「それって、じぇじぇじぇジェイドが、」
「茶も満足にいれらんねえのか!」
「あーもーうっさいな! 大人の余裕で飲み込んでください! それで! さっきの話ですがっ」
「うるさいとかおまえな! 新人のくせに慣れ過ぎだろ!」
「告白してだいじょぶってことですかね!?」
「知るかー!」




