間話 王太子秘書マルゴットの戦慄
薄暗い部屋。窓から差し込む灰色の光。
美しい黒髪を持つその魔女は憔悴した様子で黒革のソファに座っている。
彼女の前のローテーブルにはカップがひとつ。中身は、多分コーヒー。背もたれに身を預け、うつむいたその顔はよく見えないが、やつれていることが分かる。エスメラルダにいたころの彼女の写真を思い出すと、哀しくなるほどの憔悴ぶりだ。
扉が開いた。
彼女は顔を上げない。
入ってきたのは、小さな子供――。
『食べないんですか』
小さな子供の声で問われ、マルゴットはびくりとした。
「あ、」
上げた声と同時にスプーンを取り落とし、からん、と響いた金属音にまた身を固くする。
ここは灰色の取調室ではなく、明るい陽光に溢れた喫茶店だ。うららかな秋の光が窓から差し込み、腰をかけているのはふかふかのソファ、テーブルの上には焼きプリン。正面に座る小さな男の子は、大きなチョコレートパフェ越しに、感情のこもらない目でマルゴットを見ている。
男の子――トールは、首を傾げて訊ねた。
『大丈夫ですか』
「あ――あ、ああ。ご、ごめんなさい。ちょっと、ぼうっとして」
マルゴットは言い、スプーンを取り直す。トールは、そうですか、とうなずいて、またパフェに戻った。
この喫茶店は、ウルクディアでは有名な店だった。どこか美味しい甘いもののあるお店、というトールの希望に沿うために、マルゴットが選んだ店だ。休日の昼下がり、店はほどよく混んでいる。
マルゴットは休日を返上して、トールの『観光』に付き合っていた。王太子いわく、お目付役である。マルゴットは心底ごめんこうむりたかった、が、仕事だから仕方がない。
珈琲を飲み、窓の外を眺めた。行き交う人達は皆楽しそうだ。色の浅黒い若い男が足早に通り過ぎたのが目に留まった。ちょっといい男だった。急いでいるようだ。どこに行くのだろう。デートに遅刻しそうなのかな。
マルゴットはため息をついた。どうしてこんな無意味な時間を過ごさなければならないのだろう。
「……どうして」
マルゴットはついに訊ね、トールがパフェから顔を上げる。『なんです?』
「どうして……相棒はご一緒じゃないんですか」
違う、聞きたいのはそれではない。でも、仕方がない。疑問に思っていたことも確かだったし。
トールはスプーンを口にいれたまま、少し考える。
『相棒は、今日は、動物園に行くと』
「ええ、休暇を満喫されていますわね。でしたらあなたも、一緒に、」
『僕は任務がありますから』
マルゴットの言葉を遮るようにトールは言い、また食べ始めた。どうも、トールと相棒との間には何か確執があるらしい。マルゴットの観察によれば、相棒の方がトールを避けていて、トールはそれを諦めている。当然かもしれない、と思う。マルゴットだって、こんな薄気味悪い相棒なんてごめんだ。
イェイラの最期を映したあの録画。任務のためにと見せられたが、見るんじゃなかった。
あの灰色の取調室に、トールは演技のためか、笑顔を浮かべて入ってきたのだ。花束を持って。音声はなかったが、たぶん、魔女のお姉さんにプレゼント、とか、言ったのだろう。
水が彼女を守る暇も無かった。
ほんの一瞬の、ためらいもない、無慈悲な犯行だった。
どうしてあんなことが出来たのか。やはり作り物だからか。
マルゴットは戦慄を隠して話を続ける。
「任務と言っても……待機する必要はたぶんないですよ? 今日は『彼』は、準備がまだ、」
『いいんです。僕が一緒じゃない方が、相棒も楽しめるでしょうし』
トールはまた遮るように言う。何かある、と、マルゴットは思う。
そもそもトールが町に繰り出しているというこの現状がおかしい。まだグールドの釈放がいつになるか決まっていないから、トールは今日はフリーなのだ。相棒と一緒に観光をせず、自分ひとりで買い物や散策を楽しむわけでもないのなら、【魔女ビル】でのんびりしていればいい。
なのに、トールは【魔女ビル】に戻らない。かたくななまでに。
そもそもこの喫茶店だって、本当に来たかったのかどうかわからない。甘いものを食べてはいるが、特に美味しそうでもないし、嬉しそうでも楽しそうでもない。ただ退屈そうに淡々と食べているだけ。
【魔女ビル】にいてくれれば、こんな無意味な休日出勤などしないで済むのに、と、恨みがましい気持ちになってしまう。
相棒と一緒に行動しないのは、相棒が嫌がるから。それは理解できる。
でも暇で暇でしょうがなさそうにしながらも、【魔女ビル】に帰らないのはなぜ?
