求婚2
「【風の骨】はフェアではないですね。責務が一体どういうことなのか、あなたにはっきりと教えないまま、勝手にあなたを拉致し、勝手に指名手配などという窮地に陥らせ、勝手に逃亡させている。責務を成就しようと思うなら、あなたは狙われ続けるでしょう。――アナカルシスという後ろ盾をなくして、その困難に立ち向かえますか」
「責務って、……【穴】を、あかないように、して。空間の歪みを、直して……魔物を、解放する。こと、です、よね?」
「それを成し遂げることで、どんな影響があるのか、ご存じですか?」
「……ご存じ、なんですか?」
聞き返すと、王太子は、いえ、と笑った。
「僕も知りません。ただ、エスメラルダの学者が研究していることを知っています。この世から【歪み】がなくなったら――」
「なくなった、ら?」
「そこから先は推測に過ぎません。ただ、エスメラルダに住む人間にとって許せない影響が起きる可能性がある、ということだけ、お伝えしておきましょう。責務の成就は世界の混沌を正すこと。その混沌を利用してきた人達は、あなたが、あなたがたが、責務を果たしたら、一体どう思うのでしょうね」
「……混沌、を……」
「僕の手を取れば、つらいことや苦しいことから守ってあげられます。いいですか、責務なんて、果たさなくてもいいんです。つらく苦しく、他の人間から恨まれるかもしれない大仕事だ。いつかは果たさねばならないことでも、今、あなたが、果たさなければならない理由なんてないでしょう? 準備はまだできてないと僕は考えます。大仕事をする前には、まず地ならしをするべきです。ルファルファの復権、エルカテルミナの復権、エスティエルティナの復権――責務を果たしたらどうなるのかを研究し、拙速にがむしゃらに果たす前に、影響を最小限に抑えるために法の整備や基盤の構築を急ぐべきだ。僕はそれを成し遂げたい。後世で責務を果たすエルカテルミナの苦難を少しでも減らすことを。――あなたと一緒に」
恐ろしいまでの説得力だった。
マリアラはうつむき、それを追いかけるように、王太子がのぞき込んだ。
「相棒を愛し続け、共に責務を果たすことを選ぶなら、全てがいばらの道でしょう。それでも……?」
訊ねられ、マリアラは、考えた。うつむいて。目を閉じて――
そして、確認する。
――やっぱり、それでも。
「それでも……わたしはフェルドに会いたいんです」
理屈では、多分きっと、間違っているのだろう。
王太子の手を取れば、安全な場所で、楽しいことだけをして、幸せに過ごすことができる。おまけにフェルドは自由になって、自分の好きな場所に行くことができるのだ。
それなのに、逃げて、隠れて、希望がかなうかどうかなどわからないのに――ただフェルドにもう一度抱き締めてほしいというわがままな願いだけをより所にして、大勢の人間に恨まれるかもしれない道を、選ぶだなんて。
ばかみたいだ。わかっている。なのに。
あの時の腕の感触をもう一度、得られるなら、たぶん、死んだって構わない。そんなことまで考えている自分におののく。なんて愚かで、見境のない、我が儘で、意固地で、怠惰で考えなしで、弱くてずるくて、バカなんだろう。
でも、仕方ない。
マリアラは、顔を上げて、微笑んだ。
――それが、わたしなんだ。
「……わたし、本当に、責務なんてよくわからない。【風の骨】は、わたしが責務なんてどうでもいいと思ってるって、きっと知ってるんです。だから今は、説明しないんだと思います。責務の成就を、望んでいるのは自分であって、わたしじゃないって知ってるから。……今説明して、今選ばせたら、その判断にあの人の、希望が、影響するから。だから」
「……」
「二度目の孵化、というものを、わたしが迎えるかどうか。わたしが本当に、エルカテルミナというものなのかどうか。自分が正しかったのかどうかを、まず見極めるつもりなんだと、思います」
「……そうですね」
「でもそれは、【風の骨】の事情です。わたしの事情じゃありません。わたしの望みは、ただフェルドにもう一度会いたい、ということだけ。だから、……責務を果たすか、それとも次の人に委ねるかはさておくとして、今は、【風の骨】と一緒に行きます。そうすることが、フェルドにまた会える、唯一の道だと思うから」
言うと、やっと、すっきりした。そうだ。
ただ流されるように一緒に来てしまったけれど。
でもやっと、それがマリアラの望みにもなった。ウィナロフと一緒に行こう。フェルドにもう一度、あの時と同じ立場のままで、会うためには、それしかないからだ。責務のことは、フェルドに会ってから、改めて一緒に考えればいいことだ。
我が儘だっていいじゃないか、と思う。ウィナロフも王太子も勝手にしているのだ。それならば、マリアラが勝手にすることを、咎める権利などきっと誰にもないはずだ。
王太子は苦笑する。
「……なんだかバカみたいですね、僕。あなたの決意を堅くすることに加担してしまったみたいだ」
「わたし、本当に子供なんです。自分のやりたいこととか、考えとかを、固めるのに時間がかかるの」マリアラは微笑んだ。「王太子殿下はとても大人ですから、わたしはきっと釣り合わないと思います」
