離宮
離宮は、恐ろしく壮麗な建物だった。
まさしく、お城だった。
マリアラは目を丸くして、呆気に取られてその建物を見た。昨日から着替えてもいない自分のみすぼらしさが急に身に迫ってくる。丸いドーム型の建物の回りを、四本の細く優美な塔が取り囲んでいる。綺麗で、優雅だった。どこもかしこも磨き上げられ、ぴかぴか光っていた。広々とした庭園を真っすぐに離宮まで伸びる通路も、マリアラの顔が写りそうなほどに輝いている。
「裏口からお通しして申し訳ないですが」
ジェムズはそう言いながら、門番に車の鍵を渡した。そのまま隣を歩きだす。マリアラは呆然と、訊ねた。
「……ここ、裏口なんですか」
「一番人目につかない裏口ですよ」
ジェムズはマリアラの動揺が面白かったらしい。少しからかうように言い、それから、苦笑した。
「俺もおなじでした。まさか自分がここに住むようになるとはね。申し訳ありませんが、離宮すべてを案内するのはもう少しお待ちください」
「いえ、そんな、とんでもない」
「そろそろ観光客が開宮を待って列を作り始める時間なんですよ――でも、まずはゆっくり休みたいでしょう。塔にご案内します。滞在客はあなただけだと聞いていますから、気兼ねはいりません」
「胃が痛くなりそうです」
マリアラがつぶやくとジェムズは笑う。
「大丈夫、すぐ慣れます。ガルシアの片田舎で育った根っからの庶民の俺でさえ、二週間で慣れました」
ジェムズはそう言ったが、実際、二週間いても慣れるとは到底思えない絢爛さだった。
広々とした庭園(裏庭、とジェムズは呼んだ)を横切り、優美な塔の入り口に立つ。そこにも門番(衛兵?)がいて、マリアラに恭しい礼をした。それからジェムズに敬礼する。
「殿下より、ごゆっくりお休みいただくようにと」
囁きが聞こえた。ジェムズがうなずく。
「来客ですか」
「そうです」
「ありがとう」
ジェムズはていねいに礼を言い、マリアラを、どうぞ、と促した。衛兵が小さな扉を開けてくれた。塔はエスメラルダの【魔女ビル】十階ほどの高さがあった。入ってすぐにエレベーターがあり、その内部の近代的な様子に驚く。
「いらっしゃいませ」
エレベーターのわきに若い女性が三人立っていた。紺色の長いワンピースに、白いきりっとしたエプロンを締め、髪飾りも白で、レースで縁取られていて、とてもすてきな衣装だった。
マリアラとほとんど年の変わらない、女性というより少女だった。一番年かさの人でも、二十歳になっていないのではないだろうか。真ん中のその女性はにっこりと笑って、エレベーターの扉を開いて中に乗り込んだ。
「ご案内いたします」
「は……あ、どうも……」
なんてみっともない返答だろう。マリアラはへどもどし、その醜態に泣きたくなる。と、ふたりの少女がマリアラの両脇に並んで、そっと前に促した。
「どうぞ」
「……はい」
覚悟を決めて、エレベーターに乗った。ジェムズも一緒に乗ろうとしたが、一番年かさの少女が押しとどめた。
「殿下がお待ちです」目配せをひとつ。「お任せください」
「……大丈夫です」
ジェムズはマリアラをのぞき込んで、穏やかな笑みを見せた。
「この人たちはこう見えてベテランですし、絶対に信用できる人達です。全部任せて、のんびりしていてください。【風の骨】は?」
「まだです。……失礼します」
エレベーターの扉が閉まった。マリアラは身のおきどころのない気持ちになったが、両隣の少女の手が、両脇から、そっとマリアラの腕に添えられた。
「大変な一夜でしたね。ご無事で何よりでした」
そう言ったのは、年かさの少女だった。彼女はこちらを見、にっこりと笑った。
「もう大丈夫です。保護局員の車に乗られたという情報があった時には、殿下も、ベインさんも、もう手遅れかもしれないと――それが一時間も経たないうちに、保護局員があわてふためいてるって情報ですもの! どうやって逃げたんです? 嘘に気が付いたの?」
気さくな口調と態度が、ほっとするほど嬉しかった。マリアラは微笑んだ。
「運転が乱暴で。もう一秒たりともこの車に乗っていたくないって思ってたんです」