窓の外を通りかかった男に、ふと目が留まった。
若い男だ。ちょっといい男。マルゴットは疑問を感じる。
――さっきも通らなかったかしら?
そう、さっきも見かけた若い男が、もう一度通りかかったのだ。体格がよく、日焼けした肌の持ち主だ。――と、その若い男がこの喫茶店に入るのが見える。
あーあ。仕事中でなかったら、ちょっと声をかけてみるところなのに。
そう思ったが――
「すみません」
扉のベルがまだカランカラン鳴ってるうちに、その若い男は真っすぐに、こっちを目指してやってきた。
正直言って、マルゴットは華やいだ。窓越しに見た印象よりだいぶ若いが、精悍な顔立ちで、ガテン系で、王太子とはまた違った味わいのいい男が、熱っぽい目でこちらを見ながら真っすぐ歩いてくるわけで。トールはその男を見たが、すぐに興味無さそうにパフェに視線を戻した。トールも、その男の目的がマルゴットだと思ったのだ。マルゴットだけが早とちりしたわけではない、と、マルゴットはすぐに誰にともなく言い訳することになった。
「すみません、お邪魔します」
と若い男はまずマルゴットに断り、
「トール」
はっきりと、トールの名を呼んだ。
トールが驚いたように顔を上げる。当然だろう、ここはエスメラルダではない、隣国なのだ。そうそう知り合いに遭遇するものでもないだろう。おまけにトールはその男を知らないようで、目を丸くしてぱちぱちさせた。
『……どなたですか?』
とマルゴットに聞き、マルゴットは首を振った。知らないわ、と。
若い男はトールを真っすぐ見たまま、ゆっくりと言った。
「トール。どうして【魔女ビル】に行かないんだ?」
とたんに、トールの表情がこわばった。警戒するように若い男を見て、低い声で言う。
『……どなたですか』
「俺はシグルド」
若い男は名乗ったが、トールの表情は崩れない。
『すみませんが、知らないです』
「だろうね。でも俺は知ってる。なあ、トール。どうして【魔女ビル】に行かないんだ?」
シグルドは再び核心に切り込んだ。
マルゴットが半ば予期していたとおりに、トールはシグルドを睨み上げた。
『あなたに関係、』
「それがあるんだ」
シグルドはあっさりとトールの言葉を遮り、
「何しろ今動物園まで捜しに行ったところなんだから。トール、いつまでも逃げてはいられないぞ。……ここで何か用事が? 待ち合わせとか」
とマルゴットを見て言うので、マルゴットは急いで首を振った。シグルドはうなずき、またトールに言った。
「今から一緒に行こう」
『知らない人と、どうして一緒に――』
「じゃあひとりでもいい。とにかく【魔女ビル】に」
『嫌です』
トールはそっぽを向いた。マルゴットが初めて見た、トールの子供っぽいしぐさだった。シグルドはトールから視線をそらさない。シグルドの真剣な様子は、なぜだかグールドを思い出させる。
――なんかおまえ、見た目変わったねえ。
――そんな顔だっけ? こないだ会った時。
あの時も、初対面です、とトールは言った。
「トール。君に会いたいという人がいるんだ」
『僕は会いたくありません!』
ぎょっとするほど激しい反応だった。
トールは立ち上がり、シグルドを押しのけようとした。イェイラの頸椎を片手で折った力があるはずだが、シグルドはトールの激昂を予期していたらしい。押しのけられずに踏みとどまり、トールの腕を掴み返した。
「ひとつ聞く。魔物がミランダを襲った。お前はそれに噛んでるのか」
『――ッ!』
息を呑む音が、悲鳴みたいに聞こえた。マルゴットはつぶさにそれを見ていた。トールが動揺するところを――悪事の現場を親に押さえられた幼子のように、ぎくりと動きを止めるところを。
――噛んでたんだ。
王太子に報告しなければ、と思う。
『……どいてください!』
トールは叫び、今度こそシグルドを押しのけた。シグルドは抵抗せず、手を放し、走り出すトールの背に声をかけた。
「もうひとつ聞く。トール」
トールはそのまま走り去ることもできたはずだ。
でもトールは条件反射のように足を止めた。シグルドが咎める口調で言う。
「話を聞く時は、こっちを見ろよ。トール」
親ですか。
思わずつっこむところだった。トールが、言われたとおりにシグルドを見たからだ。叱られることを予期した子供のようなその瞳を見て、シグルドが訊ねた。
