歴代王の肖像画
ひとりになって、マリアラはしばらく、その日記の表面を撫でていた。
ウィナロフが言っていたものだろう。媛が一時期書いていたという、個人的な日記。魔物についての彼女の思想が書かれた、ほぼ唯一のもの。
過去の偉人ならばともかく、面識のある相手のものを、勝手に読むのは気が引ける。
でも、モーガン先生がわざわざ現代の言葉に直してくれたものだ。読まないわけにはいかない。そうだ、学生として、先生の宿題には答えるべきだ。そうなのだ。すみません、と言い訳をしつつノートを開いた、その時だった。
「あーやっと見つけた」ウィナロフの声がした。「ちゃんと会えたかな、と……え、なに? 何で睨んでるんだ」
「睨んでません」マリアラはため息と共にノートを閉じた。「ただタイミングが悪かっただけ。モーガン先生には、ちゃんとお会いしたよ。言っておいてくれれば良かったのに」
「いや、びっくりするかな、と思って。晩飯にはまだなんだけど、セドリックさんに、先に挨拶したいんじゃないかと思ったんだけど、どうする?」
「ありがと。……ここの本って、部屋に持っていって読んでもいいものかな」
訊ねるとウィナロフは、目を丸くした。「この量全部? 今夜ひと晩で? 徹夜する気か」
「うう」悔しいが、正論だった。「一……に、二冊にしとく」
「……まあ、別に構わないんじゃないか。確か入り口に貸し出しノートがあったはず」
「ありがとう」
マリアラは書見台の上の本を吟味して、二冊だけ選び出した。よくよく考えれば、媛の日記とモーガン先生のメモは移動中でも読める。でも、他の本はここでしか読めないのだから、今夜読む本は図書館のものにしておいた方が賢いだろう。他の本を戻すのを手伝ってくれながら、ウィナロフが呆れたように言う。
「モーガン先生の愛弟子だってことが本当に納得だよ」
「だってドロテオ=ディスタの手記があったんだよ!」
言ったとたんウィナロフの形相が変わった。すごい目でマリアラの腕の中の本を睨み、
「……読む気?」
低い声で聞かれて、思わず後ずさる。
「よ、読むよ! ドロテオ=ディスタって、物語はたくさん知ってるけどっ、伝記とかないし、生い立ちとか生涯とか、謎に包まれた人だったんだもん、姫の伝説にあんなに詳しいのはどうしてかとか、きっと手記には――よ――読んじゃダメなの!? せっかく見つけたのにダメって言うの!?」
「いーや?」ウィナロフは薄く笑った。「別にそんなこと言ってない。 ただ、それは暗黒期とかにはま……ったく、関係ないよ。ただの世迷い言ばかり垂れ流してるだけだよ。時間の無駄だと思うよ」
「よ……読んだの?」
「読んでないよ?」
怖い。
何が何だか分からないが、ウィナロフの逆鱗はこれらしい。マリアラは後ずさり、本をドレスの後ろに隠した。ウィナロフが微笑む。
「すごくよく似合うね」
もっと怖い。
「あ……ありがと……?」
「何で聞くんだ。とにかく行こうか。ここでもめてると他の利用者に迷惑だし」
行こうか、と言ったくせに、ウィナロフは歩き出さないのだ。マリアラが歩き出そうとしても、一緒に来ない。マリアラは泣きたくなった。悔しい。
「い……行かないの」
「行きますよ?」
悔しいが、怖いのだ。
マリアラは根負けして、ドレスの後ろからドロテオ=ディスタの手記を出し、本棚にしまった。ウィナロフがにっこり笑う。
「セドリックさんも心配しててさ――」
言いながら歩き出す。マリアラは本棚に戻したばかりの本に未練たっぷりの視線を投げてから、仕方なく歩き出した。いったい何がいけないというのだろう? ドロテオ=ディスタは千年前ではなく、四百年くらい前の人だ。彼との間に、何か因縁があったのだろうか? もしかして、『こっちの方がかわいーとか言いやがって』などと話していた人がドロテオ=ディスタだったのだろうか、と考えてみはしたが、でもそんなはずはない。あの時ウィナロフが話題にしたのは女性だった気がする。でもドロテオ=ディスタは男性のはずだ。
手記を読めたら全てわかるはずなのに。持ち出せた一冊を読み終えたらこっそり借りに来よう、そう心に誓いながら、本棚の迷路を後にする。
セドリックはあの後、警官に拘束されていたが、ある程度事情を聴かれ、いろいろ調べられた後に釈放されたらしい。
