ジェイムズ=ベイン2
ベインはゆっくり歩いて、小さな公園にマリアラを連れていった。ほんの小さなものだったが、緑の芝生があり、噴水もあった。趣味のいいベンチがおかれていて、自動販売機もあった。そこで、あたたかい飲み物を買ってくれた。
どうして無理矢理にでも連れていかないのだろう、と、受け取りながらマリアラは思っていた。
話をするのは、何も今じゃなくたって構わないはずだ。マリアラを助けてくれようというのなら、とにかく安全な場所に無理矢理にでも連れて行ってから、ゆっくり納得させてもいいはずだ。なのにこの人は、全く急がなかった。何よりもマリアラの意志を尊重することを、最優先にしているみたいだ。
「少し身の上話をしましょう」ベインは少し離れた場所に立ち、穏やかに笑った。「俺はね、生まれも育ちもガルシアなんです。父はアナカルシス人で、まあ……スパイというか、諜報というか、そういう任務のためにそこに来て、住んでいました。小さな印刷会社を営みながら、ガルシア人の女性と結婚して。俺ね、父がスパイだったなんて、つい最近まで知らなかったんですよ。母は今でも知らないはずだ。ちょっと風変わりな人だとは思っていたんですけど。
俺はあんまり出来がいい方じゃなかったんです。成績が悪いってわけじゃなかったけど、秀才と呼ばれるには程遠かった。なのに親父は、俺が幼い頃から、これからは海外とやりとりできないと! みたいなこといきなり言い出してアナカルシス語の教科書を手に入れてきて無理やり覚えさせたり、どうしても高等学校に入らないとダメだとか言って、学習塾に放り込んだりしていたんで、まあ近所では変人扱いでしたね、父は。自分の息子が凡才だって、ちっとも理解できない変な人なんだって、思われていたと思います。
あちらではね、高等学校って、掛け値なしの最高学府なんですよ。国の中枢に入り込める人間だけを育成するようなところなんです。入学試験は難関です。俺はほんと、あんまり利発な方じゃなかったので……どうすれば親父は諦めてくれるんだろうって、毎年思っていました。三年チャレンジして、やっと今年受かったんです。たった半年の猛勉強で滑り込んだバケモノもこの世にはいますけどね」
ラセミスタのことだろうか。マリアラは思わず口元を緩め、ベインも苦笑して見せた。
「受かって、嬉しかったですよ。高等学校に入れれば生涯安泰なんです。全寮制だから親父からも離れられる。やっと息が吸えるって思った。でも最後の最後に、父から、実は自分がアナカルシスのスパイだったんだって打ち明けられて、これからはお前がスパイの役目を継げと言われて。冗談じゃないと思いました。今更、お前の教育費は全てアナカルシスから出てたんだから、これからはスパイとしてアナカルシスに恩返しをしろって。……ほんと、ふざけんじゃねえって思いましたね。アナカルシスの王太子と連絡が取れる通信機を無理やり持たされたんですけど、首都ファーレンに向かう途中の橋から投げ捨ててやろうかって思いました。投げ捨てて、このままアナカルシスのことなんか忘れて、ガルシア人として――高等学校生として生きていけばいいじゃないかって、半ば本気で思っていました。……でも」
ベインは飲み物をひと口飲み、その缶を見つめて、呟いた。
「ばれたんですよね。あっさりと」
「……そうなんですか」
「まあ、ばれただけなんです。アナカルシス人は出て行けとか、排斥されたわけじゃないんですよ。なのに……居づらかった。自分から距離を取りました。あの時俺は、自分のことしか考えてなかった。バレたら排斥される。そのことしか、考えてなかった。……俺は、狩人がラセミスタを狙っているらしいと、聞いていたんです。知っていたのに、自分のことで手一杯で、彼女のことまで頭が回らなかった」
話すうちにベインの声は低くなった。懺悔する咎人の声のようだった。
「高等学校に退学届を出して、王太子を頼ってこちらにきてからも……ずっと後悔し続けていました。俺は何を恐れてたんだろう。友人にあんな顔をさせる以上に、怖いことなんかあるわけなかったのに。
……ラスは、」
ぽろりとその名がベインの口から溢れ、彼は、一瞬ためらった。
そして、苦笑して、言い直した。