「あの相棒は、お前のこと、ちゃんと大事にしてるのか?」
『あなたに関係――』
「あるんだよ。さっき言ったよな」
『関係ないです』
「トール」シグルドが静かに繰り返す。「さっきも言ったよな? おまえには関係なくても、俺たちにはあるんだ」
トールの目が、揺らいだ。
俯いて、呟く。
『――大事にされなくていいんです』
「どうして」
『だいじにされたら、かなしくなるから』
「トール」
トールが身を翻した。今度はシグルドも止めなかった。喫茶店の扉が激しい音を立てて開かれ、トールが駆け出していった。小さな背中は雑踏に紛れてすぐに見えなくなり、店の中に静寂が落ちる。
シグルドは周囲を見まわし、すみません、と言った。
「すみません、お騒がせして。……あの」
そしてこちらを見る。マルゴットはどうぞ、と、トールが座っていた席を示した。
「どうぞ、おかけ下さい。今から追いかけても追いつけるとも思えませんから」
思い出した、と思う。シグルド――エスメラルダ出身のルクルス。現在はウルクディアの駅員で、ミランダ=レイエル・マヌエルの婚約者だ。
シグルドは少し考え、ありがとう、と言って腰をかけた。マルゴットは先ほどからこちらの成り行きを見守っていた店員に合図をして、シグルドにメニューを差し出した。
「お好きな物を。どうせ経費で落ちますから」
「……あなたはどなたですか」
自分こそが乱入してきたくせに、シグルドはマルゴットにそう訊ねた。店員が来て、シグルドの注文を取り、マルゴットは珈琲のお代わりを頼んだ。それを済ませてから、くすっと笑う。
「何だかおかしな感じですわね。あなた、あの子の保護者ですか?」
そう、捜し回って見つけた子供が誰か知らない大人とお茶を飲んでいたら、きっとこういう風に詰問するに違いない。
でも、そんなはずはない。だってあの子はアルフィラなのだ。
しかしシグルドは少し考え、頷いた。
「まあ、似たようなものですね」
「そうなんですか?」
「質問に答えてもらえませんか」シグルドはマルゴットをじっと見た。「あなたはどなたですか」
あまり気の長い方ではないらしい。マルゴットも少し考えた。
「そうですわね。王太子の秘書をしております」
「王太子の……」
「ミランダ=レイエル・マヌエルとは面識があるんですけれどね、その婚約者殿とは、そういえば初めてお会いしますわね」
今までこの男の顔を見たことがなかったことに、マルゴットは少なからず驚いていた。
だって有名人だ。ウルクディアで、この男の名前を聞いて誰だか思い至らない人間はそうはいないはずだ。ミランダ=レイエル・マヌエルは王太子を初めとする様々な――有力な――人間からの求婚を全て一蹴した。その理由として、この男の名前を挙げ続けて。
たかが一介の駅員が、と、苦々しく思う人間も多いだろう。身の危険を感じたことも何度かあったはずだ。そんな人間が、トールとどういう関係があるのだろう、と思いながら、マルゴットはシグルドを眺める。
シグルドはマルゴットを見返した。
「……なんですか」
「いえ、そういう顔をなさっていたんだな、と思って」
言うとシグルドは、頷いた。
「よく言われます」
「でしょうねえ。肖像権の尊重に係る法律が、マヌエル本人ばかりでなくその婚約者の方にも適用されることになって、本当によろしかったですわね」
「王太子殿下にお世話になったそうで」
シグルドは重々しく頷く。そして、訊ねた。
「お尋ねしたいのですが。トールは、なぜ、王太子の秘書の方と一緒に?」
「べつに。ただお茶を一緒に飲んでいただけですわ」
「トールの機能が王太子にお披露目されたことは知っています。でも、もう四日も前の話ですよね」
「ええ」
「トールは、ダスティンの休暇に付き合ってるだけですよね。アナカルシスに残っている理由」
「……」
マルゴットは微笑んだ。
否定するのも煙に巻くのも簡単だ。でも、なぜか、そうする気になれなかった。どうしてだろうと自問していると、シグルドが訊ねる。
「他に理由が?」
「交換条件というのはどうです」
シグルドが身を乗り出した。「交換条件?」
「私、きっと、好奇心でパンクしそうなんです。ですから、お互いひとつひとつ質問を交換するというのはどうかしら。もちろん、答えられる範囲でかまいません。私も、職務規程に違反しない程度にお話します。パスもありで。そうね、三回まで」
