図書室
もう一度お風呂に入らせてもらい、出てみると、時刻はおやつ時だった。眠ったのは四、五時間、というところだろうか。
王太子はどうなったのか、姿を見せなかった。ジェムズもだ。王太子の狼藉は確かにひどかった、あれ以上先に進んでいたらどうなっていたのか、想像するのもおぞましかった。思い出すだけで鳥肌が立つくらいだ。だから正直なところ、あんな王子様はひどい目に遭ってしまえばいいのだと、思っているのだが、実際どれくらいひどい目に遭っているのだろうと考えると気の毒なような気がする。出張医療の帰りにお世話になった人だし、そもそも今、誰にも追われる心配をせずにのんびりお風呂に入って食事を出してもらっているのは、結局のところあの王子様のお陰なわけだし。
屋台の色とりどりの食べ物は、小さなテーブルに所狭しと並べられていた。マリアラが気兼ねしなくていいように、という配慮なのか、あの年かさの少女――ヴァイオレットはマリアラの隣に座って、自分も時折お相伴しながら、あれこれと世話を焼いてくれた。ウィナロフはマリアラの向かいに座り、旺盛な食欲を見せている。
「にしても、本当に、よく無事だったね」
ひととおり食べてその食欲が落ち着くと、ウィナロフがようやく言った。マリアラはうなずく。
「……ごめんね、なんか、……大騒ぎになっちゃって……」
「別に謝ることじゃないよ。無事だったんだし。けどまあ、保護局員の車に乗ったって聞いた時には肝が冷えたかな」
「うん……」
「いや、しょうがないよ。指名手配の本当の狙いはそれだったんだろうしね」
マリアラはうつむいていた顔をあげた。ウィナロフはまじめな顔をしている。
「あれだけばらまかれてたらかなりのプレッシャーだろ。周りの人間みんなが敵に見える。間違いなんだ、信じてくれって、みんなに叫んで回りたくなる。そんな時にエスメラルダの有名な雑誌の記者が現れて、あんたの無実を雑誌に書いてやるって持ちかけられたら……俺が一緒にいたとしても、騙されなかった自信はないし」
「……そう……?」
「騙されなかったとしても、怪しいからやめとけって俺が言ったら、その男はあんたに言ったんじゃないかな。『あの男を信じてついてっていいのか』って」
「……そうしたら、心のどこかで、信じられなくなったかも、ね」
「そう」
「そっか……」
「まあでも、結局無事だったわけだし。本当によかったよ」
「ミランダ=レイエル・マヌエルに、お手紙を書かれませんか」
ヴァイオレットは優しく言った。マリアラの視線を捉えて、微笑んで、続けた。
「あの方は、あのチラシがばらまかれた三日後に、王太子殿下を訪ねて来られました。それからずっと、お仕事の合間に、本当によく、通って来られて。私、いつもお出迎えをさせていただいています。親しくしていただいています。事情も、少しですが存じております」
「……そうなんですか」
「ひとつ、お尋ねできますか」
「はい」
「グムヌス議員は、結局、どうなさったんでしょうか」
マリアラは目を丸くした。「グムヌス議員……? どなたでしたっけ」
「ご存じないんですね」彼女はうなずいた。「ミランダ様をエスメラルダから逃がした、元老院議員の方です。ミランダ様は、マリアラ様とフェルディナント様をまず逃がすべきだと、グムヌス議員に主張したとうかがいました」
「……ああ……ミランダを気に入ってよく指名していたという、もうお爺さんの、議員の方でしたっけ」
「ええ。その方は、ミランダ様に、マリアラ様とフェルディナント様の方もちゃんと逃がすから、心配するなとおっしゃったそうです。ですから」
「……」
「ですからミランダ様は、五月までずっと、おふたりも既にエスメラルダを出て、どこかで無事に過ごしているのだと、信じておられたんです。〈アスタ〉に確認できる類いの話ではありませんでしたから――あの指名手配のチラシを見るまで、そう信じておられた。シグルド様にうかがいました。ミランダ様と、おふたりで町を歩いておられる時に、そのチラシを見て――ミランダ様は、卒倒して。三日、寝込んだそうです。それで、起きてすぐに王太子殿下に助力を乞いにいらして――それから今日まで、一日も休みを取っておられません」
「……そう、聞きました……」
「ウルクディアでご自分の地位を高め、もしマリアラ様がウルクディアに来られたら――その時は治療の継続をご自分の武器にして、あなた様をお守りできるようにと、決意を固められたのだと。私はそう、考えております。僭越ですが」
「……」