まず第一に、セドリックは有名なシェフだったということがある。マリアラをバスに乗せたのは本当に偶然だった、ということもあるのだろう。結果的に魔物による襲撃事件を解決する一助になったこともあり、むしろ褒賞が出ることになったと、ウィナロフは説明した。
「それで、何がいいかって聞かれて、王太子の晩餐を用意させてほしいって言ったんだってさ。今日、もう昼過ぎからここの厨房で準備始めてた」
「ふうん。楽しみ」
マリアラがそう答えた時だ。
少し先にヴァイオレットが見えた。盆を捧げて廊下を横切って行く。マリアラは声を、上げようとして、洗練された場所で大声を上げてもいいものか少し迷った。その間にヴァイオレットはてきぱきと歩いていってしまう。
「あ……ちょっと待ってて、厨房に行ってるって、伝えてくる」
そこはどうやら、王太子の執務室とか、仕事の話をする応接室とか、そういう部屋が並んでいるところらしい。ヴァイオレットが入っていったのはとても古い廊下だった。歴代の王族の彫像や肖像画が、廊下の両脇に飾られていた。長い歴史を誇るように、その数は相当なものだ。ヴァイオレットの背中が廊下の向こうに消え、マリアラはウィナロフを振り返った。
「ちょっと待っててね」
ウィナロフは複雑な表情をしていた。
廊下の先に、何か嫌なものがあると知っているかのように、顔をしかめている。マリアラは驚き、ウィナロフは言った。
「図書室の受付に伝言預けてきただろ」
「うん……でも、むだ足踏ませたらやっぱり悪いし……」
「まあね」ため息をひとつ。「じゃあ、行ってくるといいよ。ここで待ってる」
少しの違和感を覚えた。
でもマリアラは、今はとにかくうなずいた。歴代の王の肖像画を見たいという気持ちがあったのも確かだった。ドレスの裾を持ち上げて、歩きだした。ウィナロフは少し離れた場所にあるソファの方へ歩いて行った。
この辺りにあるのは、最近の王の肖像画だった。
歩くにつれて時代をさかのぼっていく。本当にたくさんの肖像画があった。王と王妃ばかりではなく、その家族まであったから当然だろう。ウィナロフを待たせているから、あまりじっくりとは見られないが、それでも過去の王たちの外見を見るという誘惑に勝つのは難しかった。時代はどんどんさかのぼっていき、七百年前くらいで廊下が尽きた。と思いきや、廊下は右に曲がっていただけだった。さらに古びた印象の廊下は、彫像や肖像画を飾りながら奥へ続く。廊下の両脇に扉がいくつもあり、ヴァイオレットがどこへ入ったのか分からない。
引き返した方がいいかもしれない。
そうは思った。でも、エルギンの顔を見たいという誘惑に、どうしても勝てなかった。マリアラは今来た廊下をちらりと見た。ウィナロフの姿は見えない。先の廊下に視線を戻し、距離を目で測る。ひとけがないのをいいことに、靴を脱いだ。彫像の後ろに隠して、ドレスをたくしあげた。
ごめん、ほんとごめん。でも、ちょっとだけ。
ウィナロフに言い訳をして、小走りで廊下を走った。
ここの廊下に敷かれているのは、焦げ茶色の絨毯だった。ふかふかの毛先がマリアラのつま先を柔らかく包んだ。結い上げた髪がふわふわと揺れる。マリアラは当初の目的をないがしろにしていると自覚しながらできるだけの速さで進み、忙しく目を働かせた。
その廊下の真ん中に、それがあった。
弾んだ呼吸を整えようとしながら、その古い肖像画を見た。
長い年月の間に何かがあったのだろう、その肖像画は千年前のものにしては新しい。途中で模写されたのだろうか、筆致もくっきりとしていて、見やすかった。エルギン=アナカルシス、と書かれた飾り文字の下に、英傑王、という二つ名が誇らしげに、一際大きな文字で、書かれている。
マリアラは口を開けた。
大人になったエルギンは、子供のころの面影がほとんどなくなっていた。
そして、あの王太子――エルバート=クロウディア・アナカルシスと、生き写しと言っていいほど良く似ていた。
ひととき、その顔に見入った。あのまじめでけなげな少年は、ちゃんと生き延びていた。暴君を追放し、玉座に君臨し、アナカルシスの黄金時代を築いた、英邁な王に成長したのだ。
ちょっと涙ぐみそうになった。マリアラにとっての一年足らず前には、あんなに小さくて可愛らしかった少年なのに、実際にはとっくの昔にその生涯を終えていたのだ。もう二度と会えないのだ、ということが、急にふに落ちた。
――英邁で偉大な王でありながら、生涯独身を通した。
マリアラは、エルギンの肖像画に語りかけた。
――あなたは、幸せだったの?
