追跡
ベインの車はとても小さかった。座席がふたつしかない。
形もなんだか丸っこくて可愛らしい。色も赤だ。そして、なんと屋根が開くのだ。マリアラは助手席に座って、ちゃんとシートベルトを締め、ベインがレバーを操作するのを見守った。
車は滑らかに発進した。速度はゆったりしている。カーブもスムーズに曲がり、不快な重力を感じることもなく、マリアラは心底ほっとした。
すっかり明るくなった町中を、小さな車はすいすいと走った。話すのに全く支障のない運転だったので、マリアラは十徳ナイフをポケットにしまい、ずっと気になっていたことを訊ねた。
「……あの、ベインさん」
「ジェムズと呼んでもらえませんか」
「ジェムズさん、ですか」
「ガルシアでずっとそう名乗っていたので」
「……わかりました。あの、ジェムズさん」
ジェムズは嬉しそうに笑った。「なんでしょう」
「あの……あの魔物の時に、初めに、警官を捕まえてくれた人がいたでしょう? あの人は……」
「ああ、セドリック=ドーラ氏ですね」
「そう、その人です。あの、……大丈夫でしょうか、その」
「大丈夫ですよ」
あっさりと言って、ジェムズは前を見たままうなずいた。
「特に悪いことをしたわけじゃないですからね。むしろ恩賞が出るんじゃないかな」
「でもわたしを匿ったとか、とか、その」
「あのね、アナカルシスの警察だって、あなたの指名手配が形式的なものだということくらいは、とっくに分かっているんです」
マリアラは驚いた。「え……でも……」
「逆にね、昨日、警官の制服を着た男が、あなたに罪を着せようとしたでしょう。指名手配されるような人ならば説得力が増すだろうと思ったんでしょうね。で、それだけでも、あの男がアナカルシスの警官じゃないということの証拠になるってくらいです。あのチラシが貼られ出した直後に、ミランダ=レイエル・マヌエルが王太子殿下に訴えてこられました。その後も再々、辛抱強く、何度も何度も。警察にも国会にも足を運んで」
「……そうなんだ……」
本当に申し訳ない、と思った。ミランダの決意がそんなに重かったことを、どうして昨日のうちに理解しなかったのだろうと。
「リファスの保安官からも、再々訴えが出されていますね。さらには【夜の羽】――狩人の親玉からさえ、協力したのはあなたではないと声明が出されたくらいで。報道されなかったから、普通の人は知らないでしょうが」
「……」
「極めつけには九月に出頭した、イェイラ=レイエル・マヌエルです」
マリアラは目を丸くした。
「イェイラが!?」
「国外追放されてから、ずっと【水の世界】の、人魚たちと一緒にいたらしいんですよ。それで九月まで、あなたがこんな事になっていると知らなかったそうで。つい先日、出頭したばかりです。エスメラルダの【魔女ビル】に狩人を引き入れたのは自分であってあなたではないと」
「そう……なんですか」
「ただ政治的な事情で、撤回されていないだけです。エスメラルダからの圧力ということもあるでしょう。さらに、アナカルシスの警察――国会があなたを捕らえれば、エスメラルダに大きな大きな貸しを作ることができます、口止め料をたっぷり上乗せした莫大な金額であなたを引き渡すことができる」
「……」
「だから昨夜も警官を総動員して捜し回っていたんです」
「……そうなんですね」
「昨夜、〈銀狼の牙〉を利用して魔物を操り、事故現場に乱入させたあの警官は、あなたを見て、とっさに、罪を着せられると考えた。そんな警官は、アナカルシスには存在しません。あれは一般人ですね、多分昨日の事件のために雇われたゴロツキだったのでしょう。黒幕もアナカルシスの情報に詳しくない、ガルシアの前の国王です」
「……王様が?」
「十年……十一年前に政変がありましてね。悪政を敷いたゴドフリーという王が追放されて、アナカルシスに亡命しているんです。十年経っても血気盛んな王様で、まだ諦めてない。つい先日もガルシアで大きな事件があったばかりでした。ああ、ご存じでしょうか」
「……いえ……」
「ラセミスタとグスタフとが、その大きな陰謀を阻止したんです」
マリアラは呆気に取られた。「……ラスが……」
「派手な事件でしたよ」ジェムズは楽しそうに笑った。「エスメラルダの技術とは、本当にすごいものですね。あのふたりのお陰で、ガルシアは大混乱を免れた。ゴドフリーはまんまと失敗したわけです。で、それでも懲りずに昨日、同じことをウルクディアでやった。ワンパターンというか……なぜマヌエルを狙ったのかは調査中ですが」
「ミランダが狙われたんですね……」
「彼女を奪おうとする勢力は多いですよ。マヌエルは外国にいるというだけで大変なストレスにさらされるものです」
ジェムズはマリアラの表情を見て、話を変えた。
「ま、それはそれとして、空腹でしょう」
「は……え、え?」