「まあ!」
「そしたら、相棒がくれた大事なナイフが車の窓から落ちてしまって」
「まあ、まあ!」
エレベーターが到着した。彼女はマリアラと両脇の少女を先に降ろし、自分は後をついてきながら興味津々といった様子だった。
「相棒のかたのプレゼントが、ナイフなんですか?」
「ええ、ナイフ、というより、十徳ナイフです。サバイバルが好きな人なの」
「まあ。それが、お守りになったんですねえ」
「そうなんです。本当に助かりました。あ、そうだ、あの……」
マリアラは十徳ナイフを取り出した。三人が顔を寄せてくる。
「これ、落とした時に、……塗装がはげてしまって」
「まあ!」
「テープか何か、お借りできませんか」
「……職人を呼びましょうか?」
左隣りの少女が言い、右隣りの少女が、でもねえ、と言った。
「これたぶん、職人に頼むと、塗装を全部はがして貼り直すことになるんじゃないかしら。それはお嫌じゃ……お嫌ですわ、ね」
表情に出ていたようだった。年かさの少女がうなずいた。
「お湯浴みとお食事の間に相談して、なにかお持ちします」
「すみません、ご面倒を……」
「まあ、面倒だなんて。さ、こちらへどうぞ。お風呂とお食事と、どちらを先になさいますか?」
お風呂を先にしてもらった。何はともあれ、身支度を整えたかったのだ。
けれど、熱いお湯と、極上のシャンプーと、いい匂いの石鹸で全身くまなく洗ってからゆっくりお湯に浸かってみたら、そのまま意識が飛んでしまった。さっきの三人が覗いてくれなかったら、茹で上がってしまったかもしれない。自力でお湯から出たのは覚えているのだが、その後の記憶がほとんど無かった。すべすべの柔らかな衣類とさらさらのシーツの感触と、適度な堅さのマットレスの心地よさだけはよく覚えている。
*
ぎしり。
音がして、体が少し沈んだ。
しゃら、と何かが音を立てた。
マリアラは目を、開けようとして、あまりの重さに驚いた。あんまり眠くて、瞼が開かない。辛うじて見えた外は薄暗く、まだ眠っていても良さそうだ、と思う。息を吐き出すと、そのまま眠りの中に戻っていきそうになる。
背の辺りに、何かが触れた。
温かな大きな何かが、そっと背を撫でた。ゆっくりとした慎重な動きで、それは脇腹、腕、肩を滑り、髪に触れた。顔にかかった髪をそっとかきあげて、耳に触れる。
マリアラは目を開けた。
誰かが覆いかぶさっていた。
「……っ!!!!!」
あんまり驚いて声が出ない。逃げようとしたが、薄い掛け布団が足にからまっていた。慌てた数瞬に、覆いかぶさっていた誰かがマリアラを捕まえた。やすやすと仰向けにされて、両手をつかまれた。腹の上にその誰かの腰が乗ってきて、痛いほどではないが重くて動けない。
「誰……っ!」
「すみません、驚かせて」
聞いたことのない男の声だった。穏やかで優しい口調なのに、腕が緩まないのでぞっとする。
「は、なしてっ、ください……ぃっ!?」
唇のすぐわきにその男の唇が寄せられた。全身の毛が逆立つような気がしたが、光が足りなくて風が呼べない。そこに唇をつけたまま、穏やかな口調でその男は言った。
「暴れないでください」
「はな、し、て!」
「乱暴はしたくないんです」
「じゅうっ」
充分乱暴です、と言いかけたとたん、今とは反対側の唇のすぐわきに顔を寄せられた。マリアラの両手をつかんだまま、その大きな手指がマリアラの耳に触れた。そこに、口づけが落ちる。
「いや……っ!」
「まあそう悪いもので は」
ごっ、と、破滅的な音がした。
マリアラを組み敷いていた男が横に弾き飛ばされ、マリアラは急に自由になって飛びのいた。上半身を起こすと、目の前に棒のようなものがあった。それが引っ込み、次いで、呪詛のような低い低い声が聞こえた。
「あんったって人は……」
「……上司を……足蹴に、するとは……」
寝台のわきに落ちたその男も、うめき声を上げた。その男を蹴った(?)人はいまだに寝台の上に立っていたが、我に返ったように飛び降りて、言った。
「大丈夫ですか」
ジェムズの声だった。