ふと。
その隣に掲げられた肖像画が目に入り、息を止めた。
そこにビアンカがいた。
あの落とし穴の中で、スクリーンに映し出されたあの似顔。同じ人が描いたのか、それともあの似顔をお手本にして描かれたものなのか――とにかく、見まちがえようもなく同じ顔だ。マリアラは愕然とし、その肖像画を見直した。
何度見ても間違いない。
ビアンカ=クロウディア、という名で、エルギンの隣に、あの地下で見た、あの可愛らしい似顔絵と、良く似た肖像画が並んでいる。
じわじわと理解が進み、マリアラは全身がしびれるような感触を覚えた。心臓が早鐘のように打ち始め、体中に鳥肌が立った。
やっと思い出したのだ。リーザ=エルランス・アナカルシスの顔を、いったいどこで見たのか。
リーザは、ビアンカにそっくりだった。まるであの似顔絵が、紙から抜け出して、少し成長したかのように。
――どういう、こと?
「シンデレラ、というお話をご存じでしょう」
唐突に声をかけられて、マリアラは飛び上がるほど驚いた。
そこに、エルギンそっくりの人がやってくるのを見てさらに驚く。一瞬混乱したが、王太子の顔に青アザがあるのでようやく思い出す。そうだ、エルギンじゃない。王太子殿下だ。エルギンならばあんな狼藉を働いて部下に殴られたりしないはずだ。
王太子は笑顔だった。左手の上に、マリアラがさっき隠してきた靴をもっている。
「靴を脱ぎ捨てて逃げたお姫様を、その靴を手掛かりにして王子が見つける童話です。その話を思い出しました。――本当に良くお似合いですよ」
顔の青アザなんて存在しないかのような風情で楽しそうに言いながら歩いてきて、どうぞ、と、マリアラの足元に靴をおいた。マリアラは、すみません、と言うべきか、理由を説明すべきか、いろいろ悩んでいたが、ようやく言った。
「……ありがとうございます……」
そそくさと靴を履く。なんてみっともないことをしたのだろう。でもまさか見つかるなんて。
王太子はエルギンの肖像画を見上げ、楽しそうな口調で言った。
「このお陰で、ずいぶん前からいろいろと得をしてきました」
「……え?」
顔を上げると、王太子はこちらを見下ろし、肖像画そっくりの顔で笑った。
「英傑王は……幼いころは母親似だったそうですが、成長するにつれ、父親に生き写しになったそうです」
言いつつ、エルギンの隣を示して見せた。
なるほど、その隣にある、質素な額縁の肖像画は、模写されなかったのか見づらくはあったが、エルギンに似た顔が描かれている。
「父親は暴君でね。アナカルシス史上、最悪の王と言われます。あまりに残虐で、英傑王が、父親の死を待たずに王位を継ぐ決意をしたほどでした。媛を始めとした大勢の人間がそれを支持した」
「……はい」
「気の毒だったなと思いますよ。媛の故郷を滅ぼし、家族どころか知り合い全員を虐殺した、非道で残忍な父親とそっくりな顔で――その残虐な血を受け継いでいることが明らかな容姿で、媛に求婚しなければならなかったんですから。
でも、僕はお陰で得をしました。英傑王そっくりの容姿ですから、そりゃ周囲の評価も甘くなるというものです」
「……あの」
マリアラは、ビアンカを示した。ウィナロフを待たせているとわかっているのに、聞かずにはいられない。
「ビアンカ=クロウディア姫、というのは……」
エルバート王太子の母方の姓も、クロウディアだ、と後ればせながら思い至る。
エルバートは、ああ、と言った。
「英傑王の即位の前に、クロウディアという大貴族がいたんです。クロウディアはとても慕われた貴族でしてね、領土も広く、領民も豊かで、押しも押されもせぬ大貴族でした。それを、英傑王の父親――エリオット暴虐王が破滅させました」
マリアラは、つぶやいた。「……破滅?」
「罠にはめて、財産をすべて取り上げて。恐らくクロウディアの当主は暗殺され、奥方は借金すべてを背負わされて――身売りをしたらしいですね。そして、ひとりだけ残された愛娘、当時七歳のビアンカ姫は、売られる寸前で逃げ出して、アナカルディアの路上で乞食まがいの生活をしたという伝説があるんです。そして、ある組織に匿われて成長し、エルギン王が即位するときに、クロウディアの名を使って多大な貢献をしました。媛の親友だそうです」
「……そうなんですね」
「とても有名なお姫様です。クロウディアを復興させるということには興味がなかったらしく、英傑王との婚姻という話も出たようですが、辞退して、エスメラルダに引っ込んで生涯を過ごした。クロウディアは彼女で断絶しました」