「ラセミスタは……俺なんか比じゃないくらい、大変だったのに。俺は男だし、曲がりなりにもガルシアで育って、ガルシアの教育を受けて、言葉だってネイティブだった。けど、彼女は……入学式を思い出しますよ。入学式からずっと、彼女は大変だった。貴族からは自らの陣営に引き入れようとされて、それを断ると目の敵にされて。薬草学でも地図作成でも白紙の答案を提出したって噂が流れて……。でも彼女は逃げなかった。自分のできることを精一杯やって、実力で黙らせた。山登りができなくて、ウェルチに担がれたりしたけど、自分のできることを全部やって、みんなに受け入れられた。女性なのに。外国人なのに。彼女はなぜあの地位を勝ち得、俺は得られなかったのだろう……そう思っていたところに、あなたが現れた」
マリアラは驚いた。「わたし?」
「そうです。衝撃でした。やっとわかったんです。俺に足りなかったのは、真心だったんだって」
マリアラは呆気に取られた。「真心……?」
「昨日の魔物を見て……あなたのあの行為を見て、あなたの真心を感じなかった人間はいないはずだ。あの魔物は気の毒だった。心のある人間ならみんなそう思っていたはずです。嬲り殺されるところだった可哀想な生き物が救われたら、理屈では危険な魔物だって分かっていても、そりゃあ嬉しいものです。あの場にいた人間で、あなたに感謝しなかった人間は、犯人くらいのものでしょう」
「……ダスティンには嫌みを言われました」
言わずにはいられなかった。ベインは声を立てて笑った。
「そうそう、犯人と、あとダスティンくらいのものです、と訂正しなければなりません。でも嫌みくらい大目に見てあげて下さい。ダスティンはあなたの出現で、救い主からいじめっ子になってしまったんですから」
「いじ……いじめっ子?」
「ダスティンはああするしかなかったんです、彼がああしなかったら、ミランダやイリエルの二人は死んでいたはずです。でもその行為が、少々えげつなかった。あの後聞きましたが、魔物の悲鳴が聞こえていた人もいたそうでね。子供もちらほらいましたが、みんな泣いていたそうですよ。黒いのが可哀想だ、ってね。
でもそれは、必要悪であったはずです。ああしなければ被害が広がるところだったんですから。あのままだったら、きっとダスティンはみんなに感謝されていたはずです。
それがあなたの出現で、一気に悪者になってしまった。あなたは誰も苦しめずに、十数人の人間の命と、魔物と、何百人からの人間の心を救った。同時にダスティンの行為のえげつなさを、浮き彫りにしたんですよ」
「……」
「でもそれはあなたのせいじゃないですから。ダスティンもそれはわかっている。だから嫌みくらいは、大目に見てあげて下さい。それに彼はもう、ミランダ=レイエル・マヌエルから報復されていますから」
「報復?」
「保護局員の嘘に騙されて、まんまとあなたをジレッドの車に乗せてしまった。その点についてはダスティンも後悔していますし、ミランダに罵倒され、絶交を宣言され、ダスティンがケガをしても治療をしない旨を宣言され、平手も一発食らったかな」
「……ミランダが」
「ミランダに、無事な顔を見せてあげられるといいんですが。先ほども言いましたとおり、【魔女ビル】に行くのはお勧めできません。だからどこか安全な場所に着いたら、手紙を書いてください。間違いなく届けますから。……話は戻りますけど」ベインは咳払いをした。「あなたがたはいつもそうなんですね。人の評価を勝ち取るためにそうふるまうわけじゃないんですよね。ただあの気の毒な魔物を見過ごせなかった、それだけなんですよね。友人を救うためにあの距離を二日で飛んだのだって、誰かに褒められたいからじゃないでしょう。
ラセミスタがガルシアの高等学校生に受け入れられた理由も、ただ単に、彼女が本気で、ガルシアでの地位を勝ち取ろうと奮闘していたからだ。ここで学びたいのだと、エスメラルダとガルシアの魔法道具の、さらなる発展のために戦いたいのだと、みんなに伝えた。言葉でも、態度ででも。だから受け入れられたんだ。そういうのを、真心、と言うんじゃないでしょうかね」
「……」
「そうすれば良かったな、と、今では思うんです。リーダスタやグスタフや、カルムから、排斥されるのを恐れて、逃げるように距離を置く前に。彼らに全部告白して、協力を依頼すればよかった。狩人が彼女を狙っているから、一緒に彼女を守って欲しいと、どうすれば良いか一緒に考えて欲しいと、頼めばよかったんだ。俺は大事なところで、一番致命的な過ちを犯してしまった。ラセミスタに合わせる顔がありません」
