間話 ウルクディアの〈天使〉1
ウルクディアの【魔女ビル】は、エスメラルダのそれとは比べ物にならないくらい小さい。ように、見える。
しかし外側のみすぼらしさはカモフラージュであり、中は広々としている。領事館の役割を果たしているから、働く人も膨大だ。外観がみすぼらしいのは、中に魔女がいるということをあまり悟らせないよう工夫されているからなのだそうだ。
この大きな建物、大勢の人々の中に、マヌエルはたったの三人しかいない。まるで広大なお城に住み召使たちにかしずかれている、古のお姫様みたいな状況だった。“お姫様”に会うためには、様々な関門を潜り抜けなければならない。訪問希望者は数か月待たなければならないし、その間に様々な手続きをクリアして、膨大な書類を提出して、ようやくたどり着ける仕組みになっているのだそうだ。
ミランダがいるのはその建物の中でも、一番セキュリティ対策が取られているフロアだ。
同時に、とても居心地の良いフロアでもあった。落ち着いたアイボリー色の壁紙にはシミ一つなく、広々として、清潔で、静かだった。待合室には革張りのソファが並び、長時間待たされても良いように医療従事者が常駐しており、多種多様な飲み物や雑誌類も用意されている。待合室から治療ブースに行くために通らなければならないゲートにはロックがかけられていて、受付にいる警備員が持っているカードをかざさなければ開かない仕組みだ。そこを抜けると、やっとミランダのいる治療ブースに入れる。ミランダの担当ブースは、入って右側にある個室だ。柔らかな色合いの、薄い青色に染められた部屋にはクッションが置かれて、エスメラルダの治療院というよりは、ミランダの自室のような印象になっていた。事実、部屋の半分がカーテンで仕切られていて、カーテンの向こうはミランダ専用の休憩所になっていた。簡単な給湯設備が揃えられ、大きな窓辺には寝そべられる大きさの、三人掛けのソファーがある。
ミランダは治療するとき以外は大体いつもそこで日向ぼっこをするのが常だった。
ソファの背もたれに腰をかけるとちょうど窓枠に腕がのる。腕の上に顎を載せて窓の外を眺める。景色はとても良かった。少し先に、屋台がずらりと並ぶ有名な屋台通りが見える。あそこにマリアラを連れて行きたかった。千年以上の歴史のある屋台通りだというから、マリアラがどんなに喜ぶだろうかと、楽しみにしていたのに。
――だいたい四階にだってこことおんなじ大きな窓があるのに、わざわざ正面玄関から入れようとするのがバカなのよ。
ダスティンのことを考えるとイライラしてムカムカして、誇張でなく吐きそうになる。ミランダは窓の外を睨んで、憤然と、今日はのんきに水族館に出掛けたダスティン=ラクエル・マヌエルの愚かさ加減に吐きかける呪詛を考える。本当に、全くもう、ダスティンときたらバカだ。バカでとんまでおたんこなすだ。指名手配されていて、できるだけ人目につかないようにしてあげるべき相手を【魔女ビル】に案内するのに、正面玄関から入れて受付を通らせようとするなんて、本当に、思慮が足りないなんて言葉じゃ到底足りない。悪意があったんじゃないかと勘ぐりたくなるほどだ。他の人間の好奇の目にさらされることが、マリアラにどんなダメージになるか理解した上で、あえてそうしようと思ったんじゃないだろうか?
いや、想像だけで勝手に悪意を募らせるのは良くないことだ。
ミランダはふうっと息をはき、怒りも一緒に吐き出せるように祈る。けれど、胸の奥でじりじり燃える怒りはそう簡単に抜けてはくれない。ダスティンのバカのせいで、マリアラはここへは来られなかった。玄関前で待ち伏せしていた保護局員に捕まったのだ。窓から入れてくれていれば、今頃は――。
「……ううん……ここに来てたらもっと危なかったかもしれないんだわ……」
つぶやいて、ミランダはため息をつく。
何しろあの時、ここにはトールがいたのだ。
だから、マリアラがここに来られなかったのは、むしろとても運のいいことだったのだ。ジレッドの車に乗ってしまったのは確かだが、その後ちゃんと逃げ出せている。ここでトールに会っていたら――いや、ダスティンの目の前で、マリアラに何かしたとは考えにくい――いや、あのバカなダスティンなど、トールにあっさり騙されてマリアラを放ったらかして外出したかもしれない。そうなっていたら、ミランダが帰って来た時、ここでマリアラの死体と再会していたかもしれないのだ。
「かもしれない。かもしれない、か」
つぶやいて、ミランダは立ち上がった。お茶でも飲もう。そうしよう。
同僚であるイリエルのペアは、今日はデートだ。いや、今日も、というべきだ。働きづめだったことを理由に、彼らは最近いそいそと休暇を取っている。彼らの休暇が明けたら、と、考えた。暇な今のうちに、そろそろ、ミランダも少し休んだ方がいいかもしれない。冬になったら肺炎の患者が増えるだろうし。
――とにかく、マリアラは今も、保護局員にもトールにも捕まっていない。それは確かだ。
香茶の抽出時間を計る砂時計を見ながら、考えた。
――では今、どこで、どうしているんだろう?