「そんなことはないと思いますが……でも、わかりました。求婚を断られたくらいで、今すぐ出て行けなんて言うほどには子供じゃないことは確かです」
「あなたと【風の骨】を匿い、ウルクディアから無事に出すことは、【風の骨】が支払った代償で既に保証済みですから、遠慮なくここでくつろいでいいんですよ」
ジェムズが言い添え、王太子はジェムズを睨んだ。
「口を出すなと言ったでしょう」
「お話はもう終わりでしょう。……大丈夫です。王太子殿下は、ずっと【風の骨】を捜していたんです。狩人の技術開発部門で開発されたものの大半の、特許の関係でね」
マリアラは、目を見開いた。「特許?」
「ガソリンを使用したエンジンに関わる、さまざまな特許は全て、【風の骨】の名義になっているんですよ。責任者でしたからね。莫大な特許料は全て、狩人の技術開発部門の収入になっていましたが――この度、狩人が瓦解して、技術開発部門が国会の一部門に吸収されたでしょう、そうするとね、【風の骨】のサインをもらわないと、莫大な収入を国会の収入にすることができなくて」
「……そうなんですか」
見上げると王太子は、悔しそうな顔をしていたが、ややして、表情をゆるめた。
「特許って面倒なものでね。収入のほかにも、歴代の【風の骨】の許可をもらわないと、特許を使用した技術を使えないわけですよ。狩人を解体して数カ月、本当に困っていましてね。今回彼は、自分とあなたの保護と引き換えに、特許の譲渡を申し出ました。国会の技術開発部門で収入と技術を好きにしていい、とね」
「……」
「全く欲のない人ですよ。書類はもう整っています。あとは出掛けに彼にサインしてもらうだけ。……というわけで、求婚を断ったからといって、あなたたちを追い出したりしませんから、大丈夫です。心置きなくのんびりしてください。保護局員の目を欺くために、あなたがたの影武者を仕立てます。全て片付くまで、数日はゆっくり休まれるといいですよ」
「というわけです。そこまでお送りしますよ」
ジェムズはしれっとした顔で言い、マリアラに手を差し伸べた。マリアラは困った。この手を、どうすればいいのだろうか。
「失礼」
ジェムズはマリアラの右手をそっと取り、立ち上がらせた。自分の左腕につかまらせて、歩きだす。
マリアラは慌てて、王太子に会釈をした。
「あの……失礼します」
「ごゆっくり滞在なさってください」穏やかな口調で王太子は言った。「求婚も特許もなかったとしても……エルカテルミナをおもてなしできるのは、栄誉なことなのですから」
扉を出ると、ほっとした。ジェムズは、優しい声で言う。
「はらはらしました。でも……やっぱり、あなたは見た目より、結構強いんですね」
マリアラは苦笑した。あんな運転をしても平気だった人に言われるなんて。
「強くなんてありません。ただ我が儘なだけなんです」
「それでいいんです」ジェムズの声は、本当に優しい。「誰もが自分の事情で動いている。ならば、あなたが自分の思うとおりにしていけないわけがないでしょう。大丈夫です。たとえ王太子殿下が反対されたとしても、俺も思うとおりにします。あなたとお約束したとおりに」
「……ありがとう」
ジェムズに会っていなかったら、あのとき約束してもらっていなかったら、王太子の申し出を拒否する勇気が出なかったかもしれない。
ジェムズは、ゆっくりとした口調で続ける。
「俺がもし、あなたの相棒の立場だったら」
「え?」
見上げると、真剣な目にぶつかった。
不思議な熱を帯びた目に、なぜだかたじろぐ。
「……あなたが俺を助けるために、勝手に、好きでもない男の手を取っていたら……それこそ絶望します。そんなことをされるくらいなら、俺がなんとか外に出て、あなたを捜しに行くまで、何十年かかったとしても、……放っておいてくれる方がよほどいい」
「……そうでしょうか」
「自由になったって、あなたが他の男と一緒になってたら……そんな自由に、何の意味があるでしょう」
一瞬、抱き締められたような気がした。
そんな錯覚を覚えるほど、その目も口調も、熱っぽくて。リンじゃなくてもわかった。王太子の好意は信じられなくても、こちらは。
動きを止めていた心臓が、いきなり鳴り出した。とことことことこ、とことことことこ――
ジェムズの指先が、マリアラの頬をそっとかすめた。
頬が、熱い。
ジェムズの顔が近づき、耳元で、声が聞こえた。
「本当に。あなたの相棒と、代わりたいくらいです」
こんな時、どうすればいいのだろう。
リンに聞きたかった。こんな告白を受けた時、いったいどうするのがいいのだろう。でも、考えている間に、ジェムズが身を引いて、微笑んだ。
「……だからあなたは、これからも自分のしたいようにするのが、一番いいですよ」
指先が離れた。
でも、まだ触れられた頬が熱い。一体どういうことなのか、さっぱり分からなかった。初対面に近いのに。確か二十五歳だという話だったから、マリアラなどほんの子供だろうに。
一般学生だったころと変わらず、マリアラは困惑を感じた。でも。
今回は、初めて、嬉しいと思った。気持ちに応えられないことは、心苦しいけれど――
それでも、ジェムズのような人に好意をもってもらえるのは、嬉しい、と。
素直に、そう思った。