「……そうですか……」
「だからもう、間違えたくないんです」
ベインは微笑む。哀しそうな笑顔だと、マリアラは思う。
「あなたを連れて行かなかったら、きっと上司には蹴られると思います」
「……蹴られるんですか」
「同僚に怖い秘書がいるんですよね。上司に心酔してまして……彼女には水をかけられるかも知れません。たぶん立場も悪くなるでしょうし。【風の骨】には何をされるかちょっとわかりませんが。でも、そういうのはどうでもいいです。魔物が嬲り殺されるのを見過ごせなかった、ラセミスタが三日病で死ぬのも見過ごせなかった、あなたが、エスメラルダに捕まるのを見過ごしたくない。もう二度と、自分のせいで誰かが死ぬんだと思いながら縮こまって震えるのはごめんなんです」
「……」
「俺はもうラセミスタに合わせる顔がないけど、あなたのお陰で、俺が逃げたせいでラスが殺されたという、最悪の事態が避けられた。どんなに感謝しているか、わかってもらえないでしょうか。彼女は生きて、ガルシアで、あなたを待っている。あの二晩を知っている者からすれば、奇跡みたいなことなんですよ。なのにあなたがここで捕まってどうするんです。あなたを助けたからと言って、俺の罪が許されるとは思っていません。でも、これ以上、彼女に顔向けできないことはしたくない。どうしたいか言ってください。俺のために。俺自身のために、最大限の努力を、させて欲しいんです」
泣きそうだった。
マリアラは、かすれた声で言った。
「ラスに。相棒に。みんなに……会いたいんです……」
言ってから、初めて気が付いた。そうだ。
逃げ続けたいわけじゃない。責務だって、果たしたいかどうか、よくわからない。
マリアラが今一番望んでいるのは、求めているのは、そのことだったのだ。
ベインは微笑んだ。
「わかりました。そのために何が出来るのか、どうすればいいのか、考えましょうか。ラスはガルシアに行けば会える。ミランダはウルクディアにいる。あなたの親しい人たちは、ラセミスタとミランダ以外は、エスメラルダにいると考えていいでしょうか」
「……はい」
「相棒は、フェルディナント=ラクエル・マヌエルでしたね」
「消息を……ご存じですか」
「いえ、さっぱり」ベインは、少しだけ近づいて、マリアラの座っているベンチのはじっこに座った。「全く聞きません。ただ、亡くなっていないことは確かですね」
「そうですか……」
「彼を自由にする、自由に国を出て、あなたに会いに来られるようにする。これが第一です。第二に、あなたが大手を振ってエスメラルダに帰れるようにする。第三に、第一か第二が成るまで、あなたが無事に生き延びる」
「はい……」
「現実問題として、第一と第二は、そうですね、早急に解決するのは難しそうです。でも、これからもずっと努力し続けることは、お約束します」
「……ありがとう」
「だから、今は第三を考えましょう。今はこの難局を無事に生き延びて、ウルクディアにいる追手を撒いて、指名手配なんて馬鹿げたチラシがばら撒かれているアナカルシスを、一度出た方がいい。俺の希望を言わせてもらえれば、ガルシアに行ってラセミスタに会って、安心させてあげて欲しい。【風の骨】の話だと、ウルクディアに不思議な出入り口があるそうで……ジレッドもベルトランも、エスメラルダの使者も、その【扉】を出ればもう追いかけてこられない。だから、【風の骨】と一緒に、その【扉】を出る。あなたが無事に現在を切り抜けるのは、それが必須事項になりますね」
「……はい」
「【風の骨】は、今も離宮に。……いると思います。外出したとしても、帰ってくるはずです」
「はい」
「王太子は国会と、近いですが、完全に同一というわけじゃありません。【風の骨】と取引をして、あなたを無事にウルクディアから出すことに同意しています。離宮ならば警察も保護局員も入れません。この町で、唯一、安全な場所だと俺は思う。……離宮にご案内しましょうか?」
ここまで事分けて諭されて、これ以上この人に疑いを持てるほど、マリアラは強くなかった。
「はい。……よろしくお願いします」
頭を下げると、ジェイムズ=ベインは、ほっとしたように微笑んだ。