シグルドに負担をかけ過ぎているのに、それが一向にわからない。ミランダは眉を寄せた。
シグルドは文句ひとつ言わないけれど、駅員の仕事のかたわら、マリアラとトールを捜すなんて大変すぎる。本業がおろそかになってはシェロムさんにも申し訳が立たない。このままじゃいけないことはわかっている。誰か、ミランダのために働いてくれる人を雇うべきだろう――私立探偵とか、そういうの――でも、信頼できる人を捜すのがとても難しい気がする。電話帳で捜した初対面の人に、マリアラの捜索を頼む気にはちょっとなれない。
と、その時、チャイムが鳴った。患者だ。
「はーい」
ボタンを押すと、受付の女性のまろやかな声が聞こえた。
『慢性的な臓器の疾患です。二十代の男性です。診断書を持参しています』
「わかりました。すぐ診ます。お通ししてください」
『はい、ブースでお待ちください』
通話が切れ、ミランダは鏡を見て身なりを整えた。手を洗い、清潔なタオルで拭き、カーテンを通り抜けて奥が見えないようきちんと戻したとき、こんこん、と患者用の入り口がノックされた。早い。
「どうぞ」
声をかけると扉が開き、入って来たのは、若い男性だ。シグルドより少し年上、と言ったくらいだろうか。
岩みたいな顔の人だ、と、ミランダは考える。
「失礼します」
ていねいに言い、頭を下げる。折り目正しい人だとミランダは思う。微笑んで、荷物はその籠に入れておかけください、と決まり文句を述べ、岩みたいな顔のその人がカウチに座る。ミランダは手を伸ばし、壁のボタンに指を添えてから、言った。
「何の御用ですか? どこも悪くないみたいですけど」
「……見ただけでわかるんですか? すごいもんですね」
見破られても、若い男は特にうろたえなかった。目を丸くして感心している。何度か遭遇した誘拐犯とは少し違う反応だ、と思いながら、ミランダは口上を述べる。
「先に警告を。このボタンを押すと、同じ階の保護局員が駆けつけます。このブースの監視カメラとマイクのスイッチがオンになり、あなたの映像と声が保護局員詰め所とアナカルシス警察に送信されます。同時に天井の放水口から大量の水が放出されます」
「ははあ、なるほど。レイエルなら溺れないんでしょうから、一番効果的な攻撃になるわけですね」
全くあわてずに落ち着いて感心しているので、ちょっと拍子抜けする。ミランダは訊ねた。
「それで、何の御用ですか?」
「すみません、初めから、あなたを騙せるとは思ってませんでした。ひとつお尋ねしますが、今現在は、監視カメラとマイクのスイッチは入っていないですね」
「ええ、今現在はね」
「それをうかがって安心しました」
男は、懐から、一通の封筒を取り出した。
「これをお届けしに来たんです。あなたの友人からです」
ミランダは少し考えた。
ウルクディアに来てからというもの、すっかり警戒する癖がついてしまった。エスメラルダにいた時とは比べ物にならない数の人間が、ミランダを誘拐しようと画策したからだ。たいていは診断書の偽造がばれてその時点で逮捕されたが、このブースにまでやって来た人間も四人はいた。
「友人って、誰ですか」
「マリアラ=ラクエル・マヌエルです」
「!」
あんまり驚いて、思わずボタンを押しかけてあわてて指を引っ込めた。机の上の封筒を引ったくると、封を切るのももどかしく、便箋を開いて、
「……ああ……!」
思わずあえいだ。マリアラだ。
マリアラの字が、そこにあった。
「それじゃ、私はこれで」
たぶん、ミランダがゆっくり読めるようにという配慮だったのだろう。男はそのままブースを出ようとし、ミランダは叫んだ。「待って!」
男が驚いたように振り返る。ミランダは便箋を机に置いた。読みたい。読みたくてたまらない。でも、今はその時じゃないはずだ。自分に言い聞かせ、ミランダは男を見た。
「お願い、私に力を貸してくれませんか」
「……は?」
「教えてください。あなたが、J、という人ですか」
シグルドが王太子の秘書から聞いたというそのイニシャルを口にすると、男は、いぶかしげな顔をした。
「なんですか、それ」
「お、お名前は」
「まあ――ジェイムズ=ベインと言いますが。近衛です」