「そろそろ朝食の屋台が出る時間です。俺もまだそれほど詳しくはないですが、ウルクディアの屋台通りと言えば千年以上の歴史のある有名な観光地ですから。何かお望みの物があれば買ってきましょうか」
マリアラは思わず、微笑んだ。
「どんなものがあるんでしょうか」
「そうですねえ、俺のお勧めは断然――すみません、無理でした」
話題の転移についていけず、マリアラは座り直した。
「な……なにがですか」
「追われています」
「は……い?」
「追われています」ジェムズは繰り返した。「シートベルトはしていますね」
「は、はい。しています」
「口をしっかり閉じてください。少々飛ばします」
とたん、小さな車は唐突に右折した。
マリアラはまだ呆気に取られていたが、ちらりと見えた後ろの道路を、車が走っているのが見えた。運転しているのは――
「ジレッドさ……んっ!」
タイヤがうなり声を上げた。体がシートに押し付けられマリアラは息を詰めた。ぐううううう、と車は加速を続ける。後ろを見たくても、シートの上に縫い止められた体を動かすこともできない。
車はまるでジェムズの体そのもののように自由自在に動いた。右に曲がり左に曲がり、歩道を抜け石畳を突っ切って、壁と壁とのわずかな透き間に飛び込んだ。
「――……っ!」
口をしっかり閉じて、と言われたとおり、マリアラは歯をかみしめていた。悲鳴も上げず、ただ祈っていた。そこには道路がなかった。虚空に飛び出した車はゆっくりと落ちた。下に、細く長い長い階段が見え――がん、と車は階段に落ち、そのままごごごごががががと小刻みに振動しながら駆け降りて行く。
「くそっ」
ジェムズが小さく毒づいた。階段の下を犬をつれた老婦人が横切っている。老婦人はこちらに気づいて棒立ちになった。マリアラは両手で自分の体を抱き締めた。
と、風が湧いた。
老婦人と犬は突風に背を押されてそこへ倒れ込み、その上にできた空気の固まりが車を一瞬押し上げた。車はそのまま前へ飛び出して、車道の上に落ちた。タイヤが軋み、ほかの車を危ないところで避け、走る。
「大丈夫」
呼吸も乱していないジェムズが、穏やかな声で言った。
「あの方も犬も、打ち身と擦り傷程度で済みましたよ。ありがとう。助かりました」
「…………い、え。こちらこそ」
いったいこの人はなんなのだろう。慌てることがないのだろうか。
マリアラの方は、まだ目の前がちかちかしていた。酸素不足で目が回りそうだ。なのにジェムズは落ち着き払っている。次に口を開いたら、それで屋台のメニューは何にしますか、とか言い出しそうだ。
車はするするとほかの車を追い越して走り、左に曲がった。少し速度が落ちて、また右に曲がった。大通りに出て、更に左折したときには、もう、初めのような穏やかな運転に戻っている。
「それで屋台ですが」
ジェムズが言い、マリアラは思わず吹き出した。ジェムズが目を丸くする。
「どうしました」
「い、いえ、す、すみません」
なんとか発作を押さえようとしながら、マリアラは両手の陰で顔を歪めた。だめだ、おかしい。笑いたい。何がおかしいのか分からないが、とにかく笑いが込み上げる。
苦悶するマリアラをしばらく待っていたが、ややしてジェムズも笑った。
「さすがに屋台通りに戻る余裕はなくなりましたので……まっすぐ離宮に行っていいですか」
「も、もちろん、です」
なんとか笑いを押さえ込み、マリアラは深呼吸をした。ジェムズが言う。
「もう大丈夫ですか」
「は、はい。どうもすみませんでした」
「いえ。……後学のために、理由をお聞かせ願えますか」
怒っているわけではないらしい。顔も目も笑っている。マリアラは最後にもう一度、呼吸を整えた。考える。
「……たぶん、怖かったからです」
「俺が?」
「違います」マリアラはまた笑った。「エスメラルダには車の文化がありません。わたし、車に乗ったのって、今で何度目かってくらいなんです。あんな階段を降りられる乗り物だとは知りませんでした」
「普通はやっちゃだめです」
「そうなんだ。と、とにかく、あんまり速くて、目が回りそうで、とても怖かったんです、なのにジェムズさんがとても落ち着いていて……なんでもなかったみたいに屋台のメニューの話に戻りそうだって、思ったところだったので。ごめんなさい。失礼しました」
「いえ、笑顔を見るのは無理そうだと思ってたので、良かったです」
ジェムズはそう言って微笑った。この人の笑顔はとても優しい、とマリアラは思う。
「わたし、笑いませんでしたっけ」
「ぜんぜん。いえ、しょうがないことだと思っていましたから。でも、笑った方がずっといいです」
「そうですね。久しぶりに笑った気がします。なんか、すっきりしました」
「……それは良かったです」
ジェムズは重々しくうなずいた。へんてこな人だ、と、マリアラは思った。そのへんてこさが、とても好ましい人だ、と。