マリアラは声が出せなかった。ジェムズはその辺りにあったうすかけを手探りで拾い、広げて、マリアラにかけた。マリアラが顔だけを出した時、明かりがついた。やっぱりジェムズだった。彼は今寝台を回って、先ほど自分が蹴落とした『上司』の方へ行っている。
「立てこのくそ殿下」
低い低い声でジェムズが言った時、『殿下』は寝台のわきから顔だけを出した。痛そうに顔をしかめているのは、茶色の巻き毛に白い肌をした、いかにも王子様という風情の――間違いない、アナカルシスの王太子殿下だ。何度か雑誌で見た顔だ。
マリアラは、世も末だ、と思った。王太子がこんな人だなんて知ったら、エスメラルダ中の女性が嘆くだろう。
「ジェムズ、おまえは、誤解をしている」
王太子はどうやら脇腹を蹴られたらしい。寝台を盾にするようにして、苦しげに喘ぎながら、脇腹を押さえていない方の手を上げて見せた。
「僕は、ただ、親睦を、……深めようと」
「人に来客押し付けといて自分は婦女暴行ですか。いいでしょう、言い訳してみてください。三分あげます。よほどの理由がなければ斬ります」
ジェムズは持っていた剣を掲げて見せ、マリアラは目を丸くしてそれを見た。短めの刀身が、つやつや光っていた。本物だろうか。
王太子は後ずさった。どうやら本物らしい。
「国宝で上司を斬りますか」
「着任時に辞表を預けてありますよね。後で日付を入れときます」
「まあ待ちなさい。早まるな」
「言い訳しなくていいんですか。あと二分三十秒」
「【風の骨】をごまかしてる間になんとか既成事実をですね」
「死ね」
ぶうん、と刀身が唸り、王太子は辛うじて避けた。叫ぶ。
「いやだから、ちょっ! 危っ! 待ってください未遂です未遂! 口づけすらまだです!」
「だから何です」
「エルカテルミナですよ! わかりますか!? 世が世なら全世界の王だの神子だの大神官だののっ、頂点に当たる存在ですよ!? アナカルシス国王なんてひれ伏して忠誠と崇拝を誓うようなっ、そんな至高の存在ですよ!?」
「だから何です」
「国益を考えろ国益を!」
「死ね」
「本当にしたりしません! 演技ですって! 【風の骨】をごまかしてる間になんとか――」
「もう来てます」
ウィナロフの声が言った。
優雅な部屋は既に無残な有り様だった。大きな寝台を取り囲むように張り巡らされたうす布は切り裂かれ(恐ろしいまでの切れ味だった)、ぼろぼろになってぶら下がっている。寝台の上のシーツも掛布もめちゃくちゃで、端正な顔立ちの男は半泣きで逃げまどい、岩じみた顔立ちの男が無表情で刃物を構えて王太子を追い回している。がちゃん、と花瓶が落ちて割れ、ジェムズが王太子の上着の裾を踏んだ。ウィナロフはと言えば、見物よろしく椅子を持ち出していた。背もたれをまたいで座り、腕を乗せ、顎を預けて、マリアラを見た。
「大丈夫?」
「え……あ……うん」
「災難だったね。と言うか、申し訳なかった。まさかこのバカ王子がこんな暴挙に踏み切るほどバカで愚かで見境がなかったとは」
「……止めた方がいい……よね……?」
おそるおそる訊ねると、ウィナロフは鼻で笑った。
「半殺しくらいで止めてやれば」
「今止めてー!」
王太子が泣いている。ジェムズは淡々と言った。
「言い残すことがありますか」
「いっぱいあります! 僕が今死んだら困るでしょう、外交とかっ国会との折衝とかっ」
「俺は別に困りません。アナカルシスへの忠誠心なんて持ったためしがないですし」
「エスメラルダ使者への対応とかっ、」
「対応する必要はないでしょう」
「大事件ですよ!? 離宮封鎖されますよ!? あのおふたりが無事に出られなくなるでしょうが!」
「問題ないです。あのおふたりを無事に出すまで影武者たててしのぎます。あと四十秒」
「僕を殺したらおまえも無事では済みませんよ!?」
「もとより承知してます」ちきり、と、剣の柄が鳴った。「俺は絶対安全だからと説得して、あの方をここにお連れしたんです。それがどうです、安全を保障するはずのよりによってその当人が強姦だなんて――情けなくって申し訳なくて、あんたを殺しておふたりを無事にお送りしたら責任取って俺も死にます」