「じゃああなたが、J、という人でいいんだと思います。あの、あの。ま、マリアラは、無事、なんですよね。あなたが、彼女を、助けてくださったんですね?」
手紙を読んだわけじゃないけれど、でも、マリアラの手紙の文字は落ち着いている。命の危険にさらされていたり、この男の仲間に監禁されたりしているなら、もっと文字が乱れているはずだ。少なくとも、マリアラが手紙を託す程度にはこの男を信頼していたことは確かだ。ベインは少し考える。
「助けた、といいますか……隠れていたところを見つけて、王太子のところへお連れしたのは、確かに俺、いえ、私ですが」
「王太子の……」
「手紙を読んだらきっと、分かると思いますが……」
「ええ、もちろん読みます。でも、後で。私、今、人を探しているんです。私と、それからマリアラのために動いてくれる人を」
ミランダは、考えをまとめるために何度か深呼吸をした。
そして、黙って律義に待っているベインに続けた。
「あの、どうぞ、おかけください。……昨日、私の婚約者が、街で、王太子の秘書という人に会いました。名前は聞かなかったそうですが、大人っぽいスーツを着た女性だそうです。髪が焦げ茶色で、とても豊かで。身長も女性にしては高い方。有能そうな人だったそうです」
「……マルゴットですかね」
「心当たりがありますか。それでね、その人と、少し話をして――近々私に、J、という人が接触するはずだって、言ってたそうです」
「ふうん。どういう意図でそんなこと言ったんだろう」
ベインは首をかしげているが、ミランダはかまわなかった。
「調べてほしいんです。トール、という子供を知っていますか?」
「ああ」ベインはかすかに顔をしかめた。「知っています。エスメラルダのアルフィラですね」
「そうです。その子供は、今もウルクディアにいますが――秘書の方が言うには、いえ、はっきり言ったわけじゃないんですが、でもシグが推測するところでは、トールがウルクディアに来た目的のひとつは、ある人物に接触するためだったらしいんです。あ、いえ、あの。そもそも、ダスティンとトールがここに来たのは、あの魔物が出る日の、前日だった、そうです。私は多忙だったので、ほとんど【魔女ビル】にいなくて、彼らが来たことを、あの襲撃の時に初めて知ったんですが――シグは昨日、トールに会って、訊ねました。私を魔物が襲ったことに、トールは加担していたのかと。トールは動揺したそうです。たぶん、あの魔物が私を襲ったあの事件のために、トールはウルクディアに来たんだろうと思います」
「……まあ、あり得る話ですね」
「でしょう、私が有名になり過ぎたから、大勢の有力者の方が私に求婚してきましたから。もし私がこちらの偉い方と結婚したりしたら、マヌエルを独占して来たエスメラルダには、さまざまな影響が出るでしょうから」
「そうですね」
ベインはうなずき、ミランダは、この人はやっぱり信頼しても良さそうだ、と思う。分かり切っていることを、表面だけ取り繕ったりしないところが。
「ええ、でも、それはいいんです。問題は、その後なんです」
「その後」
「トールの機能が王太子殿下にお披露目されたのは、今から五日も前のことです。でもトールもダスティンも、いまだにウルクディアにいるんです。私、ここの警備隊長の、ドルフさんにいろいろ聞いたんですけど――ごめんなさい、ここからは、本当にただの、推測なんですけど。推測どころか、勘でしか、ないんですけど」
「大丈夫ですよ。ゆっくりどうぞ」
落ち着いた声で言われて、ミランダはまたひとつ、深呼吸をした。
「……ありがとう。あの、魔物が出た日のことなんです。あの時ドルフさんは、リファスに行っていました。リファスの駅を狩人が襲って、大勢ケガをしたと聞いていましたが、その半日後に、信じ難い人物が現れたという情報があったんだそうなので」
「【炎の闇】グールドですね」
「ご存じなんですね。じゃあ、教えてください。【炎の闇】がまた捕まったというのは、本当なんでしょうか」
「ええ」
「大ケガをしていて――治療されていたらしい、という、噂は」
「……本当に」ベインは苦笑した。「アナカルシスの警察にも困ったものです。情報管理がなってないですね」