「今では、あの方を欠いては街の生活が回らない、という段階まで来ています。市民を元気づけ、安心を与えるという点で、あの方以上に影響力のあるものはウルクディアには存在しません。……あの方はずっと、戦って来られました。そうして、昨夜マリアラ様をお守りしたんですね」
「……ミランダのせいじゃ、ないのに」
「ミランダ様は」優しい笑みだった。「そう思われなかったんです」
「はい……」
そうだろうな、と、思った。
ミランダならば、きっと、そうなのだろう。
「……あの、ミランダを、ここに、呼んでもらうということは、できないんでしょうか」
「残念だけどね」ウィナロフが言った。「そうすると保護局員に察知される恐れがある。【魔女ビル】には校長の名代が滞在してるそうだし」
「……そっか」
「お手紙を書かれたら、きっと、ご安心なさると思いますよ」
彼女の優しい提案に、マリアラはうなずいた。それで済まさなければならないのが、とても心苦しかった。
食事が済むと、ヴァイオレットが、離宮内を案内すると言ってくれた。
マリアラは喜んでお願いしたが、その前にお召し替えを、とつれて行かれた更衣室で少々手間取った。食事の時に貸してもらった着心地のいい上着とズボンではどうしていけないのだろう? ゆったりしていたがとても趣味がよかったし、見苦しくもないと思ったのに。
しかし郷に入っては郷に従わなければならない。三人の少女は嬉しげにマリアラの周りで立ち働いた。髪まで梳かれ、ふぞろいだった毛先を整えられ、付け毛まで使って優美に結い上げられたあげくに、まがうことなきドレスを示されて、さすがに後ずさりをする。
「あの、すみません、わたし、……ええと」
そのドレスはとても素敵だった。上品で華美で、一度は着てみたいと思わせられるような趣味のよさだった。全体的にクリーム色で、濃い赤の絹糸で複雑な刺繍が施されている。裾のふんわりしたところが自分の足元でひるがえったらどんなに楽しいだろう。が、夢見るのと実際に着るのとは違うはずだ。似合わないだろう。似合わないと、鏡に映った自分の滑稽さにきっと打ちのめされてしまう。足さばきだって知らない。転んだりしたら主に精神的に大惨事だ。
「大丈夫、お似合いです」
「お若くて可愛らしいお嬢様がいらしたというのに、飾り立てる楽しみを私達から奪うおつもりですか」
「まあなんてひどい! ひとでなしの所業というものですわ! でもマリアラ様はそんなことなさりませんでしょ?」
「大丈夫、絶対お似合いです! 大丈夫です!」
口々に言われ、ついに着てしまった。体を滑る絹の感触に陶然とした。そんな時じゃないのに。おしゃれしたり楽しんだりしている状況じゃないのに、ああ、なんということだろう、腕にすんなりと沿うレースの複雑な模様は、否応なしにマリアラの心をときめかせた。サイズもピッタリで、肩も背も腰も、しっくりと馴染んだ。腰からふんわりと広がるドレスの滑らかな曲線と、床すれすれにわずかに覗く濃いピンク色の縁取りが、かつてマーシャに着せてもらった正装を思い出させる。自然、背筋が伸びた。鏡を見ると、びっくりするくらい似合っていた。どうしよう。心が華やいでしまう。
そんな時じゃないのに、嬉しくなってしまう。
「まあ、なんてお似合いなんでしょう!」
「写真写真、写真を撮りましょう写真を!」
「うわあ、素敵だわ……なんて可愛らしいんでしょう……」
三人が口々に褒めてくれて、結い上げられた髪にドレスと同じ色合いの花飾りが足され、断る気も起きないくらい決然と、化粧まで施された。彼女たちの腕は確かで、数分後に鏡の中にいた自分は、今まで想像したこともないくらい華やかに見えた。
故郷の治安維持に携わる存在に追われているという重圧を、忘れさせてくれようとする気遣いが、本当にありがたかった。
離宮はとても広かった。
持たされた扇を広げて顔を隠しながら、マリアラは興味深く辺りを散策した。手にはめてもらったレースの手袋は、レース編みなのに全くちくちくしなくて、あくまで軽くてすべらかだった。ここは、一事が万事、その調子だった。どこもかしこもきちんとしていて美しくて、洗練された最高級のものばかりだ。
塔を一階まで降りて、さっき入ったものとは別の扉から出る。アイボリー色の絨毯が敷かれていて、全く足音がしない。
「保護局員と使者の目をごまかすために、数日滞在していただく予定となっております」
ヴァイオレットは案内してくれながらそう言った。マリアラはうなずいた。