「ええ!?」
驚いたのはマリアラだ。まさかそんな事態になるとは。
ジェムズの目が完璧に据わっていたので肝が冷える。本気かもしれない。
「いえあのっ、待ってください! それは困ります!」
「……左巻きのマヌエルの前でする話じゃなかったですね」
ジェムズが淡々と言い、マリアラはさらに焦った。絶対本気だ。
「ちっ、違います! だってジェムズさん、フェルドを自由にすることをずっと、気にかけてくださるって、昨日約束してくださったじゃないですか!」
ジェムズは顔をしかめた。「……そうでした……」
「なのに死なれたら困ります! そ、そもそも、そんなことで責任感じる必要なんてないです。あの、ちゃんと、助けていただきました、し。ジェムズさんのせいじゃないです。死ぬなんてやめてください」
「……寛大なお言葉に感謝します」
ふう、とため息をついて、ジェムズは剣を持ち直した。
「じゃ、ちょっとお待ちください。このゲス野郎だけは責任もって始末します」
「それはやめないわけですか!?」
王太子が悲鳴をあげ、ジェムズは嗤った。鼻で。
「ガルシアで、顔に刺青をするのがいいと主張した女性がいました。いい考えだと俺も思います。どこに入れましょうか」
「執務に支障が出過ぎるので顔はちょっと」
「じゃあ切り落としましょう」
「何を!?」
「そんなもんがあるから今までさまざまな女性に狼藉してきたわけですよね。相手の女性を丹精込めてたぶらかしたから訴えられなかっただけですよね。つまり諸悪の根源はあんたの顔と地位と性格とそれ」
「どれ!?」
「地位と性格は俺にはどうしようもないですし、顔は嫌なんですよね? じゃあそれしか」
「だからそれってどれ――!」
「腹減ったんじゃないか」ウィナロフが言った。「食事を頼もうか」
「え――でもえ、ええ?」
「別に放っておけばいいよ」
言いながらウィナロフは立ち上がった。
「殺しまではしないだろ。それなら少々痛め付けられた方がバカ殿下のためだ」
ウィナロフは部屋を横切り、扉を開けて人を呼んだ。ジェムズの声が言う。
「屋台の食事をね、買って来るようにお願いしてあるんです」
左手で王太子の胸倉をつかみあげているのがとてもそぐわない。
「もちろん離宮の食事も頼めます。どちらでもいいですよ。セドリックさんがぜひウルクディアの伝統料理をふるまわせて欲しいと――魔物での襲撃犯を取り押さえた褒賞は、ぜひそれにさせて欲しいと言ってまして、夜はそれをお願いする予定なので、昼は屋台飯をあれこれつつくのも楽しいかなと。いかがでしょう」
「はあ、それは、もう、あの、……楽しみです……」
「もてなしに主人が列席しないのはエルカテルミナへの不敬に当たりませんか」
王太子が主張し、ジェムズはまた鼻で嗤った。
「強姦魔の顔見ながら食事させるほうが不敬ですよバカなんですかあんた」
「失礼いたします」
マリアラをここへ案内してくれた、あの三人の少女が入って来た。彼女らは刃物を構えて自分たちの主の首根っこをつかんでいるジェムズを見ても、顔色も変えなかった。止めもしない。マリアラのそばへ来て、もって来ていたガウンを背中にかけてくれた。ふたりがマリアラの両脇を固め、てきぱきと部屋の外へつれて行く。マリアラはなされるがままになりながら、最後にジェムズを振り返った。ジェムズは左手で王太子の襟首をつかみ、右手で何かの準備をしているようだった。何の準備だろう?
「あの、……大丈夫でしょうか」
囁くと左隣りの少女が微笑んだ。
「何かご覧になりましたか?」
「え……あの、あれ……」
「何も問題など起こっておりませんわ。おもてなしするお客様に不敬を働いたふとどき者を捕らえただけですもの」
「本当にご無事で何よりでした」
「どこから外部の者が入り込んだのでしょう」
「警備の者は何をしていたのかしら」
「……王太子殿下ではないんですか……?」
呆気に取られてたずねると、三人はそろって冷笑した。
「お客様に失礼を働くような王太子は当屋敷にはおりませんわ」
ここの人たちはどうなっているのだろう、と、マリアラは思った。