「……え……でも……」
この配置では、まるで、ビアンカはエルギンの王妃であったかのようではないか。
すると王太子は苦笑した。
「これは後世のこじつけですよ。願望、と言ってもいいでしょう。僕の母親はクロウディア姓でしょう。ビアンカ姫から二百年後くらいに、クロウディアは復興するんです。始まりは、英傑王の養子です」
「養子、ですか」
「英傑王の後継は弟と、アイオリーナ=ラインスタークとの間に生まれた聡明な若君ですよ」
言いながら、ひとつひとつ、その肖像を示してくれる。マリアラはあの時、カーディスの顔を一度だけ、それもちらりと見ただけだった。とても可愛い子だった。カーディス、と呼んだフェルドの悲痛な声を思い出す。フェルドは今も、カーディスを救ってやれなかったと思っている……
アルガスは、カーディス王弟はもうずいぶん大きい、あなた方より年上だと思う、と言っていた。確かにこの肖像画を見ると立派な大人になっていた。地下神殿でさんざん脅かされた気の毒な子供もあんなに立派に成長して、あんなに美しい奥方様と一緒になったのか、などと、親戚のような感慨にふけった。
「後継を定め、その次の後継をも、カーディス王弟とラインスターク姫との間の姫君に定めた。それなのに、英傑王は養子を取るんです。後継の問題でもめないように慎重にですが、男の子でね、英傑王がなぜその子を養子に迎えたのかは諸説ありますね。その子の身分を保障してやってくれと媛に押し付けられた、という説が有力です。王太子の遊び相手として迎えられたという説もあります。が、根強く、隠し子だったという説もあるんですよね」
「……隠し子……」
「その子はとても聡明で、王太子――カーディス王弟の若君の親友になりました。養子の身分をわきまえたと言いますか、陰に日なたに若君を支えたそうです。シャトーという風変わりな姓を与えられ、アナカルシスに多大な貢献をしたそうです。シャトーの息子は若いうちに別の大陸に渡ったそうなんですが、歳をとってから家族を連れてアナカルシスに戻ってきた」
「別の大陸……」
「ガルシアでしょうね、あちらには、エスメラルダとゆかりのある小さな国がありますからね。シャトーという名を持つその一族は、本当に誠実で、また聡明で、アナカルシス国王の良き右腕であり続けました。――数代それが続いて、ついに、クロウディアの名を与えられたんです。貴族として、領地を有するようになりました」
「……そうなんですね」
「そうなんですよ。それで、今日の僕もいるわけです。ビアンカ姫と僕との間には、血のつながりはありません。……でも」言って、王太子は人の悪い笑みを見せた。「とてもそうは思えない人間がいる。僕の従妹の顔、見たことありますよね。先日あなたがたを待ち伏せして襲ってますから。……血のつながりって不思議ですね。リーザはクロウディアの出身でさえないのに、英傑王と僕が似てる以上に、ビアンカ姫と生き写しだ」
心臓が、鼓動の音を強めていた。
ビアンカは、今でも、デクター=カーンを愛しているのに。
――顔が一番嫌いですね。見るだけで吐き気がする。
あの言葉には、どういう意味があったのだろう。
くっく、と、人の悪い笑い声。
「普通信じませんよ。千年生きてるなんて」
見ると、エルバート王太子は、ちらりと、ウィナロフが待っているはずの廊下の方に視線を投げる。
「……でも僕は信じます。デクター=カーンは生きている。千年前の記憶を持ったまま、今もああして、必死で働いてる。僕は信じます。だって、彼は絶対に、ここに来ません」
「え……?」
「何があっても、この廊下だけは通らない。さっき僕は、ちゃんと挨拶して来ました。あなたに求婚するつもりだって、言ってきましたよ。それでも、ここには来られないんです、彼は。ここで、恐らく、このふたりの肖像画が並んでいるのを見られないんでしょう」
「……」
「だから僕は信じる。あの人は今も、千年前のしがらみを抱えているんだろうなって」
マリアラは、呆然と、エルバートを見上げた。
今なにか、意味不明なことをさらりと言ったような気がする。
すると、エルバートは唐突にひざまずいた。マリアラの左手をそっと取り、押しいただくようにした。
「僕と結婚していただけませんか。マリアラ=ラクエル・マヌエル」