「わかりました。お世話になります」
「恐れ入ります。……ですので、今日のところは、図書室にだけご案内いたしますわね。夜にはあの有名な、セドリック=ドーラシェフが離宮の厨房で腕を振るってくださるそうですし、アクシデントのせいでゆっくりお休みいただけませんでしたから、お疲れになるといけませんしね。今日は開宮日ですが、図書室は一般開放区域から外れておりますから、観光客が立ち入ることはございません。マリアラ様はたぶんそこが一番お好きでしょうと、【風の骨】からうかがっておりますから」
「ありがとうございます」
ドレスを着ていると、受け答えの態度まで変わってくるような気がするから不思議だ。
開宮日だと言う割に、辺りはとても静かだった。観光客がどこにいるのかさっぱり分からない。天井の高い回廊を抜け、エレベーターで四階まで昇ると、厚い緞子で囲まれた一角があった。かなり広々とした、深紅色の緞子の森だ。
「少々暗いですから。お手をどうぞ」
ヴァイオレットに手を引かれて緞子を抜けると、柔らかな光に溢れた空間があった。
そしてそこに、本棚の迷路があった。
「わ……!」
思わず声を上げ、慌てて扇で口を押さえた。静まり返っていたが、無人というわけではなく、そこここでページをめくる音が聞こえる。でも、誰の姿も見えない。こんな図書館を見たのは初めてだ。まさに、そこは迷路だった。今まで知っていた図書館の本棚は全て理路整然と並んでいたが、そこは違った。どっしりとした大きな本棚が、複雑に入り組んでいた。ページを繰る音やしわぶきは、その迷路の奥から聞こえてくる。
「ランプをどうぞ」
ヴァイオレットが優しく言いながら、燭台を手渡してくれた。凝った作りのアンティークだけれど、中に入っているのは蝋燭ではなく光珠だ。煤が出ないようにという配慮なのだろう。
「扇をお預かりいたしましょう。一応、見取り図もございますが。ご利用ですか?」
「あ……いえ、……今は、結構です」
マリアラの返答を予期していたかのように、ヴァイオレットは優しく微笑んだ。
「もし迷ってしまわれて、不安にお感じでしたら、どうぞ屈んでみてくださいませね。それでは、ごゆっくり。お食事の時間にお迎えにまいります」
「ありがとう、ございます」
礼を言うのももどかしく、マリアラは燭台を片手に本の迷路に踏み込んだ。
何という天国だろう。どの角を曲がっても、新たな本棚が出現する。ほとんど陶然としながら迷路を散策した。古びた本も、新しい本も、きちんと本棚にしまわれていた。時折袋小路に突き当たると、そこには必ずふかふかのソファがあった。先客がいることもあれば、無人のこともある。ひとしきり歩き回り、マリアラはついに靴を脱いだ。見つけたソファの足下に目印として置くと、ソファの脇に書見台が収納されていることに気づいて感動する。
――ここに住みたい。
本気で、そう思った。ここに住んで、ずっとずっと、本だけ読んで過ごせたら、どんなに幸せだろう。
だって、信じられない。少し歩いただけで、媛の本が片手では持ちきれないほど見つかったのだ。それも、かなり古いものばかり。エスメラルダではどこかに隠匿されてしまったのか、それとも廃棄されてしまったのか――その辺は分からないが、とにかく見たことのないものばかりだ。涙が出そうだった。エスメラルダで、歴史がどんなにねじ曲げられていたのか、『真実』というものがどんなに人々の目から隠されてきたのか、それを裏付けるものが平然と棚におかれて、誰でも手に取れるように整えられているのだ。
――無事で良かった。
そんな風に思った。こないだ会ったばかりの、あの優しくて親しみやすい人たちの軌跡は、ここで、ちゃんと、生き延びていたのだ。
エルギンやニーナの消息も見つかるはずだ。マリアラはうきうきと、読書に没頭した。
少し経って、隣のソファに、誰かが座ったのに頭のどこかで気づいていた。
でも顔は上げられなかった。一字一句が貴重すぎる。モーガン先生があんなに切望していたものたちが、エスメラルダからこんなに近い場所で息づいていた。ミラ=アルテナの業績と、媛という女性の業績が、同じ人のものだと当然のように書かれた本を読みながら、わけもなく涙ぐみそうになっていた時。
「……邪魔して済まないね」
静かな、申し訳なさそうな声が聞こえ、マリアラは弾かれたように顔を上げた。
右隣のソファに、山積みの本を膝に抱えて、座っている人がいる。
「……モーガン先生……!」
「久しぶりだね、ガーフィールド君」