「……いいですよ」
シグルドはうなずき、マルゴットはコーヒーをひと口飲んで、訊ねた。
「じゃあ先程の質問の分ね。あなたはトールと、以前から知り合いなの?」
「知り合いというのは正しくないですね。俺は知ってる。でも、トールは知らないはずです。……トールがアナカルシスにいまだに滞在している理由は?」
「ある人物と接触するためですわ。あなたはニュースなどでトールを知ってるの? それとも個人的に?」
「個人的に。……ある人物とは?」
「パスいち。トールとは今までに何度会いましたの?」
「先ほどで三度目です」
「三度目」
意外に少ない。マルゴットは考え込んだが、シグルドがそれを許さなかった。
「ある人物に、何の用事で――」言いかけてシグルドは言い直した。「それは合法的な用事ですか」
「まさか。トールに会わせたい人というのはミランダ=レイエル・マヌエルですわね。どうして会わせたいんです」
「パスいち」
使われた。マルゴットは内心で舌打ちをし、シグルドが続けた。
「ある人物とは犯罪者ですね。トールがダスティンをつれて突然ウルクディアにやってきたのは、その犯罪者に接触するためだったということですか?」
「その聞き方だと、お返事すると職務規程に違反しますわ」
これでは肯定したも同然だ。我ながらなんという大盤振る舞い。マルゴットは自分に呆れる。いったい何を考えているのか。
心を切り替えて、訊ねる。
「ミランダ=レイエル・マヌエルとトールは、以前相棒でしたの?」
「パスに」シグルドはマルゴットをじっと見た。「……ある人物との交渉がまだ終わっていないから、トールはウルクディアに留どまってる。次の交渉はいつです」
「まだ決まってないですわ。……トールが【魔女ビル】を避けるのは、ミランダ=レイエル・マヌエルを避けているからですわね?」
「だといいな、と思っています」
そう答え、シグルドは立ち上がった。手をつけられなかったコーヒーの代金を机に置く。
「あら、経費で落ちるのに――というか、まだ質問が終わってないんですけど」
マルゴットは腰を浮かせたが、シグルドは頭を下げた。
「俺の質問は済みました。ありがとうございました」
「勝手ですわね」
「それじゃ」
「あとひとつ」マルゴットは食い下がる。「だといいな、というのはどういう意味? ミランダをトールが避けるのが、どうして嬉しいの」
「……」
シグルドは行きかけた。マルゴットはさらに食い下がった。
「これも大事な情報と交換よ。聞いておいた方がお得だと思うけど」
多分言いたいのだろうとマルゴットは考える。
質問とか、マルゴットにはどうでもいいことのはずなのに、こちらの札をいくつもさらしてシグルドから聞き出そうとした。自分はきっと、その札たちをさらしたかったのだと思う。聞きたかったのではなく、話したかったのだ。たぶん。
「近々ミランダに私の関係者が接触するはず。J、というイニシャルの男です。彼は担当していないから、トールの任務については何も知らない。でも――私よりずっと自由に動き回れるはずです。私と違って、職務に対する忠誠心というものがほとんどないの」
「……」
シグルドは値踏みするような目でマルゴットを見ていた。
それから、頷いて、代価を口にする。
「トールというアルフィラには、ミランダを避ける理由がないからです」
「え――」
マルゴットは口を開ける。なんだそれは。意味が分からない。謎掛けだろうか?
シグルドは礼をして、出て行ってしまった。
マルゴットはソファに座り直し、焼きプリンをつついた。スプーンを刺すと、表面にのせられた格子状の飴がパリッと音を立てた。ふわふわの甘いプリンと、ちょっとほろ苦いソースと、ぱりぱりの飴細工が口の中でゆるやかに溶ける。
「トールというアルフィラには、ミランダを避ける理由がない――でも実際に、トールはミランダを避けている。つまり」
あのアルフィラは、トールではない、ということだろうか? でも、シグルドもトールと呼んでいたし――。
眉根を寄せて、考え込んだ。
シグルドの出現で、何の益もない休日出勤が、急に意味のあるものになった。それだけは確かなことだった。




