四日目 当番(9)
空を飛ぶのは初めてで、頭がくらくらした。
様々なものが下に見える。南大島の大半を覆う森もその背後に見える住宅街の灯りも、エスメラルダ本土の煌びやかなネオンも。すっげぇ……思わず漏れた呟きを、ラルフは慌てて飲み込んだ。フェルドに聞こえただろうか。
下を見ると、暗い水面に、確かに、更に黒々とした大きな獣が浮かんでいるのが見える。ラルフとルッツを家に帰したら、ふたりはこれからあの魔物を“家”に帰すという仕事を始める。――どうしてだろう。それが不思議でたまらない。
「あのさあ」
声をかけると、すうすう鳴る風の音と共に、フェルドが答えた。「んー?」
「……あの魔物、本当に、【毒の世界】に連れてくの?」
「ああ。魔物はなんか自分で大きくなったり小さくなったりできるわけだよな」
「らしいね。俺は自分から進んで姿変えるところは見たことねーけど」
「休憩所はどこも壊れてなかったんだ。外壁とか窓ガラスとかな。魔物がどこから入ったのかって、保護局の人たちがわいわい話し合ってたんだけど、たぶん通風口から入ったんだろうって話になってた」
「だろーね。狩人もさ、だからいっぺん、逃げられたんだよ」
「そーか。まあ、小さくなるんだったらきっと何とかなるよ。話も通じるし大人しいし。任せとけ」
「……あんたはそれでいーの?」
フェルドは初め、魔物を殺そうとしていたはずだ。魔女がやめてくれと頼み、魔物が自分で止まったから、それをやめただけのはず。
「あのねーちゃんが……頼んだんじゃん。フェルド、よく、攻撃やめられたなって思うよ。ふつーは、何言ってんだふざけんな、って、そのまま殺しちまうと思う。俺ならそうした。だって魔物だ。止まる保証なんてどこにもなかった。下手すりゃ二人とも死んでたんだよ」
「そーだな」
「今もさ、なんで付き合ってあげんの? ただ帰って寝ればいいだけなのに、魔物なんかのためにまた危ない橋渡るんだろ……魔物なんか、放っておけばいいじゃないか」
フェルドは少し考えていた。
それから、穏やかな声で言った。
「左巻きはたぶん……道を知ってるんだと思う」
ラルフは呆れた。「はあ?」
「俺もさ、ガキの頃に、同じことを聞いたことがあるんだ」
「誰に?」
「……姉、というか。まあそんな感じの人にさ。ダニエルに付き合ってると疲れないかって。回りくどいじゃないか、説得なんかしないで、全部ぶん殴ってやればいいじゃないかって。姉は魔力がかなり強くて、向かうところ敵無しって感じなのに、いつも左巻きの意見を尊重して遠回りをする。そしたら姉が言った。……左巻きは道を知ってる。右巻きの力はきっと、左巻きが歩くその道から、危険を排除するためにあるんだって。左巻きと一緒にその道を外れないで行けば、大きな力を持っていても、恐れないで済むんだって」
ラルフはフェルドの背に額を押し当てた。
沈黙が落ちたその隙間に、魔女と、それからルッツの、楽しそうなお喋りが聞こえてきた。少し遠いから何を言っているかはわからないが、ふたりは気が合うらしい。同じ類のバカだからだ、ラルフはそう思って――
もしルッツがルクルスじゃなくて、魔力が強くて、孵化を迎えることになったら、絶対左巻きだったに違いない。
そこに思い至ってしまった。
だってルッツは、将来医者になりたいとか言う奴なのだ。南大島に残って世話役になって、赤ん坊や子供や世話役たちが、ケガをしたり病気になったりしたら治してやれるようにって。
あああ、呻き声が口から漏れる。
あああ。あああ。あああああああ。
魔女もルッツも、バカだと思う。
でもラルフは、そのバカに付き合うのが嫌じゃない。
足し算も引き算も読み書きも、面倒だし回りくどい。そんなもの覚える間に海に出て、魚をじゃんじゃん獲った方が有意義だと思っていた。
でも、ルッツの言うとおり、足し算は役に立つ。たぶん引き算も覚えたら何かの足しになるのだろう。読み書きを覚えたら、もっともっと役に立つのだろう、たぶん。
それが“道を知ってる”ということなのだろう。……違うかな?
ラルフは考えるのをやめた。小難しい理屈はよくわからない。代わりにフェルドに聞いた。
「ねー、あんたらって結局なんなの?」
「あ?」
「あのねーちゃんはだいぶ前から来てた。初めに一緒にいたのは、なんかこすっからい顔した奴だった」
フェルドは笑った。「ひでーな」
「ねーちゃんはそいつが苦手っぽかった。なんか、楽しくなさそうだった」
「うーん」
「その次が、んー、こすっからそうじゃなかったけど、なんか気弱そうな奴。大人しそうっつうか、ルッツみたいな感じの。ねーちゃんはそいつといるときは楽しそうだったよ。休んでるときは、“とらんぷ”っつーんだっけ? そういうのとかして遊んでた。すっげー楽しそうだった」
言ってやるとフェルドは一瞬黙った。
それから言った。「そりゃよかった」
ラルフは笑う。
「そんでその次があんたと来た。来週は誰と来んの? また別の奴?」
「いや、俺で最後だよ。あの子の相棒を決めてるんだ、今。一週間一緒に仕事して、相性を見てる。候補は俺を入れて三人だけ。浄化はまだ続くから……次来るときは、ちゃんと決まった相棒と一緒に来るんじゃないかな」
「ふうん。一番気が合う奴をねーちゃんが選ぶわけ? なら二番目の奴で決まりじゃん」
「マリアラが決めるわけじゃない。〈アスタ〉……なんて言うのかな、偉い奴が決めるんだ。……結構飛んでるけど、島どこだよ。まだか?」
「あーごめん」ラルフは慌てて下を見た。「もう少しかな。もうちょっと左に向けて飛んで。もう少し……そんくらい。もうすぐ見える」
沈黙が落ちた。海の上は暗く、ラルフの視力を持ってしても、目を凝らさないと島を見逃してしまいそうだ。万一にも年長の奴らに目撃されないよう、集落の上を行きすぎないようにしなければならない。
ラルフが島に帰るのは、実に二週間……いや、三週間ぶりになる。
早く帰りたい。ハイデンに褒めてもらいたい。シグルドはきっとぶんぶん振り回してくれるだろうし、ネイロンは食事の時、芋かなにかをおまけしてくれるだろう。
でも、名残惜しい、ような……気もする。
意地悪して悪かったかな、と思った。
フェルドのような存在がこの世にいて、無理をせず、穏やかに、自分の“力”と付き合っていると言う事実は、ラルフにとって福音だ。
だから降りる前にと、ラルフは囁いた。
「あのねーちゃんは……あんたといるときも結構楽しそうだったよ、フェルド」
返事はなかった。ちょっと風が出てきたから、聞こえなかったのかも知れない。それでも別にいいや、と思った。ラルフとしては、あのこすっからい奴が彼女の相棒にならないといいな、という位のものだ。例えそうなったとしても、ラルフにはどうしようもないことだし。
もうきっと、二度と会わないのだろうし。
聞こえていないのならば、と、もう一つ付け加えることにした。
「魔物をさ……ちゃんと帰してやってよ。それでさ、それで……捕まえて悪かったねって、言っといて」
「あー」
返事があった。聞こえてんじゃん、と、ラルフは思った。