モーガンは、全く変わらない笑顔で穏やかに笑う。
「あんまり綺麗になっているから、何度か素通りしてしまったよ。でも、見つけられて良かった。よく無事で、ここまで来たねえ、君も」
「せ、せんせい」舌が、うまく回らない。「ど、どうしてここに。あの、ガルシアに……」
「なんだ、聞いてないのかね。【風の骨】も人が悪いな」モーガンは苦笑した。「さっき彼に、君が到着したことを聞いてねえ、ここの図書館に連れてきてくれるように頼んだのだよ。……すごいと思わないかね、この図書館」
「ええ、はい。……すごい、です」
マリアラは咳払いをして、ため息をついた。
「先生、でも、ガルシアに行かれたんじゃなかったんですか?」
「うん、そのつもりだったんだよ。でも、【風の骨】が都合が悪くなったんだ」
モーガンは相変わらず、脳に染み込むような話し方をする。
「ガルシアに行くことにはなったけれど、ちょっと犯罪行為をしなければならないから、自分と一緒に行くと私まで逮捕されかねないというのでね。それで、アナカルシスの王太子殿下に一時匿っていただくことになったのだが――いや、ガルシアに行かなくて良かったよ。ここの本を読み尽くし、論文に書き尽くすまでは私は死ねない」
「あの論文、書き上げられたのですか」
囁くとモーガンは嬉しげに笑った。
「それはもちろん、とっくに書いたとも。製本してね、エスメラルダのルクルスを通じて、エスメラルダの各所に置いてもらうことになったよ。ネットワークの本領発揮と言うところだね、そして、そう、僕はまだどんどん書くよ。ここにいればいくらでも書ける。信じられるかね、なんて様々な本が我々の目から隠されてきたことだろうね……! 確かに目の前にはなかった、だが、真実はどんなに隠蔽してもいつか必ず明るみに出るものなのだねえ。だって君、あれほど苦労して、メイファやレティアが断片を集め、推理と推測を重ね、ようやく積み上げたあの仮説が――事実として、それを当然の前提として、書かれている本が……こんなにたくさん」
モーガンは涙ぐむ。ややして、咳払いをひとつ。
「君はずいぶん、ややこしいことになってしまったそうだね」
「……そうなんです」
この前、モーガンが校長に捕らえられそうになっていた時のことを、思い出した。
あの時マリアラは、部外者だった。……そのはずだった。そう、あの時は、『外部の協力者』だったのだ。撃たれたモーガンを助けて、殺されかけた理由を聞いた。あの時、まさか自分があの事件と絡んだできごとでこうして追われる身になるなんて、想像さえしなかった。
「微力だが、僕も戦うよ。エスメラルダの『暗黒期』を暴くことで」
「……はい」
「『暗黒期』を暴くことは、あの男の嫌がることのはずだからね。それから、これを」
モーガンが手渡したのは、二冊のノートだ。
どちらも真新しい。一冊目には、モーガンの几帳面な直筆で、『世界の謎』と書いてある。
「今までここで、文献を漁って調べたことをまとめたノートだ。エルカテルミナ、エスティエルティナ、それからルファルファ」言いながら、モーガンは祈りの印を左手で描いた。「……忘れられた偉大な闇の女神の記述。そういったものをまとめてある。まだ、途中だけれどね」
そのノートをぱらぱらとめくってみると、半分近くのページにぎっしりと、丁寧な字で書き込まれていた。初めから、誰かに渡すことを想定して書かれたものだとすぐに分かる。マリアラは呟いた。
「……すごい……」
「こっちはもっとすごいよ」
言いながらモーガンは手を伸ばして、マリアラの膝に乗せたもう一冊のノートを抜き出して、改めてマリアラに手渡した。視線で促され、マリアラはページを開いた。
数行読んで、すぐに気づいた。
幼い子どもをひとり育てている真っ最中の、若い女性の日記だった。
「現代の言葉に訳したものだ」
言いつつ、モーガンは自分の近くにある本の山から、古びたノートを取り出した。
ぼろぼろになったそのノートは、何十年も前に書かれたものらしい。
「まあ、読んでご覧。たぶん君の手に渡るために、千年もの長い間、大切に守られ続けてきたものだよ」
言って、モーガンは立ち上がった。
穏やかに笑って、本の山を持ち上げた。
「邪魔したね。……僕はここに住んでいるようなものだ。部屋は一応お借りしているが、だいたいいつも、この図書館の、ある場所に陣取っている。君は忙しいだろうけど、何か分からないことがあったら捜しにおいで」
悪戯っぽくウィンクをして、モーガンはゆっくりと立ち去っていった。