「本当なんですね。あの、あの。あの狩人は、恐ろしいとシグは、いえ、シグルドは、言うんです。ルクルスの中でも特に勘が――嗅覚? が、すごいんですって。もし【炎の闇】が自由になって、マリアラを追いかけたら……きっとすぐ見つけられるだろうって……だから」
「……」
「だから……【炎の闇】はマリアラをね、一度、見つけたんじゃないかなって思うの。それで、どうしてケガをしたかは分からないけど、マリアラは、いくら相手が殺人鬼でも、ケガした相手を見捨てられる子じゃないですから……つい治療、してしまって。でも薬を持っていないから、【炎の闇】は貧血のまま、警察に捕まって。ね、つじつまがあうでしょ。だったら、今度も見つけられるかもしれない。トールがそれを【炎の闇】に頼んだのだとしたら」
「……恐ろしい話ですね」
ベインがつぶやき、ミランダは、立ち上がった。
「お願い。マリアラが、手紙を託した人だったら、信頼できると思うんです。何とか、調べてもらえませんか、それで、……トールはまだウルクディアに残っている、ということは、まだ交渉が残ってるからじゃないですか。その交渉をやめさせたいの」
「わかりました」
ベインが頷き、ミランダは、心の底からほっとした。全身が震えるほど。
「ありがとう……!」
「いえ、礼を言うのはこちらの方です。知らないままだったら、取り返しのつかないことになっていたかも知れません」
「あの、あの、ええと、活動費! 活動費とか、いりますよね!」
「いりませんよ」
ベインは苦笑したが、ミランダは聞かなかった。
「いえっそうはいきません! ただ働きなんてさせられないでしょ」
「いえ、任務の一環じゃないですかね、これ」
「だめです!」
ミランダは財布を取り出した。中をのぞいて、
「……下ろして来ますからちょっと待ってて」
「いやだから、いらないです」
「だめです」ミランダは繰り返した。「トールとグールドが接触するのを、王太子殿下が知らないわけないですよね。いろいろと調べていったら、そのうち、王太子と私のどっちを取るのか、というような局面になるかもしれません。その時に私を取ってもらえるように、買収したいんです。いいですか、私を取ってくれるなら、今後一生、ずっと、あなたが望む時に治療します。【魔女ビル】を通さないでも、もちろん。それからお金。私、自慢じゃないけど、今は結構お金持ちよ。あなたが王太子のところを首になっても、絶対養ってあげられます。ええと、それから、」
「率直ですね」ベインは笑った。「でもどちらも取りませんよ、俺は」
「じゃあどうするんです?」
「マリアラ=ラクエル・マヌエルを取ります」
言い切られて、ミランダは絶句した。
ベインはまじめな顔でこちらを見ている。
「あの方と約束したんですよ。あの方の望みがかなうよう、最大限の努力をすると」
「……じゃ、じゃあっ」
「だから金もいりません」
「だからそれはダメなんです! もう!」
嬉しさに踊りだしそうになりながら、ミランダは笑った。
「活動に支障が出たら困るんです。ストレスはできるだけ減らすべきです。ウルクディア中のジェイムズ=ベインという人の口座に片っ端から入金されたくなかったら、黙って受け取ってください!」
「変な脅迫ですね」
ベインも笑う。
「じゃあ今日はとりあえず戻って、調べてみます。活動費は報告の時に受け取りましょう。連絡はどうすればいいですか」
「ああ――続けて外来受付に来るのはおかしいですね。じゃ、家に」
ミランダはメモを取り出し、走り書きで住所を書いた。
「ここが私の家です。今日は何があっても定時で帰ります。それか、駅に、シグルドという人がいるので、その人に連絡してくれても構いません。シグの今日のシフトは夜の八時まで。その後は、私の家に来ます」
「わかりました」
ベインはまじめにうなずく。この人に巡り会えて、本当に運が良かったとミランダは思う。
それからあいさつをしてベインが出て行き、ミランダは、誰も来ない治療ブースの中で、マリアラからの手紙を読んだ。久しぶりの幸せな気持ちで、何度も、何度も、何度も。




